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宵待草D ……………………

 陽が家を空けてから、一週間が過ぎた。友人に世話になっているという事は分かっていたが、観月はどうしても陽に会いに行くことが出来なかった。だが、そうしていても埒が明かない。陽に会わなくてはと、ようやく重かった腰を上げる気になった。もっとも、陽に会って何を話せば良いのか未だに観月には思いついていなかったが。
 真夏の最中、昼間の日光はじりじりと殺人的に暑い。じっとりと、額に浮かんだ汗を腕で拭いながら観月は人影まばらな校内に足を踏み入れた。
 部活には出ているのかと尋ねた観月に、陽の一番親しい友人は特に訝しむ風もなくあっさりと出ていると答えた。別段、普段と変わりない。ただ、夜になると口数が少なく、考え込んでいるようだから失恋でもしたのではないかとカラカラと屈託の無い口調で笑っていた。
 一体、陽が今どんな気持ちでいるのか観月には全く想像がつかない。もしかしたら、観月の顔を見たとたんに拒絶されるかもしれないとも考えたが、それでも観月は陽に会いたかった。
 望とはあの日以来、殆ど顔をあわせていない。当然、セックスもしていなかった。望が観月との血の繋がりを知っていると分かった今、望とセックスする気になど到底ならなかった。
 校庭に向うアスファルトに、濃い影が落ちる。俯き、それをぼんやりと見下ろしながら観月はサッカー部の部室に向った。今日の練習は1時で終わると聞いていたので、恐らく丁度いい時間だろう。
 校庭では、一年生らしき部員が後片付けをしていた。そこに陽の姿はいない。もう、部室に引き上げてしまったらしい。酷く緊張しながら、観月は部室の前で立ち尽くしていた。中から出て来た何人かの顔見知りが、観月を不思議そうに眺めながら、声をかけたりする。観月は、上の空で返事をしながら、ただひたすら陽が出てくるのを待った。
 どのくらい待ったのか分からないが、観月のシャツの背中が、汗でぐっしょりに濡れる頃になって、ようやく陽は部室の中から出てくる。陽は、観月に気がついたとたん顔を強張らせ、それからそのまま観月を無視してその横を通り過ぎようとした。
 観月は、慌てて陽の腕を掴む。観月の手が触れた途端、陽は観月が驚いてしまうほどビクリと体を震わせ立ち止まった。それから、観月の顔ではなく、掴まれた腕をじっと見詰める。陽の健康的に日焼けした腕にかけられた、白い手。そのコントラストが一層観月の白さを引き立てて、まるで雪のように見せていた。
「……話があるんだけど……」
 緊張のあまり、倒れそうになりながらも観月は必死にそれだけを告げる。声は滑稽なほど震えていた。陽は決して顔を上げず、観月の手だけを見詰め続けて沈黙していたが、とうとう音を上げたように小さな溜息を一つつき、
「良いよ」
 と短く答えた。
 それから、かるく顎をしゃくって観月を促す。いつのまにか随分と広くなってしまった男の背を、観月はぼんやりと眺めながら、その後ろを歩いていった。


 陽が選んだのは、駅前のファーストフードの店だった。店内は学生で賑わっている。真夏の昼下がり、笑い声のさざめく店内は酷く健全に見えて、観月は奇妙な居心地の悪さを感じた。だが、陽はわざと明るい場所を選んだのかもしれない。
 向かい合った席に座り所在無く、ストローに口をつける。何から切り出せば良いのか分からずに、ぼんやりとテーブルの上を見詰めている観月に陽は何も言わなかった。いつもなら、どちらかと言えば陽が話して観月は聞き役に回ることが多いのに。
「陽、家に戻ってこないの?」
 核心を避け、観月がそんなことを訪ねると陽の手がピクリと反応した。
「俺が戻らない方が良いんじゃないのか?」
 答えた陽の声は酷く冷たい。いまだかつて、こんなに冷めた口調で話しかけられたことがあっただろうか。観月はその冷たさに、恐れ慄く。陽は、自分を拒絶し、断罪しようとしているのではないかと思ったら、押さえ込んでいた緊張が再び観月を襲ってきた。
「……どう…して……そんなこと……あの家は、陽の家なのに……」
「違うよ」
 観月が震えながら言った言葉を陽はあっさりと否定する。反射的に顔を上げた観月の目をじっと見詰めたまま、陽は、
「あの家は、観月の家だ」
 と続けた。
「だから、観月が出て行けと言うなら、俺は出て行くしかない」
「出て行けなんて言ってない!」
 自分でも思っていないほど大きな声で反論してしまい、観月ははっとして口を噤む。近くにいた学生が訝しげに視線を寄越したが、それも一瞬のことで、すぐに興味を失ったように別の方向を向いた。
「出て行けなんて……言ってない……戻ってきて……」
 力ない声で観月が懇願すれば、陽はじっと観月の目を見詰めたまま何も言わなかった。その目には決して侮蔑の色は浮かんでいない。嫌悪も、憎悪も、戸惑いさえ見えない。ただ、真っ直ぐで、真摯で、観月の何かを読み取ろうとしているかのようだった。だが、その視線こそが観月には辛かった。
 陽の目の中には翳りと言うものが全く存在しない。どこまでも明瞭で、純粋で、昼間の日向のような目だ。それは、観月と陽が初めて出会った時から全く変わっていない。観月の犯した罪や醜さや汚さを知った今でさえ、その目には負の色は浮かんでいないように見えた。
「じゃあ、もう、あんなことやめろよ」
 責めるでもない、咎めるでもない。淡々とした、けれどもどこか優しさを滲ませた声で言われて観月は、はっとした。じっと陽の顔を見詰める。陽の顔には全く何の迷いさえ見当たらず、観月は困惑してしまった。
 なぜか、望に言われた言葉が脳裏に過ぎる。

 『観月は陽のこと神聖視しすぎなんだよ。一度、陽と寝てみろよ。』

 多分、観月はあえて何かを意図したわけではない。ただ、望の言葉が呪縛のように頭から離れなくなってしまっただけだ。当然、そんなことを具体的に想像したことすらなかった。
 けれども、その時、観月の口はまるで持ち主の意思を無視したかのように勝手に開いていた。
「じゃあ…じゃあ、一度でいいから陽が俺と寝て。そしたら…そしたら、もうやめる」
 自分で言った言葉のはずなのに、観月はその意味を理解していなかった。余程、陽の方がきちんと把握していただろう。それが証拠に、陽は酷く驚いたように目を大きく見開いて、観月の顔を穴が開くほど凝視する。そんな時でさえ、真っ直ぐな陽の目に観月は感心する。ふざけるなと拒絶されるかな、と、どこか正常な判断力を失った頭でぼんやり考えていると、陽はふっと浅く息を吐き出した。
「良いよ」
 了承の言葉に今度は観月が、え、と目を見開く。聞き間違いかと思って、陽をじっと見詰める観月に、しかし陽は頓着していないようだった。
「来いよ」
 と素っ気無く言い放つと、観月の腕を掴んで少しばかり強引に立ち上がらせる。形ばかりにしか手を付けられていなかった飲み物や食べ物をそのままに、陽は観月を引きずるように店を出た。そして、困惑する観月に構うことなく、迷いの無い足取りで歩き続ける。一番気温の高い時間帯は過ぎたとは言え、未だに十分に暑さを残している太陽の下、二人は歩き続けた。
 繁華街を抜け、どこか寂れた裏通りに出る。怪しげな建物が乱立する路地裏を、陽は観月を引きずったまま歩き続け、とある建物の前で立ち止まった。
「ここ。入れよ」
 そう言って、陽は漸く観月の腕を放しその背中を軽く押す。それはラブホテルと言うには地味な建物で、けれども、あからさまにそういった理由で使われる連れ込み部屋のような場所だった。
 観月が戸惑ったように見上げれば、陽は苦笑をこぼす。
「知ってるヤツが経営してるから。大丈夫。受付から顔見えないし」
 そして、そんな的外れなことを言った。どう考えても初めて来る場所では無さそうで、もしかして、今まで彼女と使っていた場所なのだろうかと思ったら、観月は複雑な心境に陥ってしまった。少しだけ寂しいような、それでいて微笑ましいような。
 望は観月が陽を神聖視しすぎると言ったが、だからといって、観月は陽が性欲も何も全く無い聖人君子だなどと思ったことはもちろん無かった。きちんとそれなりに欲もあり、未熟な部分も、欠点も持ち合わせている普通の男だとは思っている。だが、観月が陽に見ている『救い』というものは、そんな表層的な事象に左右されるものではなかったのだ。
 本当にこれから陽とセックスするのだろうかと、まるでどこか他人事のように考えながら、観月は陽に促されるまま部屋に入る。ホテルと言うよりは、普通の家の一室といった雰囲気の部屋だった。どこか、陽の部屋に似ているような気もする。
「先にシャワー使えよ」
 陽に、淡々とした口調で言われて観月は
「あ、うん」
 とあっさり答える。そこまで来ても、観月には全く実感というものが無かった。望とセックスする時のような緊張感だとか、甘さなどみじんもない。実に日常的で、何の熱もそこには存在しない。
 それは、入れ違いにシャワーを浴びて出て来た陽が、覆いかぶさってきた時も同じだった。冷たいわけではない。温かさはある。だが、触れれば火傷をするような耐え難い熱が存在しないのだ。ただ、暖かい。それは、観月に安堵感を与えこそすれ、何の衝動も引き起こさなかった。
 普段、陽とじゃれあう時のスキンシップの延長でしかないように思えて、観月は戸惑う。
 陽は酷く優しかった。何度もキスされて舌が入り込んできた時も、裸の体を丁寧に愛撫されている時も、慎重で丁寧だった。女の子を抱く時も、こんな風に抱くのかなと観月はやはり他人事のように考えながら、あちこちに薄い染みの残る天井を眺めていた。その冷静さが顕著に体に現れていたのだろう。男の生理など単純なものだ。欲求を感じなければ反応などしない。だが、それは観月だけの事情ではなかった。
 ドサリと不意に観月の体の上に陽は突っ伏す。裸の胸が触れ合って、すぐ近くで心臓の音が重なったけれど、観月のそれも陽のそれも、まったく正常なリズムで脈を刻んでいただけだった。
「……ダメだ。やっぱり無理。俺には観月は抱けない」
 深い溜息とともに落胆のような声が漏れる。けれども、その声に微かに滲む安堵の色を観月は聞き逃さなかった。観月も同じような安堵を感じていたからだ。
「…俺が男だから?」
 安心感から、少しからかうような口調で観月が聞けば、陽は頭の位置をずらし、観月の平たい胸に顔を埋めた。
「違うよ。観月が女でも、血が繋がっていない他人でも、きっと抱けない」
「好みじゃないから?」
 やはりからかうように観月が問えば、陽は苦笑をこぼした。微かに観月の胸に陽の息がかかり、くすぐたさに観月は微かに身じろぐ。
「バカ。そんなワケあるか。俺の初恋は観月だぞ」
 予期せぬ告白を打ち明けられて、観月はえ? と目を丸くした。
「気がついてなかっただろ?」
「…うん…全然」
「だろうな」
 苦笑の表情そのままに、陽は観月の背中に腕を回し、その薄い胸を抱きしめる。
「……中一の時だったかな。俺は観月が好きなんじゃないかと思って……結構悩んだ。相手が男だってのもそうだったけど。それより、俺と観月がどういう関係なのか、なんでか凄く気になって……望に相談したら、『調べればいい』って言われて。それで二人で調べた」
 初めて明かされる事実に観月は驚くばかりで、ただ、じっと陽のつむじの辺りを見詰める。
「その時に、初めて観月と腹違いの兄弟だって知った」
 そんな昔から二人は知っていたのだ。なのに、観月には微塵もそんな態度を見せなかった。
「観月はいつ知った?」
「母さんが死ぬちょっと前に…」
「そうか。この間、うっかり俺がばらしたのかと思ってちょっと焦ったけど」
 それなら良かった、と陽は観月の胸に頬を擦りつけた。まるで、犬がじゃれついてくるような仕草に観月は笑いをこぼす。小さな子供の頃に戻ったようなスキンシップには、欲だとか、熱だとかの入り込む余地は少しも無い。
「観月、ホントは俺と寝る気なんて全然無かったんだろ? なんで、急にあんなこと言い出したんだよ?」
「望が……俺は陽を神聖視しすぎるから、寝てみろって。寝れば普通の男だって分かるからって」
「やなヤツ。俺が観月のこと絶対に抱けないって分かってて、そういうこというんだからな」
 望は、また、観月が陽と寝れないことをも知っていたのだろう。あの言葉を言った時の望の真意は観月には分からない。分からないけれど、今まで見えなかった何かが少しだけ見えた気がした。
「ホントは俺の方が観月のこと神聖視してる。初めて観月に会ったあの冬の日から、まるで誰にも踏み荒らされていない新雪みたいだと思ってた。誰も、踏み荒らしちゃいけないんだって。観月のこと抱けないのは、だからだ」
「望とあんなことしてたのに? 兄弟で、あんなことしてたのに? それでも?」
 観月が不安げに尋ねると、陽は観月の胸から顔を上げ真正面から観月の顔を見詰めた。いつでも、観月を明るく照らす太陽のような瞳で。
「それでも。……多分、俺は、観月が何をしても…例えば、人殺しになったとしても、観月の事を汚れたとは思えない……逆に、それが観月の重荷になったとしても。俺は変われない」
 嗚呼、と観月は思う。この揺るぎの無さこそが観月の『救い』であり、観月を昼の世界につなぎとめてくれる確かな鎹のようなものなのだと思う。
 壊れたと思った観月の世界は壊れていない。例え壊れてしまったとしても、陽によって何度でも再構築されるだろう。それが、自分と陽のあるべき関係なのだと観月は唐突に悟った。だから、観月にとっての陽は『太陽』なのだ。無くては生きていけない。けれども、同じ世界の住人ではない。そんな関係。
「観月は、望が好きなのか?」
 純粋な疑問を陽が投げかけると、観月は横たわったまま軽く首を傾げた。
「分からない」
 本当に分からない、と言うのがその時の観月の正直な気持ちだった。好きだとか、恋だとか、愛だとか、そんな言葉の枠に当てはめることが出来ない。ただ、望とは同じ世界の住人だと言うことが分かるだけ。そして、理屈も何もかも、どこかに吹き飛んでしまうくらい自分でも訳の分からない引力で引き寄せられてしまうということが。
「また望と寝るつもり?」
「さあ? どうかな、それも分からないな」
 観月は苦笑混じりに答えた。
「俺は、否定も肯定もしない。ただ見てるしか出来ないよ。ただ…」
 ただ、と陽は言いよどむ。言って良いことなのか悪い事なのか判断しかねているように暫く逡巡していたが、結局は口を開いた。
「ただ、観月と望が一緒にいるところを見るのは怖い」
「怖い? どうして?」
「そのまま二人でどこかに行ってしまって帰ってこないような気がして不安になる」
 漠然とした陽の不安を、観月は分からないでもない。観月自身でさえ望と二人、どこかに堕ちてしまって戻れなくなるような不安に駆られることがあるからだ。そして、それを繋ぎ止めてくれているのが陽なのだ。
「だったら、陽。やっぱり今日、戻ってきて。俺、ちょっと家を空けるから」
「家を空ける? 何で?」
「父親に会ってくる」
 唐突に閃いた決心を、観月は口に乗せた。どこかで狂ってしまった歯車を、最初の地点に戻さなければ観月は身動きも出来ない。全てはそこからやり直さなければ正しい答えなど永遠に見つからないだろう。
 陽は、なぜ父親に会いに行くのかとは聞かなかった。ただ、分かったと短く答えて観月の体をぎゅっと抱きしめる。
 合わさった胸から伝わる体温は、酷く暖かくて、観月を心の底から安心させた。



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