小型宇宙艇の水没地点。
そこは最初から何もなかったかのように、広々とした汚水の湖が広がっていた。
唯一見える名残りは、船の前方の一角のみ。
数メートル程が氷山のように、水面からその姿を覗かせていた。

救命艇が降下できる地点はこの近くにはない。
東側にある崖を登り切った頂上か、南東にある島状の中洲。そして今にも水に浸され、流されてしまいそうなベースのある西の高台。
選択肢はその三ケ所だった。
しかし、既に水没を待つだけの西側は選択から外れつつある。
原始的な通信機器での救難信号は、その発信区域を絞り込む事が困難であった。
船からの信号以外は『この近辺』という情報でしかない。

暫し逡巡があったのか、救命艇は迷うように旋回した後、東の山を目指し上昇を始めた。



テントに戻ると、より雨音が激しく感じられる。
ギロロは何事かを待つようなケロロの背後を通り過ぎ、一個の木箱の蓋を開けた。
しばらくそこに凭れていると、横たわって休息を取りたいという欲望に負けそうになる。
しかし一度座り込んでしまえば、二度と立ち上がる事ができなくなるだろう。
そんな予感が今のギロロを動かしている。

「どうだった? ギロロ」
「ゼロロが追っている筈だ。……俺は間違いないと思う。あいつなら……」
「問題は、ここがどのくらい持ってくれるか、だよネ……」
外の様子を見ていないケロロにも、この地が流されつつある事に気付いている。
時折地面が無気味なズレを生じ、テントを振動させる度、床に溜った水がタプタプと音を立てた。
「ゼロロが追いついてくれれば、この場所はすぐに知れるが…… どちらが早いか」
ギロロは木箱の蓋を裏返し、そこに一本、線を引いた。
それを見るともなく項垂れていたケロロが口を開く。
「……我輩、今ほど自分が情けないって思った事、ないよ」
「おい、ケロロ」
「何でこんな時に限って、我輩」
「…………」
ギロロはその言葉にふと違和感を覚える。
何か、思い出すべき事を忘れているような、聞くべき事を後回しにしてきたような、奇妙な違和感。
しかし、既に熱に冒された思考からは緻密さが失われている。

その瞬間、ぐらりと大きく床が揺れた。
熱のせいではない。
「!」
置かれた物が震える、ガタガタという無気味な振動。
激しく波打つ床には、既に数センチもの浸水が見て取れた。
そしてそれが止んだ時、先刻まで聞こえていた雨音とは違う、重く腹に響くような水音がテント内を満たす。
「……何だ!?」
「気をつける、で、あります、よ!」
飛び出して行こうとするギロロの背中に向かって、シュラフを押えていたケロロが叫んだ。

金具に掴まるように立ち、ゆっくりとテントの外へ出た時、ギロロは信じられないものを見る。
先刻まであった周囲の大地が、全て水に洗われたかのように消え失せていた。



―――――同じ頃。

ここまで不必要な感覚の全てを封じ、疾走して来たゼロロの視界を遮ったのは、巨大な断崖であった。
しかし、彼の視線は揺るがない。
ずぶ濡れの身体は尚降り続く雨を見上げ、大きく息を吐く。
待つのは友達。
マツノハ、トモダチ。
ゼロロは温い雨粒を振り払い、熱帯植物の蔓を掴む。
頂上までの最短ルートはこの岸壁。
迂回すれば半日はかかる。
マツノハ、トモダチ。
苦痛を感じない彼の行動に、迷いはない。
その急斜面を、ゼロロは一歩ずつ登り始める。



「おい、脱出期限が早まったぞ。ゼロロを待っている時間がない」
ギロロが水びたしになったテントに戻って来た時、ケロロは憔悴しきった様子で肩を落とし、項垂れていた。
「おい!」
その肩が震えている。
シュラフの二人を見下ろすように座り、背中を向けたままケロロは嗚咽していた。
その丸くなった猫背は、すっかり諦観に支配されているように見える。
思わずギロロはその肩を力一杯掴み、涙と鼻水にくしゃくしゃになった顔を上げさせる。
既に発熱を悟られまいとしていた事など忘れて。
「しっかりしろ! おい、貴様隊長だろう!」
「……ギロロ、この手……」
ケロロの視線が肩を掴んだままの手に注がれた瞬間、ギロロは叫んでいた。

それは意図した言葉というよりは、気合入れのために適当に拾った慣用句に過ぎなかった。
しかし。
「気をつけ! 目、食いしばれ!」
力なく潤んだままであったケロロの目が不意に見開かれる。
ギロロもまた、その顔をしばらく凝視した。

「……やっと、我輩、……『それ』の意味が、わかったで……ありますよ……」
「俺もだ。……恥ずかしながら、今、初めて腑に落ちた……」
ケロロは流れ落ちるに任せていた涙を、腕で力一杯拭う。

―――――『目を食いしばり』ながら。


「そんな事よりギロロ!」
そう言われて我に返り、思わず手を引っ込めたギロロの様子を見て、ケロロの表情が再び曇る。
しまったと思ったがもう遅い。
「発病したの、何で言わなかったんでありますか!」
「言ったところで何も変わらん」
詰め寄られ、ギロロは視線を逸らす。
今度目を食いしばらなければならなくなったのは、ギロロの方であった。
「ギロロ!」
「……これでわかっただろう。この場でこいつらを助けられるのは、もうお前しかいないという事だ。……俺もいつまで動けるか、わからん……」
「……我輩……」
びしゃ、と音を立ててケロロが床に尻をつく。
その腕を掴むように、黄色い手がゆっくりと伸びる。



マツノハ、トモダチ。
既にそれはゼロロの中で言葉ではなくなっている。
まるで呪文のように何度もくり返される、限界を越えた身体を動かす言霊。
ゼロロの掴まる濡れた蔓からは鮮血が伝い、流れ落ちる。
マツノハ、トモダチ。
身体のあちこちに出来た傷痕、そして荒い息遣い。
しかし今のゼロロに自覚できる苦痛はない。
既にそれすら無用のものとして切り捨てられた、彼の命。
マツノハ、トモダチ。
ただその言葉だけをくり返し、ゼロロは断崖を登り続ける。



水没した船は前方を上にして、ちょうど釣り糸で引き上げられる魚のような形で浮いていた筈であった。
今なお空気に満たされている区画。
そこは兵器の格納庫になっており、射出用の広い空間がある。
浸水が始まったのが破損した後ろ半分であるという事は、あの空間はまだ無傷である可能性が高い。
宇宙空間での戦闘に耐えうる隔壁で遮断された、随一の強固な区画である。
あの場所に眠っている機動兵器を使う事ができれば。
ギロロは先刻の木箱の蓋にクルルの説明通りの図を書き、何本も線を引いてはそれらを確認する。

「……先輩にしちゃ、いい思いつきだな。……知恵熱も、出るぜェ……」
先刻から目を覚ましているクルルが荒い息の下で言う。
「バッテリーは、……まだ大丈夫だ…… 何しろここじゃ敵と、交戦予定だったんだからな」
「……こいつで一発穴を開ければ、一機くらい引っぱり出せるだろう」
ギロロがバズーカを組み立てながら言う。
「でも、その身体であそこまで行くのは危険すぎるって!」
錯綜する対話。
しかし迷っている時間はない。
例え数パーセントの可能性であれ、動かぬまま終わる事だけは避けたい。
ギロロは黒々と線で埋まった図を睨みながら、ロープを用意する。
「重い、……な」
背中に担いだバズーカを、そんな風に言うギロロをケロロは初めて見た。
無理を続けた身体に、相当な負担がかかっているという事か。
それとも重いのは、小隊の命がかかったその任務そのものか。

「頼むぞ、ケロロ。ゼロロの方が早ければ、……俺の方の救出も頼む」
それはギロロなりの軽口であったのか。
「……ギロロも。……必ず戻って来るであります」
「わかっている」
「……オッサン、……帰って来たら、御褒美の、……Make Loveだぜェ」
熱に浮かされてか、クルルの言う事は普段より更に謎めいている。
聞いてか聞かずか、既にギロロはテントを後にしていた。
結局、ケロロもギロロも碌にお互いの顔を見る事ができないままであった。



ゼロロに続いてギロロがいなくなった後のテントは、更に広く感じられた。
ケロロはタママのシュラフを移動させ、雨音の響く天井から半乾きの雨具を降ろす。
「隊長、……悪い事、しちまったな」
クルルの声を背に、ケロロは脱出の準備を始めている。
「……まだ、駄目か? もう、七日になるぜ……」
「……間が悪かったんでありますヨ……」
触る物全てがじっとりと濡れた世界。
ケロロ小隊の輝かしい戦歴も、ここで最後になるのかも知れない。
「ま、本部へのいい復讐になるんじゃね?」
「……クルルも、ね」
ケロロは既にパックもずぶ濡れになった最後の食糧を取り出す。
ゼロロ、ギロロにそれぞれ渡した分と、これで全ては終わる。
「二階級特進、ってトコかね?」
「ケチくせぇ。……降格する時は景気良くやりやがるのになァ」

パックに入っていたのは、携帯用のクラッカーとゼリーだった。
「……楽しかったでありますよ。我輩」
「俺もな」
シュラフから手を伸ばし、クルルはケロロの手を掴んだ。
感傷に、今にも涙が溢れそうであった。
しかし、二人が思い浮かべたのは先刻のギロロの号令。

「……隊長、目、食いしばれよ……」
「クルルこそ」

いつしか二人は手を握ったまま、笑い出していた。

止まない雨音に呼応するように、その笑いはいつまでも続いた。