いろはにこんぺいとう



2.トランクス



慎重に、慎重に、階段を下りる。
音をたてないよう、ゾロは全神経を足裏に集中させた。いまこそ剣道でつちかった平常心をぞんぶんに発揮すべきときだ。右手にはぐるぐるに丸めたタオル。誰にも見つかることなく中のものを処理すること。それが、いまのゾロの、最優先事項だった。
無事に階段をおりきり片足のつまさきを廊下につける。そのとたん、みしり、と床が鳴り、ゾロは思わずブツを落としそうになった。とっさにパジャマ代わりのTシャツのなかに隠し、そのまま気配を殺してしばらく様子をうかがう。
父親と母親はわりと鈍いので大丈夫だろう。
問題は、姉のくいなだ。
くいなは鋭い。おまけに、ゾロが隠しておきたいことほどなぜだか敏感に察知してしまう。こてんぱんにやられてばかりだったゾロが、さいきん剣の腕をめきめきとあげ、ときには引き分けることさえ出てきたのがよほど気に入らないらしく、なにかにつけ弱みを探しからかってやろうとかまえている。ついこのあいだも、あんたとサンジくんってなんかいよーうに仲いいわよね、と唐突に言われ、ゾロは飲んでいたコーラを盛大に噴き出すはめになったのだった。
廊下の奥、リビングから、今日の晴天を約束するお天気おねえさんの明るい声。キッチンからはかちゃかちゃと食器が触れあうような音が聞こえている。誰かがやって来る気配はなく、ゾロはほっと胸を撫でおろした。
そのままものすごいはやさで洗面所へ駆け込みドアを閉める。残念ながら鍵はついていない。いつもならまだくいなは寝ているはずだ。だけどそんなに余裕はない。時間との勝負だった。
まずは洗濯機にタオルを投げ込み、横に置いてある液体洗剤を手に取った。水をじゃあじゃあと勢いよくだし、べっとりと汚れた下着にふりかける。白いどろっとしたものが排水溝へと吸いこまれていくのは、瞼をはんぶん閉じて、なるべく見ないようにした。
切ったばかりのネギみたいな青臭い匂いがぷんと鼻についた。水をまいたばかりの夏の芝の匂いにも似ている。

さいあくだ。
ほんとうにほんとうにさいあくだ。
それもこれもなにもかもサンジがあんなことをするからだ許せねえ。

洗剤をてきとうにふりかける。
すべての責任をサンジに転嫁し、恨みをはらすようにごしごしと力任せにトランクスを洗った。やぶけそうな勢いで。あんまり夢中になっていたので、ドアがするすると開いたのにも、ゾロは気がつかなかったほどだ。
「なにしてんの?」
唐突にくいなの声がすぐ近くでした。ゾロは固まった。背後から、くいなはゾロの手元をじっと眺めている。しばらくそうやって凝視したあと、へえ、と感心したようにつぶやいた。
顔中がかあっと熱くなり、真っ赤に染まっていくのを、ゾロははっきりと自覚した。泡だらけのトランクスを握り締めた手がぶるぶるとこきざみに震える。
やっぱりさいあくだ。
俺はあのえろまゆげをけして許さねえ。
「今日はお赤飯にしてって、母さんに言わなきゃね、ゾロ?」
 
サンジが大人のキスとやらをしかけてきた翌朝。
ゾロは、はじめて、夢精をした。







そんなことがあって、サンジからの電話には無視を決め込んでいる。
ゾロは携帯を持っていない。自宅にかかってきた電話には母親かくいなが出ることが多い。もしサンジからかかってきたら、取り次がないようにと二人には言ってあった。でたくない、と言ってくれ、と。あんなに仲良しなのにどうしてと訊かれたので、喧嘩したから、とだけ説明した。ほんとはゾロが一方的に拒絶しているだけなのだけれど。
電話に出ないなんて、男らしいやりかたではないという自覚はある。なかばやつあたりなのもわかっている。だけどどうしても今は話したくなかった。というよりあの声を聞きたくないのだ。
ついさいきん、声変わりをして、おとなみたいに低くなったあの声を。
ゾロ、と名を呼ぶサンジの声をまた思い出しそうになり、その拍子にあの夢を思い出しそうになって、両手でぱんぱんと頬をたたきゾロは気合を入れる。修行が足りねえ。
連休が明けてからはじめての日曜日。午前中の、まだすずしい時間を利用して、ゾロはランニングをすることにした。邪念があるときはからだを動かすのが一番だよ。にこにこと笑う師匠の教えをゾロは忠実に守っている。
自宅を出発点とする、ゾロが勝手に決めたランニングコースはいくつかあって、今日はそのなかでも勾配が多くてきついコースをあえて選んだ。
すでに太陽はつよい光を放っていて、ゾロはまぶしさに目を細めながら走った。なだらかな坂道をあがりきり、神社の大楠の下を通りかかる。木陰に入るとひんやり心地よく、日向とはずいぶん温度差があるようだった。道の端や家々の庭先の緑がくっきりと濃い。まだ夏には早いはずだけれど、すでに春の気配は遠のいていた。
息があがってくる。汗がだくだくと流れはじめた。首からストラップをつけてぶらさげたペットボトルの水をゾロはすこしずつくちに含む。こうしてひたすら単調に手足を動かしていると、もやもやとした思いも、吐く息と一緒にすうっと出て行くような気がした。

去年の夏以来、サンジは変わった。
前は一緒にいると、ただとにかく楽しくて、時間を忘れて遊び回ったものだ。だけどさいきんのサンジはなんだかおかしい。
変にかっこうつけているし、暇さえあれば二人きりになろうとし、なったらなったでやたらべたべたとしたがる。大人っぽい表情で見つめられて、すきだよゾロ、なんて甘ったるく耳元で言われると、どうにも、ゾロは落ち着かない。
もちろんゾロだってサンジのことはすきだ。じゃなきゃ男とキスなんかするわけがない。だけど、そういうのは簡単にくちに出すことじゃないとゾロは思っているし、ゾロがしたいことと、サンジがしたいことは、すこしずれているように思える。
めったに会えないのだ。ゾロはただ、サンジと楽しく過ごしたい。前みたいにばかみたいな話で笑い転げたりしたい。なのに、あのひよこみたいな頭のなかは、たぶんえろいことばっかりがまゆげと同じようにぐるぐると渦まいている。ゾロもそういうことに興味がないわけじゃないけれど、そればっかりみたいなサンジを見ていると、なんだか無性にいらいらするのだ。
そしてなによりも。そのサンジと、思い出したくもないようないやらしいことをする夢を見て、下着を汚した自分自身に、ゾロはひどく嫌気がさしていた。
サンジのすけべ菌がうつったのに違いない。あいつのせいだ。
せっかく発散したもやもやがまた腹の底からわきあがってくる。
「ゾーローーーー!」
背後から聞きなれた声がしたかと思うと、どん、と背中に衝撃が走った。
後ろから飛びついたルフィが、おぶさるかたちでゾロの首に腕を、腰に足を、ぐるりと巻きつける。
「あぶねえだろ!」
ゾロが言うと、こんくらいゾロだいじょうぶじゃん、とルフィは悪びれずに笑う。
ゾロんち行こうと思ってたらちょうど走ってるとこ見えたからさー、と続ける。そういえば、いま走っている場所はルフィの家からさほど遠くないことに、ゾロは言われて気がついた。
ルフィも幼なじみだ。ゾロを振り回すことにかけてはサンジよりさらにうわてで、ひとの話をまったく聞かず、嵐のように自分のペースに引きこんでしまう。でもそれでいて憎めない、不思議な魅力を持っている男だった。
そういえば去年の夏までは、サンジと遊ぶときにルフィが混じることも多かったことをゾロは思い出す。
「なあなあゾロ、食いにいこう!」
「なにをだよ」
そのままペースを落として走り続けながらゾロは言う。
「いちご!崖んとこ、もう赤くなってた!」
あああれか、とゾロは納得した。ここからほど近い場所だ。この時期になると、まっ赤な野いちごがたくさん実るところがある。洗ってそのまま食べてもジャムにしてもおいしく、ルフィとゾロとで採りつくしてしまうのが毎年の恒例だった。ルフィの主食は肉なのだが、おいしいものにはとりあえず目がない。
「よさげじいさんのとこで、またジャムにしてもらおうぜ」
「あー……」
それも毎年のことだ。レシピをもらって同じ作り方で母親が作っても、ぜったいにゼフと同じ味にはならない。ゾロがそう言うと、ばかやろう俺を誰だと思ってやがる、とゼフはひげのしっぽを指で触りながら偉そうにふんぞりかえる。
 半分はすぐ食ってさー。うめえぞー。思い出したのだろう、背後から、じゅる、とよだれをすする音がする。
いまゼフに会ったら、サンジのことをまた思い出しそうで気は進まない。
けれどなにかを言い出したルフィに、ゾロの意見など通らないことはわかっていた。提案した時点で、それは決定事項なのだ。
「よし、決まり!」
おんぶされたまま、ゾロの返事など訊きもせずにルフィが言った。



                                             (09.05.16)



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サンジをおかずに精通を迎え、汚れたパンツを嫌々洗うゾロ萌え。
マニアックですみません…。
続きます。