6.クソ親父、馬鹿息子 蒸し暑い夜だった。 月も星も、濃い雲に隠されて、いつもより闇が深いように感じた。 これといって、予感めいたものがあったわけではない。8月は帰省客などでレストランも忙しいだろうから、少し落ちついてからと、そう考えていただけだ。 9月に入って最初の、ゾロの夜間当直日だった。ゾロに弁当を差し入れ、寮に戻って一人で夕食を取ったあと、サンジは、意を決してゼフのもとを訪れた。 道端の電柱にもたれかかり、外から、ゼフの部屋をしばらく眺める。灯りは、まだついていた。こつん、こつんと音がして、不思議に思ったサンジは頭上を見あげた。目を凝らすと、ぽつりと白く光る街灯に、いろいろな虫が群がっていて、それらが、電球に体当たりをしている音のようだ。 虫嫌いのサンジは、それを見て不快げに眉を顰めた。車の通りが少なくなると、この辺りは本当に静かで、そんな小さな音さえもよく耳に届いてくる。 汗で貼りついたシャツを指先で剥がして、煙草を一本だけ、時間をかけて吸ってから、サンジは、店の裏手にある二階へと続く階段をのぼった。 チャイムを押すかしばらくためらって、結局は、押さずにポケットから鍵を取りだした。勝手に入って来るものがいれば、それがサンジだと、ゼフにはわかるはずだと思ったのだ。 わざと派手な音を立てて、玄関に入る。すぐさま怒鳴り声のひとつでも浴びるかと思ったのに、家のなかはしん、と静まり返ったままだった。 ひどく嫌な感覚が、サンジの腹の底をひやりと冷やした。 「――おい、ジジイ! 」 大声をあげても反応がない。サンジは急いで靴を脱ぎ、ゼフの部屋へと向かった。 電気がこうこうとついたままの室内に、けれど、ゼフの姿は見あたらなかった。さきほどまでとは違う汗が、こめかみを伝っていく。 背後で、ごく小さな物音が聞こえたような気がして、慌てて廊下に出た。よく見れば、浴室へ続くスライド式のドアが少しだけ開いている。そのなかからも、光が漏れているのがわかった。 サンジはもつれるようにしてそこへ向かった。勢いよくドアを開けると、脱衣所にはゼフが、服を着たまま仰向けに倒れていた。 「ジジイ! 」 サンジの叫び声に、ゼフは、ぴくりと右手だけを動かした。 救急車は10分も経たずに到着した。待つあいだに、ゾロにだけは連絡を取った。倒れていた、意識がないと言うと、頭を打ってるかもしれねえから動かすな、と指示を受ける。 ここにはエレベーターがないから、大きな体を救急隊員が数人がかりで抱え、手早く、だが慎重に階段から下ろしていった。そのまま、ストレッチャーに乗せられる。サンジもゼフと一緒に救急車に乗り込んだ。足を畳んだストレッチャーを、車内にしっかりと固定をすると、すぐにサイレンを鳴らして救急車は走りだした。 サンジはゼフの右手を握っていた。意識は相変わらずないが、強く握ると、かすかに握り返してくる。かさついてごつごつとした、料理人の手。こうして握ったことなど遠い記憶にすらないのに、サンジはたしかにこの感触を知っていて、色を失っているゼフの横顔が、ぼうっと滲んで見えてくる。息をついて頭を振った。しっかりしろ、いまは泣いてるときじゃねえ。自分に、必死で言い聞かせる。 左手はだらりと垂れ下がって、ストレッチャーからはみ出していた。足も、右はときどき動かすが、左はぴくりともしない。病院までのたった数分の道のりが、数時間にも感じられるようだった。 病院に到着し、ストレッチャーが下ろされると、サンジもその後ろに続いた。救急部のスタッフが搬入口に揃っている。看護師が数名と、チョッパー、ウソップ、それからゾロの姿が見えた。 ゾロがスタッフたちに指示を出して、そのまま、救急処置室、と記された部屋へと向かった。扉の向こうに、意識のないままのゼフが消えていく。もし、このまま会えなかったら。叫びだしたくなるほどの不安が、足元からじわりと這いあがってくる。 怖い、と思った。昨日までいた人間が、いるのがあたりまえだと思っていた人間が、唐突に、いなくなるということ。はじめて死というものを、こんなに身近に感じた。 ゾロは毎日、こんなものと戦っているのだ。 「サンジ」 両肩をがっしりと掴まれ、サンジははっとした。目の前に、そのゾロが立っていた。 「お前は、ここでしばらく待て。悪ィがたとえ家族でも、処置中は入れねえんだ。経過は俺が説明しにくる。状態から見てたぶん、脳出血か梗塞の可能性が高いが、まずは頭の画像検査をしてからだ」 あとは俺たちに任せろ、とゾロが言う。サンジは、黙ったままうなずいた。そうすることの他に、いまの自分に出来ることはないだろう。 サンジの了承を見届けてから、ゾロが、処置室へと戻っていく。頑丈そうな金属製の扉が、不釣り合いなほど静かに閉まった。 しばらくサンジは、そのまま、動けなかった。 どれくらい時間が経ったのかもわからなかった。 待っているあいだに、まるで頭から水を浴びでもしたかのように、サンジは全身にぐっしょりと汗をかいていた。 扉が開いた気配がして、顔をあげる。ゾロの足音が近づいてきて、サンジはのろのろと立ちあがった。 ゾロが、サンジの前で立ち止まる。ぐっと握りしめた、サンジのこぶしは、不安と緊張で小刻みに震えていた。 「診断は、脳梗塞だ。もう少し状態が落ちついてから、フィルムを診察室で見せる。本人が知ってたかはわからねえが、高血圧と糖尿病を持ってるみてえだ。脳の血管が、動脈硬化起こしてたんだろうな。おそらくこの暑さで脱水も加わって、詰まっちまったんだろう。だがサイズも小せえし、見つけたのが早かったのがなによりだった」 ゾロはサンジの目を見て、ゆっくりと、ひとつひとつの言葉を区切るように説明した。 「……じゃあ、」 「後遺症についてはまだはっきりとは言えねえが、命に別条はねえよ。意識も、脳の腫れが収まったら戻るはずだ」 よかったな、と、ゾロが医者の顔を崩して笑う。その顔を見た途端、張りつめていた気がゆるんでしまった。鼻につんと来るものがあって、サンジは、ゾロのほうへ腕を伸ばした。 その肩に、顔をぐいぐいと押しつける。病院の匂いのするゾロの白衣に、サンジの涙が沁み込んでいく。ゾロは片手を、サンジの首の後ろに回した。 「泣いてんのか」 「……泣いて、ねえよ。あんなクソジジイのために流す涙なんざ、持ち合わせちゃいねえ」 こりゃ汗だ。いつかと同じように、強がりを言ったサンジに、そうかよ、とゾロは、やはり笑った。 しばらくそのままでいた。廊下はとても静かで、扉一枚隔てただけの、処置室からの音は何も聞こえてこない。 いったいどこから出るんだろうと思うくらい、いちど溢れた涙はなかなか止まらなかった。うなじにへばりついた、サンジの髪を撫でながら、ゾロはもう片方の手でサンジの頭を強く抱きこんだ。 「あのとき、……くいなのとき、俺は間に合わなかった。だがよ、」 お前は、間に合ったんだ。 ゾロが言う。サンジはその肩口に顔を押しつけたまま、両手で、ゾロをしっかりと抱きしめた。 そして、子供の頃のように、声を出してしゃくりあげた。 * 病室に入ると、ゼフは目を開けていた。ベッドに寝そべったまま、ぎこちなく顔だけを動かして、ゼフが、ゾロのいる方向を見る。 目つきはまだぼんやりとしているが、ゾロの姿を認め、それからゆっくりと、室内に視線をぐるりとめぐらせた。自分の腰のあたりで、いちど目を止める。そこにはサンジが、椅子に座ったまま、つっぷした状態で眠っていた。 ゼフが運ばれてきてから、二度めの朝だった。せめて意識が戻るまではと思ったのだろう、あの夜から、サンジはここに泊りこんでいた。 脳浮腫の経過がよく、そろそろ意識が戻るかもしれない。そう主治医から聞いていたので、朝の申し送りの前に、ゾロは、二人の様子を見にやってきたのだった。 「目、覚めたんだな」 「――ああ。ついさっきだ」 言って、ゼフはごほん、と咳払いをした。ひさしぶりに声を出すためだろう、少し嗄れている。部屋が乾燥しているせいもあるのかもしれなかった。 ナースステーションにほど近い個室だった。多忙な看護師たちの、せわしない足音が聞こえている。半端に閉じられたブラインドから、朝の光がまっすぐに差し込んで、軽く上下するサンジの背中の、一部分だけを違う色に切り取っていた。 よほど疲れているのか、サンジは、二人の話し声にも眠ったままだった。 「あんたは、医者か? 」 ゾロの白衣を、じっと見ながらゼフは尋ねる。ああ、とゾロはうなずきを返した。 「そうだが、主治医じゃねえよ。俺は救急部の医者でな、あんたが運ばれてきたとき、はじめに対応しただけだ。そこの、ヒヨコ頭」 ゾロが顎でサンジのほうを示し、ゼフが、それを目で追った。 「……そいつと、いま一緒に住んでる。ロロノア・ゾロだ」 ゼフは軽く目を見開き、それから、すうっと表情を戻して、そうか、あんたが、とつぶやくように言った。 「俺の名を知ってんのか? 」 「赤髪の野郎がな、聞いてもいねえのに連絡してきやがった。俺の部下のとこにいるから、安心しなってよ」 まあ心配なんざ、これっぽっちもしてなかったがな。まだ血の気の失せた顔で、ふん、とあざわらうように言うその姿を見て、なるほど、とゾロは感心した。どうやら、サンジとは似たもの親子なのらしい。サンジは否定するだろうが、口調までがそっくりだった。 ゼフが体を起こそうとするので、ゾロはそれを制した。主治医からの指示が解除されるまでは、絶対安静だ。脳梗塞は急性期の治療がとても大切だった。 まだ寝ているように言うと、うるせえ小僧、俺の体のことは俺が一番よくわかってる、と低く言い放つ。その肩を、ゾロはベッドに押しつけた。 「左手を、動かしてみてくれ」 そのままの体勢で、ゾロは言った。ゼフは一瞬怪訝そうな顔になり、左腕をぴくりと痙攣させたあと、確かめるように自分の左手を見た。起きあがろうとしていた、上体の力が抜けていく。 ゾロはそれを見届け、ゼフの肩から手を離した。 「まだ自力じゃほとんど動かせねえはずだ。あんたは脳梗塞だった。脳の右側の血管が詰まって倒れたんだ。それと反対側、つまり、左の手足に麻痺がきてる。あんたがもとどおり厨房に立てるかどうかは、これから一、二週間の経過次第だ。医者の言うことは聞いてくれると助かる。こいつに料理を教えたあんたの飯を、俺も食ってみてえんでな」 ゾロはサンジのほうを見ながら言った。ゼフも、つられたように顔を動かした。しばらくサンジの伏せた頭を見つめ、それから、ゾロへとふたたび顔を向ける。 「……なるほどな」 どうりで、チビナスのやつが帰ってこねえわけだ。なにか察したのだろう、にやりと笑って、顎の辺りをぽりぽりと掻いている。 「近いうち、挨拶にでも行こうと思ってたところだ。まさかこんなところで初対面とは、思いもしなかったけどな」 ゾロもにやりと笑い返し、それから、ゼフの右手の甲から繋がる、点滴のルートを眺める。ベッドサイドには可動式のモニターが設置してあり、脈拍数と心電図波形、定期的に測られる血圧が、そこには表示されていた。 意識は戻った、バイタルも安定している。あと数時間もすれば、おそらくこれらは取り除かれるだろう。 「――糖尿病と高血圧。あんた、知ってたのか」 ゼフのほうに視線を戻し、ゾロが言うと、ゼフは、まあな、と薄く笑って答えた。 「何年か前、知り合いの町医者に無理やりみてえに血い取られて、血圧も測られてな」 「知ってたが、治療はしてなかったわけか」 「そうだ」 「どうしてだ? 」 「俺の体は、俺だけのモンだ。医者なんぞに世話になる気はさらさらなかった。仕事も忙しかったしな」 それで倒れてんだから、まあ、笑える話だがな。自嘲するように低く、ゼフは言った。 医者や病院が嫌いな人間は多い、それはゾロもよく知っていた。とりわけ、自覚症状の少ない慢性の病気なら、なかなか治療する気になれないものだ。 治す気があるものにしか、医者は手出しができない。そうやって、脳梗塞や心筋梗塞で運ばれてくる患者は、年々その数を増している。 「あんたは運がよかった。サンジが、たまたま早く見つけてくれたからだ。だけどこの運が続く保障はどこにもねえ。うまいもん作るのも、息子と親子喧嘩すんのも、命あってのもんだろう。いまのまま放っておいたら、またいつどっかの血管が詰まるかもわからねえ。必ず、治療を受けてくれ」 「……こいつのために言ってんのか? 」 ゼフはサンジをちらりと見やった。サンジはやはりつっぷしたままで、かすかに、寝息が聞こえていた。 違う、とゾロは、首を横に振った。 「あんたのためだ。俺はこいつの恋人である前に、一人の医者だ。さっきあんたも言ったろう。俺の体は、俺だけのもんだってな」 「……」 「生きるのは他の誰のためでもねえ、自分のためだ。生きる意思があるやつを全力で助ける、それが俺らの仕事だ。腹が減ってるやつには食わせるのが、あんたらコックの仕事なのと同じようにな」 ゼフは黙ったまま、ゾロの話を聞いていた。病室のすぐ外を、いくつかの足音がぱたぱたと通り過ぎていく。 ゼフの右腕に巻かれた、血圧計のマンシェットが膨らみだし、ある程度の圧になってから、しゅっ、と音を立ててしぼんだ。モニターに、現在の血圧が表示されている。154と96。まだ高い値だが、脳梗塞の急性期に過度な降圧は禁物だ。 ゼフは忌々しげに、その数字を睨みつけた。 「若造が……生意気言いやがる」 「あんたみてえなタイプには、こういう物言いのほうが通じるかと思ってな」 ふ、とゼフが息を漏らし、唇の端をつりあげた。それが合図のように、ゾロは腕時計を確認した。もうすぐ、8時半になろうとしている。申し送りが始まる時刻だった。 「また来る」 ゾロは言い、ゼフに軽く頭を下げた。向けられた背中に、ゼフはおい、と声をかけた。 「俺が退院したら、店に来い。こんなひよっこよりな、ずっとうめえ飯食わしてやる」 振り返ると、サンジの頭を右手で指差している。 そりゃあ楽しみだ、とゾロは笑った。 「……オイ、チビナスよ。ありゃあ、おめえなんぞの手に負えんのか?」 途中から寝たふりしていたサンジに、ゼフは声をかけた。サンジの丸まった背中が、ぴくり、と震えた。 「うるせえジジイ。俺はな、幸せ気分を噛みしめてんだ。ぶち壊すんじゃねえよ」 顔を上げないまま、サンジはくぐもった声で言った。幸せ気分。ゼフが、はじめて聞いた言葉のように繰り返す。 「てめえの耳の穴は飾りかよ! ゾロがさっき、俺のこと恋人っつってただろうが! 」 がばり、と上げた顔が赤い。大きく見開いた、両目が血走っている。サンジのその顔を見て、ゼフは、たまらずくつくつと笑いだした。 「てめえは……ほんっとどうしようもねえなァ」 「っあんだと!! 」 サンジが怒鳴ると、ゼフの笑いはますます大きくなった。肩を揺らし、気が済むまでひとしきり笑い続ける。そうして、笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭ってから、右手を伸ばし、サンジの頭の上に放り出すように、その手を置いた。 なんだよ、とサンジは、馬鹿にすんな、と言いたげな、むっとした顔つきでゼフを見やった。けれど、振り払うことはしない。その目が充血しているのは睡眠不足と、それから、流した涙のせいもあるのだろう。 意地っ張りが。 ゼフは、おかしいような気持ちで思う。 「てめえなんぞに、借りは作りたくねえからな。今回だけは礼を言っとくぜ。――助かった」 ありがとよ、馬鹿息子。 乱れた髪を、一度だけくしゃりと掻きまわした。昔、サンジが夜中に目を覚ましたとき、眠りがけによくこうして、頭を撫でてやったものだった。 サンジがそれを、覚えているかはわからないが。 「……ここを出たら、一からしごきなおしてやる。覚悟しとけよ」 言って、ゼフは手を戻した。ふふん、と笑ってやる。 望むところだ、クソ親父。 サンジは顔を伏せ、少しだけ震える声で、そう言い返した。 * 意識が戻ってそう経たないうちに、ベッドサイドでの簡単なリハビリが始まった。 サンジは驚いたが、なるべく早期に始めたほうが後遺症が残りにくいから、最近では無理のない程度で、かなり早い段階からリハビリをはじめるのらしい。 短期でも店を閉めたくないとゼフは言い、退院までのあいだ、サンジがレストランを任された。出戻りめ、と笑うパティたちに蹴りを入れつつも、ひさしぶりに立った厨房はやっぱり格別なものだった。 俺の店の評判を落とすなよ、とゼフはよく憎まれ口を叩く。またそれで口論になりそうになるのだけれど、怒ると血圧が上がる、というゾロの言葉をそのたび思い出して、いまのところサンジはなんとか堪えている。いつか、こっちの血圧が上がりそうだ。 ゼフの左手足の麻痺は、ほとんど残らずに済んだ。血管の場所によっては、味覚が障害されることもあるのだと、見舞いに来てくれたロビンに聞いたときには心底ぞっとした。ゾロが言ったとおり、ゼフは幸運だったのだ。 回復もよく、入院期間は3週間足らずだった。あとはしばらく、週に何度かリハビリに通えばいいという。 うだるような暑さもずいぶん和らぎ、朝晩は爽やかな風が吹くようになっていた。雲も空の色も薄い、すっきりとした秋晴れの日に、ゼフは、D総合病院を退院した。 「ほんとに、いいのか? 」 ゾロが、ゼフに尋ねる。病院正面入り口の前だった。 ちょうど救急車が入っておらず、ゾロが見送りにきてくれたのだ。別にいなくてもよいシャンクスもなぜかいて、白衣を着ているにもかかわらず、どことなく偽物くさい雰囲気をかもしだしている。 ゼフが退院したのちも、サンジはゾロのところに住むことになった。ゼフたっての希望なのだが、ゾロはそれに反対していた。せめてリハビリが終わるまでは、サンジも家に帰ったほうがいい、とゾロは主張するのだ。 「いいもなにもねえ、このとおり俺はほぼ元通りだ。静かな生活に慣れちまったもんでな、いまさら、こんなうるせえのに戻って来られても困るんだよ。こんだけ近えんだから、こいつが店に通うのにもなんの不便もねえだろう。それに――」 ゼフがサンジのほうを見て、にやにやと笑う。 「もしあんたがよくても、こいつのほうがあんたと離れるのはさみしがるだろうしなァ」 うるせえジジイ、と言い返しつつ、サンジも否定はしない、というか、出来なかった。それに、とサンジは思う。この意地っ張りジジイのことだ、しばらくはどうしても続くはずの、日常の些細な不具合を悟られたくないのだろう。 もちろん、ゼフの状態には、常に気を払っておくつもりではいた。サンジも日中はレストランにいるわけで、嫌がられたとしても、折を見て様子伺いに行くことに決めている。 「だがよ……」 「ゾロ、諦めな。このじいさんは、こうなったらぜってえ聞かねえよ」 シャンクスが促すように言うと、ゾロは軽く息を吐いた。わかってるじゃねえか、とゼフが、髭を触りながら満足げにうなずいた。 「じゃあな、世話んなった」 もう二度と来んなよー、と、いつもの間延びした調子でシャンクスが応じる。そのまま背を向けようとして、ゼフは、ふと気がついたように顔を戻した。 「オイ、あんた」 ゾロに声をかける。 ゼフはサンジをちらと見てから、てめえはそこにいろ、と言い置いて、ゾロのほうへと歩き出した。足取りは、もうずいぶんしっかりとしたものだ。見るものが見なければ、麻痺がまだ残っていることもわからないだろう。 そのまま近づいて、耳元で、ゼフはゾロにだけ聞こえるように声を落とした。 「チビナスを頼むぜ。あのとんでもねえ女好きが、まさか男に本気惚れするとは思わなかったが、いままでとは顔つきがまるで違いやがる。育てた俺が呆れるくれえの阿呆なんだが、まあ、そのぶん、性根は悪くねえ」 「……ああ、わかってる」 ゾロは言い、それから、ゼフと同じように声を落とした。 「俺も、本気なんでな。あいつを育ててくれたあんたには感謝してる」 体、大事にしてくれ。 ゾロが言うと、へっ、とゼフは鼻であしらうように笑い、それから、上を向いてまぶしそうに目を細めた。背後で、ゾロにそれ以上近づくんじゃねえクソジジイ! とサンジがすごい形相をしている。 それを指さして、シャンクスが腹を抱えて笑っていた。 だんだんと遠くなる、二人の後ろ姿を見て、やっぱ似たもの同士だな、とシャンクスが言う。 だな、とゾロもうなずいた。 血の繋がりなどなくても、彼らは、間違いなく親子だ。 ←5 7→ |