規則正しい雨音の中で、タママは夢を見続けていた。
初めて買ってもらったヒーロー柄の傘を持ってはしゃぎ回った幼い頃。
辛かった訓練所での雨中鍛練。
今の隊長に引き抜かれ、初めて顔を合わせたのも雨の日だった気がする。
自分を見い出してくれた隊長と、一癖も二癖もある小隊メンバー。
隊のカラーがあんなに飄々としていたのは、隊長の性格のおかげかも知れない。
厳しいけど頼りになるギロロ伍長。
捻れた性格してるけど頭のいいクルル曹長。
僕よりナイーブだけど本気になったら見事な技を見せるゼロロ兵長。
そして―――――

雨音は鳴り止まない。
タママは目を閉じたまま、再び深い眠りの中へ落ちていく。



「ゆっくり。……いいですか? 目を開いて」
何者かに呼ばれ、目を開ける。
ここはどこだろう?
とても静かで、とても清浄な場所。
吸い込んだ空気がこれまでと違う事に思い至る。
「力を抜いて、ゆっくり。……ゼロロ兵長、あなたの施術を解除します。強心剤をお願いします」
ああ、ここでは雨が止んでいる。
そう意識した瞬間、これまで術の力で封じていた苦痛が一気に全身に流れ込んで来た。
鼓動に合わせて凄まじい苦悶が始まるのを、抱きかかえるようにして支えたのは女性看護士。
気が狂いそうな痛みの中で、ゼロロはそこがケロン軍の救命艇の中である事に気付く。
「しっかり、ゼロロ君。……あなた立派だったわ」
既に限界を越えていた身体は、悲鳴を上げて一斉に過負荷を訴える。
「ぼく、は…… どの位、気絶、してたん…… だ?」
「安心して、ほんの二分程」
医療チームが忙しく入れ代わり、その腕に注射針を突き立てたり、吸入器をセットしたりしていた。
「……はや、く。小隊の、みんな、を…… ベースが……」
「わかった。正確な場所を教えて。そこにケロロ君たちもいるのね?」
もう呂律も回らない。
ゼロロはゆっくりと頷く。
この女性看護士の顔には見覚えがあった。
確か、訓練所で……
「ここから、西。……小型、宇宙艇の、水没地点、より…… 1・5キロ……」
マツノハ、トモダチ。
言語として発している言葉と、自分に言い聞かせた呪文のような言葉が脳裏に錯綜するのを感じながら、ゼロロは意識を失った。



きれいに大穴の開いた宇宙艇の先端部は、まるで岩石で出来た洞窟のように見えた。
例えどれほど賢い精密機械の固まりであろうと、沈黙した時点で物言わぬ岩と変わらない。
ギロロは担いで来たバズーカを降ろし、汚水の湖畔からロープを渡すべく準備を始める。
既に身体は限界に近く、射出される杭の位置を何度も確認しなければならなかった。
何度も雨に滑りながら、ようやく発射した杭はまっすぐに船の最先端を捉え、ギロロは大きく息を吐く。
しかし、休んでいる暇はない。
あの濁流に、いつベースが流されるか。
霞み始めた目を擦り、ギロロは滑車に自分の身体を括り付け、大地を蹴る。

すっかり天地が左右になった状態の格納庫は、よく見知ったそことは別物に見えた。
しかし、複座式の機動兵器は嘘のように整然とそこにあり、最後に整備された時のままの輝きを保っている。
「よし、いい傾向だぞ……」
壁面を伝ってコクピットまで辿り着いた時、ギロロは懐かしい故郷へ帰って来た気がした。
この区画だけは、ケロン星を発った時からの空気が密閉され、保存されていたらしい。
コクピットの中はほんの一週間前、システム書き換えのために入った時と何も変わらなかった。
「動いて、くれよ……」
バッテリーはフルだと笑ったクルル。
必ず帰って来いと言ったケロロ。
熱が高く眠ったままのタママ。
救命艇を追ったであろうゼロロ。
戦友の顔が浮かんでは消える。
祈るような気持ちでレバーを引くと、切なくなる程懐かしい起動音が響くと共に、四方の液晶パネルに光が灯った。
「よし、いい子だ」



崩壊は突然にやってきた。

最後に残した食糧を強引に口に入れながら、病床の二人には気休め程度の解熱剤を飲ませる。
いつこの場が流されても対処が出来るよう、ケロロは脱出の準備を始めていた。
ギロロもゼロロも必ず戻ってくる。
そう信じ、ケロロはクルルに雨具を着けさせた後、その身体に命綱を固く結び付ける。
同じようにタママの身体をロープで縛ろうと、シュラフから引き起こそうとした時であった。
腹に響く激突音。
次の瞬間、ケロロの視界を覆ったのは、ゆっくりと崩れてきた木箱の山。
声を出す間もなく、今度はそれを押しやった大量の水が流れ込んで来る。
踏みしめていた筈の地面はいつしか消え失せ、圧倒的な水圧に足を取られる。
咄嗟に掴んだのはテントの支柱。
しかし、それは掴んだ方へぐにゃりと撓り、他の何本かと平行に横倒しに近い状態に曲がる。
唐突に支柱に被さっていたテントの厚布が剥がれ、悪夢のように空高く舞い上がる様が、まるでスローモーションのように見えた。

残されたのは濁流の中に生えたテントの支柱、そしてそれに掴まる小さな身体。



「水没地点より、西へ約1・5キロ。……微弱ながら信号を受信しましたが、ベースに出来る地点が発見できない」
「ちょっと待って、画像出して」
救命艇はかつてベースのあった地点の上空近くまで来ている。
中では意識を失ったゼロロの処置が施され、既にこの惑星の風土病への血清注射の準備も万全に整えられていた。
「画像、出します」
「拡大して」
大画面一杯に映し出されたのは、すっかり草茎のように撓ったテントの支柱と、それに巻き付くように掴まるケロン人三名の姿であった。



ケロロは背中に括り付けたクルル、そして片手で掴んだタママの身体を支え、支柱を抱くようにして悪戦苦闘していた。
「わ、わ、我輩、生涯一番の、ピンチ、であります!」
水勢に逆らうように立ててある支柱は、この状態ではあと数刻も持たない。
本来ベースにするには最も適さない、脆弱な湿地に差し込んであるだけである。
「ゼロロ、ギロロ、どっちでもいいから! 早く、キテ……」

流れてきた木片や箱が凄まじい勢いで視界から消えるのを、ケロロの背に括られたクルルは見ていた。
彼は今、不思議な程澄んだ頭で、ケロロの身体にかかる負荷について計算をしている。
普段四つに組んで格闘している計算とは違う、単純で馬鹿馬鹿しい数式。
しかし、それは机上だけで玩ばれる、無責任な答えを導き出すものとは違う、命の重さを計る計算であった。
「……なぁ、隊長」
「何でありますか、クルル」
「……3から1引くと、答えは?」
「2! 2! この大変な時に一体何でありますか!」
クルルはケロロが振り向けない事を知って、何事かを企んでいる。
「……俺は、もう疲れた。あんたも、だろ? ……先、行くぜ」
「え、え、えっ!? 行く、行くってどこへ……」

ちょっとそこまで。
そんな口調だった。
クルルはこんな時にもいつものように笑っていた。
ケロロが振り返ろうとした時、肩にかかっていた重みが突然消える。
ロープがぐるぐると回転するように緩み、水面に落ちた時、ケロロは既に視界から消えようとする黄色い手に向かって叫んでいた。
「クルルーーーっ!!」

同じ瞬間、柔らかい土壌に刺さっているだけであった支柱が遂に流れに巻き込まれた。



―――――ケロン時間にして七日。

今度の遠征先はひどい熱帯湿潤帯になる。
それは既にわかっていた。
わかっていたから、軽い気持ちで医局を訪れたのだ。
湿気酔いを起こしやすい体質を抑制するための、薬剤の処方を頼むために。
しかし医局からは許可が降りず、ケロロはクルルを訪ねた。
クルルは一週間追加投与の必要のない、長期間効果が続く抑制剤を提案した。
その薬剤には肉体や精神の暴走を制御すると同時に、本来の機能を一割減程度抑制するという働きがあった。

クルルに負い目があるとすればそこなのだろうとケロロは思う。
そんなこと我輩、ちっとも怒ってないのに
それどころかクルルにまで後悔させて、悪かったであります
流されてゆくケロロは、その腕の中に支えていたタママの身体が離れ、取り返しのつかない場所へ運ばれていくのを感じて我に返る。

タママ、クルル。
ギロロ、ゼロロ。
……我輩、自分が不甲斐ないであります。

ほら、我輩、助けたかった誰のことも助けられなかった。



「馬鹿者! 目、食いしばれっ!」
それは幻聴だったのか。
いや、そうではない。
大きく水面が撓み、我に返ったケロロは自分の置かれた状況に気付く。
数メートル先を流され、浮沈みするタママの黒い身体。
「タママッ!」
その背後に、流されたクルルを塞き止め、救い上げたギロロの二足歩行式機動兵器の姿。
「ケロロ、しっかりしろ! タママを!」

濁流の中に浮沈みする小さな黒い身体。
まだ経験も浅く、幼いタママ二等兵。
それでも人一倍努力をして、毎日その身を虐めるように鍛えていた。
ケロロの中に、彼の言葉が甦る。

 僕、がんばって強くなって、隊長さんに報いたいですぅ

雨の訓練所を訪れ、まだ発展途上だった彼を引き抜いたのは我輩。
そう、我輩には隊長としての責任があるであります。
あんなに慕ってくれたタママを死なせる訳にはいかない。
いかないであります!

突然、ケロロの身体に力が漲る。
腕に、背に、脚に、全てに何か尊いものが降臨したように、ケロロの全身が甦る。
雨が降り続く惑星。
全てが腐食し、黴になり、流されていくだけの一面の水の世界。
どこまでもじくじくと湿り、熱帯の高温に水がゆらゆらと立ち上るような、常に濡れた惑星。
まるでそこが故郷であったかのように、ケロロの身体が力を取り戻す。
地に満ちた水、そして降り落ちる忌むべき雨こそが、その精の源であるかのように。
輝き、眩しい程の光の玉となり、昇天を果たす力。
それは奇蹟のように飛翔する。
天に向けて。

―――――ケロン時間にして七日目。
約束されていた復活が、ようやく完了した瞬間であった。



流れに身を委ねるだけのタママが目を見開いた時、そこには神々しい何者かがいた。
雨音は消え、その背後に幾時ぶりかの晴れ間が見えている。
後光が射さんばかりの尊い姿。
その身体はタママを抱き、流れをものともせず、飛翔する。
ああ、僕の神様が助けに来てくれたですぅ。
途切れかけたタママの意識が再び鮮明になる。
出会いも、転機も、全て雨の中だった。
雨が降れば最強になるあの人が、僕の大切な目標ですぅ。
だから僕も、雨が大好きですぅ。
タママの身体を抱き、天に飛翔しようとするその姿は光り輝く緑。
逆光になって見えなかった顔がこちらを向いた時、タママの意識は既に鮮明に、冷静さを取り戻していた。

「……ぐんそう、さん……」

ケロロはただ、泣いている。
タママの身体を抱きしめたまま。
もう彼は堪えない。
ただ涙が流れ落ちるに任せ、おいおいと泣き続けている。
嗚咽するケロロに抱かれながら、タママは呆然と先刻の自分が出会った神を思い起こしていた。

そこはギロロが引っぱり出してきた機動兵器の、狭い砲座の中。
上段のコクピットでは、ギロロも救出されたクルルも力つき、ずぶ濡れのまま失神していた。



疲れ果てた彼等を見下ろすケロン軍の救命艇が、救出のための梯子を降ろしている。
意識を取り戻したゼロロは、全員の無事を伝えられ、安心して再び目を閉じた。

あれ程小隊を苦しめ、苛め抜いた雨が上がっていた奇蹟に、その時は誰もが気付かなかった。