むこうみずな瞳







1.ワンステップ





甘いものはあまり好きじゃない。
そう言うとサンジはすこしだけ表情を曇らせた。
「でも本当においしいのよ、サンジくんのケーキは」
ナミが言う。ガラスケースを覗き込むように身体を折ると、制服のスカートからはやけに白い太腿の裏が覗いた。紺色のプリーツが、暖かな空気を孕んでふわ、と揺れる。へえ、とゾロは気のないふうに返事をした。だから試しに食べてみなさいってとナミはやけに熱心だ。ゾロの目には玩具のようにも見える、美しい色合いのケーキはみな繊細で小さく、その割にはけっこうな値段がついている。閑静な住宅街近くにひっそりと佇む、有名パティシエ(その言葉をゾロはナミからはじめて聞いた)が営む高級洋菓子店。いかにも女が好みそうな店だ。
ケースの向こうからサンジの視線を感じる。それに居心地の悪さを感じて、ゾロは店の外、傾き始めた陽の差す通りのほうを見やった。歩道沿いの銀杏並木が黄金色にちらちらと輝いている。強い風が吹きつけるたびに、残った葉が散り一斉に斜めに流れた。ざ、という音が聞こえてくるようだ。少し前まではまだ緑を残していたというのに。もうすぐ秋が終わり、本格的な冬がやって来るのだろう。店の中は適度な温度だが、今日など外気はきんと鋭さを含んでいる。
「ゾロってば」
そっぽを向いたままのゾロにナミがため息をつく。意地っ張り、と耳を軽く引っ張られ顔を戻された。そういう訳じゃない。意地とかとは違うのだが、それをナミに言う気はまったく無かった。うるせえよとただゾロは返す。二人は仲良しなんだね。サンジはナミを見て屈託なく笑った。
一回りと言わず年下の女子高生に、くんづけで呼ばれることもくだけた口調も、サンジはまるきり気にしていないようだった。ゾロがはじめてここを訪れたときには、年上は敬えクソガキと顔を顰め思いきり後頭部をはたいたくせにだ。男と女で、サンジはまるきり態度が違う。いつ見ても真っ白な服、ちょうど夕映えに輝く落ち葉のような色の髪、目元に相応の薄い線を柔らかく刻んだ、女用のその表情をゾロは盗み見た。
「この前も食べなかったの、こいつ」
「ナミ、てめえ」
ゾロが口止めをする前に、この前?とサンジはゾロのほうに顔を向けた。眦にはさきほどの笑みをほのかに残している。ゾロはふたたび視線を流した。すこし不自然だったかもしれない、そう思うが、他にどうすることも出来なかった。ブレザーの肩の辺りに余分な力が入っているのが自分でわかる。やはりガラス張りになった店の出入り口近く、焼き菓子を入れてあるかごを見るともなくゾロは眺めた。
貝のような形をしているそれは、一つずつ透明な包装紙で丁寧にくるまれている。薄桃色の小さなリボンが、店の名の書かれた銀色のシールで貼りつけられ、来た客がめいめい持ち帰っていいようになっていた。前にゾロがそれを手に取りしげしげと見ていると、サンジが近づいてきて菓子の名を教えてくれた。
――だよ。
サンジの背丈はゾロより少しだけ高く、袖から覗く手首はゾロより少しだけ細かった。煙草の匂いと甘いようなバターの匂いばかりが記憶に刻まれ、せっかく教えてもらった名をゾロは聞きそびれてしまった。
手渡された菓子は結局まだ食べていない。
いつかまた尋ねようと思って、なかなか尋ねられないままでいる。
「ホールだと余計嫌がるだろうから、わざわざ小さいのを買ったのに、それでもよ」
あんがい食わず嫌いなんだから。ナミは続け、ゾロの背中をぱん、と軽く叩いた。
「ああ、そういえば……いくつか買って帰ってたね。お祝い事?」
「誕生日だったのよ、ゾロの」
「へえ、そうなんだ」
なあ、と斜め後ろから、低いがよく通るサンジの声が耳に届いた。ゾロはまた身体がすこし強張るのを感じて、それをごまかすように制服のポケットを探った。携帯と鍵。まだ冷気を残した硬い感触が、火照った指先を鎮めてくれるような気がする。
「いくつんなったよ、マリモ君」
「……十七」
「俺の半分にもいかねえんだなあ」
感心したようにサンジは言い、ゾロは薄く開いた唇の隙間から息を逃した。そうだ、半分にも満たない。マリモじゃねえと遅い悪態をついてから、ふたたび顔を戻したら目が合った。サンジが、長い腕をすうと向こうから伸ばして来る。
ゾロは動けなかった。わしゃ、と左手で一度だけ短い髪を掻き回し、若えうちに色々やっとけよ、とサンジはにやにやと笑った。ゾロはその手を払った。耳が熱い。年上の男は大抵優しく、けれどときどきこうしてひどく意地悪で、想いに気づかれているのかと訝るときもある。余計な世話だと、返す声は硬くなった。
「あ、なんだおめえ、誰か好きな子いるな?」
「いやだ、おじさんぽいわよサンジくん」
「……おじさんって、ひでえなあナミさん」
「女子高生にとってはおじさんだもの」
「男は四十からだよ」
二人は軽口を言いあい、朗らかな笑い声をあげる。店の中は乾いていて暖かく、伏せた視線の先、つるつるとした床に乗る自分のスニーカーが少し霞んで見えていた。ゾロはゆっくりと瞬きをした。耳が塞がれたようになっている。ナミとサンジの会話はうまく頭に入ってこなかった。
「で、今日は何にする?」
「そうね、じゃあ、和栗のモンブラン」
「了解」
軽く手をあげたサンジの薬指が光を放ち、ちょうど顔を上げたゾロの目を刺した。目ざといナミは、気がついたときすぐにサンジに尋ねた。結婚してるの?いや、今はしてないよとサンジは困ったような顔で笑い、何気ない素振りで話題を変えたものだった。
ナミは率直な女だが無神経ではなかった。それ以上の追及はせず、指輪の話に触れることは二度としなくなった。
「お前は、やっぱり要らねえの?」
サンジが尋ねる。
甘いものはあまり好きじゃない。それは本当なのだが、食べられないほど嫌いなものなどゾロにはないのだ。甘くて柔らかくて優しそうな、サンジのケーキをゾロはまだ食べたことがない。食べることができない。
「……要らねえ」
ゾロは言い、ブレザーの裾を握りしめた。濃紺の布はてのひらの中でくしゃりと形を変えた。
さきほど頭皮に触れた、硬い金属の感触が、いつまで経っても消えないでいる。







                                        (10.12.09)



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各章のタイトルはmy tender titles.さまよりお題をお借りしています。
全17話予定。