◆ ちんぴらおっさんじ



そのガキに初めて会ったのは金曜の夜だ。俺は胸糞悪い仕事をようやく終えてねぐらに帰る途中だった。週末の盛り場、活気づいた人いきれは空気が薄汚れていてイラつきを誘う。さっき見た中年男の、すがりつく上目遣いを思い出し反吐が出た。
こんな日は家で酒でも飲んでしこたまオナってから眠るに限る。たしか借りたっきりまだ見てねえAVが3本残ってたはずだった。頭に鈍い痛みがある、欲望でぎらついた奴らの顔を見るとよけいに吐き気がするから、俺は足元あたりを見ながら急ぎ足で歩いていた。
つま先がやや細いクロコの靴、白いスーツの裾が眼に入って我ながら笑いが漏れる。胸元を開けた黒いシャツに金の細いネックレス、まるきりステレオタイプのやくざだ。こういうやりすぎ感は自分でもわりに気に入っている。中学のときクソじじいがぽっくり逝って、俺はあれだけ好きだった料理に関わることが苦痛になった。それからは延々と続くくだらねえ人生、くだらなすぎて逆にどうでもいい。
下を向いたまま煙草に火をつけ、吸い込んだときにどん、と誰かの背中にぶつかった。
「すまねえな」
軽く片手をあげる。相手の顔は見なかった。誰であっても同じだからだ。
「すまねえ、じゃすまねえよ」
おっ、駄洒落かよ。腹から出るドスの利いた声は俺よかステレオタイプだ、こいつおもれえ。
顔をあげるとやたらいかつい今どきパンチの男がいて、俺はとうとうぷう、と噴き出した。しかもバッチをこれみよがしにスーツの襟元につけている。
俺も大抵だがこいつはまた。
「なに笑ってやがる!」
「あーごめんごめん。おにいさん、おもしろいね」
腹を抱えて笑いながらごつい肩をぱんぱん、と叩いたとき、パンチの前に立っている制服姿のガキに気がついた。
きりりとした清冽な風情は、どぎついネオンがぴかぴか光るこの界隈では浮きまくっている。しかも制服は俺でも知ってる有名私立高校のものだった。金でも巻きあげるつもりだったか。おおかた、このパンチにここで絡まれていたのだろう。
ガキは俺をまっすぐに見ていた。俺のなかのどろどろっとした汚れまで見透かすような澄んだ眼をしていた。目を逸らしたかったが逸らせずに、俺はそのガキとしばし見つめあった。
笑われて呆然としていたパンチが、ようやく我に返り俺の手首を掴む。俺はガキから視線を戻し、反対の指に挟んでいた吸いかけの煙草を唇に銜えた。
「オイ、何よそ見してやがる!」
左から顔面に向けてひゅ、とパンチのパンチ――うまい、と俺は心の中で自分を賞賛した――が飛んでくる。食らえばなかなか重そうなそれをひょいと上半身だけで避けてから、俺は強く掴まれたままの手を思いきり手前に引いた。バランスを崩し前のめりになったパンチの肉厚の腹にどうんと膝蹴りを一つ、すぐに手を払って横に飛びのいたのはスーツをげろで汚されたくなかったからだ。新品なのよ。
「ぐ、お、」
案の定、低くうめいた後パンチは膝をつき、嘔吐しながらどさりとアスファルトに倒れこんだ。ごん、とガードレールに頭をぶつけたがまあ頑丈そうだから死にはしねえだろう。
「悪いね、女のびんたは喜んで受けるけどよ、男に殴られる趣味は持ってねえんだ」
握られていた手首を、ひらひらと振りながらガキのほうに向き直る。ガキは昏倒してぴくりとも動かないパンチを静かに見下ろしていた。表情に脅えの色は無く、おぼっちゃんにしては肝が据わってんな、と感心する。
「おい、ガキ」
俺が言うとゆっくりとガキは俺を見た。
「早くおうちに帰んな。それか、お友だち呼んでカラオケにでも行くんだな。ここはあんたみてえなのが遊べる街じゃねえよ」
「遊びに来たわけじゃねえ」
ガキがはじめて喋った。じゃあなに、と俺は尋ねる。らしくねえな、とは頭の片隅で思った。いつもなら声などかけずにこの場を立ち去るはずだからだ。誰がどうなっても別に構やしねえはずだ。
「部活終わって、普通に帰ってただけだ」
「……は?」
「なんか知らねえけど、知らねえとこに出た」
「はあ……、そう……」
「腹減った」
ぐるるるる、とジャストタイミングでガキの腹が大きく鳴った。

結局ガキを連れてすぐ近くのコンビニに入った。腹を減らしたやつを放っとけないのはたぶん、クソじじいから脈々と受け継いだ忌々しい血のせいだ。財布忘れた、とレジでガキが言い、俺はその緑頭を思い切りはたいた。
外で食べるのは俺が嫌だったからアパートまで連れて行った。2DK、古くて手狭だが一人暮らしには不便はない。男がここに入るのなんてはじめてじゃねえか?思い返してみたがやはりどうもはじめてだ。
ガキはいただきます、と手を合わせてから弁当を食べ始めた。自炊はめったにしていないから外食や弁当ばかりだ。おぼっちゃんには口に合わねえだろう、と俺が皮肉ると、俺もできあい弁当ばっかだからとガキはきれいな箸づかいでちくわを摘みながら言った。
「母ちゃんが作ってくんないのかよ」
「母ちゃんいねえ。父ちゃんは今海外だから、家は俺一人だ」
成長期に外食ばっかか、と眉を顰めてから、いやいや俺には関係ねえだろうと思い直す。
「……ふうん、そうか。ま、味わって食えよガキ。俺はなァ、ほんとは女にしかおごらねえ主義なんだぜ?」
「おごりじゃねえ。金、返しにくるし」
俺はガキを見た。
ガキはさっきと同じようにじっと俺を見ていやがる。顔に米粒でもついているかのような凝視っぷりだった。表情がわりあい乏しく何を考えているのかはよくわからねえ。とりあえず、この目は苦手だと思った。
「特例だ、おごりでいいぜ」
「返しにくる」
ガキは背筋を伸ばしてやたら毅然とした態度で言い、それから、俺はガキじゃねえ、ゾロだ、とむっとした顔をした。
俺の本能はこれ以上近づくなと赤いランプをくるくる回しているのに、帰りぎわ、連絡先を訊かれ俺は携帯を取り出していた。



それからときどき、ゾロはうちに来るようになった。言葉どおり金を返しに来たときに財布を忘れて帰り、財布を取りに来ては部室の鍵を忘れて帰り、そうして何度か訪れるうちに俺のほうもガードが緩んでいた。両親が不在がちで兄弟もいないゾロは、兄貴かなんかみてえに思ったか不思議と俺になついてくる。
ある一定の時刻になるとゾロはよく俺に電話をかけてきた。うちに向かっていて、その時間になっても辿りつかなかったら、歩き回るのを止めて電話しろと話してあったからだ。奇跡的なほど見当違いの場所にいるゾロを、俺はぶつくさ言いながら捕獲しに行ったものだ。そういうことを繰り返しているうちに、ゾロは何とか一人でもアパートに来れるようになっていった。
何度目かのときにたまたま冷蔵庫に食材があったからチャーハンを作ってやった。うめえ、あんたすげえなと、ゾロはやたら感心し全開の笑顔を見せた。はじめはなんつう感情の動きに乏しいガキだと思っていたが、そうして年相応の幼さを垣間見せたり、ゾロなりの起伏がちゃんとあることもだんだんとわかってきた。
俺はふたたび自炊をするようになった。ここしばらくは女を作るのすら面倒で、一人きりの食事がほとんどだった。ひさしぶりに誰かのために腕を振るい、それが昔のように嫌悪感を伴わないことに驚いた。
そのころにはさすがに気がついていた。俺はゾロが来るのを楽しみにするようになっていた。いつのまにか、ドドメ色だった俺の生活は、似合いもしねえなんかきらきらしたもんで満たされるようになった。
だがそれで十分だった。
十分すぎるくれえだったのだ。



「お前よ、しょっちゅうウチ来るけど、彼女とかいねえの」
ゾロが学校の話をしていたときだ。魚を煮ながら俺は何気なくそう尋ねた。
なにせ性に興味深々なはずのお年頃、しかもゾロは客観的に見て男前の部類に入る。愛想は悪いが、俺ほどじゃねえだろうがそこそこもてるだろう。だがゾロと話していて、女がいる素振りはまったく感じたことがなかった。
鍋から醤油の匂いのする湯気が換気扇に吸い込まれていき、いねえ、と短くゾロの返事が後ろから聞こえた。正直、うれしく思っちまった。墓穴を掘った。馬鹿な質問をしたもんだと俺は自嘲気味に笑った。
「へえ、もてそうなのになァ」
「もてなくはねえ」
「はっ、言うねえー自慢かよ!もて自慢なら負けねえぞ?えり好みしてんのか?」
「……そういうんじゃねえよ」
「じゃあなに、え、なになに、好きな子いんの。おじさんにこっそり教えてよ」
笑いながら振り向くとゾロは俺のほうを見ていた。膝に置いた手はぐっとこぶしを作り、耳朶を真っ赤に染め睨みつけるようにして俺を見ていた。
それで、俺はわかってしまった。
のちに思い返してみればたしかに、と思えることはあったのだが、俺はほんとうにそのときまでゾロの気持ちにまったく気がついていなかったのだ。
だってまさかだろう、なんてこった。
「あんたが、」
ゾロが言いかけるのを遮るように俺はめしを盛った茶碗をどんと低いテーブルに置いた。床に座ったまま俺を見あげたゾロの、まだ赤い顔を見てめまいがしそうになった。
俺はゾロの前に座り、顔を覗き込むようにしてにっこりと微笑んだ。
「おじさん 女好き 男 興味ない わかるか?」
ゾロは首までをかっと赤くした。それでも目は逸らさずに、わかる、と小さく呟いた。
「わかりゃあいい。その続きは黙ってろ」
さ、食おうぜ。
立ち上がり煮魚を皿に移して手を合わせた。ゾロは動かなかった。魚の身をほぐし口に入れ、うめえやっぱ俺天才だろ、とおちゃらけた口調で言い顔をあげたらゾロはまだ俺を見つめていた。
「……いやだ、俺は、」
「ゾロ、やめとけ」
「いやだ。あんたが俺のことどうも思ってなくても、俺は、あんたが好きだ」
馬鹿が、言っちまった。
俺は頭を抱えたくなったがそれを堪え、箸を置き片頬をあげて出来うる限り下卑た笑いを浮かべた。
「……それで?女の変わりでもするってか?おじさん若気の至りで真珠入っちゃってるし、自慢だけどでけえんだけど大丈夫?」
ん?と俺は首を傾げ腕を伸ばしてゾロの顎を掴んだ。ゾロは目を見開き肩をびくりと揺らした。
そうだ、脅えろ、そしてここから今すぐに逃げ帰れ。
けれどゾロはやはり俺から少しも目を逸らさずに掠れた声を出した。
「あんたがそうしてえなら、俺は――」
言い終える前に俺はゾロの肩を床に押し付けた。のしかかるようにして唇を奪う。がちがちに強張った合わせ目をぬるりと舐めれば、ゾロはそこを開き俺は奥まで舌を突っ込んで思うさま犯した。
ん、んう、とくぐもった声をあげるのが聞こえ俺はせりあがる何かに耐えた。ゾロはまったく抵抗しなかった。体を引き攣ったように強ばらせ、けれど俺の醤油くさい唾液を懸命に飲み込んでいた。俺はゾロの前に手をやり服の上から乱暴にしごいた。
「がっちがちじゃねえの。溜まってたか?俺のこと考えながらしちゃったりすんの?」
耳の穴をなぶりながら囁く。ゾロは背中をくんと反らせ切なげに声をあげた。
「あ、あっ、サン、――んっ」
数度上下させるとゾロはびくびくと吐き出した。上気した頬、目尻には涙が浮かんでいた。俺はすぐにゾロから離れるとティッシュの箱を取り、それを弛緩しているゾロのほうへと放った。
「これで気ィ済んだろ」
「……サンジ」
「悪いけど俺ね、やっぱダメ。男ってのがまず痛えし、お前マグロだしな。二丁目あたりでテク修行でもしてきたら、まあ、考えてやってもいいぜ?」
顔を見ないで一息に言う。後始末したらさっさと帰れ、と俺は低く続けた。ゾロは返事をしなかった。
ごそごそと衣擦れの音がして、それから黙ったままゾロは出て行った。魚は箸をつけられることのないまま、そっくりきれいに残されていた。
俺はのろのろと立ち上がり、ゾロの番号を着信拒否にするために携帯を開いた。そのときにはじめて日付に気がついた。
すっかり忘れていた。
今日は、俺の誕生日だった。
「は、ははっ、……なんとも俺らしいねえ」
笑いながら俺は片手で顔を覆った。酒を飲み過ぎて吐く時みてえに、腹の底から急激に熱いものが込みあげ、ゾロ、と名を呼んだらもう駄目だった。
「ごめんなぁ、ゾロ」
軽蔑されるためとはいえ、誰より大事にしたかったゾロを手酷く傷つけた。体の力が抜け、俺は体育座りでひさかたぶりにわんわんと泣いた。クソじじいが死んで以来、はじめて流す涙だった。
俺が好きなだけならよかった。
一度手に入れたら、俺はゾロを離してやれないだろう。
前途ある健やかな少年を、こんなちゃらんぽらんな人生に付きあわせるわけにはいかねんだよ。



しばらく泣いて泣いてたぶん一生ぶん泣いたな、と思う頃、ドアを乱暴に叩く音が聞こえた。うちはチャイムが壊れていて上からガムテープを貼っつけてあるので、来客者はみなドアを叩くのだ。
こんなときに誰とも顔は合わせたくねえ。無視していたがずいぶんしつこくしかも音が激しくなる。基本的に気が短い俺は戦闘態勢で勢いよく立ちあがり、どすどすと音を立てて前のめりで玄関へと近づいた。
「――るっせえ殺すぞごるぁッ!!……って、……あ?」
顔も拭わないままドアを蹴り開けるとそこにはゾロが立っていた。涙と鼻水をだらだら垂らしたままの俺を驚いた顔で見ていたが驚いたのはこっちも同じだ。
俺ははっとしてシャツの裾で慌てて顔を拭った。なんで帰ってきたと問いただしたいが言葉が出て来ない。ゾロは俺をいつもの俺が惚れてしかたねえまっすぐな瞳で見て、わかんねえから、訊きに戻ってきた、と静かな口調で言った。
「……わかんねえって、何が」
「二丁目ってどこだ」
「……」
「行こうとしたんだけど、場所がわからねえ。行って、修行して帰ってくる。だから場所を、」
最後まで聞かずに俺はゾロの手首を掴んで抱き締めた。なんつう直情馬鹿だ、ほんとに行こうとしてやがった。
ぎゅうぎゅうと抱くと、俺よりも高い体温がじんわりとやさしく伝わってくる。
「――行かなくていい。行くな。俺以外のやつに触らせんじゃねえよ」
「……サンジ?」
「説明は後でするから……もちっと、このままでいて」
おう、と戸惑ったような声でゾロは言い、それでも、俺の背中にしっかりと腕を回した。ゾロは干したばっかの布団みたいな匂いがして、もう離せねえなとぼんやり思った。
まったく笑いが出ちまいそうだ。四十にして惑わず、とかなんとか言った中国のえらいやつ、今すぐ出て来い全力で蹴り倒してやらァ。
この世におんぎゃあと生を受けた日、俺は人生も一度やり直そうなんて恥ずかしい決意をしちまった。





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