手というのは素敵なものだ。 とりわけ愛し合ったそのあとの手というものは。 アイデス 窓からは、目が痛くなるような、白い光の筋が差し込んでいる。 サンジは軽く首をのばすみたいにして窓の外を眺めた。山の中腹にぽつりと建った、見晴らしのよいこの家からは、サンジが住んでいる麓の町を一望することができる。なにもかもが吹雪に降り込められたように白っぽく霞んで見えていた。陽のあたる場所はすべて。草木も、花も、土も、もちろん、空だって。 しばらくそうして、ぼんやりと外を眺めてから、サンジは、室内に目を戻した。サンジのすぐ横にはゾロがいる。全身からくったりと力が抜けている。まだうつぶせになったままのゾロのきれいな背中も、縞模様の立派な尻尾も、やっぱり、白く染まったように見えた。 日影になった部分だけが本来のゾロの色を残している。 サンジは麓の町ではかなり有名なコックだ。仕事の休みを利用してここに来る。ゾロの家に。サンジがここに来るのはたいてい金曜日で、だから、この白っぽい光景は見慣れたものだ。金曜日の太陽は白い。この世界では曜日によって太陽の色が変わるのだった。 ほんとうのことを言えば、毎日だって、サンジは、ゾロに会いたい。無理をすれば他の日にもゾロに会いに来ることはできるだろうとサンジは思う。それでも週にいちどだけにしているのは、その方が、ゾロが、サンジを欲しがるからだ。まるきり発情期のときみたいに、もうとてもがまんができない、というふうに、サンジを求めるから。 サンジはゾロを見たらどうしたって触らずにはいられない。それはお腹がすいたらごはんを食べたり、のどが渇いたら水を飲むのと同じように、しごく本能的で、まったく生理的なことなのだった。 ゾロは自慰をしないらしい。 虎というのは、そういういきものなのだろうか? よくわからない。 それを知るには、狐であるサンジには、虎といういきものに対する知識があまりに少なすぎる。 ゾロはサンジが知る唯一の虎だ。 たぶんこの世界で最後の。 美しく、獰猛で、孤独ないきもの。 「ゾロ」 サンジはやさしく、呼びかけてみる。呼びかけても答えはない。 とはいえ、もともとゾロは、サンジと、言葉を交わしはしない、交わすことができない。 虎と狐の言葉は違う。ゾロにサンジの言葉はわからないし、サンジにゾロの言葉はわからない。口腔や声帯の構造から違うのか、名前などの簡単な単語以外は、おたがい、真似て発音することさえ難しい。 ゾロの、うっすらと汗の浮いた輝く背中に、サンジは、指を滑らせる。指先になまぬるい汗が付着して、それを伸ばすように、まんなかの背骨にそってすうっと、下になぞっていく。尻尾の付け根あたりをくるりとすると、ゾロが、ぴくん、と身じろいだ。くるり、ぴくん、を何度か、繰り返す。 そのまま後ろの穴にその指をいれる。人差し指だ。ゆっくりと、深く。ゾロが低く呻いた。すっかりほころんだその穴の周りは、サンジとゾロの、いろんな液でべとべとに汚れている。 中指もいれ、左右に、そっと、でも力を入れて開く。奥からはさきほどサンジがあきれるくらいたくさん出した精液がこぷりこぷりとあふれでて――ほんとうにあきれるくらいだ――ゾロは無意識なのか、くんと、誘う仕草で丸い尻を持ちあげた。尻尾がふるりと震えている。 出ていくそれを惜しむように、きゅうう、とゾロのなかは、サンジの指を締めつける。 指を吸いあげるいやらしい粘膜はマシュマロみたいにふんわりとやわらかい。 「平気だよ、ゾロ」 耳たぶに軽く歯を立てながら、低く、サンジは囁く。わからないとわかっていても、サンジはゾロの耳に自分の声を聞かせてやる。 「いくらでもだしてあげる」 穴に入れた二本の指をこきざみに動かしながらこりこりとした耳の軟骨をしゃぶるようにする。動かすたびに、泡立った液体が流れ出て、指のあいだをとろりと伝っていく。 さきほど気を失うまでサンジが抱きつくした、どこもかしこも感じやすいゾロは、ううー、ううー、と赤ちゃんみたいに泣いて、よがっている。すごくかわいらしい。 耳の形は腹のなかの胎児の形だと、どこかで誰かに聞いたことを、ふと、サンジは思いだした。 こんなにゾロが欲しいのはなぜなんだろう? もしかしたら、ずっとずっと昔、ゾロを、失ったことがあるのかもしれない。 手に入れたくて、たまらなくって、だけどゾロは、星のように遠かったのかもしれない。 あるいはずっとずっと未来に。 * そのとき、サンジはまだ幼いこどもだった。 父親はとうに死んで、母親と二人、山の中腹にあるちいさな家で静かに暮らしていた。 もう何ヶ月も雨が降っていなくて、地面はぱりぱりに乾いていて、ありとあらゆる生き物が飢えて死んでいった。体力が弱ったところに、おかしな流行り病まで広がり、町を覆う死の影は、日に日にその密度を増していくばかりだった。 町の大人たちはこの異常事態を虎たちの呪いではないかと不安げな顔で口にしていた。 虎たちはあまりに強く、あまりに美しかった。異端の者とみなされた彼らは、さまざまな卑怯な手口で次々に殺されていたのだった。 殺戮の昏い興奮は狂気を生み、そして連鎖する。残された虎はこの辺りではすでにごくわずかになっていた。虎たちは山の奥に追い込まれ、飢えは町よりもずっとひどく、このままやがては死に絶えてしまうだろうと言われていた。だがふしぎと、流行り病が虎たちを襲うことはなく、それがよけいに、皆の不安をかきたてているようだった。 生き残った虎のなかにはゾロという名の若い雄の虎がいて、彼はとりわけ強く、どうやっても捕まえることができないと噂されていた。 サンジは虎を見たことがなかった。 サンジよりも10ばかり年上だという、その若い虎のことがサンジは気になった。 「会ってみたいな」 なにげなくサンジが言うと、祖父であるゼフは言った。 「そいつに会うときはお前が死ぬときだ」 ゼフの予言はある意味でははずれある意味では当たった。 ゾロにはじめて会ったとき、死んだのはサンジではなくサンジの母親だった。 だけど、ゾロに会ったとき、それまでのサンジも、死んだ。 そのすこし前からサンジの母親は流行り病に侵されていた。病の進行はゆるやかで、だが確実に死に至るたぐいのものだった。彼女の苦しみは深かった。一歩ずつ近づいてくる死を目を見開いて見つめることしかできなかった。恐怖は長く続き、希望は砂粒ほどもなかった。 サンジは母親から隔離され、麓の町にいるゼフのところで暮らし、日に何度か、彼女にわずかな食事を運んだ。母親はすでに自力で起き上がれるような状態ではなく、食事も流動物をほんのすこし、むせながら飲みこむのがやっとだった。気道に誤嚥するせいで、気管支にはいつも粘った痰がたまり、呼吸のたびにぜろぜろと耳障りな笛の音を立てた。 金曜日だった。 すべてが白っぽかったからたぶん間違いはないだろう。 家の扉に近づいたサンジは、それがわずかに開いていることに気がついた。 サンジは皿を載せたトレイを音を立てないよう気をつけながら下に置いた。そっと、隙間から、なかを覗いてみる。 視覚よりもさきに働いたのは嗅覚だった。まず気がついたのは異臭だ。鼻をつくような、むっとするような、だが確かに、どこかで嗅いだことがある匂い。 カーテンを閉め切っているせいでなかは暗く、視界の中央でなにかがうごめいているシルエットだけが見えた。サンジは息を殺して、目が慣れるのを待った。床にできた黒っぽい水溜りが、だんだんと大きくなって、サンジのいる玄関の方へと流れてきた。はじめ黒っぽかったその流れはサンジに近づくにつれ赤味を増していった。 血の匂いだ。 そう気がつくのと、うごめいている何かの正体に気がついたのは、ほとんど同時だった。 気がついた途端それまで影のかたまりに見えていたものがきちんとした輪郭をあらわしはじめた。 サンジの母親に覆いかぶさっていたのは虎だった。 ゾロだ。 サンジはなぜだかすぐにそう思った。 サンジは助けを呼ぶことも、声をあげることもなく、ただじっと立ち尽くしたまま、ゾロを見つめていた。無心に、貪るように、身体中を血まみれにして飢えをしのぐゾロを見つめていた。その姿を、サンジは、きれいだな、と思った。汚してはいけない神聖な儀式を覗いているような気分だった。 どのくらいそうしていたのかわからない。 やがて、彼女は肉になり、そののち、骨になった。 ゾロはまるでそれが礼儀だとでもいうように、彼女だったものを食べつくし、流れた血液まで余すことなく舐め取った。 すべてが終わるとゾロはゆっくりと立ちあがり、サンジがいる扉のほうへと近づいてきた。部屋の中央には光より白い骨が、忘れられた太古の化石のようにひっそりと横たわっていた。 サンジに気がつくと、ゾロは、すこし驚いた顔をした。サンジは目の前に来た、血に汚れたゾロの顔をぼんやりと見あげていた。ゾロの瞳は濁りのない金色で、やっぱり、とてもきれいだとサンジは思った。 その瞬間、ゾロに出会う前のサンジは死んだ。 理由も根拠もわからない。 ただ、サンジには、それが、わかった。 ゾロを知らない自分になどまったくなんの意味もない。 ゾロはサンジの足元を見た。置かれている食べ物を見て、このちいさな狐が、いま自分が食べつくした狐のこどもだと気がついたのだろう、眉根をわずかに寄せ、瞳の色を暗く翳らせた。 ゾロの唇が動いて音を紡いだ。謝罪の言葉だったのかもしれない。はじめて聞く、低めの掠れた音の塊は、サンジの身体に心地よく沁みわたりサンジをすみずみまで潤した。 「……ちがうんだ」 サンジが声を出すと、まだ皿を見ていたゾロがぴくりと身じろいで、サンジのほうへ視線を戻した。ゾロの瞳がサンジを映していた。それだけで、サンジは肺に穴が空いたような、ひどい息苦しさを感じた。 「母さんはもう死ぬとこだったんだ。とても苦しんでた」 だからそんな顔をしなくていいんだ。 サンジは言った。本心だった。 ゾロはしばらく、すこし不思議そうな顔でじっとサンジを見つめたあと、右腕をすこしあげた。それをサンジの方へ伸ばそうとして、ためらうように空で動きをとめ、けっきょくは、ふたたび腕を下ろした。そしてそのまま、サンジに背を向け、ゾロは山のほうへと去って行った。 サンジは身じろぎもせずにその後ろ姿を見えなくなるまでずっと目で追った。 ゾロの姿が見えなくなると、サンジは部屋に入り、母親だった骨を大切に拾った。ゾロがさきほどまで唇を這わせていたそれを、ひとしきり指先で撫で、さすった。 ゾロの血肉となれる彼女をうらやましいと思った。 その日の夜、数ヶ月ぶりに、雨が降った。 埋葬の前にサンジはゼフの目を盗んでちいさな骨をひとつポケットにしまった。首のいちばん上の骨、丸い穴があいていて、なんだかおおきな指輪みたいに見えるやつだ。 ゾロはとうとう最後の虎になり、仲間を探すためか、それとも餌場を変えたのか、山から姿を消した。 サンジはゾロが残した頸椎に紐を通して肌身離さず持ち歩くようになった。 そうしていると、離れていても、ゾロと繋がっているような気持ちになることができた。 またたくまに月日は流れた。 あれ以来、干ばつや流行り病が町を襲うことはなく、サンジはゼフのもとでレストランを手伝いながら、毎日を忙しく暮らしていた。 ゾロのことは噂にものぼらなくなっていた。 きっとどこかでのたれ死んでいるに違いないとみなは思っているようだった。 けれどサンジには、ゾロがどこかでたしかに生きていることを、ありありと感じとることができた。ゾロが死ねば、きっと自分も、ほどなくして死んでしまうんじゃないかとサンジは思った。それはとてもありうることに思えた。なぜなら、この命は、ゾロに出会って生まれたものだからだ。 サンジは正常な雄がかならずそうであるようにいつしか発情期を迎えた。 女の子はとてもかわいいし、セックスはもちろん気持ちがいい。けれど、彼女たちと寝たあと、サンジはかならず、スプーンで中身をくりぬいたかぼちゃみたいに自分の中身が空っぽになった気がするのだった。 眠る前にはかならず、ベッドのなかで、紐をつけたあの骨を撫でさすった。 石灰の味のするその突起をくちに含んだり、つるりとした感触のそれに舌を這わせたりしながら自慰をすることもあった。ゾロの舌と唇の感触を想像しながらするそれは、とても、気持ちがよかった。女の子と抱き合うよりもずっと。 骨はすこしずつ黄色く変色してきていたけれど、ゾロの記憶は鮮やかなまま、すこしも色褪せることはなかった。 「お母さんの形見なの?」 あるときひとりの女の子が訊いた。 いつもサンジは、それを人目に触れないよう気をつけていたのだけれど、そのときは、服を着るときに何かの拍子で床に落としてしまったのだ。 ころりと転がった骨から伸びる黒い紐に、サンジは急いで指を伸ばしそれを拾いあげた。いつかのようにポケットにしまう。 「大切なのね」 彼女が微笑んだ。 「とてもね」 サンジも微笑んで答えた。 触れるどころか、誰の目にさえ晒したくないくらいだ。 (09.07.23) →後編 冒頭文と題、曜日によって太陽の色が変わる設定はリチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」より拝借。 続きます。 |