夏美がこちらを向き直り、殺気を見せた時、326に似せた人工の身体の中に存在するギロロの意識もまた、脊椎反射のような戦闘モードスイッチに支配されていた。
しかし、それもまたギロロにとっては懐かしい官能を刺激するスイッチであった。
二人は初めて出会った日も、そうやって戦う相手として対峙したのだから。



少し前にラボで目覚めた時、ギロロは自分が自分でなくなっている事に気付いた。
傍にはクルルが座り込み、面白くてたまらないという表情で覗き込んでいる。
「四次元ガチャは326本人の協力がいるし、通常版地球人スーツじゃ間に合わねえ作戦だしな。……クックックッ。最短記録で新しいヤツ、作ってやったぜェ」
「な、何を……!」
普段の調子でクルルに向き直ろうとした瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
「バカ、今のあんたは重心が違うんだ。大事なボディ、傷つけんなよ」
クルルが背後に用意してあった大きな鏡を、ギロロの目の前にどん、と置いた。
「……!」
立ち上がろうとしたギロロは、鏡の中に懐かしくも憎い、全ての元凶を発見する。
「さ、326! 夏美に何をした!」
「おっとアブネ、今にも殴りかかりそうだな。これは今の先輩自身だぜェ、よく見てみなよ」
「な、何ぃっ!?」
腕を上げると326も上げる。両手で頬を叩くと326も叩く。
悪夢のように鏡の中の恋敵は、自分とぴったり同じ動きをした。

「その身体使って日向夏美を好きなだけ喜ばしてやんなよ。地球人の雄の機能は完備してあるぜェ。ずっとそういう事、やってみたかったンだろ? クーックックッ」
手の届く所にあった物を辛うじて掴み、ギロロ=326がようやく立ち上がる。
何でもいい、この無神経で恥知らずな男を殴り倒してやりたかった。
「……俺は、こんな事を頼んだわけではない!」
「おっと、そんな立ち方じゃ後ろへひっくり返るぜ」
ぐら、と上体が揺れ、使い慣れない身体を辛うじて制御する。
「先輩、好意は素直に受け取っておくもんだろぉ?」
「こ、好意だと!? 馬鹿な!」
近くにあった物に手当たり次第に掴まりながら、ギロロ=326は大きく息を吐いた。
クルルは平静そのもので、今のギロロ=326ならば充分到達できるであろうリーチの範囲内に居座り続けている。
「先輩が素直に腹の内を吐き出さねぇから、隊長が変な風に誤解しちまって迷惑極まりないぜェ。クックックックッ」




反射的に蹌踉けた夏美の身体を抱きとめた時、ギロロは身体中のスイッチが切り替わるのを感じていた。
夏美の身体は想像していたよりずっと暖かく、柔らかかった。
先刻の戦闘スイッチで上昇した体温が、更に上昇する。
更に発汗、動悸、息切れ……
クルルに言わせれば、そういう不必要なまでの体感機能は「こだわり」なのであろう。
夏美の髪、そして耳元。
本来の自分の目線では、決して知れずにいたであろう、華奢で壊れてしまいそうな肩と、少女の幼い横顔。
その頬に残った涙の痕を、ゆっくりと指先で拭う。
ギロロは更に震える手をずらし、髪を梳くように撫でた。
人工の指先は、それと感じさせる事なく甘い感触を伝える。
夏美の頬の柔らかい輪郭と、白い首筋に見蕩れる。
 
 夏美、偉大なる地球の戦士。
 こんなに健気な姿で、お前は地球を守ってきたのか。

クルルのナビが何事かを囁く。
しかし既にギロロには聞こえない。
たった数秒の永遠が、そこにあった。
腕の中で抱かれているだけであった夏美が、ゆっくりとこちらを向く。
愛おしい、何物にも代え難い存在。
そして、遠い遥かな存在。

夢を見ながら現を探るような、ぼんやりとした目が見開かれる時。
その黒い瞳は、驚きと喜びに熱い涙を湛え、自分でない自分の姿をその中に映し出した。

「……326先輩……」

―――――ギロロの短い夢は終わる。




「いいか先輩、それは日頃からのオレ様の研究を集大成した『外付頭脳人工地球人体(ナカノヒトナドイナイ)』だ。一見普通の地球人の身体だが、ガサツに扱って回路にエラーでも出してみろ、二度と元の身体に意識が戻れなくなっちまうぜェ」
ま、それも面白ぇけどな、と付け加えるのを忘れず、クルルは先刻から放り出されたままのギロロの抜け殻を指し示した。
「それが嫌なら言う事を素直に聞くこった。クーックックッ、おっさんに指図できるなんて光栄だよな」
ギロロはすっかり毒気を抜かれた形になり、まさに「素直に」クルルに従っていた。
「ナビゲーションの応答は『伝統に則って』奥歯だ」
「なんだその『伝統』とは」
「奥歯に舌くっつけた状態で対話可能、そん時はあんたの思考がRAM経由でこっちへそのまんま送られるから、あんまり恥ずかしい事は考えるなって事だな、クックックックッ……」
「……」
このいかにも信用できなさげな男がぽろりと洩らした、ケロロがことのほか憔悴しているという話。それはほのめかしに過ぎなかったものの、ある種の誠実さを持って響いた。
「身体が慣れるまでは酔い止めでも飲んどくかい? 四次元ガチャとは受ける感覚の精度が違うからよ。まぁ、あんたはこの手の直立歩行型兵器の搭乗にゃ慣れてるだろうからなぁ」
こいつは、こいつなりに色々と考えているところがある。
ギロロは初めて目の前にいる底の知れない上官の、幾層にも覆われた核心を垣間見る。




「326先輩、……どうして?」
夏美の目は大きく見開かれたまま、波打つように涙を溢れさせた。
「ゆめ……なのかな、これ……」
細い指がゆっくりと顎に触れ、326=ギロロの頬を撫でる。
「……あんまり326先輩に会いたくて……幻を見てるんじゃないわよね?」
これ程近くにいながら、しっかりと腕の中に抱きながら、夏美の心はここにはない。
遠い326を追い、届かぬ思いに焦がれている。
何故、こんな事を選択してしまったのかという後悔がギロロの中で沸き起こる。
これまで戦場で受けて来たどんな傷より、悲痛で苦しい。
ゆっくりと吐き出した息は熱を持ったように熱く、喉が焼けるようにひりつく。
しかし、夏美の次々と溢れる涙は、ギロロの僅かな後悔を力づくで押しやってしまう。
夏美も今、同じ痛みに打ちひしがれている。
この華奢で柔らかい身体で。
それならば、自分の取るべき道はひとつしかない。

固まったまま、ギロロはようやくナビの声を受信した。
『326の日向夏美の呼び方は「夏美ちゃん」だからな、間違えんなよ』

「……ねえ、夢じゃないなら、何か言って」
また新しく溢れた涙が頬を伝う。
「326先輩……どうして、こんなところに……いるの……?」
夏美ちゃん、なつみちゃん、ナツミチャン。
慣れない呼び名は実は普段の呼び捨てよりずっと縁遠い。
「な、なな、なつっ、……夏美、『ちゃん』」
『……そんなんじゃすぐバレちまうぜぇ。クーックックッ、しっかりしろよ、先輩』
しばし笑い声だけが響き、たまらなくなったのか回線が閉じる音と共にナビは沈黙した。

「326先輩」
夏美の身体が一度離れ、ふわりと角度を変えてギロロ=326の腕の中へ飛び込んだ。
「……あたし、……もうダメかと思った……」
背中へ回される腕に力が込められる。
夏美の鼓動が耳鳴りのように伝わり、身体中の血が沸騰しそうだった。
「な、なななな、夏……」
クルルのナビから切り離され、ギロロは本当の意味で夏美と二人きりになった。
胸に夏美を抱いたまま、言うべき言葉を探す。しかし既に頭の中は真っ白になって久しい。
「……今日のデート……すごく楽しみにしてたんですよ……」
夏美自身もこの場に326が居るという事に半信半疑らしく、夢の中でするような素直な告白を続ける。
「急用……って先輩を呼びに来た女の人……先輩の……彼女かと、思って……」
そうだったのか。
帰宅が遅れると言った夏美が、昼になる前にふらりと帰ってきた理由。
かわいそうに、どんなにがっかりした事だろう。
ギロロは夏美から受け取った、手作りの弁当を思い起こす。
「あたし、あきらめなくて、いいんですか……?」
夏美が顔を上げる。
濡れた睫毛。大きく見開かれた目の中に映るのは、偽物の326。
しかし、ギロロはもう迷わない。
何度も腕を組み替えるように抱き、夏美の濡れた頬に頬を重ね、髪を撫でる。
せんぱい、だいすき
言葉は何度もギロロを傷つけるだろう。しかし、ギロロは思う。
もう、そんな事はどうでもいい。

夏美の目は閉じられ、安らかな寝顔と同じになった。
その閉じられた唇に、ゆっくりと唇を重ねた。




「ゲロォ〜! 随分扱いに慣れたようでありますなァ、さすがギロロ! 我輩もアレ、乗ってみたいであります」
「アレにも適性ってのがあってなぁ、隊長なら少なくとも三日は特訓が要るぜぇ。やってみるかい?」
「それは遠慮しておくでありマス〜」
クルルズ・ラボでジュースを片手にモニターを監視するクルルとケロロ。
「ってゆーか、落花流水?」
「ケロロ君、こんな風に覗き見しちゃうなんて、悪いよ〜……」
「……伍長さん僕なら耐えられないですぅ…… 僕ならこの情念だけで地上を三度焼き払えそうですぅ…… この手に入らぬなら貴様も敵とおんなじだ〜い・き・や・が・れ、ですぅ……」
小隊の面々とアンゴル・モア。
彼等は不思議な連帯感を抱き、この場に集結していた。



このハードルさえ越えてしまえば全て納まる、そう思っていた。
夏美とのキス、それはついさっきまで想像していたひとつの到達点であり、そこにさえ辿り着けば後は思い残す事なく地球を去れるだろう。
ギロロは長くそう考えていた。
しかし。
夏美の唇は柔らかく、重ねれば重ねるほど快楽の淵へ絡み取られてゆくのがわかる。
いつまでもその感触を味わいたくて、未練がましいと思いつつ何度も角度を変えて触れる。
お、恐るべし、生身の地球人兵器。
ギロロはそれが到達点でなく、実は出発点でしかなかった事を知る。
次へ、次へ。
それまで自制心によって塞き止められていた流れは、急流となって流れ込む先を目指す。
「……ん」
夏美の身体の力が抜け、腕に体重がかかった。
その身体を支えようとして、再びギロロはバランスを崩す。
ナビの声は既に無い。
「おわッ」
倒れようとする方向へ足を踏み込めば、そこには夏美のベッドがあった。
「きゃ……!」
ベッドの高さに慣れた夏美がそこに尻餅をつき、掴まったままのギロロ=326の体重もろとも倒れる。
瞬間、何がどうなったのか判らなかった。
クルルズ・ラボで怪し気な光を浴びた時もこんな風だった気がする。
「至急状況判断を」という軍人の意識だけが反射のように一人歩きし、まだ動作に慣れきっていない四肢がどこにあるかを確認しようとした時、その掌が柔らかいものに触れた。
「!?」
動作どころか、326の体のサイズにもまだ慣れていない。
日頃目を背けながら秘かに横目で凝視していたりするそれが、まさかこんな風に片手の中にすっぽりと入ってしまうなどと。
触れている掌が、熱と共にゆっくりと湿っていくのがわかる。
早く離さなければ。そう焦りつつ引き剥がす事が出来ない。
何しろ、そこは夏美の左胸なのであった。

ここは山頂。
そう思って一息ついたギロロの前に、新たなハードルが現れた。