◆ 高校生




今年はおめでとうを言いそびれたと、気がついたのは家に着いてからだった。

ばん、と音を立ててドアを乱暴に閉める。鞄を投げるように机に放り、制服のまま床にどさりと転がった。春めいた日が何日か続き、庭の梅も蕾みはじめていたが、今日は冬が戻って来たかのような寒さだ。底冷えがして、板張りの床からは冷気がひたひたと染みてくる。
うるさいよ、ゾロ!
階下からのくいなの怒鳴り声は聞こえないふりをして、横向きになったゾロは目を瞑った。夕飯にはまだ早い。眠ろうとしてみたが眠気は少しもやってこなかった。
ごろり、と寝がえりを打つ。遅くなってきた日暮れの淡い光が、まぶたの裏にちらちらとする。サンジの後ろ姿と、その隣に並ぶ小柄な少女の楽しげな横顔が、浮きあがるように現れてゾロは頭を振った。
サンジとは、幼稚園からの腐れ縁だ。驚くほど気が合うこともあれば、同じくらい腹が立つこともある。笑いあうのと同じくらい掴みあいの喧嘩もしただろう。だが、不思議と長いこと、ゾロとサンジは一緒にいたのだ。
サンジが横にいるのが、あたり前だと思っていた。登下校はたいてい一緒だ。学校が休みの日も、たびたびどちらかの家に遊びに行く。
なんでてめえと、色気もクソもねえ。そりゃあこっちの台詞だ。そんな憎まれ口を叩きあいながらも、もちろん、お互いの誕生日だってそうだったのだ。
だから、考えてもみなかった。
息のしかたを忘れでもしたように、ひどく胸が苦しかった。



「――好き、だってさ」
サンジが唐突に言いだしたのは放課後で、バレンタインの翌日のことだ。部活が終わってから忘れものに気がつき、二人で教室に戻ったときだった。
それまで何の話をしていたかは、覚えていない。記憶に残らないほど他愛のない話だったのだろう。グラウンドからは、まだ部活中の生徒のかけ声が聞こえていた。夕陽が長く窓から射し込んでいて、ゾロの上靴を赤っぽい色に染めていた。
「好きだって言われた。隣のクラスの子」
ゾロは、返事をしなかった。意味を理解するのに少し時間がかかった。
聞いてるか、とサンジが言い、聞いてる、と答えた声が掠れたのが自分でわかった。
「前から、だってよ」
「……へェ」
「つきあってほしいって」
「そうかよ」
相槌は、放るような乱暴なものになった。サンジがこちらを見ているのがわかったが、ゾロは顔を向けなかった。
机を探って教科書を鞄に突っ込んでいく。一冊、ばさりと床に落ちたものを拾った。ページが折れ曲がり、砂で汚れてしまったのを見てひどい苛立ちを感じた。
「そうかよって、そんだけかよ」
サンジの言いかたには、棘を感じた。じゃあ、他になんて言えばいいんだ。考えてみたがゾロにはさっぱりわからなかった。
だから、尋ねた。
「……それ以外になにがあんだよ」
今度はサンジが黙り込む。だんだんと暗くなる教室は、空気までもが重くなっていくようだった。
息を詰めたとき、はは、と、サンジが笑った。
「そうだよな。関係、ねえよな。お前には」
明るい声だった。馬鹿話をするときとまったく同じような。ゾロはとうとう顔を上げられなかったから、サンジがどんな表情をしていたのかは分からなかった。
それきり、サンジはその話をしなかった。寝坊しがちなゾロを、文句を言いつつ毎朝家まで迎えに来ていた姿は、翌日からふつりと消えた。下校時刻になると早々に教室からいなくなる。顔を合わせれば、よう、とあいさつくらいは交わすけれど、話をすることは一切なくなった。
避けられているのだとわかった。
だが自分から話しかけようにも、あんなに毎日一緒にいたのになにを話したらいいのかわからない。
何日かして、他の友人を通して、サンジが隣のクラスの女とつきあいだしたことをゾロは聞いた。



ドアをノックする音がして、返事をする前に足音が近づいた。ぐり、とわき腹あたりに足の指が食い込み、ゾロはそれをてのひらで払う。
「やめろ。出てけ」
「お客さまよ、ゾロ」
早く起きなさいとくいなは言う。頭をはたかれて、ゾロはしぶしぶと起きあがった。そういえばさっきチャイムの音がしていた。ルフィでも来たかと思いながら立ちあがれば、廊下には見慣れた金髪が佇んでいた。
ゾロは立ち竦んだ。
おす、とサンジは片手を上げた。その片頬は赤く腫れている。
「……よう」
私は夕ごはんの準備するからねー。くいなが声をあげながら階段を降りて行く。そのまま、台所へ向かうのだろう。
二階にはサンジとゾロの二人だけが残された。
「――入るか」
「いや、いい。すぐ済むからさ」
サンジは、ぎこちなく言った。ゾロは部屋から出てサンジの前に立った。こんなに近くでサンジを見るのはひさしぶりだった。
制服のズボンをぎゅ、と握りしめる、自分よりもずっと器用なその指をゾロは見つめた。
「彼女は」
「……あー」
「一緒だったんだろ」
「ああ。でも、ふられた」
見りゃわかんだろ、と左頬を出す。漫画みたいに手形がくっきりとついていた。
漫画みてえだぞ、と思わず言うと、お前、ほんとひでえとサンジは情けないような顔で言った。それから肩をすとんと落とし、ズボンを握る指をほどいてゾロを見る。
青いきれいな瞳はまるでビー玉のようで、ゾロは幼いころからその色が気に入っている。
サンジに伝えたことは、一度もなかった。
隣に居ることができなくなってから、言っておけばよかったとゾロは思っていた。
「ったく、やるせねえったらねーわ……」
「ふられたからか?」
「ちっげーよバカ! あーあーもーなんでだろほんとによォ」
「だから、なにがだよ」
「めちゃくちゃかわいい子だったんだぜ。健気だし、性格もいいしさ」
「でもふられたんだろ」
「るせえ、二度も言うんじゃねえ! ……だってよ、気づいちまったんだもんよ」
いい子だから、嘘はつけなかったよ。
急に静かな口調でサンジは言い、階段のほうをちらと見やった。一階からは、食事の準備をするくいなの鼻歌が聞こえている。
持ったままだった鞄を床に置くと、サンジは、手を伸ばしゾロの手を握ってきた。ゾロは驚いた。驚いたが、振り払うことはできなかった。
サンジの手が汗ばんで、少しだけ震えていたからかもしれない。
「なァ、言えよ。聞きたくて来たんだ」
「なに、を」
「クソ鈍感マリモめ。彼女じゃなくてお前の口から聞きてえんだよ」
男だし、おれよかごついし、とんでもねえ迷子で呆れるくらい剣道バカで、でも、でもおれはお前がいいんだよ。
下を向いたサンジの耳は、赤く染まっている。それを見ていたらゾロのほうまで顔が熱くなってきた。
とくとくと、心臓の音が早くなっていく。
「今日が何の日か……まさかお前、覚えてねえの」
「あ?」
「あ、ってよぉ……」
「そうだ、おめでとう」
ゾロがふいに思いついたように言うと、サンジは、大仰にため息をついた。
「そうだ、じゃねえよ。ほんっとしかたねえなおめえは」
はん、と鼻で笑われ、いつもならば大喧嘩になるところだ。だがサンジの顔を見たらゾロはなにも言えなくなった。
目の前の顔は、今にも泣きそうな笑顔だ。
「しかたねえから……おれがずっと一緒にいてやる」
その意味をぼんやり考えていると、握ったままだった手をぐいと引かれる。長い腕に、強く抱きしめられた。
急なことで頭は混乱している。
ただ、またサンジの隣に戻れるのだということだけは、はっきりわかった。
自分が、それを心底望んでいたことも。
「誕生日、おめでとう」
もう一度ゾロは言う。
これまでに何度も言ったその言葉を、できるだけ気持ちを込めて。
ありがとう、と嗄れた声でサンジは言った。






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