11.僕のヴィーナス





ゾロ、あれ。
言われて上げた視線のずっと先、見慣れた姿を認めて目を見開いた。赤のような茶のような煤けた色をした、門扉に寄りかかっている男は遠目でも間違えようがない。満開を過ぎ緑が混じり始めた桜の下、ときおりはらりと散る薄桃に紛れるようにサンジが立っている。通り過ぎる生徒たちの好奇の目を避けるためか、煙草を銜え枝葉のあいだから空を見上げるようにして顎を上向けていた。
店が休みのはずの今日、ゾロの高校は始業式だった。
クラス替えのあと独特の、浮ついてざわりとした教室の空気を感じながら、家に行くとでも言っておけばよかったとゾロはいまになって思い、めったに使わない携帯を忘れてきたことを悔やんだばかりだ。
思い描いていた金髪に、だからゾロは戸惑った。距離は狭まったかと思えば遠のいてを繰り返し、あいかわらずサンジは掴みどころがない。自分があまりにストレートすぎるのだろうか。けれど恋の手管などまさか知るはずもなく、慣れた男から見ればきっとずいぶん不格好で幼稚なのだろうとゾロは思う。
気持ちは通じても、苛立ちや焦燥は募るばかりだ。大事にしたいなんてきれいごとを言っていられる、その余裕がときおりひどく腹立たしい。
「約束でもしてたの?」
「……いや」
「見蕩れてるの?」
ぼうっとしていたのはたしかで一瞬言葉に詰まった。じろりとナミを睨みつけてから、お前は後で来いとゾロはよく言い含めた。サンジの用がなんであれ一緒に行けばからかわれるのは目に見えている。ハイハイ、と軽い返事をしてにやにやとする、その顔をもういちど睨んで背を向けた。
木陰にいるサンジの髪が、漏れる陽を浴びてまだらに光っている。店にいるときよりも頬が削げて見えて、目尻の柔らかな皺は深く翳っていた。くちづけるときに、あれをそっと撫でるのが好きだ。年嵩であることをやはり気にしているのか、サンジはゾロがそうするといつも少し嫌がり、けれど結局はゾロの好きなようにさせてくれる。
慣れはじめた苦い舌の味を思い出して、息が浅くなった。
「ゾロ」
気がついたサンジが手をあげる。おう、と返事をして近づいた。見覚えのある女子生徒がじろじろと好奇の視線を投げながら追い越していく。ゾロの目線を追ったサンジも気がつき、にこりと笑いかけると慌てたように目を逸らした。
親子ほどの歳の差の男同士、俺たちははたから見ればどんなふうに見えるのだろうと、風に揺れるその短いスカートを視界に留めながらゾロはぼんやり考えた。



ゾロにとっては通い慣れた通学路を、サンジは興味深げに顔を巡らせながら歩いた。歩道はゆったりと広く取ってあり、車道側には桜の木がずっと植えてある。
校庭の老木よりはずいぶん枝ぶりの悪い木々もやはり満開は過ぎ、ときおり目の前を花びらがつうと斜めに流れていった。道の隅には、白っぽいその残骸がひっそりと層をなして積もり、横を歩くたびに浮きあがってはまた沈むさまは、どこかゆるやかな水の流れを思わせる。
サンジの髪にもいくつか付着して、飾りのようなそれをゾロがじっと見ていると、サンジは片手でばさばさと乱すようにして払い落とした。すぐ近くで短くクラクションが鳴る。ぼわりと膨れたように生温い空気を、その音はやけに鋭く震わせた。
「お前さ」
「ん」
「すっげえ見るよな、俺の顔」
サンジの声は車が通るたびに大きくなったり小さくなったりする。ゾロは聞き洩らすまいと耳を澄ませる。歩みを止めないまま、まあな、と答えた。言われて見ればたしかにそうだ。細かな表情の変化までもう覚えてしまっていて、けれどそれが内に隠す感情の動きまではどうしても読み取れない。
「飽きねえんだ、いくら見ても」
「……へえ」
「あんたは見ねえよな、あんま」
しゃべるときも、と続けるとそうかね、と笑う。くしゃりと撓む眦からやはりゾロは目が離せないのに、サンジは煙草を近づける自分の指のあたりを見ている。
もどかしいと、また思った。だいたい、いまどこに向かっているのか、なぜサンジが急に学校に現れたかすらまだ聞いていない。歩きながら話すよとはじめに言われ、けれどその後サンジはずっと黙ったまま歩き続けていたのだった。
「なあ、今日はなんで」
痺れを切らしゾロのほうから尋ねてみると、ああ、といま気がついたように言い、昼飯でも一緒にどうかと思って、とサンジは続ける。
「前に、飯食わしてやるって言ってそのままだろ」
あの雪の日のことだ。それはいろんなことがひと息に押し寄せたあの日から、もうひと月以上が経った。季節は確実に前へと進むのに、俺たちはあれからいったい何か変わったのだろうか。
「言ってくれてりゃ、俺が行ったのによ」
「始業式だって知らなかったぜ、俺。昨日ルフィが寄ってってな、そんとき聞いてよ。連絡取ろうとしたけどお前、返事寄こさねえしさ」
そういえば昨日から携帯を見ていない。サンジからの連絡はこれまでたいていメールだったけれど、それも滅多にあることではなかった。悪い、と謝ると別にいいよとサンジは言い、それにたぶん、俺が迎えに来たほうが早えだろと笑った。
それでは今日はサンジの家に向かうのだ。あのときと違って、ゾロを無理に返す理由もないだろう。あらためてその意味を考えて、少しだけ気分が上向くのを感じたとき、あのよ、とサンジの声で引き戻された。
隣を見れば、さきほどの笑顔はまだかすかに口元に残されたままだった。
「さっきの女の子」
「さっきの」
「校門でお前のこと見てた子な、知り合いか?」
ちょうど交差点の前に差し掛かり立ち止まる。サンジが信号機の歩行者用ボタンを押した。丸いオレンジ色のそれはところどころ黒ずんでいる。同じ高校の生徒だろう、背後に数人ぶんの騒がしい気配が溜まるのを感じながら、べつに、顔知ってる程度だ、とゾロはありのままを答えた。
「つうか、俺じゃねえだろ。見られてたの」
「?」
「あんた目立つからな」
「……お前だって目立つだろ」
「そりゃあわかんねえけど、あんたみてえな目で女から見られはしねえよ」
二人で出掛けたときのことを思い出してゾロは言った。信号が変わりふたたび歩きだすとき、ふと顔を横向けるとサンジは呆れた顔をして、なるほど、やっぱお前鈍感だねと深く頷いた。
「何がだよ」
「まったく気づいてなかったんだろ?さっきも、この前もよ」
「……俺が?」
「お前、どんな男になんだろうなァ。天然タラシみてえな奴かね」
そういうのが、一番タチ悪ィんだよな。
ひとごとのようにサンジは横顔でまた笑う。ゆったりとした歩調の二人を、学生服が次々と追い越していく。彼らの話し声がはっきりと耳に届くのに、それは意味をなさない音の羅列のように聞こえ、さきほどのサンジの言葉だけがゾロの頭のなかをぐるぐると渦まいた。
「――何だ、それ」
声は不穏に波立った。抑えるつもりもまったくなかった。横断歩道を渡り切った先で立ち止まり、ゾロは少し先を行くサンジのシャツを掴んで歩みを止めさせた。
ゾロ、困惑したサンジの声が聞こえたが、いまは顔を見るのが嫌でゾロはサンジの肩のあたりに視線を置いた。腕には明るい春の光があたって、そこだけ漂白でもしたかのように白くなっている。
自分でも何がこれほど感情を逆撫でたのかよくわからなかった。
ただ、サンジの言葉にまた突き放すような裏を感じとったのはたしかだった。
「べつに女が俺を見ようが、俺には関係ねえ」
「ゾロ?」
「俺はあんただけで、そんだけだ。女とかべつに関係ねえし、興味もねえ」
「おい、ここじゃ人が通るからよ、」
「だから関係ねえって言ってんだ。あんたは恥ずかしいかも知れねえが、俺はべつに恥ずかしくも何ともねえよ」
言葉を紡げば紡ぐほど、頭のなかは混乱していった。いつもならばかならず考える、サンジを困らせたくないという思いもまったく働かないほど頭に血がのぼっていた。
女?人目?だから何だというのだ、ただ好きなだけだ、それだけじゃ駄目だというのか。受け容れてくれたと思ったのに、またそうして壁を作って遠ざけるのか。
「――そういうんじゃねえって。ゾロ、俺はお前が、」
「わからねえよ、あんたがちっともわからねえ」
「……ゾロ」
返事をせずに、シャツをぐしゃりと握ったままにしていた手を離した。一瞬、ここで無理に唇を押しつけてやろうかとも考えた。誰に見られてもいい、大声で好きだと叫んだって構わない、そんなことはほんとうに俺にとって何でもないことなのだ。
黙り込んだサンジを見れば、予想通り困り果てたような顔をしていた。じわりと内から込みあげるものをゾロはどうにか堪えた。どうして、いつもこうなってしまうのだろう。
「帰る」
これ以上話してもおそらくサンジをもっと困らせるだけだ。そのまま歩き出すと、待てよ、と今度はサンジが腕を掴もうとする、それを振り払ってすたすたとゾロは早足で歩いた。
感情を抑えられない自分をひどく子供じみていると思い、これではサンジの扱いも仕方のないことなのかもしれないと思った。
ほんのわずか腕に残った指の感触が、いつまでもそこに残って痺れたようだった。







(11.11.24)



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