5.微熱





「あれ?おめえ、どうしたの」
「なにが」
「耳。一個ねえぞ」
は?とゾロはペットボトルを持ったまま振り返った。ここ、と自分の左耳を指差しているウソップが目に入る。
空いた手で触れてみれば、たしかにひとつぶん、あるはずの冷たい感触が足りなかった。どこかで落としてしまったのだろうか。前にも何度か同じことがあって、見つかるときもあれば見つからないときもあった。探しものというのは、諦めたころにふいに見つかったりするものだ。
「ねえな」
「また落としたのかよ」
「たぶん」
気づいたの今日か、と尋ねられゾロは頷いた。まあおめえのことだから、何日か前かもしんねえなあ、とウソップは屈託なく笑う。
硝子コップにお茶を注いで、ゾロはソファのほうへと戻った。表面に繊細な模様が彫られたそれは、いつだったか、ミホークがめずらしく長く家にいたときに遊びに来たシャンクスがみやげだと置いていったものだ。赤い髪の、古くからの、義父の友人。お前よりあいつのことは知っているよと、遠い景色を見るように目を眇めて彼は語った。
本来は酒を飲むためのグラスらしく、かなり高価なもののようだがゾロは頓着せずに普段づかいにしている。部屋はテレビとひとの声で騒がしかった。冬休みも今日まで、溜まった宿題をみんなでやるという名目でゾロの家に集まったものの(正確に言えば押しかけられた、のだが)、誰一人教科書を開いているものなどいない。
みなおそらく、ゾロと同じで夜になって慌ててやることになるのだろう。すでに抜かりなく終わらせているはずのナミをのぞいては。
「今日は、カヤはいねえんだな」
「初詣でのあと何日かして、風邪ひいたらしくってよ」
「そういや寒かったしな」
「だよなー。あいつ、もともと体弱いし」
気遣わしげに眉をひそめるウソップを見ながら、ゾロはコップを傾けた。緑茶特有の薄い苦みが舌を覆い、冷えた液体がするりとのどを通りぬける。外は5℃を切っているらしいが、部屋は暖房がよく効いてのどが渇いた。それきり会話は途切れたけれど、ウソップはとくに気にするでもなくテレビを見ている。
こういうふうにあれればいいのに、とゾロは思う。サンジといるときのあの、ときおり流れる息が詰まるような静けさを思い出して、ゾロはごくごくと一気に残りを飲み干した。
わかっている、意識しすぎている。
触れたいと思う気持ちが漏れだしているのではないかと。
低く甘い声をもっと聞きたいと、菓子と煙草の強い香りの下に隠された、そのほんとうの匂いを知りたいのだと。
「酒みてえに飲むなァ」
ウソップが呆れたように笑う。
ミホーク公認で中学のころから酒を飲んでいて、ゾロの酒豪ぶりを親しい者たちはみな知っていた。今日は特別だぜ、未成年。そう言って笑ったサンジの顔をふと思い出す。
「なんかのど渇くんだよ」
ゾロは答え、所在なげに手の中のコップを弄んだ。

一人暮らしの時期が多いゾロのところに、ウソップはときどきこうしてやって来る。共通の友人を引き連れて来ることもあればそうでないときもあったが、神出鬼没のルフィと違うのは、かならずミホークが長く留守にしているときだということだった。一人になど慣れている。そう突き放すには、向けられる感情はひどく柔らかで温かい。
もちろんルフィやナミもよい友人だった。好意の表現方法がそれぞれ異なっているというだけだ。高校に入って彼らと知りあってから、お前は顔つきが柔らかくなったとミホークに言われたことがある。放任のようでいて観察力には鋭いミホークのことだから、それはきっとほんとうなのだろう。
そのミホークに、また少し変わったな、とこの前言われたばかりだ。覚えたての恋心を見透かされた気がして、なにがと問い返すことは出来なかったけれど。
「おい、光ってんぞ」
「ん」
いつのまにかぼんやりと考え事をしていたゾロの肩をウソップが軽く叩く。ディスプレイが緑色に明滅している。メールが来ていた。差出人の名前を見て、腹の底にずうん、と何かが下がるような感覚がする。
「なんだ、サンジかよ。女かと思った」
横から覗き込んだウソップがつまらなそうに言った。
お前ら年離れてんのに仲いいよなあ。何気なく言われたのに、んなことねえよ、と少し強い口調を返してしまった。ウソップに気づかれた様子はない。
「そうかー?普通、メアド交換したりしねえだろ、仲よくなかったらさ」
「……用があったからな」
ふうん、と納得したように頷き、ウソップはそれ以上尋ねてこようとしなかった。初詣でのときに、サンジのほうから訊いてきたのだ。
別れ際こそりと手招きをされて近づけば、サンジはポケットから携帯を取り出した。家からうち来んのはじめてだろ、ナミさんからいろいろ聞いてるぜ、そう言ってにやりと笑ったから、ときどき目的地に辿り着けないことを揶揄されたのだとわかった。
あんたの店なら間違わねえ。そう憮然として答えると、サンジは笑った顔のまま一瞬固まった。それから気まずげに携帯に目を落とし、まあ、念のためな、と静かに言い添えたのだった。
「ピアス」
タイトルをウソップが読む。文面は、読まなくとも想像がついた。あのとき落としたのだ、サンジの家で。隠す気はとくに無かったけれど、あの日のことはまだ誰にも話していない。
「なんでサンジが持ってんだ?」
「……さあな」
意識せず、そんなふうに答えていた。耳朶がふわりと熱を帯びる。
二人だけの秘密を持ったような気がした。


床についたのは予想通り深夜だった。ひさしぶりに慣れない勉強などしたせいか、目の奥に重い痛みがある。外気温がもっとも下がる時間帯なのだろう、寝るときにヒーターを切るのはいつものことだが、普段よりもずっと底冷えしている。
毛布を顎まで引っ張りあげて、ゾロは携帯を手に取った。暗い部屋に人工的な光が浮かび、ぽうと明るくゾロの顔を照らす。サンジからのメールをもう一度ゾロは眺めた。
掃除をしていたらピアスが出て来たこと、急ぎでないのなら、ゾロが店に来るまで自分が預かっておくこと。
あのあと、それで頼む、と短い文面をゾロは返し、数分後、わかった、とやはり簡潔なメールが返ってきた。
気持ちを隠すのはもう止めている。はっきりと口に出したわけではないけれど、たぶんサンジには伝わっているだろう。拒まれないことがただの優しさなのか、それとも違う感情なのかはわからない。いずれにせよ、ゾロに出来ることは少なかった。
ただ好きでいる、それだけだ。
埋めるものがないそこに指先をあててみる。さきほど風呂場で見てみたけれど、穴はまだ塞がってはいなかった。サンジの元にあるはずのピアス。あの手のなかに。
熱が集まってくる。は、とゾロはそれを逃がした。両手をパジャマの中に忍ばせる。いつからだったか、自慰のときには気を逸らそうとしてもサンジのことを考えてしまっていた。これまで自分が知っていたより、そのやりかたはずっと強い感覚をもたらし、けれど終わったあとはいつも苦いような気持ちになった。
あの唇は、指先は、どんなふうに女を愛するのだろう。そして俺は、女のように扱われることを望んでいるのだろうか、それとも、女のように扱うことを?
どちらも正しいような違うような気がして、ゾロの思考はいつもそこで止まってしまう。好きだと思う、触れたいし触れられたい。だがその先にあるものについて考えると、霧の中のようにぼやけていてよくわからなくなるのだった。
サンジなら、その答えを知っているのだろうか。
「――サン、ジ」
めったに呼ばない名を口に出してみる。目を瞑り手を動かした。静かな部屋に、自分の息づかいと衣擦れの音がする。ベッドはときおりきしりと、か細い鳴き声をあげていた。
腰からせりあがる感覚がある。ぬるつきはじめたそこは、やがてゾロのてのひらを熱く濡らした。
「……ふ、う、」
いちど高まってしまえば、頭はすぐに冷えていく。そうだ、どういう形であれ触れあいたいのはたしかだった。だけどこんなふうに、それで終わりにしたいわけじゃない。
慣れぬ戸惑いを抱えたまま、汚れたてのひらを拭ってから、ゾロは横向きになって上掛けを頭からかぶった。
好きだ、と呟いてみる。
明けはじめた夜とともに、言葉は滲んで溶けていった。







                                         (11.05.17)



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