3.恋わずらい





背がぐんと伸びだす少し前、朝起きると、膝が軋むように痛んだものだった。とくに覚えがないそれを不思議に思い尋ねてみたら、成長のあかしなのだとミホークは重厚な口調で教えてくれた。そんなもんかと頷いた記憶はそう遠いものでもない。大人になるということには、そうしていくつかの痛みが伴うのかもしれないと、近ごろのゾロは思い始めている。あの頃は知らなかったべつの痛みについては、さすがにミホークにはまだ話していないけれど。
痛いのは何も怖くなかった。
怖いのは、サンジに会えなくなることだ。
「あれ」
指の先を見れば、人混みの向こうに金の髪を見つけた。サンジじゃねえ?と隣でウソップが言う。祭りのときほどではなかったが、参道の両側には出店がいくつか並んで香ばしい匂いをさせていて、吸い寄せられるようにふらふらとするルフィの襟首をナミがしっかりと掴んでいた。古ぼけた鳥居をくぐった先、石段を何段か上がったところに見えるのはたしかにサンジの後ろ姿だ。
私服を見るのは初めてだった。出会ってから、新しい年を迎えた。何も知らないまま、月日ばかりが足早に過ぎて行く。
「……だな」
連れの姿がないのを確認して、ゾロは浅く息をついた。ふわりと白く霧散して、高い空にそのまま溶けていった。もしサンジに恋人がいたとしても、それはゾロにはどうしようもないことだ。ただ、心構えのないまま目にするのは話が別だった。一言発したあと黙っていたら、ウソップが場を繋ぐように、やっぱそうだよなーと明るい声を出す。
クラスの仲の良い面子で、高校からほど近い場所にある神社に初詣でに来ていた。ウソップが連れている、別の女子高に通うカヤを除いては、みなサンジのことを知っている。サンジさんって?と高い声で尋ねられ、ゾロが気に入ってるケーキ屋の店長、とウソップは簡略した説明を返していた。
「ケーキ屋の、ゾロが気に入ってる店長」
ウソップとは反対のほうから、ナミがぼそりと訂正を入れる。幸せな恋人たちにはどうやら聞こえなかったらしく、二人はもう別の話をしているようだった。ぎらりと睨みつければあはは、とナミは快活に笑う。間違いなく想いに気づかれているのだろうが、ずばりとは訊いてこないのでそのままにしている。果実色の髪が揺れ、花のような匂いがかすかに香った。唇は薄桃に塗られふくりと光っている。女なのだな、と時々、あたり前のことをゾロは思う。
「サンジのケーキ食いてえー」
よほど空腹なのかルフィが力の無い声を出し、あんたは食い気ばっかねとナミが深く嘆息した。

冬休みに入ってから、サンジの店には行っていない。クリスマスの後に会ったのが最後、といってもまだ一週間も経っていないことに、賑やかな正月番組をぼんやり見ながらゾロは今朝がた気がついた。それだけ頻繁に行っていたのだと、いまさらながらに思い知った気がした。顔が見たかった、声が聞きたかった。いつだって、ろくでもない会話しか出来ないとしてもだ。
年越しを慌しく過ごしたのち、ミホークはまた海の向こうへと飛び立っていった。明けましておめでとう、今年もよろしくと、年始の挨拶だけは顔を見てというのが多忙な義父のポリシーなのらしい。今年の抱負はと尋ねられ、もっと強くなる、とゾロは答え、うむ、と一言ミホークは頷いた。恐れを抱えていたとしても、地についた足がみっともなく震えても、まっすぐに前だけを見据えていたいと強く思う。
「よう」
後ろから肩を叩かれ振り向いた。ナミに半ば無理やり引かされたおみくじを、ゾロはみなと少し離れた木の枝に結ぼうとしていた。木陰が濃く、湿った土の匂いがして、それにお焚きあげの燻ぶるような煙が混じっている。人の群れからぽつりと隔離されたようなそこで、ゾロはサンジと向かいあった。
ひさしぶり、と言ってから、そうでもねえか、とサンジは笑った。慣れなのか、それとも何か違う理由なのか、近ごろサンジはゾロにもときおり柔らかな笑顔を向けるようになった。呼吸が浅くなる。肺を絞られているようだった。考えてみれば、店の外で顔を合わせるのさえ初めてだ。陽が差さない場所でよかった。顔がひどく熱かった。
「……そうでもねえよ」
「だな。あいつらと初詣か?みんな一日からよく出てこれんなァ」
サンジはポケットに片手を突っ込んだまま、いくつかの頭の向こう、ルフィたちのいるほうを背伸びして見やった。セーターにジーンズにコート。いつもの真っ白な服とはまた違う印象を受けるそれは、サンジの年齢をずいぶんと若く見せている。
「家にいても、みんな暇だしな。……あんたは、一人?」
「ああ」
「ふうん」
「あ、お前いま、さみしいやつって思っただろ」
「思ってねえ」
「嘘つけ」
「俺は嘘はつかねえ」
はっきりと言うと、少しの間を開けて、ああ、そうなんだろうな、とサンジは呟くように低く言う。ふつりと糸が切れたように、それきり会話は途切れてしまった。こういうことはめずらしい。ゾロはあまり喋るほうではないが、サンジがいつもうまく話を繋げてくれるからだ。
鈴の音ががらがらと響き渡り、ゾロは一瞬そちらに気を取られた。鈍く光る鈴の下、赤と白で組まれた紐が大きく揺れている。ゾロは何も願わなかった。願って叶うものなら、願うまでもなく叶うだろう。
「お前は」
「――?」
視線を戻すと、サンジはふたたびルフィたちのいるほうを見ていた。何を話しているのか、楽しげな笑い声だけが聞こえてくる。知らねえ子がいるな、と言うから、ウソップの彼女だとゾロが言うと、ふうん、とさきほどのゾロと同じようにサンジは言った。いつもの女への美辞麗句が続くかと身構えていたから意外だった。
「お前も、正月一人なのか?」
親父がわりのひと、今日もいねえのかとサンジは続ける。
「おう。帰ってきたけど、今朝早くにまた出かけた」
「うち、来るか」
煙草を取り出し、サンジは火をつけた。手をかざして風を避けてから、背中を少し丸めて吸いこむのをゾロはぼうっと眺めた。慣れたその匂いだけが鮮明に感じられる。じっと見ていたからだろう、サンジがなに、と咎めるように言う、それに、なんで、とゾロは思わず言葉を返していた。
「おせちとか、食ってねえだろ、どうせ」
「ねえ、けど」
「けど?」
「……いいのか」
サンジはわずかに目を見開き、それから、ふ、と眦をゆるめた。ガキが遠慮すんじゃねえよ。ゾロの垂らした左手の前で、少し丸めたてのひらを上向ける。
「おみくじ、貸しな」
言われ、細く畳んだ紙をまだ握りしめていたことに気がついた。渡すときに指先が触れる。そこが痺れたような感覚がして息をつめた。
「今日はあいつらと遊ぶんだろうから、明日な」
昼前に店に来いよ、鍵開けとくから。
横顔で言い、サンジは銜え煙草でそれを枝に結びつけた。白く薄い紙は文字を透かしている。中に何が書かれているか、開けてもいないゾロは知らなかった。ただナミに結べと言われたから、逆らうのも面倒でそうしようとしていただけだ。
サンジはポケットから自分のぶんも取り出すと、すぐ横の細枝にそれを結んだ。指が離れ、小さな葉をつけた枝がゆさりと撓む。
「――サ、」
口を開きかけたとき、サンジ!とルフィの大きな声がした。二人してそのほうを見やれば、満面の笑みでルフィが手を振っている。サンジは舌打ちをして、ふうと煙を長く吐いた。面倒なやつに見つかっちまったとぼやきながらも、勢いよく飛びついてきたルフィの好きにさせている。
ナミとウソップ、それにカヤも後に続いた。急に音が戻ったように、にわかに周囲が騒がしくなる。ナミが何か話しかけてきたが、ゾロはうまく返事が出来なかった。添うように結ばれた二つの紙をもう一度ただ見つめた。
近づいてもいいのだろうか?
もっとと望んでも。
どこまで。

サンジは明日のことを、誰にも話さなかった。







                                         (11.04.07)



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