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宵待草B ……………………

 ピッピッと規則的な電子音を鳴らしながら、点滴の雫が落ちていく。それが注入されている幸子の腕は酷く痩せ細り、幾つもの点滴の跡で痛々しいほど青く痣になっていた。
 消毒液のにおいが充満している病室で、何を話すでもなく、観月はぼんやりと窓の景色を眺めていた。幸子は時折目を覚ましては、ポツリ、ポツリと観月に話しかける。だが、その声には生気が無い。
 日に日に、目に見えて分かるほど幸子は弱っていく。それを見続けなければいけないのは、途方も無い苦痛だった。死と言う結末が分かっているのに、それでも、そこに至るまでの過程を見届けなければならない。そこにあるのは、悲しみではなく、苦しみだけだ。
「……観月」
 不意に、改まった口調で話しかけられ、はっとしたように観月は窓から視線を母親に移す。母は、急に力をたたえた瞳で、じっと観月を見詰めていた。
「色々考えたんだけど……望君と陽には家を出て行ってもらうのが良いんじゃないかと思うの」
 唐突にそんな事を言い出す。
「実はね。黙っていたけど、夏の初め頃に二人の母親から連絡があったのよ」
 さり気なさを装って幸子は切り出しているつもりらしかったが、その瞳には暗い翳りが隠しようも無く浮かんでいた。今まで、観月が決して気がつくことの無かった翳り。病気ですっかり弱ってしまった今、それを巧妙に隠す力さえ幸子には残っていないのだろう。
「やっぱり、本当の母親と一緒に暮らすのが一番じゃないかしら? 観月もそう思わない?」
 疑問形で話し掛けてはいるが、決して否定の言葉を許さないという逼迫感がそこには漂っている。観月は何と答えて良いのか分からずに言葉を失った。
 あの日記を読む前の観月だったなら、一体、何を言い出すのかと憤慨して言い返していただろう。二人が母親に捨てられた経緯は幸子も観月も知っていたのだから。今更、母親面して出て来た女に二人を渡すわけにはいかないと。
 だが、観月はあの日記を見てしまったのだ。幸子の呪詛じみた言葉が脳裏を廻る。

 『私は、一度も、あの双子に愛情など感じた事はなかった。憎い、憎い、死んでしまえばいい、殺してしまいたい。殺したい。死ね、死ね、死ね』

 あそこまで母を追い詰めた一端を二人は担っているのだ。観月の中には二人に対する憎悪など一片の欠片も無い。無かったが、母の心情を知ってしまった今、その言葉を否定することもまた、観月には出来なかった。戸惑ったように母の顔を見れば、ひどく不安げな、迷子になった子供のような表情が浮かんでいた。重苦しい圧迫感が観月を追い詰める。母は、死を目前にして、ただひたすらあの家に固執しているらしかった。あの、美しく寂しい場所に。
「……望と陽は………俺の兄弟じゃないの」
 消え入るような小さな声で観月が呟くと、幸子ははっとしたようにその目を大きく見開いた。自分と面差しの似たその顔を、観月はじっと見詰める。母の真っ黒な瞳に浮かんでいるのは寂しさや、悲しさや、憎悪や、悔恨や、絶望のような暗闇だ。
「……違うわ。何を言っているの?」
 明らかに、幸子にも観月にも嘘だと分かる答え。それは、口調はとても穏やかでも幸子の悲鳴のような言葉だった。あの日記を読まれたことを幸子は悟り、だが、それを忘れなさいと観月に訴えているのだ。それは、観月を守ろうとしている最後の母の愛だった。観月は耐え切れずに俯く。
「……あの家は、俺が守るから」
 俯いたまま、涙が零れないように必死に堪えてそれだけを言う。
「絶対に、いつまでも、俺が守るから」
 そう言うと、頭に優しい手が触れた。点滴の刺さっていない手で、幸子は優しく観月の髪を梳く。一体、母に頭を撫でられるなど何年ぶりのことだろうか。恐らく、母の背を越えてしまった頃から無かったはずだ。
「……そうね。母さんが小さな頃から育ってきた家だから。とても愛しているのよ」
 そう言って幸子は微塵の動揺も覗かせず明るい口調で、思い出を語る。
 春の芽吹きの喜び、夏の蛍と宵待草、秋の紅葉と虫の声、そして白銀の静寂の世界。あの美しい庭には、醜いものも、恐ろしいものも入り込む隙が無い。ただ、ひたすらに美しいだけだ。そして、その中で宵待草が一番好きだと幸子は言う。
 観月は耐え切れずに、一粒の涙をリノリウムの床に落とす。



 幸子は、最後まで、その涙に気がつかない振りを突き通した。



 ■■■


 幸子が亡くなったのは、次の年の一月の終わり。霙混じりの重たい雨が降った日だった。
 霊安室に静かに眠る幸子の顔は酷く穏やかで、幸福そうに見える。観月はその顔を見ながら泣くことは無かった。悲しみは、まだ、観月の感情に追いついてこない。あるのはどうしようもなく空虚な虚脱感と、酷く長い時間に感じられた苦しみが終わったことに対する安堵感だった。
 今日は、まだ生きていられるのか。少しでも病状は回復しているか、悪化しているのか。苦しい場所は無いか。辛くは無いか。そんな事を延々考え続けなければならない時間は終わったのだ。
 望と陽は、無言で観月の後ろにたたずんでいる。それだけが観月にとって救いだった。
 ぼんやりと現実感の薄い中で、通夜と葬儀、火葬、納骨が淡々と行われていった。どこか輪郭をなくしたようなおぼろげな時間の流れの中で、一つだけ、観月の意識に鮮やかだったのは、7年ぶりに会った父親の、その顔だった。
 7年間別居していたとは言え、戸籍上は植草克哉は幸子の夫で、当然、世間体もあって喪主は克哉が務めたのだ。
 久しぶりに会った父の顔は、余りに望と陽に面差しが似通っていた。否。望と陽が克哉に似ているのだ。7年前に会った時はまったく思いもしなかったが、二人が成長して大人の男になりつつある今、その相似は誰の目から見ても明らかだった。
 二人は、遠い親戚の子供として親族の末席に座っていたが、参列者の中でも口さがない連中は葬儀の最中だと言うのにも関わらず、ヒソヒソと何事かを囁きあっていた。克哉を見て、それから双子を見て。
 だが、克哉は一度として双子に声を掛けることは無かった。まるで何の興味も無いといった風に、その存在をいとも容易く無視して見せた。観月には、一言だけ、
「大変だったね」
 と労いの言葉を掛けたが、ただ、それだけだった。
 声をかけられた時に見上げた父の目が、余りに望に似ていることに気がつき、観月は慄いた。似ている。あまりにも似ている。だが、その暗闇は望など比べ物にならないほど深く、絶望的だった。ほんのひとさしの月光さえ見当たらない。そして、ひたすら冷たい。何の体温もそこには存在しなかった。なぜ、この男はこんな眼をするようになってしまったのだろう。当然、そこには望のような甘い誘(いざな)いなどありはしない。どこまでも他人を拒絶している目だった。

 冷たい霙雨の降る中、納骨が終わると克哉はさっさと帰ってしまった。そうして、だだっ広い家の中には、観月と望、陽しかいなくなる。たった一人、いなくなっただけなのに、その喪失感は途方も無いものだった。
 広すぎる。あまりに広すぎる家。いくら暖房を聞かせても薄ら寒さは消え去らない。
 雪見障子越しに、庭の雪景色を眺めている観月の脳裏に嫌でも浮かび上がってくるのは、母との暖かい思い出ばかりだった。今では子供っぽいと馬鹿にして作らなくなってしまった雪うさぎの作り方を教えてくれたのは母ではなかったか。こうすると、観月もうさぎみたいだと笑ってコートも、マフラーも、帽子も、手袋も白いものを揃えたのも母ではなかったか。
 次々に思い浮かんでくる母の思い出に、観月の悲しみはとうとう追いついてしまった。泣くつもりなど無いのに、後から後から涙が溢れてくる。嗚咽を漏らすことも、啜り上げることも無かった。ただ、ひたすら音も立てずに観月は泣き続ける。
 それに気がついた陽と望はそっと観月に近づき、両側から観月を抱きしめた。何も言わずそのまま二人は観月を抱き続ける。
 悲しみは決して癒えることも薄れることも無い。
 だが、薄ら寒さだけは、そうされると少しだけ遠のいたような気がした。



 ■■■



 三人きりの生活にいまだ物慣れず、どこかギクシャクとした不自然さを内包しているその家に、その女が入り込んできたのは二月の半ば。幸子の葬儀から、僅か半月後の事だった。
 克哉が、望と陽の産みの母親である麻生恵子と再婚したのだ。恵子が大きな荷物を持って、突然に押しかけてきたのを見たとき、観月は何の冗談かと思った。
「今日から私が貴方達の母親よ」
 まだ、位牌すら片付けていない部屋で、滑稽なホームドラマのような台詞を恵子はいけしゃあしゃあと言ってのけた。そして、観月の必死の制止も聞かず、それまで幸子が使っていた部屋を奪い取ると、派手で趣味の悪い家具やなにやらで飾り立ててしまった。
 この家は古臭くていけないと言いながら、あちこちを勝手に自分の好みの内装に変えていく。それは、観月にとって我慢なら無いほど不快なことだった。
 汚されていく。美しく清らかだったこの場所が。
 幸子との、ひいては望と陽との慎ましやかで、穏やかな幸せな思い出の沢山詰まったこの場所が。
 傍若無人に振舞う恵子に、観月は度々反抗したが、恵子はそんな子供の抗いを鼻で笑って、まるで相手にしなかった。恵子の振る舞いには陽も相当に腹を立てていて、観月と同じくらい悪態をついて文句を言ってはいたが、恵子の陽に対する態度は観月に対するそれと大差が無かった。望は、二人に比べて恵子に対しては無口で、どうにも目に余る時にしか意見を述べたりはしなかった。だが、その稀にしか言われない意見になぜか恵子は従った。
「望がそう言うならそうするわ」
 と少しだけしおらしい態度を見せたりもする。観月に対する態度はともかく、同じ我が子に対してこうも違う反応を示す恵子に陽は戸惑っているようだった。なぜ、差別されるのか陽には理由が全く分からない。だが、観月には何となくその理由が分かるような気がした。
 望は似ているのだ。観月の父親に。望と陽の父親に。
 外見云々の話ではない。外見だけの話ならば陽も克哉によく似ていた。だが、その本質の部分で陽は克哉とは似ても似つかなかった。まるで正反対だったのだ。望と陽が正反対であるように。



 少しずつ、少しずつ侵蝕され、綺麗な思い出ごと汚されていくのを、観月は歯痒い思いで見ていなければならなかった。この家の主は、本来なら観月のはずだ。けれども、恵子はそんなことに頓着しない。酷く軽く観月を扱う。時には、その存在が無いもののようにすら振舞う。
 戸惑いと、怒りと、焦りと、憎しみのような感情を観月は常に内包していなければならなかった。そして、それらがとうとう爆発してしまう日が来た。
 事もあろうか、恵子がこの家を建てかえると言い出したのだ。この家は古臭くて、田舎臭くて、辛気臭くて耐えられない。洋風の綺麗な家に立て直すのだと。
 幸子が今まで大切に守り、丹念に維持してきた庭さえも潰すという。花壇や洋風の花を中心にした庭にして、ガーデニングをするのだと、楽しそうに笑いながら言った。
 当然、観月はそれには猛反発をした。普段はあまり怒ったりしない観月だったが、その時ばかりは怒りに拳を握り締めて大きな声を張り上げた。
「ふざけるな! この家はあんたのものじゃない! 泥棒猫!」
 と。
 その罵声を望や陽に聞かれたらどうしようかと思いやるような余裕も無いまま観月は叫んだ。
 それは、皮肉にも幸子が日記に喚き散らしていた言葉と酷く似通っていた。だが、恵子は観月の罵声に怯むことも無く、まして怒ることさえせずに、軽くあしらうように観月に嘲笑を浴びせかけただけだった。
「その泥棒猫に養われている子供は、どこのどなた?」
 にっこりと艶やかに笑って恵子は観月の無力さと幼さを馬鹿にした。
 恵子が一体、どんな人生を歩んできたのか観月には想像もつかない。だが、世の中の酸いも甘いも舐め尽くし、擦れ切った女は、どうすれば人が一番傷つくのか、それを熟知していたのだ。
 派手な化粧の毒々しい唇が、醜い形に笑う。恵子は客観的に見れば、そうとう美しい女の部類に入っただろうが、観月には醜く汚らしい人間にしか映らなかった。
 汚され、壊されていく。
 美しい思い出が。
 母の願いが。
 観月のこれまで生きてきた過去が。
 それをただ見ていることしか今の観月には出来なかった。自分の無力さを突きつけられ、観月は失望の中でただひたすらもがいていた。そんな観月に恵子はさらに追い討ちをかける。
「アナタ、随分と学校じゃ優秀らしいじゃない?」
 そう言いながら、恵子は幾つかの冊子を観月に突きつけた。
「こんな田舎にいるのは勿体無いわ。都会の方にある有名な進学校に編入なさいな。大丈夫よ。全寮制の学校なんていくらでもあるから」
 勝ち誇ったように恵子はそう言った。成績のことだけを言うなら、望だってかなり優秀で、観月と殆ど変わらない。だが、恵子は観月にだけ出て行けという。あからさまに観月を追い出そうとしているのだ。
 何の抵抗する術も持たず、観月はただただ疲弊していく。
 陽が怒り狂って怒鳴り散らしているのを、ただぼんやりと眺めていた。
「ふざけんなよ! 出てくのはテメーだろ! ? 観月を追い出すなんて許さない! ! 絶対に許さない! !」
 常には無いほど激昂した様子で陽は恵子に詰め寄ったが、やはり恵子が怯むことは無かった。小さな子供をあしらうように陽をもあしらう。
「あら? 陽はここにいて構わないのよ? 新しい家の部屋はどんな部屋がいいかしら?」
 決して笑みを崩さずそんな事を言う恵子に怒りが振り切れたのか、陽はテーブルを乱暴に蹴り付けるとその場を出て行った。きっと、そのままそこにいたのなら、恵子を殴りつけてしまっていたからだろう。
 陽の怒りとは対照的に、望はただひたすらに冷静だった。
「子供の将来に関わることを、そんなに簡単に決めるのは良くないんじゃない? もう少し考えてみたら」
 望が何の熱も感じさせない冷たい口調でそう言うと、恵子は少し興ざめしたようだった。
「…まあ、今すぐにとは言わないわ。ゆっくり考えてもらうけど」
 観月と陽の言葉をあれほど無下にあしらったくせに、望にはそんな事を言う。恵子と望が会話しているのをぼんやりと眺めながら、観月はふと違和感に躓いた。
 望は、決して観月に冷たいわけではない。むしろ陽と同等に観月には優しいし、家族の情愛を観月には示してくれていた。つらかった時期の観月を優しく支え、幸子の死を悼み悲しんでいた観月を抱きしめ慰めてくれたのは望とて陽と同じだったのに。
 恵子が来てからこのかた、望は必死になって観月を庇うということを、決してしなかった。陽は、とにかく観月を守ろうと躍起になっているのに。
 なぜ、そんな風に望は豹変してしまったのだろうか。幸子の死に際して、望の中で何かが変化してしまったのだろうか。観月にはその理由が全く分からない。
 ただ、一つだけ分かった事がある。

 この美しく清らかな、観月の宝物である家と庭を守る方法が一つだけあった。
 とても、とても、簡単な方法が。

 疲弊しきっている観月は気がつかない。もう、すぐそこまで夜闇が近づいていたことに。
 それは、ひたりと観月の傍らに寄り添い、観月を甘く誘っていた。



 ■■■



 冬の終わりというよりも、春の始めといった方が似つかわしい夜だった。しとしとと静かな雨が雨樋を伝って落ちてくる音を、観月はただ一人縁側にたたずみながら聞いていた。
 雨の音は観月の心を落ち着かせる。庭に植えられている様々な木々の雪囲いも、そろそろはずさなくてはならないなと、取り留めの無いことを考える。
 電灯をつけていないので部屋の中は真っ暗だったが、微かにガラス越しに差し込んでくる水銀灯の明りだけが視界の頼りだった。家人はもうすでに、皆寝静まってしまったようで怖いくらいの静寂がそこかしこに蔓延っている。聞こえるのは雨音だけだ。
 観月は暫くの間、何をするでもなく庭を眺め続ける。美しい、虚飾の無い庭だと思う。母が好きだった植物だけを少しずつ植え、ここまで整えられた庭だ。絶対に、これを壊させたりはしないと観月は思う。
 ふ、と視線を庭から外し、観月は足音を気にしながら廊下を渡った。微かに木の軋む音がする。おそらく築三十年以上は経っているだろう家だったが、思いの外軋みが少ない。それだけ職人が丹精込めて作った家だからだ。
 観月はドアの前に立ち止まると、トントンと小さなノックをした。眠っているかとも思ったが、中からは案外としっかりした返事が聞こえ、静かにドアが開いた。
「話があるんだけど」
 観月は、まっすぐに視線を上げてそう切り出した。今日は、視線を逸らさない。決して逸らさない。そう決めてきた。
「良いけど? 入ったら?」
 深夜の訪問にも関わらず、望の顔には何の戸惑いも驚きも浮かんでいない。浮かんでいるのは喜色のような笑みだけだった。目の色は仄明るい電灯の下でますます深い夜闇に見える。観月は、実に久しぶりに望の部屋に足を踏み入れた。
 いったいいつからだったか。観月は決して望の部屋には入らなくなった。また、観月の部屋にも望を入れなかった。それは、恐らく、奇妙な駆け引きのようなものに気がついてからだったのだろう。陽は平気で観月の部屋に入る。望の部屋にも入る。二人もまた陽の部屋には何の戸惑いも無く入った。けれども、望と観月はお互いの部屋には決して入らない。その不自然さを、なぜ、今の今まで気がつかなかったのか。否。気がつかないように目を逸らしていただけだ。
 久しぶりに入った望の部屋は、以前、子供の頃に見たときと殆ど変わらなかった。無駄なものの無い、すっきりとしたシンプルな部屋。余計なものを嫌う望らしかった。
 背後で、カチリと部屋の鍵をかける音が聞こえ、観月は微かに体を振るわせた。だが、なぜ鍵など掛けるのかとは問わなかった。問うだけ無駄なことだ。自分は閉じ込められたのだ。逃げ出せないように。
 もとより、逃げ出すつもりなど無かった。どれだけ愚かなことをしようとしているのか、観月は十分に分かっていたのだから。
 例えば恵子を殺してしまうことと、これからすることはどちらが罪深いのだろう。いずれにしても、観月にはこの道しか残されていないのだからしかたがない。
 所在無くストンと望のベッドに腰掛ける。緩慢な仕草で望を見上げると、優しげな笑みを浮かべて見詰め返してくれた。だが、その穏やかな表情とは裏腹にその瞳は酷く暗い。いつものように、堕ちて来いと観月を誘う。
 突然に観月は悟った。なぜ、望が恵子からそれほど真剣に観月を庇わなかったのか。
 蜘蛛の糸を張り巡らすように、ただ、ひたすら、望は観月が自分から堕ちて来るのを待っていただけなのだ。たった今のように。
「あの女に、この家と庭を残すように言って」
 唐突に観月が要求を突きつけても、望は眉一つ動かさない。何もかもが予測された範囲の出来事だったのだろう。
「良いよ」
 そして観月は、望がこう答えることを知っていた。そして、その次に続く言葉も。
「代わりに観月は何をくれるの?」
 観月が差し出せるものなど、観月自身しかないことを知っていながら望はそう聞く。あくまでも、それは観月の意思で、望が強要したのではないことを観月自身に思い知らせる為に。そうして、観月の退路を塞ぐ。何の言い訳も出来ないように。
「…何でも…俺に出来ることならする」
 用意していた言葉を何の感慨も持たずに観月は告げた。決まりきった芝居を、寸分違えず台本どおりに演じているかのような滑稽さがそこにはあった。望は薄い笑みを浮かべたまま観月を見下ろしている。その目は真夜中の夜闇そのままだった。この闇は深すぎる。観月は本能的な恐怖に体を竦ませた。
 静かに落ちてくる唇。その体温を感じられないほど観月は恐れていた。何が怖いのか分からない。ただ、怖い。それは、何かを殺す恐怖と、何かに殺される恐怖を同時に内包していた。






 結論から言えば、観月はただ、単純に望とセックスしただけだった。ただそれだけ。だが、こんな惨めで酷いセックスも無いだろうと、観月は思った。
 望は自分は一切着衣を乱さないまま、観月だけを全裸にして、焦らすだけ焦らして随分な時間をかけて射精まで追い込んだ。しかも、終始薄い笑みを浮かべたまま、観月の痴態を隅から隅まで見詰めながらだ。観月は惨めさと強い羞恥を感じつつも、望に見詰められるとどうしようもなく昂ぶってしまうのを止められなかった。一方的に、ただひたすら苦痛とも思える快感を与えられ、それにどうしようもない罪悪感を感じつつも、あっさりと観月は達した。
「へえ。観月ってそんな顔してイくんだな」
 望は面白がるようにそんな風に言った。いたたまれない。実にいたたまれなかった。差し出すはずのセックスが、与えられるセックスに摩り替わっている。交換条件などではない。ただ、観月がそれを望んだのだろうと突きつけるような行為。浅ましい。汚らしい。人と肌を重ねるのは初めてで、しかもその相手は男で、その上自分と血の繋がっている兄弟なのだ。それなのに、観月は与えられる快楽に悦び、嬌声を上げている。
 望は全く容赦なく、立て続けにさらに二回、観月だけをイかせた。三度目など、射精をせき止められて、泣きながらお願いだからいかせてくれと哀願させられた。恥も外聞も無い。ただ、その時は欲の塊になってしまったかのように、気持ちいい、もっと欲しい、もっと、とせがんだ。一体、いつ終わるかとも分からない、狂ったような時間だったが、ふと呼吸が落ち着いた時に観月は我にかえる。浅ましい自分を自覚した途端、どうしようもなく泣きたくなってしまった。こんなのは自分じゃないと思いたかった。こんな自分を突きつけられるのは途方も無く辛い。だが、望はそれではまだ足りないようだった。
 逃げ出したい、終わりたい一心で、
「もう…もう、終わりにして」
 と観月が懇願すれば、望は、
「良いよ。俺が観月の中でイったらな」
 とあっさり言う。それが済めばやっと解放されるのだと思い、観月は少しだけ安堵したが次の言葉を聞いてさらに突き落とされた。
「だから、早く終わって欲しかったら自分で開いて、入れてってねだれよ」
 一分の崩れも無い整った笑顔で望は観月を見下ろしている。観月はひゅっと思わず喉を鳴らして肩を震わせた。望の真っ暗な夜闇の瞳から目が放せない。見つめているだけで、観月の頭の芯はジンと甘く痺れ、麻酔に掛かったようになってしまう。初めてセックスする観月に、望は娼婦のような振る舞いを要求しているのに、観月は逆らうことが出来なかった。
 おずおずと足を上げ、震える手で自分の腿を支える。そんなみっともない姿を、すぐ目の前で望が見ているのだと思ったら、羞恥で神経が焼ききれてしまうかと思ったが、それと同時に観月は認め難いほどその先を待ちわびていた。望は、最初からきっとそれを見抜いていたのだ。醜くて、浅ましくて、汚い観月のことを。
 絶望的な気持ちになりながら、観月は震える声で、入れてと、ねだる。知らず観月の眦からは涙が溢れていて、その声は濡れていた。
 良いよ、あげるよと冷静な声で望は言うといつの間にか何かで濡らしたらしい指を観月の内側に埋めて、今度は、その場所を嫌と言うほど弄りまわした。中のある部分を執拗に刺激されると、自分の意思とは無関係に、観月の口からはひっきりなしに、甘えたような嬌声が零れた。必死に唇を噛み締めて堪えようとするのに、どうしても零れてしまう。自分の声とは思えない甘ったるい声だった。
 結局、望の指しか入っていないのに、観月はまた一回射精させられてしまった。しかも、後ろしか弄られていないのにだ。そのことに呆然として、しゃくり上げて泣いている観月に望は顔を寄せる。汗で額に張り付いた観月の髪を優しい仕草でかき上げながら望は真正面から瞳を覗きこんできた。その表情は穏やかで優しげなのに、夜闇の瞳はこれでは足りないという。もっと堕ちて来いと誘う。もう、これ以上堕ちる場所などないのに、どうすれば良いと言うのだろう。観月は耐え切れずに目を閉じた。すると、今度は優しい声が耳元で囁く。
「観月は知らなかっただろ? 自分がこんなに淫乱だったなんて」
 知らなかった。知りたくも無かった。焦らすだけ焦らされて、ようやく望が観月の中に入ってきた時、観月が感じたのは決して酷い自己嫌悪だけではなかった。認め難い喜悦。止めることも出来ずに浅ましく腰を振る。もっと、もっとと熱に浮かされたように観月は喘いだ。
 もはや観月の矜持など粉々で、一片の欠片も残っていない。何もかもをグチャグチャに汚されて、それを望んでいた自分を突きつけられて、とうとう観月は暗い暗い夜闇の底まで堕してしまった。
 こうなることが分かっていたから、望には近づいてはいけなかったのに。もう遅い。望に体の奥深くまで犯されながら、あっさりと五度目の射精を迎えた時、観月の脳裏に浮かんだのは陽の屈託の無い明るい笑顔だった。
 もう、戻れない。その隣に逃げることは出来ない。陽には決して言えない罪を、観月は犯してしまったのだから。


 観月が初めてセックスした相手は、血の繋がった兄弟だった。




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