12. 真夜中を駆ける





すぐに追いかけることが出来なかったのは、ほんの一瞬、このままのほうがいいかもしれないと思ってしまったからだった。
動けないでいるサンジの頬を、ぼやけた春の風が撫でていった。振り向くこともせずに遠のいた姿はあっという間に小さくなり、やがてなんてことはない昼どきの街の風景にすうと溶けこんでしまう。あはは、と誰かが笑う明るい声が近くで聞こえて、ようやくサンジは振り払われたきり半端な位置で留まっていた腕をゆるゆると垂らした。
「クソ……」
苛々と掻きあげた髪はまだ濡れている。すこし落ち着こうと風呂に湯を張ってはみたものの、ほんの十分ほどで出て来てしまったのだった。指にまとわりついたそれはしとりと冷えて、それからその温度さえじきにわからなくなり、なまぬるい糸のような感触がやたらと不快に思えてくる。
帰ってから何も手につかず、ソファにどさりと腰を下ろしたきりそのままだった。気がついたらリビングの床には西日が伸びていて、スリッパを履かないままの足元を赤く照らしていた。何度も携帯を開いては閉じ開いては閉じとしたあげく、あたり前のことなのに着信もメールもないことに気が塞ぎ電源を切った。
だからといって自分から連絡を取ることも出来ない。また傷つけたのだ。そうしたいわけじゃなかったとしても。
ゾロの声は震えていた。
「……情けねえもんだ」
反吐が出そうだ。あのとき、少女のゾロを見る視線に気がついたときに、湧きあがった感情は嫉妬というよりは恐怖だった。ゾロはまだ若い。そして男だ。女を愛したこともないと、べつにそれに何も悔いはないと、それでもきっとあの強い目で言うのだろう。
息をついて立ちあがると、関節がぎしりと強ばっているのを感じる。軽く腕のすじを伸ばしながら、さすがに腹が減っていることにようやく気がついた。けっきょく朝からなにも食べずじまいだ。冷蔵庫を開けて、目に入った食材を見てまたため息が出そうになった。
昼食を、もしかしたら夕食まで、作ってやるつもりでいたのだった。昨日仕事帰りに買い込んださまざまな色の野菜は、妙に明るい光の下で作りものじみて見えている。
「無駄には出来ねえしな」
サラダでも作ろうとセロリを取りだした。水気を含んでしゃきりとした軸の、みずみずしい感触がてのひらに触れた。サンジはそれをいつもよりも丁寧に洗った。茂った黄緑の葉に弾かれた水滴が、シャツをまくりあげた二の腕にぴちゃりと跳ねた。
失う痛みを知っている。ナミの言うとおりだ。あの指輪だってそうだった。年をとって、うまくなったのは鎧を着こんで予防線を張ることだけだ。
臆病さをさらけだすことは出来ず、かといって大人の顔で手放してやることも出来ない、中途半端な自分を笑うことすら出来なかった。



外の空気は冷えていて、すこ火照った体には心地よかった。家にいてもろくなことは考えない。酒を飲んでみても酔いはいっこうに訪れず、簡単な食事と片づけを終えてから、煙草でも吸いながら近くを歩いてみることにしたのだった。
煙を吐きだして見あげれば空には星のひとつもない。たしかに存在するはずの光は、厚い雲にそのありかを隠されている。そういえば、星などもうかなり長いこと気にしたことがなかった。ふと、ゾロを送るためこの道を歩いた日に、同じように煙草を吸いながら夜空を見たことを思い出した。
見えねえな。家を出てから、ずっと黙っていたゾロは言った。
なにが、と問うて横を見れば、ゾロは白く丸っこい形の息を吐きながら顎を上向けていた。
空、と短く答える、頬の色はわからなかった。音を吸いながら降りしきる雪の白と、夜の深い青だけがそこにはあふれていた。玄関先で立ったまま、唇を何度も重ねそっと指を添えたあのとき、そこはたしかに赤く染まってサンジの体と心を温めた。胸を塞ぐ感情のかたまりは、自分でも持て余すほどの高い熱を持っていた。
好きだよ。思い出して思わず、その日二度目の告白をした。しばらくしてゾロは、なに言ってんだ急に、と上を向いたままで低く言った。
お前からはまだ聞いてねえんだけど、と笑いながらその頬に手の甲をあてると、雪で冷えているはずのそこは予想どおりとても熱くて、けれどけっきょくゾロはその言葉を口にはせずに、ただぼそりと、あんたけっこう、意地悪ィよな、とつぶやくように言ったのだ。
知ってんだろうが、いっぱいいっぱいなんだよ、今日一日で、俺は。
とつとつと、押し出すように言うのがたまらなくて、他にひとの姿がないのをいいことにもういちど横からくちづけた。首をねじるような姿勢だったのもあって、サンジの唇はゾロの唇の端のほうに事故のようにあたった。ぷ、とゾロが噴きだして、へたくそ、とここぞとばかりに生意気な顔でからかった。
自分とほとんど変わらない背丈、そのうちに追いつかれてしまうのかもしれないと思った。一瞬だけ触れた唇はやはり温かく、伸ばした腕で背中を抱いたまま上を見ると、ひどくなるいっぽうの雪が視界をいっぱいにして、ゾロの言ったとおりその向こうの夜空は見通せなかった。
あのときとはまた違う、濁った色の空をサンジは立ち止まって見つめた。
「――ゾロ」
あんたがちっともわからねえ。
そうゾロは言った。
わかるはずもない、わかられると困るからだ、子供のような年齢の男相手に、ひさしぶりの恋にこんなふうに無様に。
「わかってんだ……俺は、ちゃんと、わかってんだよ」
まだ間に合う。これきりもう二度と会わなければ、きっと、お互いを致命的には傷つけずに離れられる。そうしてゾロはいつか次の恋をする。俺じゃない、可愛らしくて柔らかな女の子とふつうの恋をする。
思うのに、踏み出した足はその行くべき先を知っていた。ポケットに突っ込んだまま冷えきった携帯の電源を入れると、淡い光が闇に浮きあがって、サンジはもう覚えたゾロの番号を押した。
応答を待つあいだにも足は速まる。なまぬるい空気をかきまぜるように腕が振れる。耳の横で、風が流れる音が聞こえた。
「もしもし」
「ゾロ」
「……」
「ゾロ。いまから、そっち行くから」
「……ミホークと、客が」
「会いてえんだ」
会いたくてたまんねえんだよ。おめえの顔が見てえ。ぎゅうぎゅう抱きしめて、そこらじゅうにキスがしてえ。
言いたいことだけを言って、返事を聞かずにそのまま電源を切る。こんな自分勝手で強引なやりかたをしたのは初めてだった。
いくつになっても正しい答えなどわからない、そんなものが存在するのかさえ。
馬鹿なことをしているのは承知のうえで、会いてえ、会いてえよゾロと、ただそれだけを考えてサンジは夜を駆けた。







(12.01.16)



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