2.息をとめて





それは6月で、雨が降っていた。
店をオープンしてまだ間もないころだ。軒下に走り込んできたかと思ったら、濡れた頭を犬のようにぶるぶると振る学生服はどう見ても男で、わざわざ店を出て声をかけたのがなぜなのかは覚えていない。降りだしたばかりの雨は歩道を黒っぽく染め、短い髪から飛び散る水滴が、その朝磨いたばかりのガラスにぷつぷつと丸い模様を描くのが見えた。
ちょうど客がおらず暇だったせいか、めずらしい髪色に興味を覚えたせいか、店の出入り口に居られては邪魔になるからか、それとも、まったく別の理由だったろうか?
ただ覚えているのは、雨にけぶる景色に滲みなく浮きあがる、すうと伸びた背中と空を仰ぐ涼やかな横顔だ。中、入れよ。声をかけてタオルを渡したとき、ありがとう、とぺこりと行儀よく頭を下げ、しかしそのすぐあとには、ここ、あんたの店、と不遜とも思える口調で緑頭の少年は言った。恐れを知らない、強い瞳だった。
出会いから半年が経つ。ゾロは学校帰り、ときどき店にやって来る。
「よう」
クリスマスの次の日、ゾロは一人でやって来た。時間からして部活帰りらしく、声をかけると、こちらをちらと見て、返事をせずにただ頭を軽く下げる。正確に言えば顎を動かした、という程度だ。サンジは小さく舌打ちをした。
「挨拶くらいしろっつってんだろ、いつも」
声を尖らせると、ゾロはまた先ほどと同じように数瞬視線を投げた。すぐにまたふいと顔を背け、そのまますたすたと店の隅へと向かう。
狭い一角には丸テーブルを一つと椅子を四つ置いてあって、希望の客にはイートインが出来るよう配慮していた。暑い時期には冷たい、いまは温かなコーヒーと、それから自家製のレモネードをポットにいれて、隅の壁際にいつも置いている。もちろん、飲み物だけを飲んでもらってもいいように、ご自由にどうぞ、と貼り紙をしてあった。無料のサービスはなかなか好評のようで、客からおいしいと声をかけてもらうことも時々ある。
サンジはガラスケースを見やった。閉店まであと一時間ほど、ケーキはすでに残っていない。人を雇うのが嫌で、ほとんどすべての作業を一人でやっている。一日に作れる量はそれほど多くなく、閉店までに売り切れてしまうこともしばしばあるのだが、決めた時間までは店を開けておくことにしていた。そして一人で来るとき、たいていゾロはこの時間にやってくる。
椅子に鞄をどさりと置くと、ゾロはレモネードの入ったポットを掴んだ。これもやはり常備しているプラスチック製の小さなコップに、とぽとぽと注ぐ。甘いものが苦手なんじゃねえのか、と前に尋ねたことがあった。ケーキは一度も食べたことがないくせに、ゾロはずいぶんこの飲み物を気に入ってるようだった。なんだかんだと店に来る理由も、部活で渇いたのどをただで潤すためではないかとサンジは踏んでいる。
あんまり甘くねえから。そのときゾロは答えた。
そうか?かなり蜂蜜入れてるけどなとサンジが首を傾げると、知らねえではじめに飲んじまったし、とよくわからないことを言い、それ以上の追及を拒むように唇をきゅ、と引き結んだ。
その唇をいまは薄く開き、ゾロは湯気の立つコップに押しあてている。客はもう来ないだろう、いつものようにサンジは、自分用にコーヒーを注いでゾロの隣の椅子を引いた。腰を下ろすと、ゾロの肩がわずかに揺れるのを目の端に捉えた。
「あ?どうかしたか」
べつに、とこちらを見ずにゾロは答える。サンジも特にそれ以上気にせず、煙草を取り出して火をつけた。こういうご時世だが、禁煙をする気はいまのところまったくない。左の指に挟んでから、無意識に右に持ち替え、それで気がついた。いつもは向かいの席に座るのに、今日はゾロの隣に座っていた。
冬至をすぎてまだ間もなく、外はすでに夜が訪れている。街灯の明かりが白く見えて、寒々しい銀杏の木をぼんやりと照らしていた。今年の冬は寒い。一昨日、ちょうどクリスマスイブの日には雪が降った。予約制のブッシュ・ド・ノエルを受け取りにきた客たちは、寒い寒いとぼやきながらもみなどこかうれしげで、特別な夜を共にと店のケーキを選んでもらえたことを、サンジはとてもうれしく思ったものだった。
「お前んとこさ、クリスマスケーキとか食わねえの」
ふと思いつきサンジは尋ねる。なんで、とゾロは少し硬い声で言った。
「ケーキ、買いに来なかったからさ。お前が食わなくても誰か食うだろ、家族とかよ」
「……なんで、そんなこと聞くんだ?」
「なんでって……、いくらケーキ目的じゃねえとしても、おめえこんだけ俺んとこ来てんだぜ。他の店のケーキ買われんのはよ、なんか、こう、妬けんだろうが」
言ってから長く煙を吐く。ゾロがコップを傾けるのがわかった。返事を待ったが返ってこないから、サンジはゾロのほうを見た。
ゾロは両手で包むようにコップを握り、その薄い色の液面を見ていた。サンジから見える片耳は、外から急に暖かいところに来たせいだろうか、赤く染まっている。
「俺、一人だから」
「え?」
「親がわりってのか、面倒みてくれてる奴がいるけど、ほんとの親はいねえ。そいつもあちこち飛び回ってるから、まあ一人暮らしみてえなもん」
「……クリスマスにも帰って来ねえのか?」
「そういう行事ごと気にするタイプじゃねえし」
さばさばと、何でもないことのようにゾロは言う。一本目の煙草を消し、そうなのか、とだけサンジは答えた。
こういうときに、あからさまな同情を示すのは好みではない。話題を変えることにした。ゾロが空になったコップをテーブルに置く。おかわりいるか、と言うと、うなずくから、サンジは席を立った。
ひょいと腕を伸ばすと、ゾロがほんのわずか身を引くのがわかる。ゾロには時々こういうことがあった。他人との一定の距離が決まっているような、警戒心の強い野良猫のような。さきほどの話を聞いて、もしかすると育った環境も影響しているのかもしれない、とサンジは思う。思春期さなかの少年が抱く、大人の男への複雑な感情はサンジにも覚えがあるものだ。
そういえば、ゾロは息子でもおかしくないような年齢なのだと、いまさらながらサンジは気がついた。サンジが結婚をしたのは、ちょうどゾロが生まれたころのはずだった。
子供がいれば何か違っただろうか。別れてしばらくは何度か考えたことだ。一度ばらばらに砕けたものをかき集めても、けして元通りにはならないのだと今は知っている。ましてや、人の心は。
ふと気がつくと背後から視線を感じた。ポットに手を置いたまま動きを止めていたらしかった。サンジはゆっくりと息を吐き取っ手を握った。残りはわずからしく、朝よりもずいぶん軽くなっている。
「でもよ、クリスマス一緒に過ごしたい人はいたんじゃねえの。好きな子、いんだろ?」
二杯目のレモネードを注ぎながらサンジは、少し冗談めかして言った。この前、ナミと来たときのゾロの反応を思い出したのだ。
冷やかし半分、笑いながら振り向くと、予想と違い、ゾロは笑っても怒ってもいなかった。傷つけた。一瞬だけ見せたその表情を見てそう思ったのはたしかだ。しかしすぐに、ゾロはいつもの不機嫌にも見える仏頂面に戻った。
 目の前にコップを置くと、ゾロは息を詰めたように見えた。さきほどと同じように、振動で波紋を描く液面を見つめている。サンジは二本目の煙草に火をつけた。どうやらまずいことを聞いてしまったらしい。思って口を開きかけたとき、ゾロがふいに顔をあげた。
「……俺が、勝手に好きなだけだから」
はっきりとゾロは言った。すこしだけ低い位置から、まっすぐにサンジを見る。
はじめて会ったとき、恐れを知らないと思った若い瞳は、戸惑いと、怯えと、控えめな熱を含んで揺れていた。目にしたときにわかった。
少年は、恋を知ったのだ。

すっとそのまま席を立ち、ゾロは背を向けた。
暖房が少し効き過ぎた、なまぬるい空気がゆるりと動いた。
「ゾロ」
なぜ呼んだのかは自分でもわからなかった。振り向かない、ゾロの両耳は後ろから見ても擦ったように赤い。また、来てもいいか。区切るようにゾロは言った。
口をつけられなかったレモネードは、柔らかな湯気を立ちのぼらせている。
ああ、と答えた声が、自分のものではないようだった。







                                         (11.02.10)



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