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宵待草C ……………………

 雨の音が聞こえる。屋根を激しく打つ音だ。その音は嫌いじゃない。水の音は何だか心が落ち着くような気がする、と、観月は顔を上げた。雨の音以外は何も聞こえない、シンとした家の中。上半身だけを起こして、ふと庭のほうに目をやれば、しとどに濡れた灯篭や庭石が見える。一番大きな庭石は、鈍色に染まっていた。
 雨樋からは、流れるように雨水が落ちてくる。じめじめした季節、木の家は湿気を尚更吸うので、空気はあまり良くない。それでなくても、この充満した淀んだ空気が耐え難いのに。
 微かに身じろぐと、ドロリと液体が腿を伝う感触がして、観月は微かに眉を顰めた。ふと時計に目をやるが、さほど時間は経っていないらしかった。恐らく、意識を飛ばしてしまっていたのだろう。
 見れば、申し訳程度に下半身に望のシャツが掛けられていたが、その下は当然のように全裸だった。
 居間でするのはやめろと何度言っても、望はきかない。それどころか、陽が不在の時は時間も場所も構わず平気で観月を抱いた。
 タラタラと内股を伝う嫌な感触に顔を顰めたまま、風呂場に向おうと立ち上がると、ジーンズだけ身につけて肩にタオルをかけた望が居間に戻ってきた。
「…一人ですっきりしてんなよ」
 観月が不貞腐れて見せれば、望は楽しそうに含み笑いをこぼした。
「悪かったな。もう一回、一緒に入って洗ってやろうか?」
「……いい。望と入ると洗うだけじゃすまないから」
 ぶっきらぼうに答えて、観月は望の横をすり抜けて風呂場に向った。
 例年よりも早く始まった梅雨は、未だに明けない。庭の植物が根腐れを起こさなければ良いけど、とぼんやり考えながら風呂場に入り、体を綺麗に洗った。洗ったところで、すぐに、また汚されるのにそれも馬鹿馬鹿しい話だなと自嘲の笑みを零す。
 陽は、昨日から部活の遠征に行っていて、明日まで帰ってこない予定だった。
 恵子は、すでに三ヶ月もこの家を空けている。一体、望がどんな風に言ったのかは分からないが、初めて観月が望と寝たその三日後に、恵子は荷物をまとめて、何処かへ行ってしまった。行き先は言わなかったので、今どこにいるのかは、観月も、陽も知らない。望は知っているのかもしれなかったが、あえて観月は聞きたいとも思っていなかった。
 突然いなくなった恵子に、陽は多少訝しみはしたが、どうせ新しい男でも作って出て行ったのだろうと、さして気にもしていない風だった。もちろん、家の建て直しの件や観月の転校の話などは立ち消えて、今は以前と変わりない状態を維持している。
 以前と変わりない状態、と考えて観月は自嘲的に口元を緩ませる。表面上は確かに以前と変わりない状態になったのだろう。けれども、観月の内面は恐ろしいほどに変わってしまった。
 陽に対して嘘をついたり、作り笑いをする日が来るなど、半年前の観月には想像もつかなかった。今は、もう、真っ直ぐに陽の目を見ることも出来ない。
 風呂から上がり、一人縁側から雨の庭をぼんやりと眺め続けている。けぶる景色はまるで、観月の今の心の中のようだ。なんの疑問も抱かずに、ただ、望に抱かれ続けている。もう、最初の取引など曖昧になっているのに、それでも誘われればいくらでもセックスするし、自分が欲しくなれば浅ましくねだる。だが、その理由を考えようとはしない。考えることを放棄している。考えれば芳しくない答えに行き着くことを知っているからだ。
 散漫な意識で佇んでいると、カタンと不意に物音が聞こえる。反射的に観月が振り返ると、そこには大きな荷物を抱えた陽が立っていた。
「……陽?」
 なぜ、今、この場所に陽がいるのか分からなくて観月がきょとんとしていると、陽は、うんざりしたような顔で観月の近くまで歩み寄り、ドサンと荷物を放り投げた。
「雨のせいで、遠征切り上げ。じめじめしてやってらんねーよ。ったくよー」
 そう言いながら、少し濡れている前髪をかき上げる。
「中止になったの?」
「そう。使う予定だった施設、屋外で、室内の施設も押さえられないからって。今年の梅雨長すぎんだよ、いったい、いつ明けんだか」
 そう、ブツブツ言いながらスポーツバッグの中のタオルを取り出し、ゴシゴシと濡れている腕や首を拭いた。その実に少年らしい仕草に、観月はクスリと笑みをこぼした。
「風呂入ってきたら?」
「沸いてる?」
「うん。さっき、俺が入ったばっかりだから」
 何も考えずに観月は答えたが、その答えに陽は不思議そうな顔で首を傾げた。
「ふうん? こんな昼真っから風呂?」
 純粋に不思議だったから聞いただけだったのだろう。だが、その陽の疑問に観月はギクリと体を震わせた。
「…あの…うん…汗かいたから」
「そっか。ジメジメしてるしな。じゃ、俺、風呂入ってくる。あ、そういや、何か食うもんある? 腹減ってんだけど」
「あ、昨日の……カレーが残ってるけど」
「そっか。じゃ、あっためておいて」
「良いよ」
 観月の後ろめたさには全く気がつかない様子で、陽はそのまま風呂場へ向おうとする。その屈託の無さが観月には酷く眩しくて、そして苦しかった。もし、自分がしていることを陽が知ったならどうするか想像すると、背筋が凍ったように観月は恐ろしくなる。
 自分がしていること、つまり、血が繋がっていると知っていながら望と寝ていること。
 息が苦しい、と観月は思った。以前は望の目を見つめることが、居心地が悪くて息苦しいことだった。けれど、今は逆だ。陽のそばにいて、その目を見るのが苦しい。こうなることが分かっていて、望は自分を抱いたのだろうか。恐らく、そうなのだろう。
 観月には望の事がさっぱり分からない。一番近くにいるのに、一番遠くて、一番何もかもを分かっているのに、何も分からない。思えば、観月にとって望は初めて出会ったあの冬の日から、そんな存在だった。
 考えても詮無い事だと観月は軽く頭を振る。そして、台所に向った。




「そう言えばさ。聞きたかったことあるんだけど」
 カレーを頬張りながら、陽は何気ない口調で話しかけてきた。ぼんやりと窓の外の雨を眺めていた観月は、ハッとしたように我にかえる。
「あ? …え? 何?」
「んー? あのさ。もしかしてさ、観月最近、彼女とか出来た?」
 唐突に尋ねられた質問に観月は頭がついていかずにポカンと陽の顔を眺めた。その顔を見て、陽は少しだけ気まずそうにカレーを勢い良くかき込む。
「…彼女なんて、いないけど…急に、何で?」
 不思議そうに観月が尋ねると、陽はますますカレーを食べる勢いを早めて、観月には決して視線を寄越さない。
「んー? だって、最近、観月、イロッポイから」
 茶化すような口調で陽は言ったが、その一言に観月はギクリと体を竦ませた。
「…はあ? 何言ってんの?」
 精一杯明るい笑い声で答える。作り笑いは上手く行っているだろうか。少しだけ頬の辺りが引きつっているのを自分でも感じる。だが、幸いなことに陽は皿から視線を上げなかったので、観月の不自然な笑いを見咎めることは無かった。
「いないの?」
「いないよ。大体、なんだよ、俺が色っぽいって」
 無闇に明るい声は、逆に不自然に浮いてしまう。だが、その事に観月も陽も気がついていないようだった。
「んー。何か、こう。前と違うって言うか………まあ、良いや。俺の勘違い」
 陽の口調はあまりにいつも通りで、観月には判断がつかない。探りを入れているつもりなのか、それとも他意の無いただの雑談なのか。不意に落ちた奇妙な沈黙に、何かが暴かれそうな気がして観月は慌てて口を開く。
「そう言う陽はどうなんだよ? 彼女とかいないの?」
 同じ質問を振るのは、話題を逸らす常套手段だ。聡い望には通用しない手だったかもしれないが、陽は邪気が無いので、特に疑問を感じた風もなく、あっさりと答えた。
「えー? 俺? 俺は二ヶ月前に別れちゃったからなあ。今はいないよ」
 いとも簡単に返された答えに、観月はパシンと頭の中で何かが弾けた音を聞いた。唐突に襲ってきた衝撃に、観月は言葉を失う。何かが酷くショックだったのだ。だが、何がショックだったのかはすぐには分からなかった。陽が、誰かと付き合っていたことがショックだったのだろうかと思ったが、すぐに違うと否定した。違う。誰かと付き合っていたということを、今まで話してくれなかったのがショックだったのだ。
「……そう…なんだ。あんまり、陽とそういう話したことなかったから。知らなかった…」
 観月が小さな声で呟くように言うと、陽は少しだけバツの悪い顔をした。
「別に、隠してたわけじゃねーぞ? ただ、なんつーか…あんまり、観月にそういう話するの気がひけるっていうか…」
「気がひける? 何で?」
「うーん…何ていうか……観月って、純粋培養、みたいなトコあって、俗っぽい話とかすると悪いなあとか思ったから」
「…何だよ。それ」
「いや、俺が一人でそう思ってただけ。観月にはキレイキレイでいて欲しいって言うか。まあ、勝手なわがままなんだけど」
 陽は少し照れたように苦笑いをこぼした。その表情と言葉の内容に観月は俯く。得体の知れない罪悪感が込み上げてきて、とても陽の目を真正面から見ることは出来なかった。
 キレイが聞いて呆れる。もう、取り返しがつかない事を観月はしでかしてしまったのだ。そして、それを今も続けているのだ。
 慈しむような陽の視線と表情が観月には辛かった。いっそ、酷い言葉で罵られた方がまだ救われると思ったけれど。
 陽を見ていられずに、観月は視線を窓の外に移す。雨は止まずにますます激しさを増しているようで、一体、いつ降り止むともしれなかった。




 ■■■


 夏の日の夕暮れ。長い夕方に、ふと思い立って観月は浴衣を引っ張り出し、それを羽織った。観月が高校に上がった夏に、母の幸子が仕立ててくれた浴衣だ。娘だったら、もっと楽しかったのになあと幸子がふざけて、観月は確か、悪かったねとむくれていた。同じ生地で望と陽にも浴衣を作ったはずだが、なぜか、二人は未だに一度もそれに袖を通した事が無い。
 幸子に教えられたお陰で、観月は一人でも浴衣を着ることが出来る。面倒くさいといった観月に、半ば強引に着方を教えた幸子は、薄々と、自分の命が長くないことを悟っていたのだろうか。
 縁側に一人座り、茜色に染まっている庭をぼんやりと眺める。どこかで蝉が鳴いている声が聞こえ、庭先では、例年のように宵待草が花を広げようとしていた。思い出を辿るには、まだ傷は深く、観月は感傷的な気持ちのままじっと庭を眺める。ブラブラと芝生の上で素足を遊ばせていると、不意に後ろから腕を回されて、抱きしめられてしまった。
 もう、すっかり馴染みの深くなった体臭が観月の鼻をくすぐる。腕を振りほどく気にはなれず、感傷のまま、甘えるように観月は自分の体重を後ろに預けた。昨年の今頃は、四人でスイカを食べていたなと思い出したら、どうしようもなく、胸が切なく痛んだ。
「もしかして弱ってる?」
 からかうような声が耳元で聞こえて、観月は無意識にふるりと体を微かに震わせた。耳元で囁かれるのはダメだ。体が条件反射のように反応したがる。やんわりと望の腕を外して観月は抵抗した。
「やめろって。陽が帰ってくる」
「来ないよ。今日は部活で遅くなるって。夕飯いらないって言ってた」
 そう言って望は観月の首筋に唇を落とす。項の辺りを強く吸い上げられると、観月の背中には抗えない甘い痺れが走ってしまう。
「…こんな場所で…外から見える…」
「見えないって。庭まで入ってくるヤツいないよ」
 そう言って、望はするりと浴衣の襟元から手を忍び込ませた。唆すような誘いが、望はとにかく得意だ。探り当てられた突起を押しつぶすように刺激されれば、観月の喉はンッと甘く鳴ってしまう。
「せめて、部屋の中に…」
 そう言いながら、必死に尻で畳みの上をあとずさる。
「別に、どこでも変わんないだろ?」
 部屋に入りきらぬまま、足だけ縁側にはみ出した状態で望は観月の両足をグイと強引に引き寄せた。上体を支えていた観月の腕が滑り、図らずも仰向けに転がされる羽目になる。腰を密着させられると、観月の体は意思とは裏腹に、簡単に反応してしまうのだった。
「観月は体のほうが正直だな」
 からかうように言われて、観月は顔を背ける。大分古くなり、ささくれ立った畳の目が目に入った。そのうち、畳も張り替えなくては、とわざとらしく思考を逸らそうとするが、それも無駄な努力だった。
 はだけた裾から忍び込んでくる手はいつだって優秀だ。観月を馬鹿みたいに簡単に翻弄する。最初控えめだった喘ぎ声は、ものの数分もしない内に奔放なそれに変わる。
 顔の向きを変えれば、夕方の庭が目に入って、観月は何だか滑稽な気分になってしまった。窓も開けっ放しで、まだ夕方なのに男と交わっている。しかも、血の繋がった兄弟だ。なんの冗談かとも思ったが、襲ってくる快感に抗う術を観月は持っていなかった。
「…っ…うぅ…あ、あ、あ…や……」
 常に無いほど、望は性急に観月を慣らそうとする。いつもは、先に何度も観月を達かせて、観月が自分で入れてとねだるまでは決して入れようとしないのに。違和感を感じて観月が見上げると、ふと望は観月をからかうように笑った。深い黒い瞳がいつものように、観月を絡め取る。堕ちてこいと誘われれば、もう何も垣根などなくなった観月は簡単に堕ちて行く。
「どうして欲しい?」
 耳元で囁かれ、縋るように首筋にかじりつく。グジグジと音を立てて一番敏感な部分を刺激されれば、否応無しに触られてもいない前は完全に反応してしまった。
「入れて」
 蚊の鳴くような小さな声で懇願しても、望は指でそこを弄り回しているだけだ。我慢できずに観月は望むの耳たぶに齧り付く。
「入れて…もう、入れて………ねえ……欲しい」
 うわごとのように今度は少し大きめの声で言う。望は、それを聞いて喉の奥で笑ったようだった。グイと乱暴とも思えるやり方で望が入ってくると、観月は喜悦の声を上げた。
「ああっ! いいっ…あ、あ、あ…いや…ふ…うっ…」
 抽挿のリズムに合わせて上がる声は誰が聞いても甘ったるい喘ぎ声にしか聞こえないだろう。望の背中と、遠い天井の間で、観月の白い足がゆらゆらと揺れる。夏の夕方の薄暗闇の中で、その白さだけが奇妙に浮いていた。
「ああっ! あ、あ、あ…もっと…もっと…奥まで…」
 グチャグチャにしてほしいと、浅ましくねだる。たまらずに望の腰に足を絡めて自分でも腰を振ると、純粋な快感だけで観月の頭はすぐに真っ白になってしまう。
 もう、何もかもがどうでも良い。その時の観月にとって、世界の全ては望ただ一人だけだ。その感覚に身を委ねることは途方も無く恐ろしく、そして魅力的だった。失墜感のまま体を投げ出せば、殆ど触れられていないのにも関わらず観月はビクビクと激しく体を震わせて簡単に達してしまう。少し間をおいて、望も観月の中に放ったようだった。
 ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返し、それでも観月は力の入らない体を何とか動かしてずり上がろうとする。ニチャっと音を立てて望が体から抜け出れば、その感覚に、思わず
「ふ…ぅっ…」
 と微かな声が零れた。
 膝を立て、足を開いたままの状態で、観月は呼吸を整えようとしたが、不意に、カタンと廊下の方で音がして、ハッとした。金縛りにでもあったかのように、体が一瞬にして硬直する。

 何の物音だったのだろうか。
 家の軋んだ音?
 何かが、崩れて落ちた音?
 それとも? それとも。

 観月は硬直したまま、顔を動かすことが出来ない。何の物音だったのか。首を動かしてそちらを見れば、簡単に確認できることなのに、それができない。人の気配が恐ろしくて出来ない。
 何かから必死で逃げ隠れするように自分の下半身に乗り上げている望の胸元の辺りだけをじっと見詰める。望は、ゆっくりと襖の方に視線を移動すると、不自然なくらい鮮やかに、綺麗に笑って見せた。
「お帰り。陽」
 その言葉と表情に観月は悟る。望は確信犯だったのだと。望は、そこに陽がいたことを知っていたのだ。知っていて、止めなかった。あるいは、仕掛けてきた時から陽に見られる事を予想していたのかもしれない。
 耳が裂けてしまうのではないかと思うほどの静寂が、辺りを支配していた。誰も、何も言わない。観月は恐怖に凍り付いて、襖の方を見ることも出来なかった。
「…何…やってるんだよ…」
 静寂を破ったのは、いつもとはまるで違う、感情も何もかもを削ぎ落とした冷たい陽の声だった。観月は、体をビクリと震わせる。けれども、やはり、声のする方を見ることは出来なかった。
「何って、見たとおりだけど?」
 望の声は余りに穏やか過ぎて、逆に挑発しているようにも聞こえる。
「ざけんなよっ! !」
 障子が震えるほどの怒声が響き渡り、観月は雷に打たれたかのように激しく体を震わせた。反射的に振り返り、陽を見れば、陽の顔は怒りの為に真っ赤になっていて、全身はブルブルと震えているようだった。いつもは明るい表情を浮かべ、観月を優しく見詰める瞳は憤怒で燃え盛っている。観月は、どう取り繕って良いのかも分からずに、顔を真っ青にしたまま何とか立ち上がる。すると、先ほど中に放たれたものが腿を伝って流れ落ちる感触がして観月は反射的に顔を顰めた。
 腿を伝いきれなかったものがハタハタと畳に落ち、暗い染みを作る。それに陽も気がついたのだろう。畳の染みをじっと見下ろしたまま、今度は急に真っ青になった。陽の日に焼けた健康的な顔が、可哀相なくらい色を失っている。
「お前ら…何を…何をやってるんだよ…」
 もう一度陽は呟く。今度は、全身の力という力を奪われてしまったかのような、虚ろな声だった。
「…お前らは……お前らは血の繋がった兄弟なのに……」
 虚ろな声でさらに小さく呟かれた言葉に観月は、え? と耳を疑う。パンと頬を激しく打たれたような気がした。


 オ前ラハ血ノ繋ガッタ兄弟ナノニ。


 陽は今、確かにそう言わなかったか。確かに『兄弟』だと。
 まるで小さな子供のように観月はポカンと陽を眺める。陽はじっと観月の顔を見詰め返し、不意に酷く辛そうに顔を歪めると踵を返し、だっと走り去った。ガラガラと玄関の引き戸が開け放たれる音と、乱暴にかけていく足音。それだけが聞こえて、後は恐ろしいほどの静寂だけがそこに残った。
 観月は汚れた腿もそのままに、ただ、ただ、その場所に立ち尽くす。頭の中で、何度も陽の顔と言葉を反芻するが、意味が頭の中に入ってこない。空転する思考。観月の脳は現状を理解することを拒絶している。
 パサリと肩に浴衣を掛けられて、その時になって、ようやく、傍らに望がいたことを思い出して観月は顔を上げた。見上げた望の顔は極めて冷静で、何の動揺も見当たらない。陽に見られたことも、陽に言われたこともまるで無かったかのような冷静さに観月は違和感と不審を覚えた。なぜ、望は何も言わないのか。望は知っていたのか。
 知っていた? 何を。
「……望は…知っていたの……?」
 混乱して思考のまとまらないまま観月はその疑問を口にした。何を知っていたかと尋ねたのか自分でも分からない。ただ、答えの分かりきっている事を確認する為に質問したように、それは口に出されただけだった。
「知ってたよ」
 答えは、予想した通りのものだった。知っていた。何を。何をかもをだ。
 観月が望と兄弟だと知っていながら、あんな馬鹿げた取引を持ちかけたことも、浅ましく望とのセックスに溺れていたことも。
 観月の全身の血という血がザアっと地面に吸い取られるかのように下がる。顔面蒼白で望の顔を馬鹿みたいに見詰め続けると、望は微かに眉を顰め、苦笑いをこぼした。
「…観月は陽のこと神聖視しすぎなんだよ。一度、陽と寝てみろよ。アイツだって普通の男だって分かるから」
 そして、観月の表情に何を取り違えたのかそんなことを言う。観月は、その言葉に酷いダメージを受けた。だが頭の中はもう一杯一杯で、何がショックだったのかすら分からない。ただ、分かるのは何かが壊れてしまったということだけだ。
 壊れてしまった。何もかもが。観月を取り巻いている世界の全てが。足元の崩れた世界で観月はただ呆然と立ち尽くす。だが、それは今壊れたのではない。とうの昔に壊れていたのだ。それに観月が目を背けていただけ。
 望は、立ち尽くす観月をそのままに黙って部屋を出て行く。全ての拠り所を失った観月に、夏の夜闇が覆いかぶさってくる。いつの間にか太陽は完全に沈み、辺りは薄闇に包まれていた。月は見えない。

 真っ暗な庭では、ただ、宵待草がゆらゆらと所在無く風に揺らめいていた。



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