17.つまりは君のことが





雲が薄いのだろうか、ところどころ光を透かす灰色の空から、ぱたぱたと垂れ落ちるような雨粒が降りだした。上向けていた顎を戻し、ゾロは少しだけスニーカーの足を速める。昼ごろまではひさしぶりに晴れていたから、靴底が叩く道はまだほとんどが乾いていて、そこにひとつ、ふたつ、と丸い染みが落ちたかと思うと、あっという間にざあざあと音のするような勢いに変わった。
学生服が濡れるのは鬱陶しいが、なまぬるい水の匂いはけして嫌いじゃない。サンジと出会った日の記憶と、それが、結びついているからかもしれなかった。さすがに日付までは覚えていないけれど、梅雨が明けきらない時期だったのはたしかだろう。おそらくそろそろ、あの日から一年が経つのだと思う。
長かったのか、短かったのかと訊かれれば、気持ちを隠していた時期はとても長く感じ、正月あたりからは飛ぶように時が過ぎたような気がした。どちらも同じ、半年程度なのにおかしなことだ。気の持ちようでどうやら、時間の感覚というのは伸びたり縮んだりするものらしい。
街路樹の青々とした葉が白くけぶってくる。途中からはほぼ全速力になって、店に着いたときは息が切れていた。軽やかなドアベルの音を聞きながら、ふと入り口そばのプランターを見れば、雨を帯びた大ぶりの紫陽花がいきいきと咲き誇っている。よそ見をしたままなかに入ったゾロの顔を、唐突に薄青い布がふわりと覆った。
「おかえり」
「……ただいま」
「動くんじゃねえぞ、拭き終わるまでな」
店を水浸しにされちゃかなわねえ、とため息混じりでサンジは言った。その面倒くさそうな口調とは裏腹に、髪を拭く手つきはいつも丁寧で優しい。被せられたのはタオルだった。ゾロはすぐに傘を失くすので、ずぶ濡れでここにやって来ることがままあって、客がたまたまいないときにはこうして入場規制に遭うのだ。
そう言えばいつから、ゾロが学校帰りここにやって来ると、サンジはさきほどのようにおかえり、と言うようになったのだったか。考えてみたが思い出せなかった。この半年以内のことであるのだけは間違いない。
「ったく、今日も傘持ってかなかったのかよ」
「朝は晴れてたろ」
「天気予報じゃ昼から雨、だったけどな」
「んなもん見ねえし」
時間もねえ、と言えば、はいはい、そうでしょうとも、と呆れ顔で笑っている。サンジからはいつものように、煙草と菓子の強い匂いがする。苦味と甘味の、複雑に混じった、この店にいるときのサンジの匂い。
「はい、入ってよし」
制服の上からも押しつけるようにして水気を取って、脱げるもんは脱いどけ、風邪ひくぞといつものようにサンジは言う。おう、と言ってゾロは白いシャツを脱ぎ、下に着たTシャツ一枚だけになった。
イートインスペースに向かい、濡れたシャツを空いた椅子に掛ける。レモネードを注いでいると、おら、食い終わってから手伝えとサンジが籠を持ってきてどさりとテーブルに乗せた。なかには透明な小袋にひとつずつ入れられた、例の、ただで持ち帰ることの出来る焼き菓子がわさわさと入っていた。リボンと、それを貼りつける店名の入ったシールもだ。もう片方の手ではケーキとフォークの乗った皿を掲げている。
「やりかたわかるだろ?リボンをこうやって、……テープで上から留めるだけだ」
皿をゾロの前に置くと、サンジは立ったまま、実際にひとつ手に取ってやってみせた。さっそくフォークを口に運びながらゾロはうなずいた。
「あんがい人使い荒いよな、あんた」
「どうせ寝てるだけだろうが」
サンジも隣の椅子を引く。一度座りかけて、それからふと気づいたように壁のほうに向かい空調の温度を上げた。寒くねえか、とすら訊かれなかったが、サンジのこういうところもゾロは好きだった。皮肉げだったり、揶揄めいていたりする言葉の裏の、気づかいや温かさはもはやサンジに染みついているようで、きっといまの行動もほぼ無自覚でやったことなのだろう。
「もう覚えたか、これ」
煙草の箱を取り出し火をつけながら、貝殻の形の、ゾロがなかなか名を覚えなかった焼き菓子を指してサンジは言った。黄金色にこんがり焼けた、光沢のある表面には浅いすじがいくつも走って、口に含んだときのバターの濃い香りが漂ってきそうだ。雨の音が大きいせいだろうか、サンジの声はいつもより小さく穏やかに聞こえる。
「マドレーヌ、だろ」
「お、正解。じゃあこっちは?」
「フィナンシェ」
おお、とサンジは感心したように言った。ゾロは形だけで鑑別しているが、材料も少し違っているのだとこの前聞いたばかりだ。さすがにこんだけ聞きゃあ覚えもする。そう答えれば、それにしちゃ時間かかったじゃねえかと目元を撓め笑った。
その目尻の皺に、ゾロは指を伸ばした。なぞってみる。まだ湿り気の残るゾロの皮膚と比べ、そこはさらりと乾いていた。触れてみたいと、ずっと思っていたこれに、こうしていつでも触れることが出来る。それをときどき、まだ夢のように思うことがある。
「なんだよ」
「これ、気に入ってんだ」
「皺をか」
「おう」
「へえ、年食うのも悪かねえな」
「おっさんだから好きになったわけじゃねえぞ」
「……わかってるよ、ばーか」
煙を深く吐いて、それからサンジはゾロの指に上から指を絡めた。そのままテーブルのほうへ導かれる。ちらと視線を出入り口のほうに流したのは、客が来ていないことを確かめたのだろう。重なった手はそのままに、サンジは煙草を吸い、ゾロはケーキを食べた。
雨が降っていてよかったと思った。雨の日には、客が少ない。
「そういえばお前さ」
「ん」
「ケーキ。はじめ食わなかったの、なんで?」
やっとマドレーヌを覚えたことから思い出したのだろうか、ひさしぶりにその問いをサンジは口にした。あのときと違って、いまなら答えられるが、いまでもうまく伝える自信はなかった。
口のなかのものを飲み下してから、ゾロはかちゃりとフォークを置いた。
「食わなかったんじゃねえ、食えなかったんだ」
「……食えなかった?」
「なんつうか、食ってみてえんだけど、あんたのケーキ見るとのどが詰まったみてえになってよ」
そう言ってサンジを見ると目があった。柔らかな青い目がゾロを見ている。昔と同じように、のど元が締めつけられるように痛むのを感じる。甘そうで、美味そうで、きっと、癖になりそうで。恐怖にも似た感覚に、足を踏み出すことに柄にも無く怯えていた。それはサンジも同じだったと、知ったのはごく最近のことだ。
そうか、とだけサンジは言って、それから煙草の火を消した。灰皿に押しつける、サンジの長い指に視線を移す。もう指輪のない薬指には、そこだけ他より白い線がいまだ残っている。もしかしたら、ゾロが生きてきたよりも長く、あの控えめに光を散らす金属はそこにあったはずだった。
すべてを知ることが、必ずしもよいことばかりではないのはゾロにもなんとなくわかる。けれどそれがサンジの大切な部分ならば、いつか、話を聞けたらいいと思っている。
「ゾロ」
呼ばれ顔を上げた。ゾロが見ていた場所に気がついていたのだろう、まだ湿った髪をくしゃくしゃと掻きまわした。物言いたげな顔で呼んでおきながら、サンジは何も言わない。なんだよ、とゾロが言うと、唇を開いて、一度閉じて、すうと不自然に横に目を逸らした。
「指輪な」
「おう」
「お前が卒業したら、新しいの買うから、」
待ってろ。
放るように言ってゾロの後ろ頭をぽんと叩く。それから、ゾロのほうを見ないままで立ちあがった。椅子ががたんと大きな音を立てて、呆気に取られていたゾロはようやく、我に返った。白い背中はそのまま、やけに早い歩調でガラスの向こう、自分の領域へと遠ざかっていく。
なあ、と後ろ姿に、ゾロは声をかけた。ぎくりと歩を止めたサンジの、天気のせいかいつもより控えめな色味の髪から、覗く両耳は見事に真っ赤だった。
顔が笑ってしまうのは、仕方がない。
「待てねえ、かも」







(12.04.09)



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サイトで長い話を連載して、ちゃんと終わらせるの無理だなーと身に沁みてるので、じゃあ短編連作みたいのだったらいけるんじゃないか、と思ってはじめたものです。気がつけば一年以上、だらだらと長いあいだお付き合い頂き本当にありがとうございました!無事着地できてよかった…
この二人の話はいくらでも書けそうな気がするんですけども、ひとまずはこれで終わりです。