13.震える手





まったくとうとつに電話は切れた。
単調な音を繰りかえすだけの携帯からは、さきほどまでの切迫したようなサンジの声はもう聞こえない。かけなおすことも思いつかずに、ゾロは携帯を耳に押しつけたままただ立ち竦んだ。
会いてえんだと、そう言われた気がする。いつもよりすこしうわずった、思いつめた、余裕のないサンジの声。たしかに耳にしたはずの言葉は思い返そうとするとあやふやにぼやけてしまい、つい今しがたのことなのに現実だったかの自信すらない。
振りきるようにして先に帰ってしまったから、自分からは連絡を取れずにいた。そうして欲しくてしたことではないけれど、サンジは追いかけてすら来なかった。
意地やプライドももちろんある。だがなによりも、その遠さに愕然としたのだ。どうしたらいいかわからなかった。まるきり馬鹿みたいだ。思いきり手を伸ばしても届かない距離に、いっこうに見通せない不透明さに打ちのめされていた。
だからこそさっきの電話にはとても驚いた。その中身にはもっと。
いまから、そっち行くから。
「……外に出ねえと」
まだぼうっとした頭で、椅子に引っかけていたパーカーにのろのろと袖を通す。すこし考えて部屋の明かりを消してからドアを開けた。
ミホークはまだしも、階下にはシャンクスが来ている。サンジと鉢合わせにでもなったら面倒だとゾロは思った。ときどき得体のしれない底の深さを感じさせる男は、おそらく瞬時にすべてを見透かしてしまうはずで、いつもよりも手酷いからかいを受けるのは目に見えている。
なにせひとをからかうのが生きがいのような男だった。すくなくともゾロにはそう見える。甘んじてやるつもりなど、毛頭ないのである。
「あれ、ゾロどこ行くの?」
足音をできるだけ消したつもりだというのに、玄関まで降りたところで後ろから声をかけられた。気配を気づかせもしない。ほんとうに忌々しい。思わず舌打ちすると、身をかがめ回りこむようにして顔をのぞいてくる。
無精ひげをてのひらでなぞりながら、こんな夜遅くに悪い子だなあと、間延びしたようにシャンクスは笑った。やりとりが聞こえたわけでもないだろうに、開け放したままになったドアの向こう、リビングのほうから赤髪、とミホークの咎める重い声が届く。
「だってさぁ、いいのかよお父さん?」
「好きにさせておけ」
「あいかわらず放任だな」
なんか、おもしろそうなのによ。性の悪い笑顔を深めてシャンクスが言った。さっきまでとは違うひそめた声は、いちおうミホークに聞かれないようにだろう。
始終こうしてふざけてばかりの男が、あのどこか気難しいところもある義父と長くつきあえているのがゾロには昔から不思議でしょうがない。
「俺は」
「ん?」
「俺は、あんたのおもちゃじゃねえ」
そういうつもりじゃねえよ、とさも悲しげにシャンクスは眉を下げる。これ以上つきあっていられなかった。近くにある公園でサンジを待つつもりだ。垂れ下がったほうの肩をずいと押しのけて、ゾロは足を踏み出した。
なあ、聞いたぜ。なおも声がする。
「お前の好きなやつ、おっさんなんだろ?俺とおんなじくれえのさ」
「だからなんだよ」
「それこそ、おもちゃにされんじゃねえの?」
「……」
口を開きかけて、どすんと音がして振り向いた。赤い髪をわしづかみにされ尻もちをついて、いてえ、いてえって鷹の目、と大の中年男が涙目になっている。
常から鋭い目をさらにぎらりと光らせて、そこにはミホークが立っていた。
「お前のからかいが過ぎるからだろう」
「からかいじゃねえよ、親心だよ」
「誰が親だ」
「だってお前の子供なら、いててっ、いてえ」
深々と息を吐いて、行って来い、と今度はゾロに向けミホークは言った。おう、と大きくうなずいて、半端になっていた靴を履いて、それからシャンクスを父と同じくぎろりと睨みつける。
「あのな」
「んん?」
「いまさらあんたに言われるまでもねえよ。俺じゃ相手になんねえことなんて、はじめから百も承知だ」
口に出すとすこしだけ気分が晴れた。まさかこちらを向くなどと思っていなかった、まだサンジの薬指にしるしがあったころの、まっさらなあの気持ちを思い出した。その点だけは、この子供じみた中年に感謝してやってもいい。
そうだ、はじめからそう思っていた。それでも好きでいようと思っていたはずだった。もっと、もっとと、いつのまにか欲が出たのだ。自分の気持ちを必死に押しつけるばかりで、サンジのことを考えることが出来なかった。
俺はまだほんのガキだ。サンジに比べればずっと。あきらめではなく、それは認める。
「へえ、言うねぇ」
ますます興味湧いちゃったな、その男とにかりと笑うのに、そんだけの男だぜとゾロも負けじと笑い返してやった。



公園までの道を歩く途中でメールを打った。電話をかけるよりもそのほうが気が楽だったからだ。ゾロと違ってメールにはすぐ気がつくらしく、仕事中でもないかぎりサンジからの返信が遅れることはあまりない。予想どおりほどなく返事が来て、ゾロは深夜の公園に足を踏み入れた。
明かりさえ消えた時間にここに入るのは初めてだ。月も星も見えず、周囲の道沿いに立つ街灯がわずかな光源だったが、歩きながら慣れてきた目にはそれでも十分だった。
わかりやすいほうがいいと思い、遊具がある場所を指定しておいた。昼間には小さな子供たちが遊ぶ、ピンクの象の形をしたすべり台の前を通り、ゾロはブランコの支柱のそばを通った。
ところどころ塗装の剥げたそれは、ぷんときつい金属の匂いをさせている。あまり得意な種類の匂いではないなと思ってから、あのひどい煙草くささは平気なくせにとすこしおかしくもなる。ふと見ればその奥、水飲み場の近くにベンチが一つあった。そこなら、サンジがやって来るのが見えるはずだ。
開花が早かったのだろう、まだわずかに花を残した通学路とちがい、まったく葉ばかりになった桜の木がそばにじっと佇んでいる。もしもあと一週ほど早かったなら、ここは夜桜を見にきたものたちで賑わっていたのかもしれなかった。座ってから、深く息を吸いこむ。ぎゅっと握りこんだてのひらが冷たく湿っていて、俺は緊張してるのか、とひとごとのようにゾロは思った。
ゾロにはサンジのことがよくわからない。わからないものに身構える臆病さが、自分のなかにも潜んでいることを、ゾロはサンジとこうなってからはじめて知ったのだった。新しい自分をどんどん知っていく。そのなかには、目を背けたくなるような感情も潜んでいることもすでにゾロは知っている。
はじめてだらけだ。はじめての恋に、はじめてのキス、はじめての喧嘩、と、はたしてこれは言えるのだろうか。
やがて足音が聞こえて、ゾロは顔をそのほうへ向けた。ぼんやりとした影のかたまりが、だんだんとよく見知った形に変わっていく。
「ゾロ」
名前だけを呼んでサンジは黙った。息を切らして、すぐ目の前に立っている。自分も立ちあがったほうがいいのか、それともこのままのほうがいいのか、考えているとサンジはそのままゾロの隣に腰を下ろした。
座るときに、ジャケットから夜の湿った匂いがした。微妙な距離が空いている、気がする。心臓の音が、聞こえやしないかと馬鹿みたいなことを考える。
「悪かった」
いきなりサンジが言い、まずは昼間のことを謝ろうと思っていたゾロは出鼻をくじかれた。ゾロは靴裏でざくりと土をえぐった。
「昼のことなら、俺のほうが」
「そうじゃなくて。ああ、いや、それもあるけど……俺が言いてえのは」
「おう」
「はじめからのことな。隠してて、ごめんって、それを」
「隠す」
ゾロが繰り返すと、そう、とサンジは言う。けして平穏な響きの言葉ではない。ゾロは、腹のなかがいきなり冷えるような感じがした。隠す。サンジはなにを隠していたというのだろう。
サンジはジャケットを探って、煙草のパッケージを取りだしてから、思い直したようにすぐにまた収めた。はあ、と長く息をついたかと思うと、苛々とした仕草で頭をかいた。やけに落ち着きのないそれは、ゾロの知るサンジらしさに欠けている。
黙ったまま、ゾロはその横顔を見つめていた。
お前はさ、とようやく、サンジが言う。
「……お前は俺を、すげえ大人の男だって、そう思ってんだろ?まあじっさい、父ちゃんと同じくれえの年だ。それにくらべて自分はずいぶんガキだって、そう思ってる」
「ああ」
「必死なのは自分ばっかじゃねえかって。ガキあつかいされんのもしかたねえけど、余裕こきやがっておっさんが、って、な」
「まあな」
たしかにそのままだからそう答えると、ぷ、とサンジは笑った。正直だよな、ほんと、お前。そう言って、片手をついてなにもない空をふり仰ぐ。顎があがり、金髪が後ろにさらりと流れるのをゾロは見た。
さわりてえ、と思う。あれにさわりてえ。いつだって思いは単純だったのだ。さわりたい、近づきたい、もっと、もっと。
「俺は嘘つきなんだよ、ゾロ。おめえと違ってな。……好きだってのは、もちろんほんとだけど」
「……」
「お前よりずっと臆病だし、どうしようもねえ意地っぱりだしよ。年食って、これでもだいぶマシになったんだがな」
「あんたは、」
臆病でも意地っぱりでもねえと思う。そう言おうとして、ふいに手首を握られた。先を続けられなくなったのは、そこからはっきりと震えが伝わってきたからだった。
暗がりでも、サンジの手の甲にすじが浮いているのがわかる。強い力だった。すがるように強く、サンジはゾロの手首を握っていた。
顔をあげるとサンジはゾロを見ていた。泣くのをこらえた子供のような顔だと、なぜだかそう思った。たった一人きりで、よるべのないような。
「けどじっさいはな、こんなもんだ。がっかりさせちまってすまねえけど」
「……サンジ」
「お前を、なくすかもしれねえって。考えただけで震えが止まらねえような、駄目なおっさんだよ」
それでも、いいか。
そうサンジは訊いて、訊いたくせに、ゾロが答える前に腕を引っ張り、そのままどこにも逃げられないような力で、ゾロを抱きしめた。息が苦しくなるような力だった。ゾロは動くことも出来なかった。
合わさったサンジの体の厚みは、ちょうど、ゾロと同じくらいで、耳元でゾロ、とたしかめるようなその弱い声を聞いていると、よけいに息が苦しくなるようだった。サンジの震えはなかなか止まらなかった。ぼうっとしていたゾロも、ゆっくりとその体に腕を回す。
同じように強く抱きながら、ゾロははじめて、怖いと思った。ひとを本気で好きになるのは怖いことなのだと、思った。
「サンジ」
「もう、二度と、こんな情けねえことは言わねえ」
「……おう」
夜気に冷えた髪に指をさしいれる。細かな震えはゾロにも伝わって、やはり怖い、とゾロは思い、それでもこの男に近づきたい、とも思った。
自分から唇を近づける。ゆるく重ねると、サンジはふ、と熱い息を漏らして、それから驚くほど熱い舌が、ゾロの深くまで入って来る。いままでとは違う、無遠慮なくちづけはゾロを夢中にさせる。不自由な姿勢で、たがいにすがりつくようなキスをしている。
どうしようもなく、二人きりの夜だった。






(12.01.28)



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