◆ プリンス



どこからか、花のような香りがしていた。
硝子細工のシャンデリアから、蝋燭の柔らかな光が降り注いでいる。磨き込まれた床に落ちた淡い影は、風もないのにちらちらと形を変えた。まるで、壁掛けの肖像画に描かれた、歴代の王族たちの目を楽しませるかのように。
回廊の見廻りを終え、ゾロはすうと軽く息を吸い込んだ。甘い香りは、ここを通る女たちが纏った香油のかすかな残り香かもしれない。
ドレスや宝石で身を飾った、高貴な身分の淑女たち。たった一人の男の寵愛を得るため、国中から集まった彼女らは、今は大広間でダンスに興じているはずだった。
重い扉に手をかければ、しとりとした夜気が肌を撫でた。風は鋭い冷気を含んでいるが、頭を冷やすのにはちょうどよい。明るさに慣れた目には闇が濃く、ゾロは、しばしそこに佇んだ。そのままふと背後を仰ぎ見る。
ファサードには緻密な彫刻が施されている。彫像のひとつひとつが、ゾロを静かに見つめているようだった。月明かりを受けてほの白く浮かび上がる宮殿はまるで夢のように美しい。夕刻にほんの一瞬だけ盗み見た、今宵の主役であり、ゆくゆくはこの国を統べるはずの男の、気品に満ちた立ち姿を思わせた。
花の香りは、もうしない。楽団の奏でる調べがかすかに耳に届いて、そっと瞼を閉じた。
もう一度、今度は深く息を吸い込む。
想いを断ち切るように頭を振り、中庭へと続く道をゾロは歩みはじめた。



近隣国との縁談話を、この国の王子であるサンジはことごとく拒絶しつづけた。
いわく、結婚相手は自分で決める。政略結婚などまっぴらごめんだ、と。
恋多き男だという風評を裏付けるようなそれに、すでに高齢である国王は頭を悩ませた。再三の説得にも頑として応じない息子よ、ならば自分で選ぶがいいと、サンジの誕生日にあたる今日、宮廷舞踏会を催したのだった。
ゾロは王室師団に属する武官であり、同い年のサンジの幼馴染でもある。本来ならば近衛兵が城内の警護にあたり、騎兵隊を統率する立場にあるゾロは城門を固めるべきであった。だが、サンジたっての希望でこうして城に残っている。
それがなにを意味しているのかくらいは、よく承知していた。
「……冷えてきたな」
真冬には凍てつくこともある噴水は、いまは豊かな水を湛えている。先ほどよりも広間に近づいたぶん、緩やかな旋律は鮮やかさを増していた。
今ごろサンジは誰かの白い手を握り、細い背にその腕を回して、優雅な足取りでワルツを踊っているのだろう。
喉が締めつけられるような錯覚を覚え、未練がましい、とゾロは自嘲する。はじめからすべてわかっていて、受け容れたのはおれのほうだろうが、と。
ゾロの母親がサンジの乳母をしていたため、幼い頃はいつも一緒だった。王族と、代々それに仕える武官の息子。無邪気な幼年期を過ぎれば、歩む道を分かつ日はほどなくやってきた。
隣国との休戦協定が締結され、数年ぶりに国に戻ったゾロのもとに、サンジはすぐに駆けつけた。いつからか密かに焦がれていた手を伸ばされたとき、それがただの物珍しさや気まぐれからでも良いと、そう思ったのだ。
熱に駆られた幾度もの夜を思い出す。耳元で幾度も名を囁かれ、甘い言葉に身を撓らせて、知るはずもなかった深い快楽を知った。奔放に求めあった蜜の日々は、忘れようもなく心と体に刻まれている。
後悔はしていない。城に残されたのは、むしろサンジの優しさだとゾロは思った。下手に希望を持たせられるよりもずっといいだろう。
そしてゾロは、これまで通り王室のために身を尽くすことを誓い、この国を、ひいては、やがて王となる愛しい男を守り続ける。
ゾロは敷石を踏み、ゆっくりと噴水に近づいた。跳ねる水しぶきが頬を湿らせる。波を立てる水面には、城から漏れる明かりが映り込んでいた。
「……サンジ」
二度と口にしないだろう名を、これが最後と決めて唇に乗せる。指先を水に浸してみる。切りつけるような冷たさにぶる、と腕を振るわせたとき、呼んだか、と背後から聞き慣れた声がした。
「その名でお前に呼ばれるのは、ひさしぶりだな」
――ゾロ。
己を呼ぶ響きのある声に、しかし、振り向くことは叶わなかった。濡れたままの手が体温を奪っていく。それにも構わず、ゾロは立ち尽くした。軍服の肩章がはたはたと風に揺れる。唾液を飲み込む音が、やけに響いたように思われた。
「……なぜ、ここに」
「わからないか?」
「わかりかねます」
「決まっているだろう。お前に会うためだ」
「舞踏会はどうされました」
「どうにもつまらなくてな。抜け出してきた」
「殿下、お戯れはほどほどに――」
強張った肩を、後ろから伸びた手がそっと掴んだ。
ゾロ、おれを見ろ。
優しい所作とは裏腹の、抗うことを許さぬ毅然とした口調にゾロは振り向いた。
月の光を散りばめたような金の髪、まばゆいばかりの純白の正装服に、王族だけが纏うことを許されるロイヤルブルーのマントが首元で留められてる。間近で見るその姿は高貴さと威厳に満ちて、思わず息を詰めた。
「どうした。見惚れたか?」
悪戯っぽくサンジは笑う。声は記憶にある甘やかすようなそれで、ゾロの胸を痛めた。こんなときに、いつものからかいならば酷い男だ。
「馬鹿なことを」
「調子が戻ってきたな」
「今すぐ、広間へお戻りください殿下」
「なにをしに来たか、わからないとは言わせない。おれがなぜわざわざお前をこの城に残したと思う」
「……諦めさせるために」
答えると、サンジは目元に笑みを刻んだまま、ゾロの耳元に唇を近づけた。熱を帯びた息が、耳朶をくすぐる。繊細な指先が肩から腕へするりと滑り降りた。
痺れるようなその感覚は、入念に施される愛撫を思い起こさせた。
「愛していると、何度言えばいい?」
低い囁きは情事のときのそれで、体の力が抜けそうになるのをかろうじて堪えた。ゾロを深い絶頂に導きながら、たしかにサンジはこうして繰り返し愛の言葉を囁いた。
だが、剣ばかりだった自分とは違い、恋の手管に長けているはずの男の、睦言を鵜呑みにすることはどうしてもできなかった。
ましてやゾロは男であり、一介の武官にすぎない。性別も身分も釣り合わないサンジが本気になるはずもないと、ずっとそう思っていたのだ。
「誰にでも……言っているのかと」
呟く声が震える。
率直だな。だがお前らしいよ。
そうサンジは笑い、それから、ゾロの冷えきった手を暖めるように包んだ。
「たしかに恋はいくつかしたな。いや、しようとした。……お前を諦めるために」
「……おれを?」
「ああ。だが無理だった。離れているあいだも、誰といても、お前のことばかり考えていた。だからおれが心を捧げるのは、生涯でお前一人だと決めている」
耳に心地よいサンジの声を、ゾロはただ陶然と聞いていた。
サンジの顔がゆっくりと近づいてくる。
長い指が、いとおしげに髪を撫でた。



服が汚れるのも構わず、サンジは地面に片膝をついた。
ゾロの手を取り、その甲にそっとくちづけを落とす。
「どうか、おれとワルツを。わが愛しの騎士隊長どの」
見あげてくるサンジの澄んだ瞳は、たしかにゾロだけを真摯に映している。滑らかな金髪は、薄闇のなか、幻想的な青白い光を纏っていた。
言葉を失っていると、サンジはゆっくりと立ちあがり、ゾロの伸びた逞しい背にその右手を添え引き寄せた。
「サンジ、おれはワルツなど」
「ステップくらいはできるだろう?」
「しかし」
「大丈夫だ。お前はただ、おれに身を任せていればいい。さあ、左手をおれの肩に。三拍子だ、足元は見るなよ」
「どこを見ていればいい」
サンジはゾロの手を握りしめた。
向けられた、柔らかく優美なその微笑みに、ゾロのほうこそがすべてを奪われた。
「おれだけを」
サンジが一歩を踏み出して、ゾロもそれに続いた。
深まりゆく夜のなか、ゆったりとした美しい調べは不思議と途切れることなく聞こえていた。
二つの靴音はだんだんと混ざりあい、やがて、どちらものだかわからなくなった。






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