4.ガラスの靴





鍵を開けるときに、てのひらが汗ばんでいることに気がついた。右に回す、かちりと音がする、らしくもなく気構えているのだとわかる。
だけど、いったい何に。
「入れよ」
ドアを開けて促すと、ゾロは黙ったまま頷き玄関へ入った。タイル張りの狭い場所で立ったまま靴を脱ぐ。見慣れたスニーカーが自分の靴の横に並ぶのを、なんとなく不思議な気持ちでサンジは眺めた。そう言えば、ここに誰かが訪れるのはずいぶんひさしぶりだ。用意していたスリッパを履きながら、お邪魔します、と律儀にゾロが言う。へえ、と思わず口にしていた。
「なんだよ?」
「いや、意外とお行儀がいいからよ」
「ミホークがうるせえから。こういうの」
ミホーク、というのが義父の名前らしいと知る。姿勢がいいとはつねづね思っていたけれど、それも剣道のせいばかりではないのかもしれない。
わりあい頻繁に会っているわりには、ゾロの深い部分をサンジはよく知らなかった。誰にでも、自分の領域というものがある。踏み込まれるのを避けるようになってから、いつのまにか相手にも同じように接する癖がついていた。臆病さと慎重さは紙一重だ。年を重ねるごと、傷の治りは遅くなっていく。他人との距離を適度に保ち、見えない防御線を張ることばかりに長けていく。
「適当にそのへん、座ってな」
 リビングにはテーブルセットとソファを置いてあるが、ゾロはテーブルの椅子をがたりと引いた。朱塗りのお重は朝のうちに中身を詰めて、すでにテーブルに載せてある。
三段重ねに色とりどりの料理、屠蘇器がわりの銚子と盃は、封をしたままだったダンボールから苦労して探しだしたもので、誰かと過ごす正月がひさびさとはいえ少し気合いを入れすぎた気もする。ここ数年はかなり簡略化していたのだ。ここまでする気になったのは、ゾロにいわゆる昔ながらの正月を教えてやりたいと思ったからだった。
なぜだろう、放っておけない気持ちにさせられる。
それがどこから来る感情なのかは、サンジ自身にもまだ定かではなかった。
好き嫌いあるかと訊けば、ねえ、と短く言い、サンジがいつも座る場所の向かいにゾロは腰かけた。手を下ろし、緊張したような面持ちでお重を見つめているのを微笑ましく思う。おそらくゾロは嫌がるだろうが、丸っこい頭をぐりぐりと撫でてやりたい衝動に駆られるときがサンジにはあった。前にいちどついやってしまったとき、ゾロは真っ赤な顔で手を払いのけたものだ。
「なあ」
キッチンへ向かおうと背を向けると、後ろから声がかかった。なに、と振り向く、ゾロはじっとこちらを見ている。
「なんか、手伝わなくていいか」
「お前に手伝ってもらうようなこたァねえよ。気にすんな」
雑煮食うだろ、餅いくつ入れる。笑いかければ、2個、とゾロはぼそりと答えた。その頬が薄く朱を刷いた気がして、けれどサンジは内心それを慌てて否定した。
「2個な」
すぐ出来っからと、煙草を銜えながらもう一度背を向ける。首の後ろあたりにまだ視線を感じている、それをごまかすようにサンジはうなじを擦り、丈の短いエプロンを腰に巻きつけた。
俺が勝手に好きなだけだと、あのときゾロは言った。
会わないあいだ、ずっとそのことが頭から離れなかった。


店で待ち合わせたのは、ゾロがかなりの方向音痴だと聞いていたからだ。目を離すとね、とんでもないことになるの。姉か母のようにため息をついて、いつだったかナミは言ったのだった。
年が明けて二日目、半端な時刻の住宅街はやけに静かで、いったいみなどこに、と不思議なくらいに人の気配が薄い。車の姿もずいぶんと少なく、閑散とした風情の並木道を、ときどきかさりと落ち葉を踏みながら並んで歩いた。サンジの住むマンションまでは徒歩で十分ほど。ぎこちない空気、友人とも、恋人とも違う微妙な距離に、サンジは妙なもどかしさを感じていた。
神社で友人と話していたときのゾロは、年相応の馬鹿話で盛りあがるごく普通の高校生に見えた。サンジといるときのような、肩に力の入った様子は感じられず、そのあけっぴろげなほど全開の笑顔をはじめて見てなにやら複雑な思いがした。
とくに楽しそうだというわけでもないのに、なぜゾロはああして一人で店に来るのだろう。あらためて考えてみると、ここ数日の物思いとどうしても重なってしまう。
「出来たぞ」
 器によそいながら声をかけると、おう、とゾロの声がした。手伝わなくていいか、などと殊勝なことを言った割には、椅子に座ったまま立ちあがろうともしないのがゾロらしい。苦笑いをひとつして二人ぶんを運んだ。ことん、と目の前に置くとゾロがもの珍しげに覗き込む。晒されたつむじをつつきたくなるのをぐっとこらえた。
「ほらよ、うめえぞ。熱いうちに、……と、」
待て、その前に。サンジが言うと、箸を取ろうとした手をゾロは止めた。サンジは腕を伸ばし、準備しておいた酒器をテーブルの真ん中へと移した。
「まずはこれからだ。お屠蘇も飲んでねえだろ?」
「……おとそ?」
「やっぱ知らねえか。正月ってのはな、これで迎えるもんだ」
漆塗りの盃をゾロのほうに渡す。ほら、と銚子を掲げると、意味がわかったのかゾロは頷き手を添えた。とぷり、とぷりと何度かにわけて澄んだそれを注ぐ。急な思いつきで、さすがに正式なお屠蘇を作る時間はなかったけれど、わりあい値の張る北のほうの酒を入れてあった。
「今日は特別だぜ、未成年。三回にわけて飲めよ」
「あんたのは?」
「お前のあとで、その盃で飲む。ほんとは盃も三つあんのが正式なんだけどな。ちゃんとしたのはさすがに持ってねえから」
早く飲めよ、雑煮が冷めちまうぞ。何かが浮いているかのように、じっと液面を見つめたままのゾロに言えばはっとした顔をする。唇に近づけると、言われた通りにのど仏が三度上下した。斜めに傾けられた酒が、すこし開いた唇に吸い込まれ減っていく。最後に指先できゅ、と盃のふちを拭う、その所作になぜか目を奪われた。
盃がふたたび置かれ、不思議そうに見つめるゾロと目が合った。
「……飲まねえのか?」
「あ、ああ」
向かいに座ると、ゾロが手にした銚子に向けて、サンジは盃をさしだした。酒が注がれ、近づければ甘いような柔らかな香気がたちのぼる。唇を押しあてたときに、ふとゾロがさきほど唇をつけた場所を思った。その想像はたしかに心をざわりと波立たせ、サンジはそのことに動揺した。どうかしている。
気を取り直し、飲みほして両膝に手を置いた。ゾロもそれに倣う。
「明けましておめでとう」
まだ言ってなかったよな。サンジが言うと、ゾロはあ、という形に口を開いた。サンジも今になって思い出したのだった。本来ならば昨日言うべきものだろうに、二人して失念していたらしい。
「……明けまして、おめでとう」
ぺこりと軽くゾロが頭を下げる。
「今年もよろしくな」
笑いながら言うと、ゾロは一瞬驚いたように目を見開き、それから、ふいに破顔した。昨日見た年相応の、ともすればそれよりも幼い笑顔だった。褒められ頭を撫でられた子供のような、くすぐったそうな、どこか誇らしげな。
表情はすぐに戻った。おう、よろしく、とゾロは言い、いただきますと手を合わせる。ぱん、と音がしてサンジは我に帰った。
「……おう」
ぼんやりとした返事を返し、サンジも箸を取った。脳裏には残像のように、さきほどのゾロの顔がちらついていた。煮しめを小皿に取り分けてやる。ゾロは雑煮のかまぼこを口に運んでいる。
「そういやお前、俺が作ったもん食べるのはじめてなんだな」
「ああ」
もごもごと咀嚼しながら頷き、飲み込んでから、でもこれからはあんたのケーキも食うぜとゾロは言う。サンジは里芋をつるりと落とした。皿の上だったのが幸いで、色鮮やかな人参の隣にちょうど収まる。
「なんで。嫌いなんじゃねえのかよ」
「嫌いだなんて言ってねえ」
「そう、だったか?」
「逃げんのやめるだけだ」
「逃げるのを」
繰り返すと、ゾロは頷いた。何から。声に出せなくなったのは、サンジを映すとび色の瞳が、店で見たのと同じ熱を孕むそれだったからだ。宙に浮いたままの皿にその手が伸びて、手首に感じていた重みがふつりと消えた。
これ、うめえ、とゾロが言う。
「……そうか、そりゃよかった」
答えながらサンジは視線を下向けた。
左手の薬指。
誓いは損なわれ、いまは戒めのための指輪がそこにはあった。


片づけをしているときに、サンジはそれを見つけた。テーブルの下に転がった、小さな金属には見覚えがある。校風が自由なのだろうか、ゾロの左耳には三つ、同じ形のピアスが光っているのだった。
駆け引きなど何ひとつ知らなそうな少年の、ただの忘れ物に意味を見いだそうとするのは愚かだろう。それでも、可能性を考えてしまう程度には、確信に変わったものがあった。
「……まじい、な」
困るのは、嫌悪感すらないことだ。いや、むしろ。考えかけて、サンジは思考を遮断するために軽く頭を振った。
てのひらにそっと乗せてみる。
夕暮れの陽にそれは赤っぽく光り、はじめは冷たく、けれどだんだんと体温を移して馴染んでいった。







                                         (11.04.18)



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