いろはにこんぺいとう



1.べろちゅー



手をにぎって、見つめあって、そっと、唇を重ねる。
そこまでならなんどだって。
「……ゾロ」
ちいさな声で名前を呼んだ。
手をつないだままかるくなんども、音を立ててついばむようにしていると、きゅっと閉じていた唇がだんだん柔らかくほどけてきて、そこからふっふっと熱くて甘い匂いのする息がこぼれはじめる。綿菓子みたいな匂いだ。ぼうっとかすんだ頭でサンジは思う。
ゾロの、ふせた長いまつげが細かく震えている。それを見ると、いつだって、押しつぶされたみたいに胸が痛くなった。
まだおとなじゃあないかもしれないけれど、いつまでも、何も知らない無邪気なこどもではいられない。一緒に魚や虫を追いかけていたあのころ、わからなかったこの気持ちが、なんなのかくらい、サンジはもう知っている。
ゾロ。もういちど、ささやいた。手をゾロの肩に滑らせて顔をのぞきこむ。ゾロの瞳はうるんで膜をはり、頬はほんのりと赤く色づき、唇は誘うようにわずかゆるんでいる。
よし、とこころの中で、ガッツポーズをひとつ。
唇を近づけ、隙間からひかえめに舌をさしこんだ。ぴちゃ、とやらしい音がして、ぬる、と粘膜と粘膜とがこすれあい、そこから電気が走りぬける。
ゾロの肩がびくんと大きく跳ねた。
「――っ、や、めろっ!」
強烈な右ストレートが、サンジの無防備な顔面にクリーンヒットした。







それがこの前の連休の話だ。
はああー、と深く、サンジはため息をつく。長い休み明けはただでさえだるいのに、精神的なダメージまでがやや猫背ぎみの背中にのしかかり、サンジの生気を、ヴィダーインゼリーみたいにちゅるちゅると吸いあげている。
頬はごまかしようがないくらい腫れていた。サンジはなにげなくそこに手をやる。さすがにもう痛みは消えている。こうるさい大人たちや、好奇心旺盛な友人たちに追及されるたび、ちょっとね、とサンジはニヒルな薄笑いを浮かべてごまかした。すきなように捉えてくれたまえ君たち。そういう感じで。男にディープキスをかまして殴られただなんて、言えるはずはもちろんない。
昼休みだった。入学式からひと月近く経って、クラスのムードはずいぶん打ち解けたものにかわった。数人ずつの、いわゆる仲良しグループができはじめている。みな思い思いに机をくっつけ、楽しそうに弁当を食べていた。
窓際の席、サンジもお手製弁当を広げてはみたものの、まったくといっていいほど食欲がない。空は濡れねずみのような色の雲がどんよりと垂れ込め、教室はむわりと鼻につく湿気で満ち満ちている。
昼からは雨なのかな。そう思えば、ますます、げんなりした。

連休中はおどろくくらい天気がよかった。山の爽やかな風は夏のはじまりの匂いがした。昼間は半袖でちょうどよいくらいで、日光でほてった手足を、小川の澄んだ冷たい水がさらさらとくすぐるように撫でていった。
ひさしぶりに会ったゾロは、あたりまえだけど、やっぱり太陽みたいに輝いていて、目がつぶれるかと思ったくらいだった。ゾロと過ごした夢のような時間にサンジは思いを馳せる。
昼のあいだはずっと一緒だった。ひとがいない場所では手をつないで歩いた。キスだってそりゃあ何回も。
なのに、最後の最後でちょっとえろ心を出したばっかりに、最悪の形で別れることになってしまった。これからしばらく中間テストやなんかで忙しい。つぎに会えるのはたぶん夏休み。あと二ヶ月以上ある。
サンジはまた深く息をつく。ちゅるり。生気もまた抜けていく。
「そんでな、カヤが言うにはよ、……おい、てめえ人の話聞けよ!」
相づちも打たずぼんやりしている、サンジの肩を手の甲ではたき、ウソップがキレのよいつっこみを入れた。それにサンジは物憂げな視線を送る。
「アー……」
「なんだよ、その覇気のない返事はよ」
いつもなら鋭く切り返してくるはずのサンジの、常とは明らかに違う様子に、ウソップはすこし動揺した。ウソップとサンジは小学生からのつきあいだ。鼻は長いしほらふきだが気のいいやつで、サンジとは妙にうまが合う。
サンジと向かい合わせに机をくっつけた、彼の昼ごはんはサンドイッチとコーヒー牛乳。ウソップの母親はからだが弱く、昼はコンビニのパン食やおにぎりが多い。だけどそれにウソップが愚痴をこぼしたことはいちどもない。ウソップのそういうところを、サンジはけっこう気に入っている。単調な食生活を見かねたサンジが、二人ぶん弁当を作って持ってきてやることもあるのだが、今日はそんな精神的余裕、これっぽっちもなかった。
「……他人ののろけ話なんか聞きたくない」
とりわけ今は。
「の、のろけって」
ウソップの顔がぱっと赤くなる。小学生のころ両想いだった女の子が家の事情で引っ越してしまい、この春からは彼もサンジと同じ中距離恋愛中だ。二人とも相手は電車で一時間くらいの場所なので、遠距離、というには微妙だから、そういうふうに呼んでいる。
でも大人ならまだしも、お金も時間もままならないサンジたちにとって、電車で一時間はものすごい遠さだ。気持ち的には日本とブラジルくらいの遠さなのだ。
「おめえだって、つい最近までのろけまくってたじゃねえか」
ウソップがあきれたように言う。
「そんな時代もありましたね……」
サンジはうつろに言い、自分の言葉に傷ついたように、うう、と声をもらし顔をおおった。ゾロの前ではかっこうつけているけれどサンジは感情の起伏がかなり激しい。慣れっこなウソップはやれやれと肩をすくめる。
悩みを聞いてほしい時の、これはサンジのサインなのだ。
「わかった。俺の話はもうやめ」
「ウソップ!」
お前はほんといいやつだよなあー。しみじみと言うサンジの目にはほんとうに涙が浮かんでいる。
「はいはい、で、どうしたよ?」
恋愛の達人ウソップさまに言ってみ?笑いながらサンジの肩を元気づけるようにつよくたたいた。ともだちっていいもんだなあ、と、いつもはゾロ最優先のサンジも、このときばかりは男の友情のありがたみを噛みしめる。
ゾロが男だということはさすがに伏せてあった。常日頃かわいい女子に目がないサンジである。ウソップはゾロのことを、ちょっと変わった名前の女だと思っているようだ。
すでに何度かしたことがある、つきあうきっかけになった夏休みの日の話を、サンジは身ぶり手ぶりで熱っぽく語りはじめた。ドラマチックな脚色を少々くわえて。
「それはもういいから本題にはいれ」
ウソップはすかさず冷ややかに言った。
「なんだよ。こっからがいいとこなのに」
仕方なく、かいつまんでこの前の出来事を話す。
グーで殴られたくだりを、勇ましい彼女だなおい、とウソップが感心し、サンジは、ちょっと勝ち気な子でさ、そこがまたいいんだけど、とそのときばかりは相好をくずした。
「……で、それ以来、電話にも出てくれない、と」
サンジはうなずく。
「なるほど。それで?」
「き、きらわれちゃったんじゃないかなって……」
うう、とサンジはふたたび声を漏らした。また涙目になる。
うーん、とウソップは腕を組んでうなる。目をつむり、何度か首を前後左右に動かしてから、うん、よくわからねえ!と断言した。だろー?サンジが情けない声で応じる。
もともとゾロはあまり自分のことを話すタイプではない。こうなってからは、二人きりだと妙に緊張して、サンジは前よりずっと饒舌になり、ゾロはますます無口になった。正直、なにかんがえてんだろ、と思うことは、つきあう前よりぐんと増えている。
それにそもそもつきあうってなんなんだよ、ということになると、考えているうちにいつもサンジはわけがわからなくなってしまう。夜寝る前、ベッドのなかで、宇宙の果てってどんなだよ、と考えるときみたいに。
「だってよ、普通にキスはしてんだろ?」
キス、のところで、ウソップは声を落としてちょっと恥ずかしそうに言った。
「……うん」
「嫌がられたことは?」
「これまではなかった、と思う」
「でもべろちゅーはNG」
「そうみたい」
うーん、と二人して首をひねる。しょせんつい最近までランドセルをからってた中1男子だ。恋愛に関して、とうぜん経験値はひくい。
「驚いただけ、とか」
「どうかなあ」
だって電話にも出てくれない。それに、大人のキスがしたいとは最初から言ってあった。そのときのゾロの答えは、サンジ的に解釈するなら、あなたのすきにして、だったはず。
でもさすがにすぐ実行にうつすのはどうかと思ったから、ちゃんと時間をおいて、タイミングもばっちりはかったつもりだったのだ。
「じゃあやっぱりきらわれたんじゃねえの」
あっさりと朗らかにウソップが結論づける。いまいましい鼻をサンジはわっしと掴んだ。うおお、とウソップが悲鳴をあげる。
「そんなはずない!俺たちはすごくすきあって……」
すきあって。
なにかが、ひっかかった。
「?なんだよ」
鼻を握られたままのウソップが訊く。言いかけて、ネジが切れたように止まってしまったサンジの顔を、心配そうに見つめた。おーい、だいじょぶかー。目の前でてのひらをひらひらさせる。けれどサンジはそれどころではなかった。
どうして、こんな重大な事実に、いままで気がつかなかったんだろう。

ゾロのくちから、すきだという言葉を、サンジは聞いたことがなかった。



                                            (09.05.13)


→2



ウソップとサンジの組み合わせ、すきです。