16.Please call my name.





「――!」
どごん、と体を強かに打ちつけて目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって慌てる。視界をのっぺりと覆う白はどうやら天井で、左手は布らしきものをしっかと掴んでいた。背中の皮膚に触れるひんやりとした、密なこの硬さは床の感触のようである。
首を右にめぐらせると、開け放したままのドアが見えた。そこから廊下の、ここよりも温度の低い空気が流れ込んでいる。薄暗いフローリングに落ちている衣類が、自分のシャツと下着だと気づいたときにようやく繋がった。
そうだ、寝室だ。キッチンではじまって、そのまま、ここになだれ込んで。
「あー……、落ちた、のか」
ようやく理解して、サンジはベッドに乗せた手を支えに身を起こした。まだ床に尻をついたままで見れば、一段高い場所、シーツの端にはゾロがこちら向きに寝そべっている。目が合うと、く、とのど奥で笑いをひとつ噛み殺して、サンジのほうへすっと腕を伸ばした。
無言でその手を握った。引っ張られ、ベッドに座る形になる。サイズはセミダブル、男二人には狭苦しいが、だからといって落ちたのは不覚でしかなかった。サンジは、寝相が悪い。
「起きてたのか」
こんなときにかぎって、という言葉は飲み込んだ。まあな、と言ってゾロは寝たまま反対のほうを向きカーテンを開けた。しゃ、という音がして青白い光が部屋に入り込む。窓ガラスはまんべんなく曇っていて、雨が降っているのかどうかはわからなかった。
ふと時計を見る。十六時を過ぎていた。どのくらい寝ていたのだろう、雨の音は聞こえないが、風が低く呻っている。
「お前、寝てねえの」
「少しうとうとして、目ェ開けたらあんたが寝てたから」
ずっと見てた、とゾロは言った。声が掠れているのはサンジのせいだろう。いつもは涼やかなはずの目元も、こすったあとのように少し腫れている。
「寝がえり打ったかと思ったら、転げ落ちちまってよ。寝相悪いんだな」
「らしいな」
決まりの悪さがつい声に滲みでると、ゾロはとうとう笑い出した。横目で睨みつけるとよけいに笑う。さっき握った手は、繋いだままだった。そろそろ夕食の支度に取りかかったほうがいい、それはわかっているのだが、自分の温もりの残るシーツにサンジはずるずると体を沈めた。たまには思いきり怠惰なのも悪くない。もう少しだけ、この時間に浸かっていたいと思う。
横向きに向かいあって、短い髪に指をくしゃりと入れる。根元のほうはまだ汗で湿っていた。心地よさげに目を細めるさまは、ひとに慣れた動物の仕草じみている。
腰から下は上掛けのなかに収まり、まだ成長過程の筋肉のついた体には、小花のように赤が散らばっていて、それが自分の執着を顕わしているようでサンジはそっと目を逸らした。恥ずかしいほどだった。夢中になった。あんなふうに、我を忘れるほど興奮したことがあっただろうか、あったとしても、まだごく若い盛りのころだろう。
「……大丈夫だったか」
「なにが?」
「なにがって、その、おめえ」
最後、わけわかんなくなってたろ。からかいを含めたつもりはなかったが、ゾロの顔は一瞬でさっと朱を刷いた。なんか、俺へんだったか、と逆に尋ねられ返答に困ってしまった。
もう、おかしく、なっちまう。最後にゾロが絞りだすように言ったのを思い出し、そのときの濡れた顔と、背中に回された腕のすがるような強さ、ぎゅっと縮まった足指を思い出した。しなやかな肢体を小刻みに震わせて、何度も出した前を弱く弾けさせながら、後ろはしきりにサンジの指を食んでいた。
「いや、へんっていうか」
「いうか」
「……」
「なんだよ、教えろ」
「すげえ、えろくて、……かわいかった」
思い出して口元がゆるんで、サンジは思わず顔を片手で覆った。ぼすりと頭に荒く当たったのはゾロが力任せに投げつけた枕だろう。
乱暴ではなかったと思う。そこだけは何とか。かなり執拗になった自覚はあったけれど、それでも、ぎりぎりで踏みとどまれたところは褒められてしかるべきかもしれない。怒ったのか、からかったわけじゃねえよ。言えば、だったらよけいにだとゾロは不機嫌そうに呻った。
「よけいにって」
「じゃあなんで、突っ込まねえ」
らしいと言えばらしい、なんともあけすけな物言いだったが、それより別のことにサンジはしばし呆気に取られた。
「……怒ってるの、そこか?」
「容赦はされたくねえ、って言った」
俺じゃ、あんたにゃ物足りねえのかと思った。そう言われまじまじとゾロの顔を見る。本気の顔だ、まあ、いつだってゾロは本気なのだが。
最後までしなかったのは、さすがにそれ以上の無理をさせたくなかったからで、実際、抱き寄せたときにはゾロはずいぶんぼうっとしていた。くたりと無防備にゆだねられる体はひどく熱く、合わせるだけの軽いくちづけを交わしながら、性懲りもなく下腹が疼くのを堪えるのは実に大変だった。
先に目を閉じたのはゾロだったはずだ。ゆったりとした動きで、睫毛が伏せられるのを間近で見た。そしてそれきり、サンジの意識はどうやら途切れている。
「お前がそんなで、ほんと助かるよ」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味」
言えばどう捉えたのか、今度はジーンズが飛んできた。目の前を塞いだものを剥がし終える前に、ずしりとした重みと体温を腹に感じる。ようやく視界が開けると、すぐそばにはゾロの瞳があった。やはり、睨みつけるように強い、濁りのないそれ。このまま吸い込まれてしまいそうだと、どこか恍惚とした遠い気持ちで思う。
「あんまり待たせやがったらな」
「……ああ」
「俺が襲うぞ」
にやり、と急に男くさい不敵な笑みをゾロは浮かべた。ぞくりと背骨を走り抜けるものがあって、サンジはそっと息を吐いた。この年でこれだ、こいつは一体どんなやばい男になるのだろうと、想像すれば先が思いやられ気が遠のくような感じがする。
「言うじゃねえか」
「甘く見てっと吠えづらかくぜ」
「へえ、おもしれえ」
ふ、と同じように笑ってやる。年上の男のプライドにかけて、まだまだガキの好きにさせてやるつもりはない。
唇の端をゆっくりと上げると、ゾロの視線はその動きに縫いとめられた。首の後ろに指を添えてぐいと引き寄せる。まだ汗の匂いが残る首すじに、顔を近づけた。
「――ゾロ」
耳元で名を呼べば、ゾロの肩がびくりと震えた。この弱点はさっき知ったばかりのものだ。こうするたびに、ゾロの体からは力が抜けていき、たまらない声を漏らして腰を揺らしていた。
隙あり、とばかりに体の上下を入れ替える。畜生、と悔しがって暴れるから声をあげて笑った。これではどちらがガキだかわからない。十年早えよ。言えば、ゾロが息を詰めるのがわかった。
そのときもそばにいてと、遠回しな告白はどうやら伝わったのらしい。ほのかに赤くなった頬にそっと触れる。ゾロはすりよせるように首を軽く傾げ、その懐く仕草とは不似合いなほど不機嫌そうに顔を顰めた。
「ほんと、ずりい」
見てろよ、いつか、とゾロは言う。
「見てるよ」
ずっと、俺は、お前を。



腹減ったろ、飯にしようかと手を引いた。おう、と答えてゾロがもそりと起きあがる。先にドアノブに手をかけて、廊下に足を踏み出したときに名前を呼ばれた。
「サンジ」
「ん」
「好きだ」
やられた。完全に不意打ちだった。
そういえばまだ一度も、ゾロから言われたことはなかったのだ。
振り向いた形でそのまま、ぴきりと固まったサンジに近づいてくる。じわじわと染まる熱い顔を両手で挟んで、覗き込んで、俺もけっこうやるだろ、と愉快そうにゾロは笑った。
「いい顔するな、あんた」
ほんとうに、先が思いやられる。





(12.04.05)



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