宵待草A …………………… |
『本日空調整備のため四時から休館』 図書館の玄関の前に張り出された張り紙を見ながら、観月ははあと大きな溜息をついた。空調の効いた静かな図書館で少しでも夏休みの課題を進めようと、重い腰を上げてわざわざ図書館に足を運んだのに。いつもは家で勉強しているのに、慣れないことをするとこれだ。 けれども、観月は今日は家にいたくなかったのだ。夕方から幸子は生け花の稽古に行っているので遅くまで帰っては来ない。陽はサッカーの練習試合の後、打ち上げに参加するのでやはり夜遅くなるのだと言っていた。自然とあの広い家には、観月と望の二人きりになってしまう。それが嫌だった。 少しでも二人きりの時間を減らすために、夕食も外で取ってくると望には伝えて出て来たのに。どうしようかと日陰に立ち、暫く思案する。時間も夕方に差し掛かっているとはいえ、焼け付き、熱を溜め込んだアスファルトから立ち上る熱気はまだまだ真昼のそれと同じだった。 額に滲んだ汗を腕で拭って観月は小さな溜息を一つ吐く。どこかで時間を潰すのも気が進まなくて、結局、観月は家に帰る事にした。 玄関に見慣れない女物のサンダルが揃えて並んでいる。決して幸子のものではない、若者向きのデザインのそれだった。観月は訝しげに眉を顰める。誰か来ているのだろうか。もしや、望が女を連れ込んでいるのかと思ったら、ガラスを釘で引掻くような嫌な感触が胸の中に生まれた。そろそろと、足音を殺すように家に入る。気配も一緒に押し殺しながら、居間の方に向うと微かな猫の鳴き声のような声が聞こえた。眉間の皺を深くしながら観月は、声のするほうに歩みを進める。居間の隣、客室用に空けてある部屋からその声は聞こえているようだった。猫のような声だけではない。荒い息遣いの音と、ズッ、ズッと畳の擦れるような音も一緒に聞こえてくる。一体、何だろうとこっそり襖の陰に隠れて部屋の中を盗み見ると、衣服を乱した髪の長い女の上に覆いかぶさっている望の後姿が見えた。胸をはだけて、スカートを腰の辺りに纏わりつかせている女とは対照的に、望は全く着崩してはいなかった。だが、何をしているかなど、そういった経験の無い観月にさえ一目瞭然だ。観月は大きく息を飲み込むと、呼吸も忘れ、素早く踵を返した。動揺しているはずなのに、足音を殺すことだけは忘れない。それでも、時折、微かに軋む床音にいちいちビクビクしながら離れた場所にある自室に逃げ込んだ。 パタンと、なるべく音を立てずにドアを閉じた途端、やっと呼吸の仕方を思い出したように観月は大きく息を吸い込み、それから深く吐き出した。 耳鳴りがジンジンとしている。血液の流れる音が頭の中で暴れまわっているのだ。無意識に、シャツの胸の辺りをギュウっと握り締める。手の色が真っ白になってしまうほど強く。 過呼吸になったかのように、呼吸が整わず苦しい。とても苦しい。不自然に揺れていた女の細くて白い足が脳裏から離れない。鮮明にその場面が浮かんだ途端、観月は吐き気をもよおした。ぐぅっとえづいたが辛うじて吐瀉物を吐き出すことだけは堪えた。 息を整えて、動悸を落ち着かせなくてはならないと思うのに、どうすれば良いのか分からない。 「…陽。…陽」 反射的に、観月は陽の名前を呼んだ。今、ここにいるはずもなかったが、それでもその名を呼んだだけで、大分気分が落ち着いたような気がした。次いで、必死に陽の笑顔を思い出す。屈託の無い、日に焼けた明るい笑顔を。すると、さらに、呼吸と動悸は治まった。シャツを握り締めたまま、観月は深呼吸を繰り返した。 大分落ち着いたところで、ようやく、観月は力を入れたせいで血の気を失っている手に気が付いた。そっと手を離すとシャツはその場所だけクシャクシャになっていて、アイロンをかけなければ、とても元に戻りそうに無かった。丁度汗もかいていたので、観月はシャツを着替える。脱いでしまったシャツを手にしたまま、どうしようか、逡巡してしまった。洗面所に洗濯機が置いてあるので、そこまで持って行けば良いのだが、望やさっきの女と鉢合わせしてしまう事を考えると部屋から出る気にはならなかった。どうしようかと、ベッドに座ったままぼんやりと考える。ふと、窓の外に視線を移せば、入道雲が鮮やかな茜色に染まりかけているのが見えた。その鮮やかさが、観月にいいようのない切なさを突きつける。胸を鋭利なナイフで薄く切りつけられるかのような、微妙な痛み。 ふと、離れた場所で誰かが会話を交わしている声が聞こえた。どうやら、望と女が玄関で何かを言っているらしかったが、すぐに、ガラガラと玄関の引き戸が閉まる音が聞こえ、静寂が訪れた。聞こえるのはヒグラシの声だけだ。暫く神経を尖らせて人の気配を探ったが、女は帰ってしまったらしかった。 観月はノロノロと腰を上げ、シャツを片手に洗面所に向う。洗濯機にシャツを放り入れ、頭をはっきりさせようと、雑に顔を洗った。傍らのタオルを手に取り、顔を拭く。そして、顔からタオルを離し、ふと鏡に視線を向けたとたんに、恐ろしいものでも見たかのように大きな音を立てて息を飲み込んだ。 すぐ後ろに望が立っていたのだ。何の気配もしなかったから、一体、いつからそこにいたのか分からない。望は涼しげな目をして観月を眺めていた。その表情は清潔にすら見えて、観月は混乱する。さっき見た光景は夢ではないはずだ。恐る恐る振り返り、直に望の顔を見上げれば、不思議な笑みを浮かべていた。だが、瞳はやはりいつもと同じ。夜闇の色を湛えている。 「今日は、遅いんじゃなかったのか?」 どこかからかうような口調に、観月は視線を逸らす。 「……図書館が休館だったから」 「そう」 「……誰か来てたみたいだけど……彼女?」 視線を望のシャツの胸の辺りに落としたまま、観月は小さな声で尋ねる。望は、ふっと浅く息を吐き出すように笑うと、 「いや? セックスしてただけ」 とあっさりと言い放った。その言葉に観月は言葉を失う。何を言って良いのか分からず、それでも、何かを言わなければ沈黙に耐えられず、 「そ…そう。ああいう子が好きなんだ」 と言っていた。ああいう子だと言っても観月は女をきちんとなど見ていなかった。顔すら殆ど印象が無い。 「いや? 別に。似てたから」 さらりと何気ない口調で望は答えた。 似ていた? 何が? 観月は浮かんだ疑問のまま顔を上げてしまう。待ち構えたように望は真正面からしっかりと観月の視線を捉えると、綺麗に笑って見せた。 「あの女、目が観月に似ていたから」 目ガ観月ニ似テイタカラ。 音声として入ってきた望の言葉は、だがしかし、観月の頭の中で理解される事は無い。何を言われているのか分からずに、視線を逸らすことも出来ず、観月はただひたすら望の目を見つめ続けていた。 深い深い闇が観月を誘っている。ここまで堕ちて来いと。お前の棲家は日の光の下ではない、この夜闇の世界だと。 絡め取られそうになる意識。望は決してポケットに突っ込んだ手を観月に伸ばそうとはしなかった。引き摺り下ろす事はしない。あくまでも、自分で堕ちて来いと言っているようだった。 観月は反射的に一歩後ろに後ずさる。腰の辺りに洗面台が当たり、ひんやりとした感触がした。その冷たさだけが、その時の観月にとって唯一のリアリティだった。 陽、と口の中で小さく呟く。 まるで、その声が聞こえたかのようなタイミングでガラガラと勢い良く玄関の引き戸が開く音がした。 「ただいまー!」 あっけらかんと挨拶する陽の声が聞こえる。観月はようやく現実世界に戻ってきたかのようにはっとすると、逃げるように望の横をすり抜けた。そしてそのまま玄関に向う。 「陽、お帰り。打ち上げどうしたの?」 「あー? 何か疲れたから、飯だけ付き合ってソッコー帰ってきた」 あー疲れたと、今にもその場にへたり込みそうな勢いで陽はぼやく。 「観月、メシはー?」 「あ、まだ食ってない」 「マック買ってきたから食えよ」 「……ありがとう」 少し冷めてしまった袋を受け取りながら、観月は安堵の溜息をついた。 この場所にいたいと思う。お日様の下のような陽の隣に。観月の一番安心できる場所だ。 望はやはり苦手だ。近づきすぎてはいけない。自分の輪郭を必死になぞるように、陽のシャツの裾をキュッと握り締める。陽は不思議そうに、何だと観月を笑ったけれど。 その笑いを見た途端、ぼやけていた自分の輪郭がはっきりしたような気がした。 ■■■ まっさらな新雪。 望に取っての観月のイメージはまさにそれだった。それは初めて出会ったあの冬の日以来変わる事は無い。夜闇にはっきりと浮かび上がる真っ白な雪。 誰も足を踏み入れていないそれを、踏みにじって自分が汚してしまいたいと思うのは本能なのではないかと思う。 観月の瞳は真っ黒な夜闇のような瞳だ。それは明らかに昼間の住人が持つそれとは異なる。それなのに、観月は陽の横にいたがる。その背中に隠れたがる。 宵待草は昼間の花ではない。その名前に夜を抱いているのに、なぜ観月は堕ちて来ないのか。そちらの方が望には余程不自然で、おかしなことのように思える。 片手間に観月に面影の似ている人間を抱いてみても、残るのは違和感だけだ。あるべき場所に、あるべきものがきちんと収まっていないという、酷くきまりの悪い。 縁側のすぐ脇では、宵待草が夕方の穏やかな風に揺れている。縁側に一人腰掛け、望はとりとめもなくその花を眺めていた。夜に向って咲き誇るその薄黄色の花は、清楚で美しい。穢れのなさが、観月と重なる。 「……麦茶、いらないかしら?」 ふと声をかけられて、望は顔を上げる。盆の上、汗をかいた二つのグラスを乗せて幸子が立っていた。 「ありがとうございます」 と微笑を向ければ、幸子は少しだけ寂しそうに笑った。そして、望の隣に黙って腰掛ける。 二人縁側に並んで座り、何を話すでもなく庭をぼんやりと眺めていた。実際の年齢よりも随分と若く見える幸子は、観月と似たあどけなさがその顔に宿っている。だが、彼女も決して昼の住人ではなかった。光の下の住人ではなかった。 望が幸子に必ず丁寧な口調で話すのには訳がある。彼女のあどけない表情に潜んでいる翳りに気がついているからだ。観月に似た大きな黒い瞳は、やはり夜闇の住人のそれだ。ともすれば、月の光さえ届かぬほどの、深い深い夜闇の。そして、その闇の根幹を望は薄々と悟っている。だから、望は必要以上に幸子には近づかない。近づけない。彼女を壊してしまわないように。望が壊してしまいたいのは幸子ではなく、観月ただ一人なのだから。 「……ねえ。陽と望君のお母さんって、どうしているのかしら?」 幸子もまた、望にだけは敬称をつけて呼ぶ。それは、望の距離感に気がついているからに他ならない。幸子はあどけない雰囲気を持っていても、決して鈍いわけではなかった。 それが証拠に、こうして望と二人きりになった時には、幸子の口調は少しだけ乾く。それはあまりに微かな違いなので、望にしか分からなかっただろうが。 「…さあ? 分かりません。7年間、一度も連絡をもらったことなんてないから」 嘘偽りなく望が答えると、幸子は少しだけほっとしたように、 「そう」 と相槌を打った。再び沈黙が訪れる。望がちらりと流し見た幸子の横顔は、どこか疲れたような表情だった。そう言えば、この夏に入り、幸子は大分痩せたような気がした。観月と陽がしきりにそれを心配していたが、幸子はただの夏バテだと笑っていた。だが、その痩せようは夏バテにしては少し異常な気がする。しかし、望が心配しているような言葉を掛けることは、きっと幸子が望まないだろう。 だから、望は沈黙を保つ。そして、夕闇に揺れる宵待草の花を見詰め続けた。 ■■■ 奇妙にバランスを保っていた状態が、転機を迎えたのはその年の初冬。11月の後半に差し掛かった頃だった。 幸子が自宅で吐血して、病院に担ぎ込まれたのだ。酷く動揺して、病院に一人付き添った観月に医師が淡々と語った病名は、観月には到底手に負えないものだった。 「…癌…ですか?」 「ええ、残念ですが、それも末期です。かなり転移が進んでいるので完全に除去するのは不可能です。しかも、リンパ節までやられているので…。一応手術をしても良いのですが、無理に開くと患者の体力を奪うだけですが、どうしますか?」 どうしますか、と尋ねられても観月には答える言葉も無い。告知はしますか、と更に重ねて尋ねられて、呆然としたまま観月は力なく首を横に振った。若い体に巣食った癌細胞はより転移の速度が速いのだと、何の感情も窺わせない事務的な口調で説明されたが、観月の頭には入ってこなかった。 最初、他の身内はいないかと尋ねられたが、父親は随分と長いこと別居していて、殆ど離婚しているも同然の状態だったのでそう答えたら、まだ歳若い観月がその告知を聞く羽目になったのだ。 余りに重たい事実は、観月には支えきれない。一体、何をどう捉えれば良いのかわからないまま、半ば意識も呆然とした状態で観月は一度、家に帰った。心配そうに出迎えてくれた陽と望に、医者に聞いた言葉をそのまま伝えれば、陽も望も言葉を失い、ただ顔を青くした。 長くはない。もって半年。 あまりに身近に迫った制限時間だった。 観月は考える事を放棄して、泣く事すら叶わずにただ、ただ深く眠り込んだ。 意識の片隅に夜闇が近づいてきている。そして、それが観月を飲み込もうとしている。けれど、今の観月にはそれに抗うほどの力は残されていなかった。飲み込まれる。深い深いそれに。堕ちて行く観月の手を掴んでくれるのは、やっぱり陽だったろうか。 薄く、綺麗に笑う望の顔が鮮やかに脳裏に浮かぶ。こちらへ来いと甘く誘(いざな)いながら。観月が本来の棲家に打ち落とされるのも、そう遠い未来ではないのではないか。そんな絶望的とも思える予感が、虚ろな意識の片隅に浮かんでは消える。 窓の外に見える下弦の月は細く鋭く、手を伸ばせば瞬時に切り裂かれてしまいそうだ。こんな月は嫌いだと観月は思った。 一番好きなのは、満ちて精一杯に光を投げかけてくれる明るい月だ。 望の名前と同じ月。 時間の流れはあまりにも無情だ。幸子が病院に入ったまま、一度も家に戻ることなくあっというまに半月の時間が過ぎ去った。幸子の状態は思ったよりも、急速に悪化しているようで、日に日に痩せ細っていくのが観月の目にも分かる。痛々しくてとても見ていられない。 優しくて、穏やかで、どこか少女のようなあどけなさを残している母親だった。疑いようも無く観月を愛してくれていたし、また、観月もまた深く深く母を愛していた。その母が、来年の冬を迎えられないという。なぜ、そんな理不尽な事が起こるのかと観月はやるせなかったが、誰にもそれをぶつけることが出来ない。 陽と望は全面的に観月をバックアップしてくれていて、観月は幸いな事に母親の事だけを考えていれば良かった。気がつけば食事が喉を通らず、何も食べずにいる日もあったが、そんな時は必ず陽と望が二人揃って観月を食卓につかせ、食べやすいものをと用意してくれた。陽と望がいてくれて本当に良かったと観月は思う。二人がいなかったら、観月は今どうなっていただろうか。とても、一人では自分を支えきれない。 人が死に至る過程をそのすぐ横で眺めていなければいけない恐怖と、不安と、絶望はまだ17歳でしかない観月にはあまりにも重い。それらの負の感情を外に逃がす方法すら知らない。 今の観月は余りにも手一杯で、とても他の事にまで気が回らない。きっと、吹けば飛ぶような風情に陥っているだろう。 もう、これ以上何かに持ちこたえる事ができない事を望も気がついているのだろう。常に無いほど、望は努めて淡々と観月に接してくれる。いつものような、酷く神経の疲れる駆け引きを決して観月に要求しない。視線も極力合わさないようにしてくれているらしく、それだけはありがたかった。 けれども、運命と言うのは時として残酷で、余りにも過酷だ。 もう、水の一滴もその内側に入れることが出来ないほど一杯になっている観月に、運命の神様は鉄槌を下す。なんの躊躇も見せずに。 それは、雪の降った12月のはじめの週末。幸子に着替えを持っていくために、観月が母の部屋をあちこち探っていた時のことだった。年季の入った桐箪笥の一番下の段に『それ』はあった。古めかしい、分厚いカバーに覆われた冊子。喪服の下に隠されるように置いてあったそれに、観月は何気なく手を伸ばしてしまった。 一体、何の本なのだろうかと。 ぱらりと、古びた紙のにおいのする表紙を捲る。色褪せた文字で書かれていたものは日付と、それに続く日記のような走り書きだった。字は、時折目にすることのある幸子の字に間違いないようだった。 『私は、一度も愛されたことが無い。克哉が見ているのは最初から、最後まで兄の爾だった。』 最初に書かれたその一文に、観月はどきりとする。記憶を辿れば、克哉と言うのはもう長いこと別居していて何年も会っていない父親の名前だと思い当たった。 兄の爾、と言うのは観月にとっては叔父に当たる男だったが、幸子と双子のその叔父は観月が生まれる前に病気で亡くなったと何かの折に聞いた事があった。だから、もちろん顔を見たことも無ければ、写真すら見せてもらったことも無い。 『爾以外の人間は、克哉にとってはどうでも良い人間だった。私も例外ではない。虫けらのような存在だったのだ。』 どこか、呪詛じみたその文字に観月は言い知れぬ恐怖を感じる。それをそのまま続けて読んではいけない。頭の中ではっきりとした警鐘が今までに無いほど激しく鳴り響いているのに。 観月は震える指で、その日記を捲ることを止めることが出来なかった。 『それが証拠に、外で作った双子の子供を私に育てろという。平気で言う。』 ………外デ作ッタ双子? ………外デ作ッタ双子。 頭の中で二度ほど反芻して、その意味を理解した途端、観月の全身は鳥肌で総毛だった。 『遠い親戚の子』だと、7年前、フラリと突然現れた父親はそう言わなかったか。幸子も、観月に確かにそう言ったはずだ。だが、どういった関係の『遠い親戚』なのか観月は一度として幸子から聞いたことは無かった。それを知ろうともしなかった自分を、今更のように不思議に思う。 望と陽はこのことを知っているのだろうか。否。知らないだろうと観月の直感が答えをはじき出した。 『そもそもが、最初から私は爾の身代わりでしかなかったのだ。顔だけは酷く兄に似ていたから。 観月が生まれた時も、克哉はほんの一片の喜びすら見せることは無かった。』 日記と言うよりは、胸のうちに抑え切れない感情の迸りを書きなぐっただけ、と言った様な内容だったが、だからこそ逆に、そこには何の虚飾も見当たらなかった。今までその一片すら観月が悟ることは無かった、母の暗闇の欠片たち。 『私は、一度も、あの双子に愛情など感じた事はなかった。憎い、憎い、死んでしまえばいい、殺してしまいたい。殺したい。死ね、死ね、死ね』 その一文を読んだ瞬間、観月はこの世で一番恐ろしいものに出くわしたかのように、ひっと息を飲み込み体を竦ませた。瘧に掛かってしまったかのようにガタガタと体が震えだす。 それは跳ね返すことも、逃れることも出来ない呪詛の言葉のように観月の体に纏わりついてくる。この重苦しい暗闇は一体なんだろう。観月の知る暗闇は、もっと穏やかで優しいもののはずなのに。そう。例えば望の瞳のような。 震える指先で、観月は更に頁を捲る。その日記は実に散漫で、あちこちに思考が飛んでいるようだった。時折、穏やかな文章も入り混じっている。その穏やかな文章は、大概が観月に関する事か、でなければ、観月が生まれるずっと前、まだ幸子が幼少の頃に関することだった。あまりに散漫な文章だったので詳しい事情を知ることは不可能だったが、幸子とその双子の兄爾と父である克哉は小さな頃からの幼馴染らしかった。事情があって、克哉はこの家に引き取られ、一緒に暮らしていたような記述もあった。 爾は小さな頃から病弱で、克哉はそんな爾を愛していたらしい。だが、爾は若くして死んでしまった。幸子は爾の身代わりのように克哉と結婚して、そして観月を生んだ。 だが、愛の無い家庭はそう長く形をとどめてはいられなかった。克哉はこの家を出て幸子は観月と二人、この広い家に取り残された。それはいかばかりの孤独だったのだろう。 まだ、観月が幼かった頃の日記には、幸子たちが幼く、幸せだった時間を懐かしむような記述ばかりが出てくる。縁側から見える宵待草を好きだったのは、幸子ではなく実は克哉だったのだとも書いてあった。 なんともやりきれない、嵐のような感情が観月の胸の内を支配して観月はどうにかなってしまいそうだった。その感情の呼び名を観月は知らない。 悲しみでもない、憤怒でもない、寂しさでもない、切なさでも、絶望でもない。名付けようも無い、説明のつかない激しい感情。震える手で口元を押さえる。そうでなければ、狂ったように叫び出してしまいそうだった。 更に続く走り書きには、望と陽に対する恨みつらみのような言葉が敷き詰められていた。この家は幸子にとっては大事な、聖域だったのだ。幸せだった頃の思い出がたくさん詰まっている、美しく、寂しい場所。孤独でも、愛する息子と二人、ここで静かに暮らしていければそれだけで幸せだったのに。 望と陽は、その美しい聖なる場所を汚した。薄汚い泥棒猫の血を引いている双子が。そう綴ってある。 母親の感情に引きずり込まれてはいけない。少なくとも自分は決して陽と望を憎んだことも恨んだことも無いはずだ。同調して、勘違いしてはいけない。二人を憎んでいるのは自分ではなく、母だ。 観月は必死に自分にそう言い聞かせる。何度も何度も頭を振って言い聞かせる。 ふと目をやった窓の外にはシンシンと細雪が音も無く降り続けていた。 それは、初めて望と陽と出会ったときと同じ雪だった。 |