5.強さと弱さ





規則的な呼吸を、繰り返しながら走った。夏の朝の、みずみずしい空気が、サンジの肺をいっぱいに満たしている。
7月からはじめたジョギングは、自分でも意外なことに習慣化していた。一度、寮に帰ってきたところをシャンクスに見つかって、ジャージ似合わねえ! と思いきり腹を抱えて笑われた。あいかわらず忌々しい男だ、と、サンジはそのときしみじみ思ったものだ。
コックの仕事は、基本的に重労働である。ゾロのところに来てから、しかしサンジの運動量は専業主婦のそれと同じ程度で、どうやら、体力をもてあましていたのらしかった。もともとは敵情視察が目的だったのが、いまはそればかりでもなく、走ること自体の爽快感を楽しむようになっていた。
いつも会う、犬の散歩をしている老夫婦に、すれちがいざま頭を下げる。彼らもゆっくりとした、合わせたような動作で会釈を返してきた。犬がいかにも雑種、という風貌をしているのが、なんだか微笑ましい。
ひとつ目の角を曲がると、この辺りではいちばん大きな公園の緑が目に入る。道路に落ちる葉影は、まだほんのりと薄い色だ。あと数時間もすれば、容赦のない陽射しがそこらじゅうに照りつけるのだろう。
それからふたつ、角を曲がると、二階建てのレストランが見えてくる。顔をあげれば、二階のカーテンが少しだけ開いているのがわかった。
サンジは、ゾロが当直明けの日、ほぼ同じ時刻にここを通る。8月になってからだ、ゼフの部屋にあたる場所のカーテンが、そのときに開かれるようになったのは。
サンジは下を向く。白いシューズが、道路を蹴るのが見える。かなり近づいてから、思いきって顔をあげると、窓ぎわに立ったゼフが長い髭をいじりながら、ふん、という声が聞こえるような、あざ笑うような顔でこちらを見下ろしていた。目があった拍子に、サンジも聞こえもしない悪態をついてぷいと横を向いた。
まったく、ガキの喧嘩だ。何をしているんだろうと思わなくもない。それでもこうして、繰り返し来てしまうのは、ゼフが以前よりやつれたようにも見えるからだった。意地っ張りジジイめ、自分のことは棚の高いところに置いて、サンジは思う。
そのまま店の前を通りすぎ、距離でいうと折り返しにあたるビルを通り過ぎたとき、もうひとつ、近ごろひどく気にかかっていることが頭を掠めた。
ここのところゾロの様子が、少しおかしい、ように、思う。
いつから、であるかははっきりしていた。ゾロがいつもより遅く帰って、どこか、心ここにあらずに見えたあの日からだ。体力的な疲れだけで、ああいうふうになるゾロではないともう知っている。きっと何かあったのだろうと、それはサンジも感じてはいて、だからこそ何も訊かなかった。それが、悪かったのだろうか。
普通に会話はするし、キスも、セックスだってする。表面上はいたって平穏で、何がおかしいのか、と言われると、具体的にはうまく説明ができない。
ただなんとなく、以前よりも、ゾロが遠いようにサンジは思う。距離を取られている、一歩引かれている、そういう、感じがする。そして、その疑念がはっきりとした形を取ったのが、昨日の朝のことだった。
ゾロが出かけるときにも、帰ってきたときと同じように、サンジは儀式をする。軽くくちづけたあと、いってらっしゃい、といつもは言うだけなのだけれど、昨日にかぎって好きだよ、と付け加えてしまったのは、ゾロの態度がおかしいと感じることへの焦りがあったのかもしれない。
ゾロは、サンジの顔をまじまじと見た。そうして、しばらく黙ったあと、なんで、お前は俺に惚れたんだ、と言った。
なんでって、とサンジは口ごもった。それを説明する言葉を、サンジはひとつしか持たなかった。
「……運命だと思ったから」
はじめて会った日に、そう思ったから、と。われながら、恥ずかしい台詞だとは思ったが、実際そうとしか言えなかったのだ。顔が熱くなるのを感じた。女の子相手にだって、言ったことのない言葉だった。けれど女の子相手のほうが、たぶん恥ずかしくなかっただろうと思う。
赤い顔のまま、ゾロのほうを見た。てっきり笑い飛ばされるか、もしくは怒りだすかと思っていたのだ。けれど、どちらも違っていた。
ゾロの顔は強張って、そこから感情を読み取ることが出来なかった。
「運命か」
ゾロは、低く言った。そしてそのまま、サンジのほうを見もせずにドアを開けて出て行った。その背中は、最後に見た表情と同じに、硬く強張っていて遠かった。
寮が見えてきて、サンジは少しずつ、走るペースを落としていく。歩いているのとほぼ同じ速度になり、エントランスまであと数メートル、というところで、自動ドアが開いて、二人が出てくるのが目に入った。
「ナミさん、ロビンちゃん」
二人はときどき、ロビンの出勤前にこの辺りを連れだって散歩している。サンジも何度か出くわしたことがあった。家にこもりがちのナミが、運動不足を気にしてのことなのだと言っていた。あの抜群のスタイルを維持するのも、いろいろ大変なのだろうな、とそれを聞いたときには思ったものだ。
「あら、サンジくん」
ナミが言い、二人が立ちどまる。サンジも足を止め、タオルで顔の汗をごしごしと拭った。おはよう、と笑ってあいさつをしあう。
「ゾロは――、ああ、当直だったわね」
もうすぐ帰って来る時間ね、待ち遠しいでしょう。ロビンがからかうように言う。
いつもならへらり、と笑み崩れるはずのサンジの顔が曇ったのを見て、ロビンはなにかを察したようだった。
「……喧嘩でもしたの? 」
「そういう、わけでもねえんだけど、ね」
サンジは手に持っていた、タオルを握りしめた。喧嘩、ならまだいいのだ。外に向けて発散されうるものならば、解決のしようはいくらだってある。
一緒に暮らしだして、もう4カ月が経った。さすがに、ゾロの性格は把握していた。
なにかしら考えごとがあるとき、それが大事なことであればあるほど、ゾロは自分の内に収めてしまうタイプのようだ。結論が出るまで、外に出すことはたぶんなく、もちろん、他人の干渉が及ぶところではない。たいていの場合、呆れるくらいおおらかというか無頓着なゾロなのだけど、ごくたまに、そういう、ひどく頑なな一面を見せることがある。
そして、これという確証はないのだが、ゾロのそういう面には、あの写真の少女が関係しているのではないか、とサンジは感じているのだった。いまだ触れることが出来ずにいる、彼女のことが。
黙り込んだサンジを見て、ロビンとナミは顔を見合わせた。
「ナミ、お散歩はやめてもいい? 」
ロビンがナミに尋ね、お話を聞きましょうよ、と提案すると、いいわよ、とナミはうなずいた。いたずらな猫のような目をしている。
「こっちのほうが、なんだかおもしろそうだし? 」
「ナ、ナミさーーん……」
「うちでコーヒーでも飲みながら、話しましょうか」
ゾロとのつきあいはあなたより長いから、なにかいいアドバイスができるかもしれないわ。
言って、ロビンはくすりと笑う。
ロビンの姿が、いつもよりさらに女神に見えた。



サンジがコーヒーを淹れて、それを、ロビンがカップに注いでくれる。よい豆を使っているらしく、すっきりとした味わいの、おいしいコーヒーだった。頭のなかの靄が、すうっと晴れていく感じがして、サンジは、軽く息をついた。
カップを持ったまま、不躾にならない程度にリビングを見渡してみる。カーテンや家具などのインテリアは、全体に淡い色調でまとめられていて、とても、女の子らしい雰囲気だ。間取りは同じはずなのに、やや殺風景なゾロの部屋とも、なにやら豪奢なシャンクスの部屋とも、まったく違う印象を受けた。
それで? とロビンが首を傾げ、途中までしていた話の続きを促した。
「うん、だから、その……なにがおかしいって、はっきりしたもんがあるわけじゃねえんだけどさ」
「だけど、昨日のあなたの言葉には、ゾロは拒絶するような反応をしたのね? 」
「……そう」
かなり恥ずかしかったが、行きがかり上、昨日の朝の出来事も話していた。女性相手に、自分の恋愛話、しかも頼るような真似など本当はしたくない。けれど、それを話さないと、なにも解決しないような気がしたからだった。
「照れてた、とかじゃなくて? 」
ナミが尋ねてくる。あー、とサンジは声を出して、首を横に振った。
「ナミさん、ゾロはそんなタマじゃねえよ」
照れていたのは、どう考えても、サンジのほうだけであった。
「それは、たしかに」
なにを知っているのか、ロビンがそう言って深くうなずき、そっちもかなり気になった、が、あえて黙っていた。よけいな悩みが増えそうだ。
「ゾロの考えはゾロだけのものだから、参考になるかはわからないけれど――」
ロビンが言い、サンジのほうを見て微笑む。
「運命って言葉には、私も、少しだけ過敏なの。真面目に、という言いかたは語弊があるけど、なんとか患者の命を救いたいって、そういう使命感を持って医者をやっている人間なら、一度はつきあたる壁よ」
「……どういうこと? 」
サンジが尋ねる。私の話でよければするわね、とロビンが断りを入れ、サンジはうなずいた。
「私が医者になって6年目、救急医として働き出してからは3年目の話だから、いまのゾロとちょうど同じね。体力的にはきついけれど、やりがいのあるこの仕事が、楽しくてしかたなかった。人間ひとりの生死の境に直接携わるということ、その重みをわかっているつもりだったけど、本当にはわかっていなかったんでしょうね」
ロビンが軽く眉を顰める。空になったナミのカップに、サンジは、おかわりを注いだ。
「ある日、交通事故の患者が運ばれてきた。小学校低学年の男の子よ。登校のときに家の玄関を出てすぐ、道の向こうに友だちの姿を見つけて、飛び出したところを車にはねられた。全身、とくに頭を強く打っていてね。命はなんとか取りとめたんだけど、そのまま植物状態になった。私は、彼の主治医になったの」
ロビンはそこで、一度話を区切った。コーヒーをひと口飲んでから、ふたたび、話しはじめる。
「骨折とか打撲とか、そういう傷はだんだんと治っていったし、内臓には幸運にもまったく損傷がなかった。肉体は健康なのに、ただ、意識だけが戻らないのよ。家族は毎日のようにお見舞いにきて、なんの反応も返さない彼のそばで、ずっと話しかけてたわ。もちろん私もいろいろ調べてね、やれることはすべてやったけどだめだったの。あとは、ただ点滴と胃にいれたチューブから栄養を補給するだけ。そういうのが半年以上続いて、自分の無力さを痛感したわ」
「……ロビンちゃん、つらい話なら、」
ふと見れば、ナミが、心配そうな顔でロビンを見ている。それに気がついて、大丈夫よ、とロビンがナミに向かって笑いかけた。その言葉は、同時に、サンジにも向けられたものなのだろう。
「そしてある日ね、唐突に、彼が目を開けたのよ。ずっと兆候すらなかったのに、本当になんの前触れもなく。若いせいなのか、回復も早いんでしょうね、一週間も経たないうちに意識がしっかりしてきた」
「――そんなことが、あるんだね」
「ええ、私もとても驚いたわ。学会報告で似た症例の話を聞いたことはあったけど、自分で経験したのは、もちろんはじめてだったし。そのあと一ヶ月くらいかけてリハビリをして、彼は無事退院して行った。まるで、あんな事故にあったことが嘘みたいに元気になって、家族は泣いてよろこんでいたわ。もちろん、私もね。そのあと彼から、手紙が何度か来たの」
助けてくれてありがとう、って。
ロビンは、またそこでカップを手に取った。表情が、少し硬くなっている。話は、これで終わりではなさそうだった。
「それから一年も経たないうちよ。彼がまた事故にあって亡くなったのは」
「……え?」
「信じがたいことに、前回とまったく同じ状況なの。気持ち悪いくらいにね。同じ場所、同じ時間、同じシチュエーション。違ったのは、今度彼をはねたのは自動車じゃなくトラックだったこと。即死の状態だった。家族の嘆きようは、それはそれはひどかった。一度は奇跡的な生還をした子供を、まったく同じような事故で亡くしたんだもの、その悲しみは想像がつかないわ。憔悴しきったご両親が、こうおっしゃったの。あのとき助かったのが神さまのいたずらだったんだ」
これが、あの子の運命だったんでしょうね。
「……ロビンちゃん」
「ごめんなさいね、こんな話。ご両親の気持ち、そう思いでもしないと正気ではいられない気持ちは、よくわかるの。実際、偶然とは思えないような符合が、たくさんあったわ。……でもね、だったら、私たちの仕事ってなんだろう、って考えてしまって」
医師として、命を救う意義。誇りを持ってやれる仕事だと、サンジはこれまで疑いもしなかった。
おそらく、以前のロビンもそうだったのだ。
「もし、人間の死ぬ時期が運命で決められているのなら、それを必死で引きのばそうとすることに意味なんかないんじゃないかって、真剣に悩んだりしてね。ちょうどそのころよ、ナミと知り合ったのは」
「そうそう。ロビン、あのときほんっとひどい顔してたのよ」
ねえ、とナミが明るい声で言う。そうなんでしょうね、とロビンは苦笑いをした。
それをきっかけに、さきほどまでよりぐっと、表情が和んだのがわかる。当時のロビンはきっと、ナミの存在にずいぶん救われたのだろう。それが、サンジにも伝わってくる。
「ひとつ訊いてもいいかな」
「どうぞ」
「それは、もう解決した?」
サンジの問いに、いいえ、とロビンは、静かに答えた。
「これから、どんなに長く医者をやったとしても、解決することなんてないのかもしれない。むしろ経験を積むほどに、矛盾を抱えていくのかもね。……でもね、たとえばそのひとが、そのとき死ぬ運命だったとして、それでも私には、放っておくことはどうしても出来ない。ゆずれないの。それが、どんなに無駄なことだとしてもね。だから、ただ自分にできる精一杯のことをやるしかない」
「――そっか」
「でもわかっていても、たまにね、考えてしまうときもある」
あくまで私の場合だけど。ロビンはそう言って、窓のほうを眺めた。サンジもつられて、外を眺める。それほど時間が経ったわけでもないのに、陽射しはもう、ずいぶんと強くなっていた。今日も暑くなりそうだ、とサンジは思う。
「ロビン、そろそろ用意しなきゃ」
ナミが、時計を見て言う。8時を回ろうとしていた。
「ごめんね、散歩休ませちまって」
サンジが謝ると、今度ロビンと一緒に夕ごはんでもごちそうしてもらうわ、とナミは笑った。
「少しは、お役に立てたならいいんだけど」
ロビンが言う。十分だよ、つらい話なのにありがとう、とサンジは答えた。
それから、出勤するロビンと一緒に部屋を出た。別れぎわになって、いってらっしゃい、と声をかけたサンジに、ふと思いついたように、ロビンは言った。
「あなたって、すごいのね」
「え? なにが? 」
ロビンは、エレベーターのボタンを押してから、サンジのほうを見た。がたん、と音がして、ワイヤーが動き出す、低いモーター音がしはじめる。
「ゾロの様子がおかしいこと、私は、まったく気がつかなかった。他人にはすごく気を張る子なのよ。特に弱ってるところは、絶対に悟らせないようにするの。警戒心の強い野良猫みたいにね。前に、あなたがゾロをおぶって帰ったときも思ったんだけど――」
よっぽど、あなたに気を許しているのね。
ロビンがにっこりと微笑む。
「そ、そうかなー」
サンジはつられるように、へらりと笑った。その顔を見て、そうよ、とロビンがますます笑う。
そうなんだろうか。
そうだといいと、心から思った。
ゾロの抱えているものの重さは、サンジにはわからない。誰だってそうだ。それぞれのゆずれないもの、背負うものがあって、それはとても個人的なもので、他人と分けあうことなど出来ないのだろう。
けれど、その重みに耐えられなくなったとき、それをそっと見守って、支えてやることくらいなら出来るかもしれない。ゾロのそういう存在に、サンジはなりたかった。
サンジがいま、ゾロと一緒にいることで、ずいぶん支えられているのと同じように。
「あの子、決まった恋人も作ろうとしないからずっと気になっていたんだけど、安心したわ」
まるで、血を分けた姉のような口調でロビンは言う。こいびと、という響きをサンジは噛みしめた。
そうしながらも、一瞬、ゾロのほうからは好きともなんとも言われていないことが頭をよぎりはしたが、そういう瑣末なことは、この際無視することにする。
「じゃあ、いってきます」
扉が開いて、ロビンが、エレベーターに乗り込んだ。あんな話を聞いたあとだからよけいにだろうか、すっと伸びた後ろ姿が、そこらへんの男なんかよりずっと凛々しく見えた。
かっこいいなァ、と思わず言うと、振り向いたロビンは、少しだけ驚いた顔をして、それから、いやあね、と照れくさそうに笑った。
その笑顔がまるきり少女みたいで、かわいいな、と今度は思った。
「いってらっしゃい」
もう一度サンジは言った。扉が閉まる。
その姿が見えなくなるまで、サンジは、彼女を見送った。


     *


部屋に戻って、サンジはシャワーを浴びた。汗をざっと流してから服を着替える。
パンとサラダの軽い朝食を取り終わったら、もう、ゾロが帰ってくる時間が近づいていた。ロビンたちと話をしていたぶん、いつもより家事がはかどっていない。
サンジは、掃除機を引きずりだして書斎へと向かった。ここの掃除機は、かなりの年代物らしく、派手な音がするうえ吸引力もいまひとつだ。サイクロン方式のやつとかどうよ、でもあれ高ぇよな、などと考えごとをしつつ、身をかがめて、机の下の埃を吸い込んでいく。隅まできれいにしてから顔をあげると、写真の少女と、正面から目が合った。今日も、とても元気よく笑っている。
サンジは彼女の、この表情だけしか知らない。ゾロの記憶のなかで、この子はいったい、どんな顔をしているんだろう、と思う。
ひとの気配に気がついて、振り向いた。いつのまにかドアが開いて、そこにゾロが立っている。掃除機の音がうるさすぎるため、チャイムも、ドアを開ける音も、聞こえなかったのだろう。
サンジは、掃除機を止めて、ホースを机に立て掛けた。
「おかえり」
サンジが言うと、ただいま、とゾロは言った。ゾロはサンジの後ろにある、写真立てをじっと見つめていた。
少し迷ったけれど、サンジはいつものように、ゾロを抱きしめた。帰ってきたばかりの、ゾロは汗をかいていて、サンジのこめかみにあたる、短い髪は湿っている。
しばらくそうしていたら、ゾロの両手が、ゆっくりとサンジの背中に回された。
「――ゾロ」
「このまま聞け」
「うん」
ゾロの纏う空気は、いつもどおりのものに戻っていた。昨日までの違和感は、もうどこかに消え去っている。
サンジの背に、腕を回したまま、ゾロは、落ちついた口調で話しはじめた。
「昔の話だ。俺には、幼なじみがいた。一緒に剣道やってて、ひとつ年上でな、女だったがやたらに強くてよ。俺は情けねえことに、一度も勝てたことがなかったから、いつか、ってずいぶん躍起になってたもんだ」
「――そっか」
「……だがある日、そいつは階段から落ちた。倒れてるのを、迎えに行った俺が見つけた。病院に運ばれたがな、それきりだった」
これが、あの子の運命だったんでしょうね。ロビンに聞いた言葉を、サンジは思い出す。
ゾロも、その言葉を聞いたのだろうか。
「いまでもときどき、そのときの夢を見る。昔よりは減ったがな」
てめえ、俺がうなされてんの知ってたろ、とゾロが言い、サンジは、黙ったままうなずいた。そのまま、しばらく、抱きあっていた。クーラーの入っていない部屋は、とても蒸し暑かったけれど、そうして抱きあっていた。
開いた窓の外から、せわしない蝉の声が聞こえてきている。ゾロの汗が、少しずつサンジのシャツに沁み込んで、二人の体温が、近づいていくようだった。
「お前といると、弱くなる気がした」
ゾロの声は、耳のすぐ近くで響いた。背中に回された、強い腕の感触を、サンジは感じる。
「だが、違うと気がついた。その弱さは、俺のなかにもともとあったもんだ。必死で見ねえフリしてただけだった。ここしばらく、それを考えてた」
サンジは、ゾロを抱く腕をゆるめて、自分の背に置かれたゾロの手をそっとどかせた。そのまま、握りしめる。
「……俺はこれからも、ここにいていいのか? 」
なるだけ、軽く聞こえるようにサンジは言った。自分の弱さを認めるのは、突きつけられるのは、誰にとってもきついことだ。すがるような情けない真似は、とりわけゾロ相手には、したくなかった。
サンジは、ゾロを見つめた。蝉の声がうるさいほどだった。ゾロの髪は、汗のせいでいつもよりもぺたりとして、翳っている。
「いてくれ」
ゾロは、彼女ではなく、サンジを見て言った。
「俺は、もっと強くなる。お前が見届けてくれ」
不覚だった。泣きたくなどなかったのに、思わずぶわりと来て、サンジは首を捩って顔を隠した。
阿呆が泣くなみっともねえ。いつもの不遜さを取り戻して、ゾロが言う。
「馬鹿言うな、こりゃ汗だ」
サンジが絞りだすように言うと、ゾロは、小さく笑ったようだった。
それから、しばらく涙が止まらなくて困った。黙ったまま、静かに待っていたゾロは、ぎゅっと握ったままの汗まみれの手を、振り払おうとはしなかった。
「止まったか、汗」
「……おう」
泣きすぎた、サンジの瞼は水っぽく腫れている。けれど、気持ちはすっきりと晴れていた。
「――名前」
サンジが言い、ゾロが、サンジのほうを見る。
「彼女の名前、なんていうんだ? 」
サンジは、少女の笑顔を見ながら言った。ほんとうはたぶん知っている、そのことを、ゾロに言うのはやめておいた。ゾロは少しのあいだ、サンジの横顔を見つめてから、ふたたび、写真のほうに顔を向けた。
「くいな」
そう、はっきりと呼ぶ。
「くいなちゃん」
「ああ」
「いい名前だな」
そうだな、とゾロは笑った。うなされて、彼女の名を呼ぶときとはまったく違う、おだやかで、優しい表情だった。
サンジがその顔に見惚れていると、ゾロは、サンジの胸倉をいきなり掴んだ。
「ひでえ顔だな」
呆れるように言ってから、まだしっとりと濡れたサンジの目尻にくちづけ、手を離した。
「ゾロ?」
「今度、一緒に行くぞ」
「……なに?」
「くいなの墓参り」
何も答えられないでいると、ゾロは、シャワー浴びてくる、とサンジに背を向けた。そのまま、振り返らずに廊下へ出る。
ドアの閉まる音で、ようやくはっとしたサンジは、慌ててその背中を追いかけた。思いきり手を伸ばす。振り向いた、ゾロを壁に押しつけ、汗の浮いた首筋に顔を押しつけた。
いつもより、ゾロの匂いが強い。いますぐ欲しくて、たまらなくなった。男の汗の匂いに欲情するなんて、俺も大概終わってんな、と笑いたいような気持ちにもなる。
むさぼるように、皮膚に荒く吸いついた。性急に、薄いシャツをたくしあげ、肌より濃い色の乳首を口に含んだ。ぴちゃぴちゃと音を立てて、舐めたり、吸ったりするとゾロは、サンジの髪を掴んで息を荒くした。
そうしながら、ベルトをゆるめて両手を、ボトムのなかに差し込む。形よく引き締まった尻を強く揉むと、それに合わせるように腰が揺れた。
溝まで、汗が流れている。両方の親指を穴に押しあて、ぐっと力を込めれば、爪の先が沈み込んで、あ、とゾロが驚いたような声を出した。
「お、い、待て、先に風呂くれえ、」
「待てねえ」
一分、いや、ほんとは、一秒だって待ちたくなどない。そう伝えると、ゾロは呆れ顔をして、髪を掴んでいた指で、サンジの後ろ頭を撫でた。
「……なんだよ、その顔」
「わかってんのか、俺は直明けだぞ?たぶん汗くせえぞ」
「だから、そのまんまがいいんだって。むしろ積極的に嗅ぎてえ気分なんだよ!」
思わず、本心が出てしまう。サンジの顔を見て、ゾロはぷっと噴きだし、てめえはほんとおかしなやつだ、とひとしきり笑い、それから、急にいやらしい顔になって、好きにしろよ、とサンジを誘った。



二人でシャワーを浴び、髪を乾かしてやっていたら、ゾロは、気を失うように眠ってしまった。
抱きあげて、いつものようにソファに寝かせ、タオルケットを腹に掛けた。なんだか離れがたくて、サンジはしばらく、そこでゾロの顔を眺めていた。
瞼の下で、眼球がかすかに動いている。夢を見ているのだろう。いい夢だといい、とサンジは思った。くいなの、あの明るい笑顔を、夢に見ることがいつかあるといい。
広い額に手を置くと、すう、とゾロの寝息が深まるのがわかる。そうしながら、ふと、ゼフの顔が頭をよぎった。あのときの、パティの言葉もだ。
家を飛び出したときには、たしかに頭に血がのぼっていたと思う。だがいまではサンジにも、ゼフが本心から、サンジの味を否定したのではないとわかっていた。
むしろ、その逆だ。認めているからこそ、自分の二番煎じに甘んじるなと、そう、言いたいのだと。露骨な態度や言葉を示されることはなくとも、愛されていることがわからないほど、サンジは鈍感ではなかった。
一度こじれた関係を戻すのは難しい。けれど、向き合うことから逃げてばかりもいられない。
ゾロに、それを教えてもらった。
「――大切な恋人も、紹介してえしな」
俺もそろそろ、腹くくんねえと。
ゾロの髪を撫でながら、サンジはつぶやき、それから、気合を入れるように、ふうっ、と勢いよく息を吐いて立ちあがった。





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