novelsトップへ 音の轍-8へ 音の轍-10へ

音の轍 - 9 …………

 その直後の記憶が、一週間ほど、奏には曖昧だった。とにかく、世界は薄ぼんやりとして、何かの膜を通して見ているようにしか思えなかった。思考は完全にストップしていたけれど、いつの間にか始まった講義にはきちんと出席していたようだから、一応、表面上はいつもと変わらぬ生活をしていたのだろう。
 とにかく、何も考えたくない。何かを考えると、胸が切り裂かれるように痛んで、ワケのわからないことを叫びだしてしまいそうだった。そんな時に、響が家を空けていたのは逆に幸いだった。きっと、響の顔を見てしまったなら、奏は洗いざらいぶちまけて、泣きついていただろうから。
 それは、してはいけないことなのだと奏は思い込んでいる。してはいけない。響の前で悲しんだり、苦しんだり。そういうことは、一切してはいけないのだ。なぜいけないのかは分からないけれど、そうしてしまうことは、とても怖いことのような気がしていた。
 一体、いつから、そう思うようになったのだろう。大学の練習室に閉じこもり、ただ惰性でピアノを弾きながら、奏はつらつらと、そんなことを取りとめも無く考えていた。
 そうだ、と思い当たったのは響の恋人である透に、響の話を聞いた時のことだった。確か、あれは、透が仕事でヨーロッパに1年ほど行くかもしれないと言って、響と別れるとか別れないとか揉めていた頃だ。あの頃から、奏は一番辛いことや苦しいことは、響ではなく、郁人に話すようになっていた。響も、それを薄々感じ取ってはいたのだろう。それまで決してしなかった無断外泊を、響がぽつぽつとするようになったのは、その少し後からだった。もっとも、響が無断外泊する場所は、透の家だけと決まっている。だから、奏が完全に連絡が取れない状態になったことは無かった。
 それに安心して、敢えて連絡を取らなかったのが悪かったのかもしれない。
 いずれにしても、いい加減、幾らか意識がはっきりしてきた頃に、奏は今度は無性に寂しくなってしまった。誰もいない家で、一人きりの夜を過ごすのが辛い。それに、落ち着いて考えると、随分と長く、響が帰宅していないような気がした。
 奏は、ずっとぼんやりした状態で何日かを過ごしていたので、実際に、響が無断外泊をして何日になるのか把握していなかった。ふと見つめたカレンダーは、夏ではなく、すでに秋の始めを示している。少なくとも一週間以上、響が家を空けていることに気が付いて、奏は眉を顰めた。幾ら居場所を把握しているとはいえ、その場所が恋人の家だとはいえ、一週間以上も響が家を空けたのは初めての事ではないかと思う。それでも、奏は、まだ、事の重大さには気が付いていなかった。
 寂しさは、更なる寂しさを呼び寄せる。きっと、兄は、恋人と居心地の良い時間を過ごしているのだろう、もしかしたら、その内には透と暮らし始めるのかもしれない、と独りよがりに考えた。もし、響がそれを言い出したとしても、奏には止める権利が無い。自分が郁人を失ったからと言って、響に縋ることなどできようはずもなかった。それでも、寂しくて、ただ声を聞きたい一心で奏は響の携帯電話に電話をかけた。だが、返ってきたのは、機械的な女性の声だった。だが、時々聞いたことのある、電波が届かない旨を伝えるアナウンスではない。この番号は、現在使われておりません、というメッセージに、奏は訝しげに顔を歪めた。
 番号を変えたのだろうか、と一瞬考える。けれども、それならば、真っ先に奏に連絡するはずだ。その段になっても、まだ、奏は想像すら出来なかった。響が、兄が目の前から忽然と消えてしまう可能性など。
 何の疑いも無く、きっと透の家にいるだろうと思って、透に電話を掛けた。仕方が無いので、透に取り次いでもらおうと思ったのだ。
 『はい。カナちゃん? 』
 着信番号で分かっていたのだろう。いつもの、優しい、穏やかな声が受話器から聞こえた。
「あ、透さん? 今、家?」
 『うん。どうかした? 』
「えっと…悪いんだけど、兄貴に代わって?」
 恋人同士の時間を邪魔する無粋さに後ろめたさを感じつつ、奏はそう頼んだ。けれども、返ってきた答えは、奏の予想したどの返事とも違った。
 『え? 響? 今は、来てないけど』
 そう答えられても、奏はまだ分かっていなかった。
「あ、ゴメン。いつ帰った?」
 行き違いになったのだろうとしか考えられず、そう聞いた奏に、透は一瞬、電話の向こうで沈黙した。
 『…カナちゃん? 俺、響とはここ一週間くらい会ってないんだけど』
 そこまで言われて、奏はようやく何かが変だということに気が付いた。
「…え? 兄貴、ずっとそっちに泊まってたんじゃないの?」
 訝しげな表情で奏は問う。
 『…いや、俺も仕事で暫く忙しかったから…響、帰ってないの? 』
 少しだけ口調を変えた、堅い声が聞こえる。
「…うん。一週間くらい、無断外泊が続いてたから…てっきり透さんのトコにいると…」『…一週間も? ……携帯は? 繋がらない? 』
「……繋がらない……さっき電話したら…この番号は現在使われていませんって…」
 そこまで答えて、奏は、スッと何か冷たいものが背中を滑り落ちたような気がした。おかしい。何かが、おかしい。透のところにいなかったなら、一体、響はこの一週間、どこにいたというのか。なぜ、響の携帯電話が繋がらなくなってしまったのか。
 奏がまだ高校生の頃も、響は時々おかしくなって、乱れている生活を送っていたこともあったけれど、けじめだけはしっかりしていた。いつでも、最優先するのは、たった一人の家族である奏だった。どれだけ複雑な感情がそこにあるのか、奏には理解し切れていないけれど、それでも、響が兄として家族として、どれほど奏を大切にしてくれていたか奏だって分かっている。
 その響が、奏に何も知らせず、一週間も音信不通になった。
 奏はその時になって、ようやく異常なことが起こっているのだと理解した。
 『…カナちゃん? カナちゃん? 』
 恐らく、透も同じように感じたのだろう。らしくもなく、少し焦ったような声が受話器越しに聞こえた。
「あ…透さん、ゴメン…なんか…ちょっと…」
 落ち着いて何かを考えようとすればするほど、思考が空転する。込み上げてくる不安。何をどうすれば良いのか分からずに、奏が黙り込むと、
 『とりあえず、俺のほうでも心当たりを探して見るから。カナちゃんは、家で待っててくれる? 』
 と、しっかりした口調の声が聞こえて、奏は少しだけ安心した。一人ではない。少なくとも、透がいるのだと思ったら、知らず緊張していた体から、ふっと力が抜けた。
「あ、はい。俺も、思い当たる場所に連絡して見ます」
 『うん。そうしてくれるかな。じゃあ、後で連絡する』
 敢えて、そう装っているのかもしれないけれど、落ち着いた口調で透は告げ、回線を切った。奏は受話器を持ったまましばらくぼうっとしていたけれど、不意に思いつく。既に、夏休みは終わり、学校の授業が始まっているのだ。家に帰ってきていなくとも、きっと仕事には行っている筈だと、奏は電話帳をひっくり返した。
 自分の母校でもあり、響が音楽教師をしている高校の電話番号を調べて、すぐに電話した。自分が響の弟であることを告げ、響を呼んでくれと頼んだ奏に、けれども、事務員らしき男性は、実に淡々とした口調で、
 『二宮先生なら、一週間ほど前に退職されましたよ』
 と答えた。何かの聞き間違いではないかと問い返した奏に、けれども事務員は、やはり淡々とした声で、
 『間違いありませんよ。8月末付けで辞職届が提出されています。次の勤め先ですか? いえ、こちらでは把握していません』
 と、同じ答えを返しただけだった。
 奏はいよいよ真っ青になって、家の中を見回る。響の部屋に入り、箪笥やらクローゼットやらを開けてみれば、衣類がかなり減っていた。それで、奏は少しだけほっとする。衣類を持って出たということは、不意の事故や事件に巻き込まれた可能性は低い。本人の意思で出て行ったのだろう。
 一体、どこに。何のために。
 仕事をやめたことも、奏は聞かされていなかった。今度は、別の不安が湧き上がってくる。取って返し、リビングの戸棚の中を漁ってみる。一番上の引き出しを開けた途端、奏は、はっと息を呑んだ。奏も響も、そう神経質な方ではない。ある程度、乱れれば部屋の掃除や片づけをするけれど、それでも、いつでもきちんと全てを整理しておくような性質では無かった。それなのに、その時、戸棚の一番上の引き出しは綺麗に整えられていた。
 揃っていたのは、ありとあらゆる通帳と、証書と、印鑑だ。ちらりと見えたその名義に、奏はギクリとする。震える手で、その全てを取り出して一つ一つを確認した。
 普通口座の通帳が二つ。一体、いつしていたのか分からない定期預金の証書が二つ。更には、生命保険の証書は三つもあった。奏は、その時まで、響が生命保険に入っていることを知らなかった。開いてみれば、その契約金額は決して低くは無く、しかも、当然のようにその保険金の受取人は奏の名義になっていた。
 奏はその中の一つの定期の証書を開いて絶句する。これもまた、口座の名義は奏になっていて、その金額は、恐らく、奏が大学にいる間の学費を満たしてくれるような額だった。
 働いているとはいえ、響は、所詮はまだ新米といえる年数しか働いていない教師だ。決して、給与など高くは無いだろう。それなのに、これだけのお金を奏に残したのだ。まるで、もう、二度と、奏の元には戻らないとでもいうかのように。
 他の全ての通帳や証書を調べて見ても、名義は奏になっていた。バサリと手にしていた書類が床に落ちる。これは、一体、何だろう。悪い夢でも見ているようで、奏はじっと落ちた書類を見下ろしたまま、一人立ちすくんでいた。
 部屋の中は、恐ろしいほどに静かだった。その中に、時計の針の音だけが響いている。奏のほかには何気配もしない。誰の気配も。
 不意に、ガタンと玄関先で音がして、奏はビクリと大げさに体を揺らした。カタンという音と誰かが立ち去る足音に、何かの郵便物が届けられたことを知る。
 そういえば、最後に郵便物を取ってきたのはいつだっただろうと、奏は逃避のように考えた。ぼんやりと生活していたせいで、いろんなことが等閑になっていたのだ。やはり、現状から逃げるように奏はフラフラと玄関に向かい、郵便受けに溜まった郵便物を取り出した。その中に、一際大きな封筒があった。
 あて先は『二宮奏様』。見覚えのある綺麗な字に、奏はハッとする。見間違えようも無い。この字は、兄の字だと、奏は慌てて、その封筒だけを取り上げ、封を開けた。
 中から出てきた一連の書類の意味が、奏には、すぐに理解できなかった。何度かめくり、すべる目で文字を追い、やっと分かったのは、これが何かの土地や建物の権利を表す書類だということだ。その住所を奏は知っていた。今まで何度も行った、アルバイト先の梓の店の住所。そして。













 そして、その名義もまた、なぜだか『二宮奏』と記されていた。







novelsトップへ 音の轍-8へ 音の轍-10へ