3.彼女の名前





もう何日目だろうか。
しとしとと、雨は降り続けている。
去年の今ごろはまだ帰国していなかったから、サンジにとって、梅雨はひさしぶりだった。うっとおしいと嫌う者も多いけれど、サンジは、雨がけして嫌いではない。とりわけ、こんな静かな雨は。ただまあ、さすがにこれだけ続くと飽きてはくるものだ。洗濯物の乾きも悪いしなと、所帯じみたことを考えたりもする。
ソファのそばで、洗濯物をたたんでいた。ベランダを眺めると、外側から半分ほどが濡れて黒く色を変えている。すぐ近くで、夜間当直から帰ってきたばかりのゾロの寝息が聞こえていた。
寝室で寝たほうがよく休めるんじゃないか。そうサンジは思うのだが、夜以外の睡眠はこちらのほうが慣れていると言って、ゾロはここでばかり眠るのだった。
腹に掛けていたはずのブランケットが床に落ちている。サンジは立ち上がり、それを掛け直してやった。皺の寄った眉間のところにくちづけると、ゾロは虫に刺されでもしたみたいに、そこを人さし指でぽりぽりとかいた。
当直明けの日、ゾロは9時半ごろ帰宅して、少なくともだいたい昼すぎまで眠り、それから、遅めの昼食をとる。その日の疲労度によっても眠る時間は多少違うけれど、いずれにせよ、ゾロが起きるまでサンジは暇だ。
掃除機をかかえて、書斎、兼ゾロのトレーニングルームになっている部屋に行った。廊下に並んでいる二部屋の、片方が寝室で、残りの片方だ。
シャンクスから話を持ちかけられたとき、ゾロははじめ、この部屋にサンジ用の布団を敷くことを考えていたらしい。だが実際にはここに来た初日から、サンジたっての希望で、二人は一緒のベッドで眠っている。
コードを伸ばし、コンセントに差し込んだ。掃除機をかけながら、机にひとつだけ置かれた写真立てに目をやった。
この家に飾られている写真はこれだけだ。端のほうが茶色に変色した、古ぼけた一枚の写真。黒い短い髪の、きりりとした顔つきの少女が、竹刀を持って笑っている。
彼女が誰なのかサンジは知らない。ゾロにとって、大切なひとであることだけはわかる。
表面に少しだけ積もった埃を、サンジはそっとぬぐって、それから床の掃除に専念した。
彼女が誰なのか、サンジは知らないけれど、彼女の名前を、たぶん知っている。
ときどき、ゾロはその名を呼ぶ。



嫌な夢を見て目を覚ました。ときどき見る夢だ。
いつも、間に合わない。
「ゾロ? 」
すぐそばから声が聞こえた。部屋が薄暗く、かすかな水音がしていて、雨が降っているのだった、とゾロは思い出す。だからなのだろう。
あの日も雨が降っていた。
「汗かいてるぜ」
タオル取ってくるよ、そう言って立ちあがろうとするサンジの腕を掴む。サンジ、と言うと、なに?と笑った。
「なんか、言ってなかったか」
「寝言? 」
「ああ」
以前、他のやつに言われたことがあった。くいな、と、そう、名を呼んでいたと。
「いや? べつに。ちょっとうなされてはいたけどな」
言いながら、サンジは指先でゾロのこめかみ辺りを撫でた。ひんやりとした感触が、やたらに心地よい。
そうか、とゾロは答え、外を見た。朝は霧雨のようだった雨は、少しだけひどくなっているようだった。
「ここで何してた」
「寝顔見てた」
暇人だな、とゾロが言うと、ひでえな、とサンジはやはり笑いながら言った。煙草に火をつける。吸いこんで、白い煙を長く吐きだした。
昔な、とサンジが言う。
「ジジイんとこに引き取られたばっかのころな。ときどき夜中に叫んで、自分の声で目え覚ましてた。さすがに、どんな夢見てたかまではもう忘れたけどな」
 幼いころ、両親と死に別れたのだとは聞いていた。ジジイと呼んでいる、ゼフと血の繋がりはないと、そこまでは。
「で、そうするとよ、しばらくすっと、ジジイがぬうっと部屋のドア開けて入ってくんだ。俺のベッドのそばに椅子ひきずってきてよ、ふんぞりかえったみてえに座って、一言だけ。とっとと寝やがれ! 」
思いきりしかめ面をして、サンジは言った。そのときのゼフの顔を真似ているのだろう。
ゾロがゆっくりと体を起こすと、サンジは煙草を指のあいだに挟んだまま、よいしょ、と年寄りじみたかけ声をかけた。立ちあがり、ゾロの隣に腰掛ける。
「別によ、なんか話をするわけでも、本を読んでくれるわけでもねえ。機嫌わっるそーな顔でよ、ただ黙って、俺がまた眠るまでずっと、そこに座ってんだ。逆に怖えよ」
でも不思議と、そのあとはよく眠れたな。
サンジは目を細めて、何もない空間を見ていて、また煙草を唇に近づけた。
「……いい親父さんだな」
「親父じゃねえよ、あんなクソジジイ」
サンジがゾロのほうを向いて、また嫌そうに顔をしかめる。むすくれたその顔を見て、ゾロは笑った。強張っていた体が、ゆるゆるとほどけていくような気がした。
ゾロの笑った顔を、サンジはぼうっと見つめた。
「じろじろ見んじゃねえ」
「あ、ああ、うん」
サンジは慌てたように言い、それから、煙草を灰皿に押しつけると、おもむろにソファの背もたれを倒した。
もともとはソファベッドなのだが、一人で寝るには倒さなくても十分なのだ。新しく広がったスペースに、サンジはごろりと横たわる。
「なあ、ゾロ。まだいつもより早いぜ。もうちょっと眠ったら」
てのひらで、隣をぽんぽんと叩く。ここに寝ろ、という意味なのだろう。
「眠るのはいいとして、なんでお前もだ」
「なんでって、そりゃあ……」
「そりゃあ? 」
「俺が、お前のそばにいてえからだよ」
ゾロは、サンジの顔をまじまじと見た。なんとなく灰色っぽいくすんだ視界のなか、その青味の強い瞳は、雨あがりの夏の空のような、くっきりと鮮やかな色をしていた。
そばにいて欲しそうだから。
そう、言われるかと思っていた。
思わず黙りこむと、胴回りにタックルを決めるように、サンジは腕を回しゾロを抱きこんだ。後ろからぴったりとゾロにくっついてきて、ブランケットを、ミノ虫のようにくるりと巻きつける。
「おい、昼飯の準備はどうすんだ」
「うーん。今日くらい店屋ものじゃだめか?」
「お前の飯じゃねえと嫌だ」
サンジの体がびくりと強張って、腹に回された手から、かすかに震えが伝わってくる。不審に思い、首をねじって顔を見てみると、サンジはなんだか真っ赤な顔をしている。
「ぞーろぉーーー」
ぎゅうぎゅうと抱きすくめられた。
暑苦しい、とつぶやくと、えええと情けない顔をする。その顔を見ながら、ほんとうにおかしな男だ、とゾロは思った。
成熟した寛容さを見せて、ゾロを包み込んだかと思ったら、こうしてガキっぽい面をふいに見せたりもするのだ。女好きだと聞いていたのに、出会った日に告白されたのにも驚いた。
ただ惚れっぽいだけかと、はじめは思っていた。そうではないことは、この二カ月と少しでもわかった。
「じゃあさ、ちょっとだけ。ゾロが眠るまでここにいる」
いい? と訊くので、おう、と答える。背中に、サンジの体温と鼓動を感じながら、目を閉じた。
生きている証、生と死の境界などたかがその程度だ。呼吸と心音、それに瞳孔反射の有無。医師はその三つを確認してひとの生き死にを決める。
たったそれだけの、その程度の違いで、けれども生者と死者は、この地と彼の地に完璧に隔たれる。

不快な汗はもうひいていた。
いつも、この夢を見たあと感じる息苦しさを、今日は感じなかった。
「――なあ、今度は、俺の夢を見てよ」
静かな雨の音にそっと沿うような、そんな、おだやかな声だった。襟足に、サンジの生ぬるい息の湿り気を感じる。
それも、悪かねえかもな。
ぼやけていく意識のなかで、ゾロは思った。


     *


ひさしぶりの快晴だった。昨日までの重い雨雲はどこかに追いやられ、空は、すみずみまで晴れ渡っている。
風も湿度もあまりない、絶好の洗濯日和に、ここぞとばかりにサンジはベランダで布団を干した。今日を逃せば、今度はいつ晴れるかもわからなかった。布団乾燥機も使ってはいるが、やっぱりお日様の匂いにはかなわないものだ。
ひととおり終えてから、そのまま、そこで一服をすることにした。布団に煙がかからないよう、風下のほうへと移動して火をつける。
5階なのでそう見晴らしはよくないけれど、ベランダからは、すでに見慣れた町並みが見えている。公園の濃い緑を見て、梅雨が終われば訪れる暑い季節のことを、サンジは思った。それから、ぼうっとレストランの方角に目をやった。
レストランは、ここから歩いて十五分弱、距離にすれば一キロほどしか離れていない。二階建てのその建物は、手前のマンションの陰になっていて、ここからは見ることが出来なかった。
ゼフとは、喧嘩別れしたあれきりだ。サンジから折れる気はなかったが、かといって他の店で働く気も、サンジにはまったくなかった。
「……まあ、どうにかなんだろ」
なかば言い聞かせるようにそうつぶやいて、置きっぱなしの空き缶に吸殻を詰めていると、隣から物音がする。503号室のほうだ。二人分の、女の子の、楽しそうな話し声が聞こえた。
ナミとロビン。二人は、とても仲がよい。
姉妹ではないようだし、かといって、友人、というには、二人のあいだの空気は親密すぎるような感じもする。興味が湧かないわけでもないけれど、サンジはけして下世話ではないし、他人との距離感もちゃんとわきまえていた。ひとの家に、土足で上がり込むような真似はしたくない。
お互いをとても大切に思う二人が、一緒に暮らしている。それが一番大切なことだ。
「ナミさん、ロビンちゃん」
仕切りに近づいて声をかけると、サンジくんも布団干し? とナミの声がした。
「うん、そう。ロビンちゃんは当直明け?」
「ええ」
眠らねえの、と訊くと、昨日はめずらしく5時間も眠れたのよ、とロビンは答えた。
季節の変わり目と、真夏と真冬、それが急患が多い時期で、6月は比較的暇な月にあたるのだという。もちろん、日によってかなり差はあるけれど、とロビンは落ち着いた声で続けた。
そりゃそうだよな、とあらためてサンジは思った。救急車で運ばれるのは、なにも病気の人間だけではないだろう。事故による怪我とか、火傷だとか、そういうのはあまり季節とは関係がなさそうだ。
「そうだ、今日ケーキ焼くつもりだったんだ。試食してもらえると助かるんだけど」
さくらんぼのコンポートを入れたオムレットケーキ。説明すると、喜んで、と二人は声を揃えて言う。
「ミホークにも持っていってあげるといいわ」
甘いものが大好きらしいから、彼。そうロビンが言って、ええ!とサンジは思わず声をあげた。
かなり意外だったからだ。殺し屋じゃない、と聞いたときと同じくらいの衝撃だった。
「こんな甘ったるい惰弱な食べものは口に合わん! とか言いそうじゃねえ? 」
「それが違うんですって。自分一人でもケーキを買ってきたりするって、シャンクスが前に言ってたわ」
ガラスケースの前でむっつりとした顔のまま、ケーキを選ぶミホークの姿を想像する。なんだかシュールな光景だ。食べているさまを、ぜひ見てみたいものだと思った。
あれであんがい、ひとと話すのも嫌いじゃないのよ。そうロビンが言うので、サンジはその日の午後さっそく、焼き立てのケーキを差し入れてみることにした。
はじめにあいさつをしたっきり話したことがないと言うと、ロビンが部屋の前までついてきて、ミホークに紹介をしてくれるという。ナミは、ちょうど目が離せない動きをしている取り引きがあるとかで、部屋に向かったのはサンジとロビンの二人だけだった。
チャイムを押すと、ほどなくミホークが現れた。今日は紫のガウンではないけれど、なかなか形容のしがたい、とても派手な柄のシャツを着ている。昔見た香港映画で、チャイニーズマフィアがこんなの着てたよな、とサンジはひそかに思った。
「何の用だ」
サンジを見て言う、その表情からは、感情がまったく読みとれない。ゾロもわりとそういうところがあるけれど、ミホークはさらにその上を行っていた。
「あの、じつは俺、コックをやっておりまして、このたびケーキを焼かせていただきまして、よろしければご試食していただけないかと思いまして」
威圧感にのまれ、少々おかしな言葉づかいになりつつ、ケーキを包んだアルミホイルをミホークに見せた。
「ケーキか」
「バラティエ、というレストランを知ってるでしょう? 」
ロビンが、サンジの後ろから助け船を出してくれる。アルミホイルに注がれていたミホークの鋭い視線が、ロビンへと向けられた。
「彼はね、そこのコックさんなんですって。副料理長だそうよ。今は、ちょっと事情があってお休み中だけど」
すると、ミホークの眉がぴくりと動き、微動だにしなかった表情筋がわずかにゆるんだのを、サンジは見逃さなかった。
入れ、と短く、ミホークは言った。



サンジがやると言ったのだが、客人をもてなすのは家主の務めだ、とミホークは生真面目にそれを断った。
二人分の紅茶を淹れてくれる。ひと口飲んで、サンジは感心した。うまいのだ。ミホークは、なかなかのこだわり派のようだった。
「副料理長、というと、ゼフの息子か?」
「息子じゃねえよ」
なんとなくミホークに親近感が湧いてきたサンジは、言葉づかいを通常に戻した。ミホークもとくに気にせず、そうだったか、とうなずいている。
「ジジイを知ってんのか?」
「何度か店に行ったことがある。最後は、たしか半年以上前だが」
サンジの帰国前だろう。うまい店だ、とミホークが言い、ケーキを口元に運ぶ。さっきよりさらに、顔の筋肉がゆるんできていた。甘いものが好き、というのはどうやら本当らしい。
「うむ、バラティエの味だな」
その言葉だけで、なあんだすんげえいいやつじゃねえか、とサンジはミホークをかなり見直した。サンジも、自分のぶんを皿に置いて食べはじめる。味わうようにゆっくりと食べているミホークを見ていて、持ってきてよかったな、とサンジはうれしく思った。
ふと、リビングの壁側に置いてある、立派な本棚が目に入った。そうだ、そういえば小説家なんだった、といまさらサンジは思い出した。
「なあ、あれ、全部あんたが書いた本? 」
「全部ではないが、主にな」
「見てきてもいいか? 」
ミホークに了承を得て、サンジは本棚からぱっと目に付いた本を一冊抜き取った。文庫本よりは大きく、ハードカバーの単行本よりは小さいそれの、表紙には男女のイラストが描かれている。タイトルは、青い瞳の略奪者、だった。
ミステリーなのかな、それにしてもなんかすげえタイトルだな、と思いつつ、著者名を確認する。
「ジュラキュール・ミホーク、って……」
サンジは本を持ったまま、目を見開き、ミホークのほうを見つめた。そうだが、とミホークは、紅茶を飲みながら、軽いうなずきを返す。
「ハーレクイン小説の超大御所作家じゃねえか! 」
「そう呼ぶものもいるが、よく知っているな」
「いや、昔さ、ちょっとつきあってたマダムがあんたの大ファンで、サイン本も持っててよ。そうそう、そういや、俺も何冊か読まされたんだった。この略奪者シリーズ」
たしか当時の帯には、ハーレクインの枠をはるかに超越した大傑作、とかなんとか、派手な煽り文句がついていたように思う。男性作家、というのも珍しいように感じたし、男であるサンジが読んでもなかなかにおもしろかったから、記憶の端に残っていたのだ。
ようやく、ひっかかっていたことを思い出しすっきりとする。しかしそれにしても、この一見恐ろしげな外見で、まさか女性向けロマンス小説とは。
「あのさ、なんでハーレクインなんだ? 」
純粋に疑問に思い、サンジは尋ねてみた。よく訊かれることなのだろう、ミホークはふ、とわずかに笑った。
「日常に倦んだ者どもに、波乱万丈で華麗な一時の喜びを。それが俺のポリシーだ。人間、暇を持て余すとろくなことはないからな」
「へえー」
サンジが感心したようにうなずくと、ミホークは興味深げに、サンジをじっと見て言った。
「お前の仕事もだろう? 」
「? 」
「ロロノアは近ごろ、以前より険の取れたよい顔をしている」
「そう、……なのか? 」
「ああ。うまいものを食べることも、ひとを癒すからな」
出会う前のゾロが、どんなふうだったかはよく知らない。サンジが知っているのは、いまのゾロだけだからだ。
シャンクスが自分とゾロを引き会わせたのは、ゾロが話していたこと以外にも、何か意図があったのだろうか。
いずれにせよ、ミホークの言葉は、とてもうれしいものには違いなかった。
「お前のこの腕、もっと多くの者にふるまってやらねばもったいないぞ」
「……それは、わかってんだけどな」
なぜだか素直な気持ちで、サンジは言った。もし、シャンクスに同じことを言われたら、たぶん勢い込んで言い返していただろう。
「そうか、ならいい」
ミホークはそれ以上は何も言わず、ずいぶん小さくなった最後の一切れを、フォークでぶすり、と突き刺した。



梅雨の晴れ間は、あの一日だけで、あとはまた数日雨天が続いた。昨夜などはひどいどしゃぶりで、雨音で何度か目が覚めたほどだった。今朝がたようやく雨脚が弱まり、9時を過ぎたあたりで、まるで水切れでも起こしたように、雨は唐突にぴたりと止んだ。
雲はまだずっしりと重いけれど、空の色は、少しずつ明るくなってきている。さすがに、今日はもう降らねえのかもしれねえな。朝食の片付けをしながら、サンジはそう考えた。
洗い物を終えて、時計を見る。ゾロを待っていた。もうすぐ10時半、当直明けのはずのゾロはまだ帰らない。
そういや9時前に救急車のサイレンが鳴ってたな、と思い出していたら、タイミングよくサンジの携帯が鳴った。見れば、念のために登録しておいた、病院の番号からである。
「もしもし」
「荷物、引き取りに来てくんねえか? 」
聞こえてきたのはシャンクスの声だ。
「はあ? 」
「ゾロだよ、ゾロ。ぐっすり眠っちまってよー。揺さぶっても蹴っても大声出しても、ぴくりとも動きゃしねえ。おめえ、どうにかしろ」
じゃあな、救急搬送口そばの階段あがったとこ、スタッフルームだから、いますぐ来い。言いたいことだけを言うと、電話は一方的にがちゃりと切れた。
命令じみた口調は腹立たしいが、ゾロのお迎えに関してはやぶさかでない。さっそく病院に向かい、該当らしきドアをノックしたら、動物が出てきたから驚いた。
特徴的な帽子をかぶっていて、角が二本あって、見下ろすほどに小さい。サンジは、彼(たぶん)を上から下までじろじろと見て、ぽん、と手を叩いた。
「鹿か! 」
「トナカイだ! 」
自称トナカイはチョッパーと名乗った。名前は、たしかにゾロから聞いたことがあった。
よう、とサンジに気がついたシャンクスが、片手をあげた。部屋の隅のほうにテレビが置かれ、昔のドラマの再放送が流れていた。その前にソファがあって、シャンクスはそこに寝そべって、まるで自分の家のようにくつろいでいる。
中央には、長机が二つ向かい合わせにくっつけて置いてあり、ロビンと、鼻の長い男がそこの椅子に座っていた。長鼻はウソップと名乗った。ゾロの姿はないようだ。
「あっちあっち。もう、何してもダメ」
シャンクスが片手を顔の前で振りながら、カーテンで区切られた場所を指さした。
ロビンが立ち上がり、サンジを先導してくれる。白衣のロビンをサンジは初めて見たが、いかにも女医さん、という感じでとてもよく似合っていて、思わず鼻の下が伸びた。
「雨で視界が悪かったせいか、昨夜は交通事故が続いて大変だったらしくって。もう一人の子は明けて早々に帰したんだけど、申し送りで残ってたゾロは、9時ごろ着いた救急車の対応にも入ってくれたのよ。そのあと、ネジが切れたみたいに眠っちゃったの」
ロビンが微笑みながら説明した。物珍しさに、サンジはついきょろきょろと視線を泳がせた。
ここは、どうやら医師の当直スペースらしかった。金属製の二段ベッドが三つ、狭苦しく並んでいて、ひとつひとつがカーテンで仕切られているさまは、サンジにカプセルホテルの悪夢を思い起こさせた。乗ったことはないけれど、テレビで見た寝台列車もこんな感じだった気がする。
ゾロは、そのひとつの下の段で、カーテンを開け放したまま寝ていた。掛け布団を剥ぎもせず、その上に横たわり、聴診器と脱いだ白衣を腹のところに置いていた。
「こういうこと、はじめてなのよ」
「こういうことって……当直明けにここで爆睡しちまうこと? 」
サンジが訊くと、そうなの、とロビンは笑いながら答えた。眠ることはよくあるのだが、これほど何をしてもまったく起きないことが、はじめてなのだそうだ。
「あなたが連れて帰ってくれるって、どこかで安心しているんでしょうね」
そう言って、またくすくすとロビンは笑った。サンジはため息をついて、ベッドの端のほうに腰かけた。
疲れと寝不足のせいだろう、ゾロの目の下は黒っぽくくすんでいる。ゾロ、と声をかけてみたが、やはり起きなかった。白衣と聴診器をロッカーに片付けて、ふう、とサンジはもう一度息を吐く。
「おぶってくしかねえなァ」
「そうみたいね」
まかせてもいいかしら、とロビンが尋ねる。もちろんだよロビンちゃん、とサンジは答えて、ゾロをおんぶした。力が抜けきっている、その体はずしりと重い。もともとゾロは筋肉質だから、見た目よりも体重が重いのだろう。
「おつかれえ」
こちらを見もせず、シャンクスはとても適当なあいさつをする。ドアに手をかけ、赤い後頭部を睨みつけると、いきなり壁掛けの電話が鳴って驚いた。
その途端、背中で熟睡しているはずのゾロが、身を起こしたのがわかった。サンジ、とゾロが言う。
「電話が終わるまで待て」
ゾロは、はっきりと言った。
「――ええ、はい。それでは、消化器科にはもう連絡が行ってるんですね。わかりました。……はい、20分後」
ロビンが電話を切る。なんだったー、とシャンクスが、テレビから顔を逸らさずに尋ねた。
「開業医の先生から、イレウス(腸閉塞)疑いの患者さんのご紹介。すぐオペになりそうだから、消化器科にはすでに連絡がいってるそうよ。私達は搬入のお手伝いだけで、そのまま受け渡すわ」
だから帰っても大丈夫よ、ゾロ。
ロビンがそう言うと、ゾロの身体からふたたびくたりと力が抜け、そしてそのまま、すうすうと寝息を立てはじめた。
ゾロを背負ったまま、寮までの道をサンジは歩いた。サンジの歩調に合わせ、ゾロの靴のつま先が、視界の隅でぶらぶらと揺れている。
眠っているせいか、いつもよりも、ゾロの体温は高いような気がする。湿度もあるのだろう、歩いているうちに、触れあった背中がじっとりと汗ばんできた。
通院患者だか、見舞い客だかわからないが、すれちがう人々が、その都度好奇の視線を投げかけてくる。サンジがそれに愛想笑いを浮かべると、彼らは一様に、まずいものを見てしまった、という感じでさりげなく目を逸らした。
病院の敷地を出る。赤信号にひっかかり、サンジは歩を止めた。灰色の雲のあいだから、薄い青色が透け始めている。
それを見ながら、サンジは、さきほどのゾロのことを思い出していた。
揺さぶられても、蹴られても起きなかったらしいゾロが、あの電話の音だけで、瞬時に目を覚ました。あるいはそれは、染みついた職業的な反射、みたいなものかもしれないけれど。
「――俺も、どうにかしねえとな」
つぶやいては見たものの、いまだ、どうしたらいいのかはわからなかった。信号が、青に変わる。よいせ、とかけ声をかけ、サンジは横断歩道の白を踏みしめた。

敵いもしねえくせ、俺の猿真似をするんじゃねえ!
てめえは5年も何を学んできやがった!

あのとき、ゼフはそうサンジを怒鳴りつけた。そんなやつはこの店にはいらねえ、と苦々しく吐き捨てた。
「……猿真似、か」
あんたのこの味を守りてえんだ、とは、言えなかった。





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