◆ お江戸料理人
 


そよとそよぐ短い髪が、若草めいて見えている。陽だまりでは可憐なすみれの花が、小さな花弁を揺らしていた。
底冷えする日もまだあるが、少しずつ、長い冬は遠のきつつあるようだ。
「……いくら春が近いっつっても、寝すぎだろうよ」
いや、まだ冬眠してんのか?
船着き場の石段に腰かけ、長煙管をくゆらせながら、サンジはなかば呆れて一人ごちた。気がついたのは、五日前だ。河原沿いの草に埋もれるようにして、いつも昼寝をしている浪人風の男がいる。
はじめに興味を引いたのは、腰差しの刀が三本もあることだった。人相を見れば、といっても寝顔しかわからないが、左目にはそれを裂くような傷痕がある。そうした物騒な外見とは裏腹に、男は大の字でそれは健やかに眠っていた。サンジがここで飯を食い、のんびりと煙管を楽しむあいだ、一度も目を覚ますことなく寝腐れている。
「お気楽なこって――」
とんと灰を叩き落とし、口調は忌々しげに、けれど唇の端は自然と緩む。そう長くもない貴重な休憩どき、男の寝姿などで和んでいる自分が不思議だった。
サンジは、川沿いにある船宿で働く料理人である。お抱え船頭が急な病で臥したとかで、女将であるナミに頼まれ十日ほど前から客船を漕いでいた。以前にも何度か頼まれたことがあるから、何事にも器用なサンジは船頭の真似ごとくらいはできるのだ。
もちろん、船宿に帰れば料理人としての仕事も待っており、労働量自体は常よりぐんと増えている。だがそれがずっと続くわけでもない。船頭が回復するか、代わりの者が見つかるのが早いかはわからないが、いずれにせよそう先の話ではないだろう。なによりナミの頼みだから苦痛ではなかった。女の喜びは、あまねくサンジの喜びだ。
舟のほうに、視線を移す。浅瀬の葦がさらさらと音をさせてなびいている。川面も同じように小さな波紋を立て、光の粒を振りまいていた。
よっ、と声を出して立ちあがり舟に戻ると、サンジは握り飯の包みを持って河原に向かった。男から適度な距離を取って、腰かける。こうするのは三度目で、前の二度とも、とうとう男は目を開けなかった。
しかし、今日は違っていた。
サンジが座った途端、男はごろりと寝がえりを打った。一瞬ぎくりとしたが、起きたわけではなさそうで、広い背が規則的に上下している。けどこれじゃあ顔が見えねえ。思ってから、おれはこいつの顔が見たいのかと首を傾げた。
空をじっと見あげて思案してから、尻をずらして少しだけ距離を詰めた。
横顔を、覗きこむ。描いたように整った眉の下、血管の浮く薄そうなまぶた、まっすぐな睫毛が存外に長い。鼻すじは涼やかに通り、薄く開いた唇から頑健そうな白い歯が見えていた。
もう少し、顔を近づけてみる。
「――おい」
「うわっ!」
思わず声をあげる。男がぱちりと目を開け、ちらとこちらに視線を投げてからのそりと起きあがった。頭についた草を乱雑な所作で払いながら、てめえ、なにがしてえんだ、と男は言う。
少し嗄れた、男くさい声だった。
「なに、って」
「おれに用でもあんのか」
「用、は……ねえかな」
「じゃあなんだ」
怒っているふうではなく、ただ淡々と男は問うた。純粋に意図がわからないのだろう。でもそれは、サンジとて同じなのだ。
「殺気はねえから放っておいたんだがよ。日に日に近づいてくるし、物盗りかと思やァそういうふうでもねえ」
初めから気づかれていて、寝たふりをされていたのだ。距離を詰めていたのまで気づかれていたとわかり、サンジは顔が熱くなるのを感じた。
男の疑念はもっともだ。だけど、なにがしてえんだ、なんておれが訊きてえくらいだとサンジは思う。
答えられずに黙っていると、男は、サンジの手元の包みを見つめた。
「握り飯か」
「……腹、減ってんのか」
「あーまァな」
男が腹をさする。腹はだいたいいつも減ってるけどな、と鷹揚に続けた。たしかに金があるようにはあまり見えない。
「――食うか?」
思わず尋ねていた。
無表情にも見えた男の顔が、ほんのわずかうれしげに緩むのを、サンジは見逃さなかった。


それ以来サンジは、握り飯を二人ぶん用意するようになった。半刻ほどの休憩のあいだ、男と河原でともに時間を過ごすようになった。
男はゾロと名乗った。賭場の用心棒をして日銭を稼いでいるという。仕事は主に夜だと言い、だから昼間は寝てばかりいるのだろう。物騒だなと顔を顰めると、強え奴も多いから楽しいぜとゾロは言った。
怪我することもあるんじゃねえのと言えば、ま、そういうこともあらァな、と、あっけらかんと笑う。その顔はずいぶんと無邪気で、それを見てサンジはなぜか胸のざわつきを感じた。と同時に、少しばかり苛立ちが走ったのを不思議に思った。
宿から乗せた客を下ろし、艪綱を棒杭にくくりつけながら、河原を見ればそこにはゾロが眠っている。少し離れたところで寝姿を見ながら一服やって、それから近づいて声をかける。目を開けた瞬間、飯か、とゾロが当たり前のように言う。
それが、いつのまにかサンジの楽しみになっていた。



しばらく暖かい日が続いたあと、その日は急に冷え込んだ。時候はずれの雪まで降っている。さすがに今日はいねえだろう、そう思いながら漕ぐ艪はいつもより重かった。
船着場についてから、白で埋まった河原を見てため息をついた。やはりゾロの姿はない。肩を落としふと橋のほうを見ると、その下の薄暗がりに人らしき姿があった。
まさかと思い笠をあげて、目を凝らしながら近づいた。朱塗りの橋の下、ゾロはいつものように横にはならず、あぐらをかいて座っていた。船着場とは反対の方角をぼうと眺めている。
足音に気がついたか、ゾロは振り向いた。鼻の頭が赤い。
飯か、といつものようにゾロは言った。
「……おう」
サンジも隣に座る。笠をはずし、ゾロに包みを渡した。掠めるように触れた指は冷えきっている。飯を頬張りながら、二人で並んで雪を眺めた。
しんしんと降る雪は細かく、音も無く辺りを埋め尽くしていく。橋の上を通るひともまばらのようで、ゾロの気配だけがやけに近くに感じられた。
「積もりそうだな」
ゾロが呟いた。その横顔を、サンジは見た。
「お前よ」
「?」
「今日、なんでここに来た?」
サンジが尋ねると、さァな、とゾロはかすかに笑った。そのまましばし黙り込む。サンジは食べ終えた包みを地面に置いて、ゾロの返事を待った。
「――自分でも、よくわからねえが」
「ああ」
「お前が来るって思ったら、行かなきゃなんねえような気がした」
「そうか」
「おう、そうだ」
ゾロは、自分で納得するように頷いた。
「……おれはな、ようやっとわかったぜ。ゾロ」
サンジが言うと、ゾロがこちらに顔を向ける。なにが、と問う、それには答えずに指を伸ばした。
まぶたの傷を、そっとなぞる。刃物でできた傷だとゾロは言った。ちゃんと視えるから構やしねえと、まったく何でもないことのように。
着物の裾から覗く足首にも深い傷があるのを知っている。
きっと、他の場所にも。
「おれは……おれな、お前にやさしくしてえみてえだ」
なんつうか、大事にしてやりてえ。
サンジが笑うと、ゾロは目を見開いた。それから、すぐに視線をずらした。とっくにしてもらってると低く言う。
まぶたから指を離し、膝に置かれていたゾロの手を取った。冷えていたはずのてのひらは、熱かった。わずかに肩を揺らしたが、ゾロは抗わなかった。
それきり、二人とも黙って、ただ淡く熱が混ざりゆくのを感じていた。



宵の内には雪はやみ、積もることはなかった。あくる日、船宿に着いたサンジのもとに、ナミが駆けてきた。船頭の代わりが見つかったから今日から舟には乗らなくてよいという。
咄嗟に、ゾロの顔が浮かんだ。
「ナミさん、今日まで無理かな」
「今日はひさしぶりに上客が入ってるの。顧客になってもらう絶好の機会なのよ。うちの自慢の料理は、サンジくんじゃないと」
手を合わせて請われ、サンジには断ることができなかった。そのまま台所に押し込まれ、気もそぞろに、しかし仕事をきっちりと終えてからサンジは走った。船着場へ着いたのは日も落ちかけた暮れ六つで、ゾロの姿はどこにも見当たらなかった。
それからも数日客が賑わい、昼どきにはどうしても抜けられない。賭場の用心棒をしているという話を思い出し、仕事が明けてから回ってみたが、なにせ賭場などいくらでもあるし、知られていないような場所もあるだろう。人相を話し尋ねてみても、みな首を横に振るばかりだった。
文を預けることをようやく思い立ったのは、その後だ。われながらどうかしていた。船頭に駄賃を渡し言付けたが、そんな男はいなかったと返された。ゾロはもう、あの場所にはいないのだ。
どっかで腹ァ空かせてんじゃねえのか。おれのことを待ってるんじゃねえか。
そう思うのは、うぬぼれだったろうか。
「ハ、ざまァねえやな……」
笑うつもりで吐いた言葉は掠れ、開かれなかった結び文を、サンジは握りしめた。



提灯に火を移し、土間へ降りて心帳棒をはずす。裏店の引き戸を開け、サンジは家の外に出た。月も星も無い曇り空、夜は纏いつくようにとろりと濃い。
どうしても諦めきれず、毎日のように賭場を歩き回り、さすがに疲れはて早めの床に着くつもりだった。だが眠りはなかなか訪れず、業を煮やしたサンジは起きあがり、少し頭を冷やすためにも外の空気にあたることにしたのだった。
サンジの住む裏店は近ごろ空き家が多く、住人がいるはずの家もみなすでに明かりを落としている。うら寂しいもんだ。思いながら長屋木戸のほうを見やると、そこに人影があることに気がついた。
 近づいてみる。物騒な気配は感じなかった。目の前に立っている男を見て、サンジは目を疑った。
「ゾ、ロ?」
サンジも驚いたが、ゾロも驚いた顔をしていた。どうやら、訪ねて来たというわけではなさそうだ。
湯屋帰りなのか手拭いを肩にかけ、ほのかに湯の香をさせている。しばし二人で呆然と見つめあった。
サンジの手元、提灯の赤味がかった光が暗がりにぽうと浮かんでいる。
「――なに、してんだ」
サンジはようやく、言った。喉が急に渇いて、都合のよいまぼろしなのではないかと思えた。サンジの言葉に、ゾロもはっとした顔をする。
「考えごとしながら帰ってたら、ここに着いちまってよ。誰かに道、訊こうと思ったんだが」
あの家しか明かりがついてなかった、とゾロは続けた。
視線の先を追えば、それはまさしくサンジの住屋だった。
「家、あんがい近ェんだな」
「ゾロ、すまねえ。……おれよ、」
言いかけた言葉を遮るように、道を訊いたらすぐ帰る、とゾロは言う。誤解させたかとサンジは慌てた。
「そうじゃねえよ。そのすまねえじゃなくて」
伝えたいこと、言わねばならないことが多すぎてうまく出てこないのがもどかしい。
ゾロはサンジを見つめていたが、サンジが黙り込んだのを見てとると、先に口を開いた。
「迷惑、かけちまってたんじゃねえかと」
「……」
「お前が急に来なくなっから。それで、おれも」
行かなくなった、とゾロは続けた。じゃり、と、石を踏む音がする。
「顔が見てえと思いながら歩いてたらここに着いて、おめえが来たから驚いた」
夢じゃねえかと。
ゾロが静かに言う。笑んだその顔は、これまでで一番おだやかだった。
「……おれも……おれも驚いたよ」
おれも、会いたかった。
やっとのことでそれだけを言った。



腹減ってねえか。
震えそうな声で尋ねれば、腹はだいたいいつも減ってる、とゾロはあのときと同じように答えた。
「飯、食ってけよ」
「いまからか」
「急いで炊くから」
「おう」
お前の握り飯が一番うめえ、とゾロが言う。当然だというその表情が、心を温める。
サンジが手を差し出すと、ゾロはその手をしっかりと握った。
裏店に戻りながら、ああ、今日はなんてえ日なんだと、自分の産まれ日など知らぬサンジは誰にともなくそう問うた。






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