14.ラベンダー





さあさあと、澄んだ音がしている。はじめに鼻先に流れた、濡れた土の匂いはすでに消えてしまった。いまは五月の風に葉ずれの音を立てる緑の香りに、ときおりふかされる煙草の匂いが浮き立つようだ。ブリキの黄色いじょうろの先からは、細い紐のような水のすじがいくつも弧を描き流れて、透明なそうめんみてえだと言ったらサンジにはひどく笑われた。
店の軒下、陽あたりのよい場所に並べられたプランターには、季節ごとに色とりどりの花が咲くのだった。サンジに頼まれて、暇なときは(ゾロはこの店にいるとき、サンジを観察する以外はたいてい暇だ)ここの世話をするようになった。しゅっと背すじよく伸びた茎の先、蕾みはじめた小さな粒がたくさん見えている。
水やりとかしたことねえの。訊かれ、思い返してみたが幼いころの記憶はすでにぼやけてしまっていた。ほら、よく子供が使う、象さんのじょうろとかあんだろ、とサンジが続けたから、そのじょうろの形状を思い浮かべるよりも先に、サンジの口から出た「象さん」のほうに気を取られてしまった。かわいい、と思うことがある。近ごろ特にだ。もし言ったらサンジは憤慨し、前のようにガードが固くなる気がするから、思っても言わないようにゾロはきつく心がけている。
あのとき、公園で長くキスをして、ゾロを家まで送り、玄関口で出迎えたミホークにサンジは深々と頭を下げてあいさつをした。シャンクスはきつく言い含められてでもいたのだろうか、姿を見せることはなくゾロは密かに安堵した。
お互い名乗っただけではあったけれど、二人にとっては意味深いことだったのかもしれない。それ以来サンジは少し変わったようだった。たぶん、こちらのほうが素なのだろう、前よりもさらに表情豊かで、言葉に裏を感じることも減っている。がっかりさせてすまねえ、とサンジはあのとき言ったが、ゾロにとってはこういう年甲斐もない、繕いのないサンジだって好ましいし、むしろ、うれしく思うのだ。
「ゾロ、水、そろそろいいぞ」
「……ああ」
「なんか、ぼんやりしてねえか」
象さん、を反芻していたからとは言えずに、ちょっとねみい、とゾロは思わず答えた。見ればたしかに、プランターの下から水が染み出している。ラベンダーなのだそうだ。花が咲いたら、店のなかに飾るものもあれば、乾燥させて使うものもあるのだと。湿気には弱く過度な水やりはよくないのらしい。サンジは知り合いから苗をもらったと言ったが、種から育てたら、植えてから花が咲くまでに二年くらいかかると言っていた。気の長い話だ、とその話を聞いたときにゾロは思った。
俺だったら、途中でじれて引っこ抜いてしまいそうだ。きっとサンジならば、時間をかけて大切に育てあげることが出来るのだろう。
「お前はいつも眠いだろ」
「いつもじゃねえよ」
「眠くねえときあんの?」
「……剣道やってるときは眠くねえ」
ぶは、とサンジは噴き出した。サンジの笑った顔は気に入りだが笑われるのは気に食わない。笑うなと言えば悪ィ、お前らしくてと言う。それから、周りをちらと見回して、じょうろを持ったままのゾロのこめかみに軽く唇を押しつけた。
首の後ろに自然に添えられた指はひんやりとしていた。かわいい、と耳元で囁いてふいに離れる。あんがい馬鹿だ、こいつ、とゾロは熱い顔で思った。こんなまだ明るい、店のなかには知り合いがいるような場所で。大人の分別とやらを失わせるほどにはと俺を思いあがらせて。
「知らねえぞ」
 思わず声に出すと、なにが、と不思議そうな顔をする。べつに、こっちの話だと答えながら店のなかに目をやれば、ウソップとルフィはなにやらしきりにテーブルを叩いて笑っている。ちょうど他に客はなく、こちらにはまったく意識を向けていないようだった。たまたま今日はナミがいない。いれば確実に、さっきのは見られているに違いない。
「戻るか?」
ゾロの視線に気がつきサンジが言った。ん、と煙草をくわえていないほうの手を、じょうろを握ったゾロの手に向けて差し伸べる。
休憩や気分転換の意味もあるのだろう、サンジはときどき、こうして店の外で煙草を吸うことがあった。ゾロはガラス一枚隔てた向こうがわから、少し丸まった白い背中だとか、その日の天気によって色を変える髪だとか、煙草を口元に近づける手の動きなんかを盗み見ていたものだった。
どれほど欲しかったかわからない指を、この俺の前に、こんなふうに無防備に差し出して、馬鹿だ、こいつ。
「ゾロ?」
首を傾げる、その手を空いた逆の手で強く握る。サンジはほんのわずか目を見開いたあと、さきほどのゾロと同じように店のなかを見て、それから、往来の遠くぽつりと見えるだけの人影に目をやった。夕暮れは日に日に遅く、薫る風に、水を浴びて光るラベンダーがゆらりと揺れている。垂らしたじょうろから、残ったしずくがアスファルトにぱたぱたと跳ね落ちた。
「やり直し、いつだ」
「やり直しって」
「あんたの部屋。あんとき、けっきょく行ってねえだろ」
「……」
「もう、俺は容赦しねえし、されたくもねえんだよ」
する、と人差し指の先で手首の薄い皮をこする。ぴくりとサンジの肩が動き、ゾロは鼻を明かしてやったようなよい気分になった。年下だからとなめられてばかりでは癪にさわるのだ。サンジはしばらくぽかんとしていたが、くつくつと笑いだし、ったく、お前がいつ容赦したんだよと呆れたように言った。
「お前なァ、俺が容赦しなかったら、どうなるかわかんないぜ」
にやりと笑う顔は急に年上のそれだ。含まれた意味は、そのままゾロに伝わった。どうにでもしてみろよ、とゾロは思う。どう、なったってかまわない。そう言ってやりたかったが、それはまた今度に取っておくことにした。
「……じゃあ、今度の休みに。ちょうど週末だから」
サンジが言い、ゾロの指にきゅっと指を絡める。おう、覚悟してろとゾロが言うと、ほんとてめえは、と困ったように眉を下げて、けれどわずかに頬が赤いのをゾロは見逃さなかった。
そのとき、ずっとゆるく吹いていた風がひときわ強く吹いた。サンジの長い前髪をばさばさと掻きみだす。目を細めたサンジの、いつもは見えていないほうの眉をゾロは凝視した。とっさにじょうろを落としてその髪に指を入れ、顔を近づける。
「……すげえ」
「え」
「いや、巻きが」
反対だ。ゾロが言ったとたん、サンジは、な、と声をあげ、急に慌てたように手を振り払うようにぶるぶると首を振った。せっかくあらわになっていた額はすぐに隠れてしまう。たしかに眉間の巻きはずっと不思議だったが、まさか両方合わせてこんな不思議な事態になっているとは思いもしなかった。
馬鹿にすんな!といつもならゾロの台詞を、忌々しげに吐き捨て向けた後ろ姿の、うなじはくっきりと色濃く染まっている。ムキになるサンジをはじめて見た気がする。むずむずと込みあげるものがあって、ゾロはサンジを追いかけた。知らないことは、知らない面は、まだまだたくさんあるのだ、これからきっとたくさん知っていく。
もっと見せろよ、見てえ、と言えばやだね、とまるきり子供のようだ。手を伸ばそうとすると拒まれ、ゾロもムキになる。そのまま喧嘩じみた小競り合いをしながら店に入れば、こちらを見たウソップが、おめえらやっぱ、なんだかんだ仲いいよなァと屈託なく笑った。
「サンジ、ケーキおかわり!」
場を読まないルフィの高らかな声に、サンジは怒声をあげた。







(12.03.29)



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