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宵待草@ ……………………

 酷く雪が降った日だった。普段、滅多に雪など降らない地域だから、当然の事ながら交通機関は混乱をきたしていた。小学校からの下校に使っていた電車が一時間近くも停車して麻生望(あそうのぞむ)は随分と苛々していたが、双子の弟、陽(よう)は雪が珍しいらしく、望が呆れるほどはしゃいでいた。
 自宅から最寄の駅に着いてからも、足跡がつくのが面白いと無闇に歩数を増やしては滑って転びかける。雪道用の履物など持っていないから、普通に歩いていても転びそうになるのは当然だった。
 寒いから、いい加減にしろと望は兄らしいことを言って陽を促す。だが、陽は野原に放たれた犬のようにはしゃぎまわって、聞く耳を持たないようだった。
 やっと家に着く頃には、寒さで望も陽も耳が真っ赤になっていた。部屋の中は寒かった。とりもなおさず、それは部屋に誰もいないことを表していた。家に誰もいないことなど日常茶飯事だ。とりたてて、二人とも気に留めなかった。
 最初にそのメモを見つけたのは陽だった。テーブルの上に置かれた一枚のメモ。いつものように、今日は帰らないから適当に夕飯を食べていなさいと言う母親からのメモだろうと思った。陽は気楽な気持ちでそのメモを手に取る。だが、メモにはいつもとは違うことが書いてあった。
 『もう家には戻りません。遠い親戚の番号を書いておきます。ここに連絡してください。』
 陽は、最初何が書いてあるのか理解できずにメモを持ったままポカンとしてしまった。何度字面を追っても目が滑って、意味が頭に入ってこない。そんな陽の様子がおかしいと気がついた望が、横からそのメモを覗き込んだ。望はその文面を読んで、微かに顔を顰めたが、すぐに何でもないといった風にメモを陽から取り上げた。
「電話、俺がする」
 何の感慨も無い、努めて平静な声で望は言った。陽は、やはり訳が分からないといった表情で、ただ望をぼんやりと眺めているだけだった。
「…何? それ、何て書いて……どういう……意味がわかんない」
 言葉がまとまらないまま、陽は口を開く。望は小さな溜息を一つつくと、とても、十歳の子供とは思えないような大人びた表情で、
「俺たち捨てられたんだろ。あの女に」
 と言った。酷く、冷めた口調だった。望にしてみれば、驚くような出来事ではなかった。むしろ、いつかこんな日が来るのでは、とどこか予想していたような結末だった。二人の母親は悪い女ではなかったが、著しく『母親』という役職には不向きな性質をしていたのだ。二人の子供を置いて数日家を空けることなどしょっちゅうだった。酷い時は、家に男を引っ張り込む。薄い襖を隔てた隣に、まだ小学生の子供が二人寝ているのにも関わらず、平気でその連れ込んだ男とセックスをして嬌声を上げていた事も一度や二度ではなかった。
 子供を憎んでいたわけではない。虐待をしたことも無い。ただ、放任が過ぎるだけだった。そして、我が子に対する関心が希薄だっただけだ。それでも、陽に取ってはたった一人の母親だったのだろう。酷く動揺したように顔色を白くさせていた。そんな陽を放っておいたまま望は電話の受話器を取る。陽とは正反対に、望は微塵も動揺などしていなかった。
 望と陽は一卵性の双子で、外見は酷く似通っていたのにその内面は正反対と言っても過言ではなかった。望が酷く冷めた可愛げの無い大人びた子供だったのに対して、陽は天真爛漫、という言葉がピッタリの屈託の無い少年だった。こんな異常事態に面した時の反応も、対照的だった。
 望は電話に出た男に、事の次第を伝える。電話の向こうの男は、さして驚いた風もなく、望に家の住所を聞き、これから迎えに行くからそこで待っていなさいといってあっさり電話を切った。そして、言葉の通り、一時間もしない内に迎えに来た。
 陽は、相変わらず事態が把握できないようで真っ白なまま、呆然としていた。迎えに来た男は随分と端整な顔をした、けれどもどこか酷く冷たく見える男だった。歳の頃合は、子供の望には中々推測しづらかったが、恐らく30代前半程度だろうと思われた。
 男は淡々とした口調で、荷物をまとめるように二人に指示した。それ以外の手続きは、自分がやっておくからと。それ以外の手続きとは一体なんだと、陽が戸惑ったように尋ねれば、転校だとか、アパートの引き払いだとかの手続きだと面倒くさそうに男は答えた。なぜ、転校しなくてはならないんだ、こんなに突然にと陽が食って掛かると、男は馬鹿にしたように鼻で笑って、お前一人でここで暮らしたいならそうすればいいと言い放った。陽は、反論のしようもなく青褪めた顔で黙り込んだ。
 望は何の戸惑いも、抗いも無く言われたとおりに荷物をまとめた。それから、少しも手の動いていなかった陽を手伝って、何とか出発できる準備を仕上げる。退屈そうにリビングで待っていた男の所に陽の手を引っ張って連れて行くと、男は静かに立ち上がり何も言わずに顎をしゃくった。ついて来いと言っているらしい。
 望は不思議な気持ちで男を見上げながら、その背中を追った。望は男が自分になんだか似ていると思っていた。同じ種類の人間に出会ったのだと思った。こんな風に思ったことは誰に対しても今まで一度も無かったのに。
 陽の足取りは酷く重い。強めに引っ張ってやらなければ、中々ついて来れなかった。
 高級そうな国産車が家の前には停まっていて、男は無言でその車のドアを開けた。望も陽もやっぱり無言でその車に乗り込む。車は、雪の降りしきる中、静かに出発した。
 目的地に着くまで、三時間以上の時間が掛かった。だが、その三時間の間、誰一人として、一言も言葉を発しなかった。
 冬の日は短い。出発して一時間も経たないうちに辺りは真っ暗になった。オレンジの街灯に照らされて降りしきる雪が幻想的な景色をかもし出す。ただ、ただ、ひたすら静寂を守りながら車は高速を北に向って走った。
 幾つかのトンネルを潜った後、景色は一変した。真っ白な白銀世界。どこもかしこも白で埋め尽くされている。余りに白が強すぎて、望の遠近感覚は麻痺してしまったようだった。車の窓から見える夜闇に浮かび上がる雪野原は、遠くにあるのか、それとも近くにあるのか。そもそも、この場所は、時間が今まで自分達がいた場所と果たして同じ速さで流れているのだろうか。そんな心許無い不安が望の足元から這い上がってくる。車の中は、暖房で十分に暖められているはずだった。けれども、しんしんと降り続ける細雪が視界を通して寒さを訴えてきているようだった。陽は、ただひたすら無言で、外の景色を見る余裕も無いのか黙り込んでいる。じっと自分の腿の辺りを見詰め続けているその姿は、平素の陽からは考えられないような落ち込みようだった。

 そうして車は高速を降り、幾つかの傾斜を上って見知らぬ高台に到着した。男がギッと音を立ててサイドブレーキを引いた場所は、大きな古めかしい家の前だった。望はその家を見て、社会の授業の時間に習った『豪農の家』を思い出した。たしか、教科書に載っていた家が今目の前にある家と似た雰囲気だったのだ。都会では見慣れない広さの敷地。門から玄関まで数十メートル以上はありそうだった。男は二人に車から降りるように言って、車をどこかに停めに行った。
 望と陽は、恐る恐るその家の敷地内に足を踏み入れる。一歩進むごとに、キュッキュっと片栗粉を踏み潰すかのような雪の音が聞こえた。履いてきたスポーツシューズはあっという間に雪まみれになった。
 敷地内では幾つかの水銀灯が強い光を放っている。その光をチラチラと止めども無く降り注ぐ細雪が反射する。光の強さに、無意識に二人は目を眇めた。
 家と門の中ほどまで来たときに、不意に陽が足を止めて、不思議そうに左手に見える広い庭を眺めた。幾つかの大きな庭石と、池、バランスよく植えられ雪囲いのされた松の木、池の周りに置かれた灯篭が目に入る。子供の眼から見ても、手入れのされている美しい日本庭園だと分かった。だが、陽が目を留めたのはその庭全体ではなかった。庭石の上に置かれた幾つもの不恰好な雪の塊。それが不思議だったらしい。
 小さな稲荷寿司程度の大きさのものから、ラグビーボールのようなものまで大小さまざまだ。ただ、そのどれもに松の葉が二対と榊の葉が二枚刺さっている。一体、何なのだろうと望も首を傾げた。二人で黙って立ち尽くしていると、後ろからキュッキュっとやはり片栗粉を踏み潰すような微かな足音が聞こえてきて、望と陽はほとんど同時に振り返った。
 そこには、二人と同じ歳の頃合の少年が立っていた。真っ白なダッフルコートに、真っ白な手袋とマフラー。一体、なんの冗談かと望は目を疑う。白ウサギの仮装でもしているのかと思ったくらいだ。白い景色の中に、白尽くめの少年。さらに、その肌まで真っ白だときている。その中で、大きな黒い瞳と、微かに乱れた黒髪、寒さで紅潮した頬と真っ赤な唇だけが奇妙に浮き立っていた。
 少年は、陽と望の顔を見て酷く驚いたようだった。恐らく、同じ顔が二つ、まるで鏡に映したようにシンメトリーを保って振り返っているのが珍しかったのだろう。少年の手の平から、パラパラと何かが零れ落ちる。真っ赤な、目に色鮮やかなそれ。望はその赤さに一瞬だけぎょっとする。少年の手の平から血が流れ落ちたのかと思ったからだ。しかし、それは勘違いだとすぐに悟る。少年の手の平から零れ落ちたのは幾つもの南天の実だった。
 真っ白な雪の上にちらばったその赤い粒をぼんやりと見下ろしながら、陽が熱に浮かされたように、
「コレ何?」
 と聞くと、少年は陽の方に視線を向けた。大きな夜闇のような黒い瞳が陽だけを映す。不意に、望はそれが不快なことだと思った。
「あ、えと。南天の実」
「ふうん」
 南天の実を陽が果たして知っていたのかどうか定かではないが、今度は庭石の方に視線を移した。
「じゃあ、コレは何?」
「ええと、雪ウサギ」
「雪ウサギ?」
「うん。雪で作ったウサギ。南天の実で目を作れば終わるんだ」
 と、少年は陽を見詰め続けたままそう答えた。望のほうには視線を寄越さない。なぜ、こっちを見ないのかと望は睨みつけるように少年を見詰めたが、やはり少年は望の方に振り返ることはしなかった。
「お前、ここんちの子?」
「そうだけど。君達、誰?」
 あどけない様子で少年が首を傾げた時だった。
「観月? 観月! お客さまがいらっしゃったから、家に入りなさい! !」
 玄関から一人の女性が顔を出し、大きな声で少年を呼んだ。観月と呼ばれた少年は女性の方を振り返り、それから再び陽の方に視線を戻した。望にではない。陽の方に、だった。
「お客さんって……君達のこと?」
「さあ? 知らねえ」
 陽は、なぜか照れたようにぶっきらぼうに答える。
「早くしなさい!」
 女性がもう一度呼ぶと、少年は、振り返り、振り返りしながら玄関に向う。陽と望もその後に続いて玄関に向った。そして、玄関につくまでの間、とうとう一度も望と少年が視線を合わせることは無かった。
 その事に、望は理不尽な怒りを覚える。なぜ、この少年は自分の方を見ないのか。なぜ陽の方ばかりを見るのか。
「お前、名前なんて言うの?」
 そんな望の苛立ちに気がつかずに陽はどこか浮き立った口調で尋ねる。少年は、戸惑ったように、
「植草観月(うえくさみづき)」
 と答えた。そして、ようやく望のほうに視線を寄越す。観月と目が合った瞬間に、望は奇妙な悪寒のようなものがゾクリと背中に走ったのを感じた。そして、観月の黒い瞳に、不思議な色が過ぎるのを見て取る。ほんの一瞬、瞬きをする刹那に過ぎったそれは、不安か、それでなければ恐怖のようなものだった。
 まるで、磁石で引き寄せ合って離れる事が出来ないかのように、望と観月は見詰め合う。それを破ったのは、
「この子達は遠い親戚なの。今日から一緒に暮らすのよ、仲良くしなさい」
 と言う、女性の穏やかな優しい声だった。
 観月はハッとしたように、視線を望から逸らすと戸惑ったように頷き、それからはにかんだように笑いを浮かべた。花が綻ぶようなあどけない笑顔。
 その笑顔は望の脳裏に鮮やかに焼き付いた。

 落ち着き払い、常に冷静で可愛げのない子供だと言われてきた望の水面に一粒の小石が落ちる。
 最初はほんの微かな点だったそれは、次第に波紋を外へ外へと広げていつかは望の内側一杯に広がるだろう。


 ■■■


 カナカナカナとひぐらしの鳴く声が聞こえる。もう既に夕餉を終え、時計は七時を回っているのに辺りはほんのりとまだ明るさを保っていた。庭先では宵待草が花を咲かせようとしている。風流なその光景を縁側に座り眺めながら、望、陽、観月の三人はスイカを食べていた。観月の母、幸子がわざわざ縁側まで運んでくれたものだ。近所の人が作っているスイカを分けてもらったらしい。
 夏も本番に差し掛かっているが、夕暮れ時、風通しのよいこの縁側は十分に涼しい。遠くで花火が鳴る音が聞こえる。隣の町で夏祭りでも開いているのだろう。のんびりとスイカに齧り付きながら、浴衣姿の観月はぶらぶらと白い素足を揺らした。芝生の上に下駄は転がり落ちていて、既に観月の足に収まってはいない。
 穏やかな夏の夕暮れだ。取り立てて特筆するような事も無い。毎年見慣れた光景は、気がつけば、既に七度を数えていた。
 庭先の池に、蛍がチラホラと飛んでいるのが見え始める。この庭園の池には近くの湧き水から引いた水を入れているので、こんな風に蛍がやってくる。
「風流だね」
 と観月がその景色を眺めながら呟くが、陽はスイカに夢中で聞いていない。
「己が火を木々に蛍や花の宿」
 静かな声で望が芭蕉の俳句を口ずさむ。ふと、自分も脳裏に浮かんでいた句だったので、観月はつい望を見上げてしまった。真正面から視線が合わさる。望は何も言わない。ただ、微かにふ、と口の端を上げただけだ。こういう時、大抵、観月の考えている事は望に見透かされている。けれども、観月は何も気がつかないふりをする。そして、極力さり気なさを装って視線を逸らすのだ。
 望が観月を見詰める時は、いつでもその瞳に何がしかの色が浮かぶ。それは、真夏の深い夜闇のような色だ。名は体を現すとは良く言った言葉だと思う。
 望、とは満ちた月を表す。陽は、太陽だ。
 陽が何の翳りも無く、惜しげもなく燦燦と光を注ぐ昼の住人だとするならば、望は多くの事をその暗闇に隠しつつ、現をおぼろげに照らし出す夜の住人だ。
 観月は、初めて二人に出会ったときから陽の明るさの方を好んでいた。望には近づきすぎてはいけない。近づきすぎると引きずり込まれて堕ちていく。気がつかずに、不用意な一歩を踏み出したとき、いつでも観月の防衛本能が警鐘を鳴らす。たった今のように。
「あら、いい風が入ってくるわね。夕涼みにはもってこいだわ」
 そう言いながら幸子が縁側にやってくる。観月に面影の似た幸子は今年で39歳を迎えるが、いまだ、どこかあどけなさを残しており、少女のような印象を人に与える。観月の隣に腰を下ろし、同じように素足を芝生の上に投げ出すと、幸子はのんびりと庭のほうに目をやった。
「宵待草が開いているわね」
 視線の先には薄黄色の花がその花びらを慎ましやかに広げていた。夏の夕風に幾つもの花がフワフワと揺れるのを観月もぼんやりと眺めていた。
「宵待草って夜しか咲かないんだっけ?」
 もう、すでに三切れ目のスイカに手を伸ばしながら陽がのんきに尋ねる。
「そうよ。夕方に花が開いて朝には閉じてしまうの」
「ふうん。何か可哀相な花だね」
「あら? どうして?」
「だって、日光浴びれないんだろ?」
「そうねえ。でも、夜に咲く花は風情があって綺麗だと思うけど」
 そう言いながら、幸子は手にしたうちわで陽を扇いでやる。
「私は、この花、好きなのよね。しっとりとした夏の花って感じで」
「えーそうなの? 俺は向日葵とかの方が好きだけどなあ」
 豪快にスイカにかぶりつきながら陽はそんな事を言う。
「だから、観月にその名前をつけたんですか?」
 丁寧な口調で望は幸子に尋ねた。もう、家族同然のようにして七年も一緒に暮らしているのに、望は幸子に丁寧な口調で話す。いくら、幸子が他人行儀だからやめてくれと頼んでも、望は曖昧な笑いで誤魔化すばかりで頑として聞き入れようとはしなかった。
「観月の名前? 何で宵待草が観月の名前になんの?」
 不思議そうに陽が尋ねると、観月はくすりと笑った。
「宵待草の別名は月見草だろ? 俺の名前を逆から読むと月観草、になってんだよ」
 植草観月、の植の字を取って逆さから読むと宵待草の別名になる。
「観月は夏生まれだったし。それにちなんでつけたのよ」
「へええ。望知ってた?」
 感心したように陽が振り返ると、望は、
「知ってた」
 と微かに笑った。観月は予想外の答えにふと振り向く。やはり、望と真正面から視線が重なって、ヒュっと無意識に息を吸い込んでしまった。視線を逸らすタイミングを逃してしまう。その深い夜闇に絡め取られて、観月は息苦しさを感じる。こんな奇妙な駆け引きは、一体いつから始まったのだろうか。思えば、初めて望と出会った冬の日からだったのかもしれない。
 絡め取られた観月を夜闇から解放してくれるのはいつだって陽だ。
「えー? 何で知ってたんだよ。俺、全然気がつかなかったぜ?」
 あっけらかんと明るい声が縁側に響き、観月はようやく金縛りが解けたかのように慌てて望から視線を逸らした。誤魔化すように、池のほとりを飛び回っている蛍を見遣る。望は何も言わずに、ただ薄い笑みを浮かべて観月を見詰め続けていた。




「観月。虫に刺されてる」
「え?」
 スイカでベタベタになった手を洗面所で洗っていると後ろから望に声をかけられた。ザアザアと水を流しっぱなしのまま顔を上げると、鏡越しに望が見える。望は、観月の浴衣の襟をくいっと後ろに引っ張ると、観月には見えない項の辺りをつ、と指でなぞった。その感触に思わず肩を竦めてしまうと、望は声を殺して笑ったようだった。
「ここ。薮蚊に刺された? 痒くない?」
 そう言われると、暗示のように痒くなってきた気がする。流れる水に手を浸したまま、
「ちょっと痒いかも」
 と観月が言うと、望は体を屈めてぺロッと観月の項を舐め、観月が硬直している間にフウッと息まで吹きかけた。唾液で濡れた皮膚がひんやりと熱を失う。その感覚に観月は身動きできなくなり、雷に身を竦める子供のように体を硬くした。
「消毒」
 とふざけた口調で囁かれ、ようやく観月は体の強張りを解いて、勢いよく振り返った。
「…そういうタチの悪い冗談はよせよ」
 上目遣いで望を睨み上げると、望はふ、と穏やかな笑みを浮かべた。
「別に冗談のつもりは無いけど?」
 まるで毛を逆立てている子猫のような観月の様子に、望は益々笑いの色を濃くした。
「観月の名前。面白いな」
「…え?」
 唐突に言われた言葉に、観月の体から力が抜ける。
「宵待草だろ」
「…それが何だよ?」
「宵待草は、太陽の光の下じゃ咲けないんだろう?」
 口に軽く指の節を当てて望は笑う。その笑みはとても17歳の少年が浮かべるそれではない。その瞳の深淵を思わず覗きかけ、慌てて観月は目を逸らした。
「…だから何?」
「別に。陽が、数学の課題教えてくれって呼んでたぜ。伝えたからな」
 それだけを言うと、望はあっさりと退いた。簡単に背を向けて洗面所を後にする。その背中をぼんやりと眺めながら、観月は無意識に項に手を当てた。
 先ほど濡らされた場所は、熱を奪われたはずなのに、なぜか今は反対に酷く熱を持っているような気がする。
 蛇口を閉めることも忘れ、流れる水音を聞きながら観月は望の言葉を反芻した。


 宵待草は夜にしか咲けない。昼の光の下で花開く事は無い。
 それが咲き誇るのは、いつでも、月の光の下だ。



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