夏美が苦し気に身じろぎする。
「のわッ!」
思わず妙な声が出てしまう。
夏美はじっと目を見開いたまま、こちらを凝視していた。
何だかこれでは狙った様だと思う。
心ならずも夏美を組み敷く形となり、慌てて飛び退こうとした時、細い腕が伸びてギロロ=326の背中を羽交い締めにする。
普段の夏美ならば一声叫び、キレのいい蹴りか鉄拳をお見舞いするような、そんな状況である。
簡単に隙を見せない彼女の潔癖さを、少し寂しく思いつつギロロは愛していた。

「……いかないで」
夏美が普段と異なる顔を見せるのは、相手が326だからだ。
「大好き、326先輩」
今度は夏美がギロロ=326の顔を引き寄せ、口付ける番になった。


 
 今日の326先輩は不思議
 これは夢だから?
 私、知らなかった
 ……326先輩って、こんなに優しい人だったんだ……


夏美は夢心地のまま326の重みを感じている。
ずっと憧れていたその人が、今腕の中にいる。

待ち合わせ場所から326と並んで歩き始めて程なく、背後からクラクションを鳴らした白い車。
その瞬間、長く夢みていた幸福は消えてしまった。
停めた車から降り、急ぎ足で駆けてきたのは大人の女性。

 62……、じゃなかった、326くん、オフなのにごめんね。ちょっとアレの事で
 何? 急用? オレもこれから用なんだけど
 ほんとゴメン、埋め合わせするから! 「ね、ごめんね彼女、ちょっと326くん貸してね」

オフって何? アレの事って何のこと? この人はだれ?
会話の端々から聞こえた単語だけを拾い、夏美は頭の中で形にしようとする。
元から謎めいていた326という人が、更に遠ざかった気がした。
腕に抱えたままのバスケットを開く楽しみも、今日を夢みてきた濃密な時間も、力づくで取り上げられ、地面に放り出されてしまったかの様だ。

 あんな風に大切な全てが横から奪われてしまうなんて
 そんなの、もう嫌

再び326の顔を引き寄せ、何度も口付ける。

「……もう、どこへも……いかないで」
縋りながら夏美は目を閉じる。
326の返事はない。ただ夏美を抱きしめ、髪を撫でる。
どうして今夜の326先輩はこんなに寡黙なのだろう。
普段の326が見せる心地いい話術や、柔らかな物腰を思い起こす。
これは夢だから?
夢の中の326先輩だから?
しかし、それならばこの抱きしめる腕や髪を撫でる指先から伝わる、じんと染みる暖かさは何なのだろう。
そして、夏美はそんな不器用な掌を確かに知っていた。




ここへ来るまでの僅かな時間に、ギロロはクルルから短い講議を受けた。
「単純に言えばそういうこった。卵生の俺達とじゃ生殖の仕組みが違うからよ。ま、本国でも近頃じゃ自然生殖なんざ、廃れちまってるがな」
言葉にならない程衝撃を受けている風なギロロを他所に、クルルは続ける。
「先輩も子供じゃねぇし、それなりに色々あったんだろうがなぁ。異種交配はさすがに初めてかい?」
クルルの実も蓋も無い言い方に一瞬頭に血が昇りかけるが、その言葉が奇妙に核心を突いている気がして、ギロロは押し黙った。
異種交配。
客観的に見れば、確かにそういう事になるのだろう。
何がしかの人為的な手段を加えなければ、交わる事すらできない。
自分と夏美は、それ程遠い存在であったのだ。
「下等種族相手に物好きな趣味だぜェ」
「正気の沙汰ではない、か? 何とでも言え」
「本来俺達にゃ胎生の雌に興奮する因子なんかねェからな。ま、宇宙時代も長くなりゃ先輩みたいな変態も増えるんじゃねぇの?」
「変態とは何だ。 貴様に言われたくはないわ!」
クルルの言葉は今日に限った事ではなく、常に挑発的である。しかし、今夜はいちいち腹を立てている暇はない。
「……それに俺は夏美を元気づけたいだけだ」




そう言い切ったのはほんの数十分前の事であった。
ギロロ=326は夏美を組み敷く形でベッドの上にいる。
既に感度のよすぎるクルル特製の『外付頭脳人工地球人体(ナカノヒトナドイナイ)』は、特別な変化を遂げつつあり、理性のみでそれを制御している状態であった。
「あ、安心、しろ……ど、ど、どこにも、行かない」
もはや326の口調に似せなければという当初の努力は放棄されている。
ぎゅっと首に縋りついてくる夏美の腕に力が込められる。
「嬉しい」
甘い言葉を耳元で囁かれ、更に状況は深刻になってゆく。

「ど、どこにも、行かない、……から。そ、その、夏美。……いや、夏美『ちゃん』。は、離してくれ……ないか?」
「いや。……326先輩、離したら今朝みたいにいなくなっちゃうから」
「そ、そんなことはしない!」
「……私の事、嫌いですか?」
「何をぅ! 好きだ!」
まるで売り言葉に買い言葉をぶつけるように。
ギロロは気が遠くなるほど長い間、胸に抱えたままであった言葉を、するりと吐き出した。
それは長く咽に刺さったままであった魚の小骨が取れたような、不思議な爽快感を伴う告白であった。

「よかった……」
夏美の目が閉じられ、頬に幸福そうな笑みが戻る。
そうだ、この笑顔だ。
これだけを見て、これだけを残して俺は帰ろうとしたのだ。
それ程夏美は326を思っている。目の前の俺が何者かを疑う余地もなく。

ギロロは心の中で任務完了を宣言する。




『よぉ、調子はどうだい? 先輩』
突然ナビの回線が復活し、聞き慣れた声が飛び込んできた。
放り出された当初は多少心細かったが、今となっては無意味な干渉である。
『今頃何の用だ、またいつもの野次馬根性か』
『なんか辛そうだなァ、クックックックッ』
『……遅かったな、作戦終了だ。これより帰投準備に入る』
『無理すんなよぉ、こっちには克明な動作記録が届いてんだぜ』
神経を逆撫でするような笑い声が、今夜は不思議とその不愉快さを半減させている。
先刻の対話でクルルの隠されたリズムを掴んだ、という事なのかも知れない。
『この、おせっかいが!』
『何の事だい? ……クーックックックッ』




既に限界に近くなっていた身体を持ち上げようとした時、再び夏美の手がギロロ=326の頬に触れる。
「んっ……」
何度目かで重ねられた夏美の柔らかい唇が、残ったわずかばかりの理性を、どこか遠くへ吹き飛ばそうとしていた。
気がつくとその唇を舐め、軽く咬み、開かれた口の中を貪り。
精巧過ぎる身体は、律儀にギロロの意識に心地よさを刷り込んでゆく。
どんどん書き換えられる頂点の記録。
クルルはモニターに映ったグラフのカーブを、俺が未知のものに敗北してゆくプロセスとして笑いながらレポートするだろうか。
そんな事、絶対にやらせはせんぞ。
しかし、無意味に八つ当たりしたくなる程の快楽が、背筋を駆け上がってくる。

 いかん、イカン、遺憾。
 こんな所で欲望に負けている場合ではない。
 戦場では、気を緩め低きに流れた者が命を落とすのだ。

ギロロはやっとの思いで口を外し、大きく息をつく。
「……326先輩?」
「……これ以上は、駄目だ。……もうこれ以上、我慢できる自信がない……」

この宣言で本当に任務完了となった。
まだ身体は快楽の続きを求めて焦れている。
しかし、心は既に冷静になりつつあった。
ギロロにとって、困難な状況下で行動の指針を復唱する事は、戦場を生き延びる為の智慧である。
目先の誘惑を振り切った軍人としての性を、誇るべきか憎むべきなのか、ギロロは自分で自分に憔悴する。

「どうして、我慢するんですか?」
返ってきたのは意外な言葉だった。
「……好きだって言ってくれたのに」
身体を起こしもせず、夏美は天井を見たまま呟くように言う。
「これは、私の夢じゃないの? 先輩は私の夢の中の先輩じゃないの?」
夏美の思い描く夢、それはギロロにとって手が届かない、何より眩しいものでなければならなかった。
今身体を熱くしているものは下種な欲望でしかなく、そんなものに夏美を塗れさせるのは耐え難い。ましてや326の姿を借りたまま、火事場泥棒のような卑怯な真似など。
そう思って力づくで流れを断ち切った……筈であった。
「俺は、どうするべきなんだ」
ぼんやりと虚空に目を向けている夏美を見下ろし、ギロロ=326はその場に立ち尽くす。
「お前を幸せにするために、俺はどうしたらいいんだ」




天井を見ていた夏美の視線がゆっくりとその先を変え、ギロロ=326の視線と交わる。
「326先輩が我慢できても、あたしはできない……」
かつて敵として相まみえた時と同じ、真っ直ぐで力のある目だった。
「さっき、先輩はどこへも行かないって言ったわ。……でも、今の326先輩はわたしの夢の326先輩だから、きっと明日にはもう、どこにもいないんでしょ?」
それは夏美の不思議な勘であった。
ギロロの中にある別離の決意を、それと知らずに感じ取っている。
「それに……私、明日はきっと、こんな風に言えないから」
夏美はベッドの上に起き上がり、身につけていたTシャツの裾を引くように、一呼吸置いてから脱ぎ始める。
「……何故かはわからない。でも、今でなきゃいけない気がするの」
「な、夏……」
「……それに……今の326先輩なら、私のお願い、……聞いてくれるでしょ?」
反射的に止めに入ろうとするが、まるで迷いのない決意に溢れた動作に怯む。
今の夏美をここで拒絶する事は、何より彼女をひどく侮辱し、汚す事になりそうな気がした。

月明かりの下。
こちらに向き直った夏美は、憂いを含んだ目を見開いていた。
白い肌に濃い影が落ち、まるで発光するように裸体を浮かび上がらせる。

「こんなに、勇気を出したのは初めて」
そう、彼女の肩は小さく震え、呼吸に合わせて上下していた。
今にも泣き出しそうな表情で、それでも気丈に笑みを浮かべ、髪を解こうと背中を向ける。

「恐いのか?」
結んでいた髪を下ろそうとしたその手に、ゆっくりとギロロ=326の手が重ねられる。
「……そう。……どうしよう、恐くてたまらないの」
震える指先を絡ませるようにして、まとめられた髪を解いてゆく。
夏美の髪が波打つように肩に届いた。
「……俺も、恐い」
下ろされた髪先に触れながら、ギロロは夏美の身体を背後から抱き締める。
瞬間、細い肩が硬直し、やがて長い溜息が吐き出された。
「こんなに、恐いと思ったのは……生まれて初めてだ」
その素肌の感触と髪の香りに酔いながら、ギロロはこの場所で起きたひとつひとつを脳裏に描き出す。

特殊先行工作部隊の一員として降り立った地球。
穏やかとは言い難かった出会い、そして混乱しているようで意外に平穏だった日常。
齟齬だけが積み重なるような、侵略者としての自分の行動。
そして苦痛に似た、それでも幸福な思い。

もう片方の髪の束はギロロが外した。
夏美の髪を下ろし、指先で梳くように玩んでみたい。
それは長い間のギロロの夢であった。
背中から抱き締めたまま髪を撫で、それが掛かった肩に唇をつける。
腕の中の身体は小さく震え、溜息は浅く速い呼吸に変わりつつある。
夏美の言う「夢の中の326」。そして、今の夏美もまたギロロの「夢の中の夏美」なのであった。