10.はちみつレモン味





「あんたがあんとき、」
ゾロがふいにぼそりと言い、顔を向けたときにちょうど客が入って来た。ドアベルが軽やかな音を立て、なんとも絶妙なタイミングに視線をやれば、あんのじょうゾロはさきほどまでよりさらに仏頂面を深めている。
その頭にぽん、と手を置いてからサンジはいつもの場所に戻った。追ってくるゾロの視線を、襟足のあたりに強く感じている。
「いらっしゃいませ」
接客用の笑顔を作りつつ、内心胸を撫で下ろしたのは、続くと思われる追及にやや及び腰だったからだった。てのひらに残る、短い髪の感触にはもう慣れた。それでも、私服姿のゾロがここにいるのは不思議な感覚だ。
あの日以来、ゾロとは会っていなかった。顔を見せないが元気か、とメールを送ったら、元気だ、それだけのいかにもゾロらしい返事があったきりで、次の一歩をどう踏み出すか考えているうちにゾロが店に現れた。
高校が春休みに入って二日目、ゾロはサンジの顔を見もせずにイートインスペースにまっすぐ向かった。そうしてどかりと腰を据えたあとは、そこで長い間ただ黙ってレモネードを飲んでいた。
客に連れはなく、焼き菓子を置いてあるコーナーに視線を流しながらガラスケースのほうへとやってきた。ひとの顔、特に女性の顔を覚えるのはかなり得意なほうで、たしかこれまでにも何度か見た客のようだとサンジは思う。
「これと、……これを。二つずつ下さい」
「お持ち帰りのお時間は?」
「20分くらい」
ふと気がついたように、客が奥へと顔を向ける。サンジもつられて見れば、ふて寝だろうか、ゾロはテーブルに突っ伏して横を向いていた。かすかに背中が上下しているから、もしかしたらほんとうに眠っているのかもしれない。
「弟さん、ですか?」
「え?」
箱を渡すときに言われ、サンジは思わず訊き返した。あの子をここで見るの、初めてじゃないからと彼女は笑った。言われてみればたしかに、男子高校生がケーキショップに一人で長居というのはめずらしい光景なのだろう。違いますよ、とサンジも微笑むのに少しばかり時間がかかった。視界の隅で、ゾロの肩が揺れたような気がした。
「あら、そうなの、ごめんなさい」
「……いえ」
「そうね、たしかに似てはいないものね」
それ以上を尋ねることはなく背を向ける。またどうぞ、と声を掛け、出入り口まで見送った。ドアが開くと、早春の空気にはかぐわしい沈丁花が混ざっている。きりりと冴えたそれをす、と吸いこんでから、サンジは頭を伏せたままのゾロのところに戻った。
椅子を引いて煙草に火をつける。空いた片手をふたたびゾロの頭に乗せた。自分の手が冷えているのだろうか、ゾロから伝わる体温はいつもひどく温かい。
そうして、あのときのことを思い出した。吐息をわけあうように、幾度もくちづけを繰り返すうち、二人の温度はやがて同じように混ざっていった。
「――思ってねえぞ」
弟みてえだ、とか。
煙を吐きながら言うと間を空けて、わかってる、とくぐもった声がする。いつのまにかコップの中身は空になっていて、隅のほうに薄黄色の溜まりだけを残していた。
「わかってんだけどよ。言葉、疑ってるわけじゃねえし」
「……」
「ただ、俺とあんたじゃ、その種類が違うのかもしんねえって。そういうことうだうだ考えてっと自分で腹が立ってよ、……会いに来れなかった。らしくねえってイライラすんだ」
本気の恋はそういうものだと、思ったがサンジは口に出さなかった。苦しみ、悩み、だが同時にそれ以上の喜びと幸福を得る、自制の出来ない強い感情に翻弄されるそれは、包むような穏やかな愛へと育むまで続くのだと知っている。
このゾロがと、思えば胸の痛みの底にはたしかに甘い塊があった。
「種類って」
「あんたあんとき、俺を帰したじゃねえか」
「帰したな」
「俺は帰りたくねえって、言った」
「ああ」
「そういうことだろ」
顔を上げぬままゾロは言った。やはりそう取ったか、とサンジは軽く息をついた。
唇を離したあとに見た、焦点が少しぼやけたような、ふわりと上気したゾロの顔。あれだけで送り返した自分の自制心を褒めてやりたいくらいだというのに。
「――キスだけじゃ足りなかったか?」
今度こそはっきりとゾロは震えた。じわ、と耳が赤くなっていくのを、たまらない気持ちでサンジは眺めた。
しばらく黙ってから、足りねえよ、と掠れた声をゾロは押し出した。
「だから、あんたとは違うって言ってんだ」
「ゾロ、顔上げろ」
「うるせえ、また馬鹿にしやがって」
「ゾロって」
からかったわけじゃねえよ、言いながら頭に置いたままだった指を滑らせる。赤く染まり、しとりと汗ばんだ首筋に触れればゾロの体はあからさまに強張った。そこからの熱に惑わされ、逃すようにサンジは薄く唇を開いた。
「なあ、はじめてだったろ」
「……だったら悪ィか」
「ほんと馬鹿だなおめえは」
だから、とゾロが勢いよく顔を上げる。睨みつけるその顔の、首の後ろに添えた手で引き寄せた。そのまま唇を塞げば淡いレモネードの味がする。開いた歯の隙間に、ゆっくりと舌を差し込んで、指先を髪の生え際で遊ばせた。
「……ん、」
ゾロの手がすがるように腕を掴んでくる。その強さを感じながら、ゆるりと唾液をかきまぜるように絡ませた。薄く目を開ければぎゅうと瞑ったまっすぐな睫毛が見えて、最後にまぶたにくちづけてからサンジはその顔を覗き込んだ。
眼球の表面には均一な水の膜がはっている。それが、目尻から溢れつうと零れ落ちるのを想像した。泣かせたくなどないはずなのに泣き顔を見てみたいと望んでいる。
困ったものだ、大事にしたいと思うのと同じくらいに強く、こんな子供にこれほど強く欲情する。
「ゆっくり、行きてえんだ。お前とは」
大事だから、と両頬を挟んで言えば、予想とは反対にゾロははじめよりさらに不機嫌な顔つきになった。
「俺は女じゃねえし、……その余裕がむかつくんだよ」
あと、お前とは、ってのも。ゾロは続け、指に挟んだままだった煙草を奪い、腹いせのように灰皿にぐりぐりと押しつけて揉み消した。
「はは」
実に愛らしいことを凶悪な人相で言うのがおかしくてつい笑ってしまう。よけいに誤解したらしい、ゾロは立ちあがりサンジの頭を手荒く抱きこんだ。逃がすまいとでもいうように、髪に鼻頭をすりつけてくる。
熱い息がそこにかかり、はやく、あんたにもっと近づきてえとゾロは小声で言った。胸に押しつけられた耳には、駆けるような鼓動が聞こえている。こちらも負けじと早鐘を打っていることに気づかれないよう、なるだけ体を離せばあからさまにむっとした気配が伝わってきて、思わずまた声をあげてサンジは笑った。
余裕などまったくない、いつだって必死の思いだ。
けれどもうしばらくは、年上の顔をさせてはくれないだろうか。
「――ねえちょっと、いい加減になさいよ」
ふいに知った高い声がして、不自由な姿勢のまま顔を巡らせればナミが立っている。ゾロと同じく私服の彼女は、心底あきれきった顔でこちらを見ていた。
サンジは笑った顔のまましばし固まった。
「……い、いつ来たの、ナミさん」
「ついさっきよ。私が見たときは、すでにその格好だったわ」
片耳を塞がれていたせいもあってか、ドアベルさえ聞こえなかったらしい。どれだけ夢中なのかと思い知らされたような心持ちになる。くちづけを見られていなかったことにはほっとしたが、それでも言い訳の出来る体勢ではまったくないだろう。
「私だからまだよかったけど……。気をつけてねサンジくん、その男はけだものと一緒だから、きっと思い立ったらところ構わずよ」
細めの眉を憂うように顰めナミは言う。
その存在にとうに気づいていたはずのゾロは、それきり口の利けなくなったサンジを抱き込む腕を緩ませることなく、ナミ、てめえ邪魔だから帰れ、と平然と言い放ったのだった。







(11.10.06)



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