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宵待草E ……………………

 随分と大きなビルなんだな、と言うのが第一印象だった。名ばかりの父親の職場に訪れるなど、観月にとっては初めてのことだった。そもそも、父親がどんな会社を経営しているのかも、観月はあまり知らなかった。不動産関係、としか聞いた事が無かった。それも、大分小さな頃の話だ。
 母はとにかく父の話をする事を嫌がったし、観月もどこか寂しそうな、傷ついた母親の顔を見るのが嫌だったから、なるべく父の話は出さないように無意識に気をつけていたように思う。
 社長というのはどんな仕事をしているのかまだ高校生の観月には全く想像がつかなくて、とりあえず、朝一で訪問した。受付の女性は、観月の姿を見て胡乱な視線を投げかけてきたが、息子だと言えば案外あっさりとアポイントを取ってくれた。午前中は時間が空いているので、社長室へどうぞと言われ、エレベーターで最上階に向う。同乗したスーツ姿の社員らしき男性数人は、やはり受付の女性と同じように胡乱な視線を観月に投げかけてきたが何も言わなかった。
 重そうな扉をノックすると、中からどうぞと促されて観月は気後れを感じながら、静かにその扉を開けた。部屋の中は社長室と言う響きから想像していたよりも随分と地味な印象だった。事務机が一つ。その上にはパソコンが置いてあって、手前には一揃えのソファーとテーブルがあるだけだった。
「珍しいね。こんな場所まで訪ねてくるなんて」
 実に自然に父の克哉はそう言って笑った。珍しいもへったくれも無い。そもそも、幸子の葬式の時に会った以外は殆ど顔など合わせた事が無かったのだ。だが、不思議と観月は違和感を感じることなく勧められるままにソファに腰を下ろした。克哉も事務机から立ち上がり、観月の前のソファに座る。事務員らしき若い女性がお茶を運んできて、チラリと好奇心に満ちた目を観月に向けたが、観月も克哉も頓着しなかった。
「それで? 何の用事かな?」
 穏やかな口調には観月を疎む色は全く見えない。改めてじっと真正面から見詰めれば、やはり克哉は望にとても似ていると観月は思った。纏っている空気が、あまりにもそっくりなのだ。だが、やはりその目は暗い。その深淵を覗き込む勇気は観月には無かった。だから、さり気なく目を逸らす。逸らして、用件だけを短く告げる。
「あの家と土地の名義を俺に変えて、財産の生前分与をしてください」
 はっきりとした口調だったので、もしかしたら生意気に聞こえたかもしれないと少しだけ観月は心配したが、克哉はまったく気分を害した様子を見せなかった。ただ、面白そうに口の端と眉毛を上げただけだ。
「構わないよ。というよりも、既に、君名義になってる」
「え?」
 観月は言われた事が分からずに、キョトンとした表情で克哉を見た。すると、克哉は楽しそうに声を上げて笑う。そんな父の姿を見るのは初めてで、そもそも、克哉が声を立てて笑うなど想像も出来なかったので観月は酷く驚いてしまった。
「望は君に教えなかったのかな?」
 まだ微かに笑いの色の滲んだ声で克哉はそんな事を言う。観月はますます困惑して、克哉の顔をまじまじと見詰めた。
「何も聞いていません。だいたい、なぜ、そこに望の名前が出てくるんですか?」
「うん? 私が再婚して一週間位した頃かな。突然ここにやって来てね。今の君と同じ要求を僕に突きつけてきた。それで、まあ、君は僕のたった一人の大事な息子だし、良いかと思って」
 そう言って克哉は立ち上がると事務机の脇にあるキャビネットから書類を出してきて観月の前に差し出した。
「権利書やら何やらがあるけど。君が持っているかい? ここでずっと預かってもいいけど」
 そう言われて、ざっと観月はその書類に目を走らせたが、確かに名義の場所には『植草観月』という名前が書かれていた。
「ついでに、恵子が煩いから追い出してくれと言われてね。あの女が納得するような物件と若い男を見繕ってやったんだが……あの家には戻っていないんだろう?」
「あ…はい…戻ってきてはいないけど……」
 観月が混乱しつつ答えると、克哉は、そう、と軽く頷いた。何かが引っ掛かる。違和感だらけの克哉の言葉を観月は一つ一つ順を追って考えてみた。
 恵子と克哉が再婚して一週間位した頃に、望はすでにこの場所に来ていたという。そして、恵子を追い出してくれと頼んだ。では、観月が望に持ちかけた取引のようなものは一体何だったというのだろう。
 それに、再婚して1年も経たない相手に対する克哉のこの言い草はあまりにもあまりだ。
「……若い男って…一応、あなたの奥さんじゃないんですか?」
 胡乱な眼差しを克哉に向け観月が咎めるように言うと、克哉は軽く肩を竦めて苦笑いをこぼした。
「幸子が死んだ途端、恵子はグチャグチャと煩いことを言ってきてね。あしらうより言うことを聞いた方が面倒がなくて良いかと思ったんだよ。金と男さえ与えていればおとなしくしているだろうしね」
 その酷い言い様に観月は目を見開いてしまう。根本的なところで、この男は何かが欠如しているのではないかと思った。何かが欠如している。とてもとても大事な何かが。
 観月の困惑をその表情から読み取ったのだろう、克哉はやはり苦笑を深めた。その笑みには隠しようの無い翳りが浮かんでいる。
「……私は、どこかおかしいと思っているね?」
「はい。どうしてそんな風に投げやりなんですか。母の事をどうして捨てたんですか」
「捨てたつもりは無い。幸子が耐え切れないと私を追い出したんだよ」
「追い出した? 母さんから?」
「そうだ。欲しいものを与えてもらえないのはつらいと。それならいなくなってくれと。君がどんな風に幸子から聞いているのかは知らないが、私は私なりに幸子を愛していた。君のことも。ただ……」
 少しだけ言い淀んで、克哉は不意にその顔から全ての表情を消し去った。まるで、人間が突然に人形にでもなったかのような錯覚に観月は恐れ慄く。この虚無感は一体何なのか。この人には何も無い。何も無いのだと思ったら、ぞっとした。
「ただ、幸子と結婚した時にはすでに私は、どうしようもない状態になっていてね。一番大事なものを失くして、その他の事がどうでも良くなってしまっていた。生きていることさえどうでも良かった。それが幸子には我慢できなかったんだろう」
 虚ろな表情のまま、克哉はそう言った。その空虚さに、観月は何も言えなくなる。一番大事なもの、というのは母の日記に書いてあった爾と言う人間のことだろうかと思った。だが、それを聞くことは出来ない。それを聞けるほど観月と父は近い存在ではなかった。
「…君は少しだけ、私の大事だった人に似ているね」
 克哉は最後に、ふと思い出したようにそれだけを言った。それから、もう行きなさいと観月を促す。観月はそれ以上、話す言葉が無かったのでそのまま部屋を後にした。

 ビルの中は過ぎるほど冷房がきいていたが、一歩外に出れば真夏の炎天下だ。酷く暑い。見慣れぬ道を、観月は来たときの記憶を頼りに駅へと向った。思考は散漫で、取り留めの無いことばかりを考えてしまう。父のこと、母のこと、母の日記のこと、陽のこと、それから望のこと。
 あの家と庭は、観月のものになったのだと父は言った。もう、あの大切な場所が侵蝕されてしまう心配は要らないのだ。母との約束を違える事も無い。きっと、これで日常が戻ってくるはずだった。少なくとも、観月は元の生活に戻るだろうし、陽も当たり前のように日常に溶け込んでくるだろう。
 ただ、望だけが異分子のように観月の心の中に浮き上がってくる。自分の中の、どの場所に望を位置づければ良いのか分からずに観月は途方に暮れる。何も無かった頃に時間を戻さなくてはならないと、半ば強迫観念じみた思いで父を訪ねた。望と寝る理由を一度白紙にしたかったから起こした行動だったのに、そもそも、最初から望と寝なくてはならない理由など存在していなかったのだ。
 何もかも望が最初から計画していた通りに観月が踊っただけ。
 望が土地と家の名義を書き換えるよう父に言ったのは、決して観月を守ろうと思っての事ではない。ただ、望は観月の逃げ道を全て塞ぐ為に行動したに過ぎないのだ。
 観月が望とセックスしたのは取引でもなんでもない。ただ、観月がそうしたかったから。それが観月の意思だったから。その答えに観月を追い詰めたいだけなのだと、観月は漠然と確信した。
 ジリジリと頭の天辺が焼けるような気がする。歩きながら、足元のアスファルトを見詰めているはずなのに、観月の視界はおぼろげで、なにもかもがあやふやだった。

 自分が望とセックスしたのは、自分がしたかったから。

 実際、そうだったのかどうなのかさえ今の観月には思い出せない。陽に言ったように、やはり観月は自分が望の事をどう考えているのか分からなかった。抗いようが無いほど惹かれている。それと同じ強さで近づいてはいけないと思う。その両方が真実だった。
 いつの間にか駅にたどり着き、その構内に足を踏み入れれば、強い日差しはあっという間に遮られた。不意の日陰に、観月の目は一瞬、異常な暗さを感じる。だが、それは錯覚だ。眩暈にも似た揺らぎを感じて観月は思わず立ち止まる。後ろから歩いてきた人が観月の肩にぶつかって、文句を言いたそうな視線を観月に送ったけれど。
 改札口を見上げた観月の視界は、いつもと変わらない。正常な世界を取り戻していた。




 ■■■




 観月がようやく家に着く頃には、辺りはすっかり夕暮れだった。
 玄関には陽の靴が見あたらなかったから、多分、まだ、部活に行っているのだろう。あんなことがあって、一週間も家を空けたのに、何も無かったようにあっさりとこの家に溶け込んでいる陽が観月には何だかおかしかった。望は何も言わない。ただ、帰ってきた陽にきわめて平静な声で、おかえりと言っただけだった。陽もただいまと言っただけ。この二人は不思議な関係だなと、観月は今更のように思った。きっと、お互いに何が起こって何を思っているのか分かっているに違いない。それなのに、決して何も言わない。分かり合っているのに、ある一定の距離を必ず保っている。まるで、月と太陽のように。それが、きっとこの双子の正しい位置関係なのだろう。

 観月が父に会いに行くといった時、望はただ薄く笑った。だから、多分、観月の目的なんて最初から分かっていたのだろう。そうして、答えの出ない疑問をこんな風に抱えて帰ってくる事も。だから、あんな風に何も言わずに観月を送り出したのだ。観月が尋ねたならば、望は正しい答えをくれるのだろうか。けれども、その正しい答えは決して観月が望んでいない答えに違いない。だから、観月は望に何も聞くことが出来ない。沈黙を守るしかない。それを望もまた知っているのだろう。だから、望も何も言わない。ただ、黙って抱き合うことしか出来なかった。
 縁側に座り、庭から吹いてくる夕風に体を晒す。チラホラと池の周りには蛍が飛んでいるのが見えて、観月はただ単純に、安堵した。少なくとも、この美しい場所が奪われる恐れは無くなったのだ。あるいは、観月は母親の呪縛に囚われているのかもしれない。それでも構わなかった。母の愛したこの場所を、観月もまた深く愛しているのだから。きっと、一生、自分はこの場所を離れることは出来ないだろう。そして、ふと、その傍らにはいつまでも望がいるような、そんな夢想が浮かんで観月は頭を振る。馬鹿馬鹿しい幻想だ。甘ったるい感傷だと。
 カタンと背後で物音がする。微かな足音と人の気配で、望が近づいてきたのだと分かったが、観月は振り向かなかった。ただ前を向き、夕風に揺れる宵待草をじっと見詰める。すでに花は七分咲きの状態だった。これから夜に向かい、満開になるだろう。
 望は何も言わずに観月の横に腰掛けた。
 心地の良い風が観月と望の間を吹き抜ける。サワサワと庭の植物達が穏やかな音を立てて揺れていた。
「父親、何だって?」
 からかいを含んだ声で望は尋ねて来る。何もかもを知っていながらこういう質問をぶつけてくるのだから性質(たち)が悪い。
「……別に。家と土地の名義、俺にしてもらっただけ」
 観月もまた、何もかもを分かっていながら当たり障りの無い答えを返す。日常の中に望を再び埋め込まなくてはならない。初めの状態に戻して、何事も無かった時の二人に戻さなければ。半ば強迫観念のように観月は自分に言い聞かせる。けれども、そんな事は望が許すわけが無い。観月の決心などたやすくひっくり返してしまう。いつだって、望はそうだ。
「へえ。で?」
「で? って? 何が?」
「もう、俺とはセックスしないって?」
 唆すように耳元で囁かれて、観月は反射的に望から体を離した。立ち上がり、睨みつけるように望を見下ろすと、面白がるような望の視線とぶつかって観月は無意識に小さな溜息を一つ吐いた。望の瞳は何も変わらない。夏の宵闇のように深い瞳だ。その深淵の欠片を観月はすでに知っている。知ってしまった事を無かったことには出来ない。それなのに、不思議と観月は自分が変わってしまったとは思わなかった。決して観月の足場は失われていない。きちんと自分の足で立っている。それは、あるいは陽のお陰だったのかもしれない。
 いずれにしても、観月は望の問いには、否と答えるしか術が無い。例え、心の深層ではそれと逆の事を切望していたとしても。その切望は観月の日常にはただ邪魔なものでしかないからだ。
「…しない。する理由が無いから」
 そう答えると望はさもおかしいと言わんばかりに喉の奥で笑った。まるで、本当のお前のことなど分かっているんだと言わんばかりに。その笑い方が気に入らなくて、観月は憮然としたままドスンと乱暴な音を立てて再び縁側に座る。ささやかな反抗のように、じっと庭を睨みつけ、望のほうは決して見なかった。
「へえ。まあ、良いんじゃないの?」
 くつくつと笑い続けながら望はそう言う。
「で? 陽とは寝たって?」
 立て続けに嫌な質問ばかりをされて、観月は心底呆れ果てる。とにかく望は観月を袋小路に追い詰めるのが好きらしい。
「…寝てない」
「へえ? 何で?」
 何でもへったくれもあるか、反応しなけりゃセックスなんて出来ないのだと怒鳴り返してやりたいが、そうすると、また、観月には都合の悪い方向へ話が進んでしまうだろう。それを知っているから望はわざと尋ねて来るのだ。観月は、軽く下唇を噛み締めながら答えられない質問を沈黙でやりすごす。さすがに、望もその先までは追い詰めてこなかった。ただ、どこか寂しそうなそれでいて嬉しそうな不思議な笑みを浮かべていた。
「観月って変なヤツ」
「何で」
「堕ちてきたと思ったのに、いつのまにか、また元の場所に戻ってしゃあしゃあとしてる」
 望の顔は確かに笑っているけれども、そこには焦燥と安堵の色が同居していた。その表情の意味が観月には分からない。いつだってそうだ。望のことは全て分かるような気がするのに、何も分からない。この関係は一体何なのかと思う。いつか、その答えが分かる時が来るのだろうかと考えて、すぐに否定の答えをはじき出す。否。きっと、一生、答えなんて分からないだろう。分からないまま、ずっといつまでもそばにいるような気がして、観月は空恐ろしいような、それでいてとても安心するような不思議な気持ちになった。
 しんとした、どこか穏やかささえ感じる望の顔をぼんやりと眺めながら観月は、思わず口を開いてしまう。
「望は……望はなぜ……」
 だが、その先が続かない。なぜ。その後、何を問おうとしたのか。望はそんな観月の心中を知ってか知らずか、ふっと微かに笑った。
「初めて観月と出会ったあの冬の日から、俺の世界には観月しかいない。でも、観月の世界はそうじゃない。幸子さんがいて、陽がいる。それが許せない。だから」
 望もまた、だから、に続く言葉を持ってはいないのだろう。曖昧な質問の答えは、曖昧に消えた。
 それは観月の心の奥底に、言葉ではなく感覚としてストンと落ちてくる。望の言っていることが理解できると漠然と思ったが、けれども、同時に観月には望の求めているものは与えられないだろうとも思った。
 観月の世界から幸子や陽を消し去ることなど出来ない。もし、そんなことをすれば観月は観月でなくなるだろうし、観月の世界は壊れてしまうだろう。
「壊されるのが嫌なら逃げろよ」
 まるで観月の胸中を察したかのように望は言う。だが、観月は静かに首を横に振った。
「逃げない。…第一、俺は死ぬまでこの場所から離れられないよ」
 穏やかな凪いだ声で観月が告げると望は眩しそうに観月を見詰めた。その瞳は何も変わらない。いつもと同じように堕ちて来いと観月を甘く誘う。だが、不思議と観月はそれが怖いとは、もう感じなかった。言葉の通り、望はきっと何度でも観月の世界を壊そうとしてくるだろう。けれども、それは観月にとって少しも恐ろしいことではないと思った。それどころか逆に、甘美な誘(いざな)いのようにすら感じる。そんな自分を始末に終えないと観月は自分自身でも思ったが、望は呆れもせず、ただ嬉しそうに観月を見詰め返してくるだけだ。


 辺りにはいつの間にか夕闇が落ちてきている。東の空には満ちた月が登り始めていた。
 不意に、ガラガラと玄関の引き戸が勢い良く開く音がする。
「ただいまー! 腹減ったー!」
 聞こえてくるのは陽のカラリと明るい声だ。そこには日常しかない。今まで繰り返されてきた日常。そこに望をはめ込むことに観月は成功したのか、失敗したのか。分からない。けれども、それで良いと思った。
「逃げない…逃げないけど、壊されもしないよ」
 立ち上がりながら観月は小さな声でそう告げる。それは、あるいは望が観月の世界を壊そうとしてくることを甘受する許諾の言葉だったのかもしれない。望はそれが聞こえたのか、聞こえなかったのか、薄い笑みを浮かべただけだった。そして、まるで観月の肩を軽く叩くような気軽さと、何気なさで掠めるようなキスを一つ、観月の唇に落とすと何事も無かったかのように観月に背を向けて玄関に向った。






 庭先の宵待草はいつのまにか満開に開いている。
 観月はそれを眺めながら、ふといつかの光景を思い出した。


 宵待草は夜にしか咲けない。昼の光の下で花開く事は無い。
 それが咲き誇るのは、いつでも、月の光の下だ。


 あるいは、自分も。
 ふと囚われそうになった意識を繋ぎとめ、観月もまた何事も無かったかのように玄関に向う。
 満月の月の下、薄黄色のその花は見事に咲き誇り、ただ静かに風に揺られ佇んでいた。





 ----------------了.



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