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音の轍 - 10 …………


 鮮やかと言うしかない、痕跡の消し方だった。職場も辞職して誰もその行き先を聞いていない。金融関係の名義は全て奏名義で、印鑑も全て揃っていた。しかも、賃貸しているアパートの家賃は、この先、五年分を先払いしているという周到さだ。当然、携帯電話はとっくに解約されていて繋がるはずもない。無意味と思いながらも調べた住民票は手が付けられておらず、どこに移動したのかを知る手がかりにはならなかった。もしかしてと思って梓や都築に連絡を取ろうと思っても、二人とも全く捕まらず、奏は途方にくれていた。梓の店は、扉に『暫くの間休業します』の張り紙が貼ってあるだけで、従業員には何の連絡も無いまま、放置されていた。
 藁にも縋る思いで透の連絡を待ったが、一週間経っても、何の音沙汰も無かった。
 一人ぼっちの家に閉じこもっていると、気がおかしくなりそうで、奏はなるべく外出するようにしていた。大学がある日は大学へ。練習室の出入りは基本的に、学生カードがあれば二十四時間自由であるから、人気が無くなる終電間際の時間まで居残っていた。
 これ以上、何も分からないまま一人でいると、本当にどうにかなってしまいそうで、奏は、自分から透に会いに行くことにした。何度か電話したけれど、捕まらず、迷惑かと思いながらも、家の押しかけるよりはマシだろうと透の働いている出版社を尋ねた。一度だけ行った事のある、普段は降りることの無い駅前通りにあるビル。
 終業の頃合を見て、会社のビルから少し離れたガードレールに座って透が出てくるのを待った。途中で買ったコーヒーに口を付けながら、じっと、入り口の辺りを観察する。夕暮れを過ぎた町並みは既に薄暗く、街灯が灯り始める。吹き抜けたビル風が、思ったよりも冷たいことに気が付き、奏は微かに身震いした。知らない間に、秋が来ていたのだ。ついこの間まで、夏だと思っていたのに。時間の感覚が麻痺している。郁人がいなくなってから、一体、どれくらいの時間が経ったのか、思い出せないほど、感覚は曖昧だ。
 通り過ぎる人たちは、皆、急ぎ足で、奏の存在になど目もくれない。その辺に立っている店の看板と同じ程度にしか認識していないのだろう。それに気が付いたときに、奏は、急に途方も無い不安に駆られた。
 あれほど、当たり前だと思っていた日常が、いとも容易く壊れてしまったことを、今更のように自覚した。響がいない。郁人もいない。梓とも会えず、都築とも。自分の一番近いところから、一人ずつ誰かが消えていく、そんな恐怖。一度、囚われてしまうと、それから逃れられず、今すぐにでも透の顔が見たいと願った。誰でも良い。親しい人に、大丈夫だと言ってもらいたかった。気休めでも良い。すぐに、皆、戻ってくるよと。
 どれくらいの時間が経ったのか、正確には分からなかったけれど、多分、1時間足らずしか待っていなかっただろう。透はビルから出てきた。その姿を見た途端、奏はほっとしたが、駆け寄ろうとした足を、すぐに止めた。透は一人ではなかったからだ。何人かの人間に囲まれている。男性も何人かいたが、女性の方が多いようだった。そして、透は、なぜだか、その腕に花束を掲げていた。なぜ、花束が、と奏は違和感に首を傾げる。
 周りの人間に、透は何か挨拶しているようだった。透の近くにいる女性の何人かは、ハンカチで目元を拭っていて、奏はますます訝しげに、少し離れた場所からそれを見ていた。最後に、あからさまに愛想笑いだと分かる笑顔を浮かべ、透は彼等に手を振り、その場を離れた。透が数メートル歩いて、ふと顔を上げた時に視線が合って、奏はようやく、ほっとして透に駆け寄った。
「透さん!」
 縋るように、必死に近寄った奏に、けれども、透は一切の笑顔を見せなかった。向けられた眼差しは、今まで一度も見たことが無いような、冷淡なそれだった。
「君か」
 と、透は、さも興味無さそうに呟くと、スッと視線を逸らす。奏は予想しなかった透の反応に、足を止め、戸惑ったように所在無く立ち尽くしてしまった。いつもと同じように、穏やかな優しい笑みを向けてくれると思い込んでいたからだ。それを当たり前だと信じきっている自分に気が付けないほど、奏はおかしかった。
「あ…あの……俺、何か、分かったことが無いかと思って…」
 まるで拒絶しているかのような、透の冷たい態度に迷いながらも、奏は話かける。もしかしたら、何か、嫌なことがあって、虫の居所でも悪いのかと思った。それでなくても、響が、急にいなくなってしまったのだ。機嫌が良い訳が無い。そう自分に言い聞かせる。
 奏の知っている透は、温和で、いつも薄っすらと笑顔を浮かべている優しい人間だ。その本質は変わらないと、少しの疑いも抱かずに。
「ああ」
 やはり、透は鬱陶しそうに短く相槌を打つと、面倒くさそうに駅のある繁華街の方へ視線を移した。
「…こんな場所でする話じゃないから。別の場所に行こう」
 淡々とした口調で促すと、透は奏の事を確認もせずに一人で歩き出してしまう。はい、も、いいえ、も、言えず、ただ、慌てて奏はその後をついて行った。
 透の歩調はかなり速かった。そして、一度も振り返らない。まるで、奏がついて来ても、来なくても、どうでも良いと思っているかのようだった。置いて行かれないように、奏は、半ば小走りでその後を追いかける。その広い背中が、やはり、拒絶の空気を漂わせているようで、奏はどうしてよいのかさっぱり分からなかった。空気を和らげようと、何とか透の隣に並んで、話しかける。
「あの。透さん。その花束、どうしたの?」
 奏の言葉を聞いて、ようやくその存在を思い出したかのように透は立ち止まる。それから、花束をじっと見つめると、ふ、と口元を緩めて、皮肉っぽい笑みを浮かべて見せた。
「ああ、今日で、出版社を辞めたんだ。送別会は辞退したら、せめて貰ってくれと渡された」
 何でもないことのように透は答え、それから、近くにあったゴミ箱に、無造作にその花束を投げ捨てた。それが、酷く投げやりな態度に見えて、奏は言葉を失う。透の空気が荒んでいる。けれども、その理由が良く分からない。そもそも、出版社を辞めたというのは、どういうことなのか。嫌な雰囲気に、知らず、喉が渇く。居心地の悪さに、泣き出してしまいそうだった。
「出版社を辞めた…って…どういうこと?」
 震える声で尋ねた奏に、ようやく透は振り返り、そして、真っ直ぐに奏の目を見つめた。否。見つめたのではない。射殺してやろうとでもするかのように、鋭い視線で睨みつけたのだ。そして、奏を嘲笑うかのような笑みを浮かべてみせた。
「そのままの意味だよ。出版社の仕事は辞めたんだ。辞めて、家に戻って父親の跡を継ぐことにした。三ヵ月後には、どこぞの令嬢と結婚だ」
 馬鹿馬鹿しいこと、この上ないという口調で透は告げる。言われた内容がすぐには理解できずに奏は、ポカンと透の顔を間抜けにも見上げてしまった。
「け…っこん…って…誰が?」
「一度聞いて分からなかった? 俺が、結婚するんだよ。それが、跡を継ぐ条件だったから仕方が無い」
「ちょ…っと待ってください……なんで…でも、透さんは……兄貴と……」
 なぜ、そんなことになるのか分からず、混乱したまま、奏は顔面蒼白になる。透は響の恋人なのではなかったのか。響が何処に行ってしまったのか分からない今、唯一頼れる人間だと思っていたのに。透は、混乱している奏を他所に、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「なんで? なんでだって? 君が聞くのか? それを?」
 透はスッと一歩、奏に近づくと、乱暴にその顎を掴んで、グイと無理やりに上を向かせる。
「君が響に頼んだんじゃないの? 大好きな郁人くんを取り戻してくださいって」
「え?」
「優しい君のお兄さんは、自分を売ってまで君の望みを叶えてくれたって訳だ。嬉しいだろう?」
 笑いながらそう言われて、ようやく奏は気が付いた。透の言葉の意味は半分も分からない。けれども、透が、笑いながらどうしようもなく怒っていることに。そして、その抑え切れない程の迸る怒りが、自分に向けられているということに。
「とお…とお…るさ…」
 奏は、今まで、これほどの、あからさまな怒りを、誰かにぶつけられたことが無かった。しかも、理由が分からない。一体、自分の何が透をここまで怒らせているのか全く見当がつかなかった。だからこそ、どうして良いのか分からない。けれども、その『分からない』ことにこそ、透は怒っているようだった。
「梓さんの店の権利書が届いただろう?」
 届いた。確かに。だが、なぜ、透がそのことを知っているのだろうか。そもそも、あの権利書の持つ意味は一体、何だというのか。
 透は掴んだときと同じに、不意に、乱暴に奏を離すと、
「あれがあれば、郁人君は戻ってくるだろうさ。あっちに行っている意味が無くなるだろうから」
 と、投げやりな口調で言い放った。そこでようやく少しだけ糸が繋がった。無関係だったと思っていた郁人の不在と、店の権利書。そして響の失踪。おぼろげに繋がるそれらの事実が、それでも、まだ、奏には現実味を持たなかった。しかし、無知という名の幸福に浸っていることは、もう、許されなかった。
 尋常でない二人のやり取りに、周囲の人間が気が付き始め、胡乱な眼差しを向けて通り過ぎる。透は、軽く舌打ちをすると、顎をしゃくって奏を人気の少ない公園の方向に促した。困惑したまま、他にどうすることも出来ず、奏は、透の後をとぼとぼとついて行く。たどり着いた公園の東屋は、街灯からは遠く、薄暗かった。空を見上げれば、雲が立ち込めていて、月の光さえ届かない。ほんの少しだけ、雨が降るような、そんな匂いがした。
 もう、残暑、という季節ではないから日が沈めば、大分、肌寒い。昼間の天気に合わせて、薄着で出かけてきた奏は、微かに身震いした。けれども、これは、本当に寒さのせいだろうか。むしろ、恐怖による震えなのかもしれない。すぐ近くに、何か得体の知れない、恐ろしいものが近づいている。そうして、それが、自分を飲み込んでしまうような気がした。馬鹿馬鹿しい妄想だと、奏は軽く首を横に振る。一体、何が怖いというのだろう。目の前にいるのは、ただの、兄の恋人のであるはずの青年でしかない。
 薄暗いその東屋の中で、透は奏に背を向けたまま、しばらく何も言わずに立ち尽くしていた。透は何を奏に言おうとしているのだろう。響の所在を早く聞きたい気持ちが半分と、透の真意を聞きたくない恐怖が半分だった。
 ザリ、と微かな砂音を立てて透は体の向きを変えた。そのお陰で、奏にも、透の横顔が見えたけれど、彼は決して笑っていなかった。そして奏の事を少しも見ようとしない。まるで、いてもいなくても同じ、そう思っているかのようだった。
「結論だけを言えば、響は、もう、日本にはいない」
 唐突に口火を切って、透は奏にそう告げた。
「え?」
 突拍子もない事を言われた気がして、奏はポカンと間抜けな顔をした。全く、予想さえしていなかった答え。
「響は、日本にいないんだ」
 だが、至極、真剣な口調で同じことを繰り返した透に、それが真実なのだと知る。奏は酷く動揺した。
「あの権利書の出所がどこか知っているかい?」
 だが、透は奏の感情の動きには、一切、頓着しなかった。一方的に断罪するような口調で、尋ねられた質問に、奏は力なく首を横に振った。
「…知りません…何も…何も知らない」
 真っ青な顔で、途方にくれた迷子のように呆然としている奏に、透は小さな溜息を一つ吐く。
「…だろうね。君は、いつだってそうだった。何も知らない。知ろうともしない。君が当たり前のように受け取っていたものが、どれほどの犠牲を払われて与えられていたのか」
 嘲笑と、疲れが混じり合ったような笑いを微かに漏らし、透はスーツのポケットからタバコを取り出すと火をつけた。自分の気持ちを落ち着けようとでもするように、それを一口吸い、煙を吐き出す。夜の薄暗闇に溶けていく、その白い煙をぼんやり見つめながら、奏は透の言葉を口の中で転がした。
 『犠牲』。犠牲とは一体なんだろう。『誰の』犠牲のことだろう。知りたかったけれども、知りたくなかった答えがそこにある。薄っすらと奏は気が付いていた。透が、何某かの真実を、自分にぶちまけようとしていることを。そして、それは、奏にとって決して耳障りの良いものではないはずだ。むしろ。
「あの権利書は、都築さんが、郁人君の父親から買い取ったものだよ。買い取った、というより、かなり強引な方法で奪ったといったほうが正確か。まあ、俺には、そんなことはどうでも良い。問題は、多分それを響が都築さんに頼んだってことだ」
 忌々しいことこの上ない、といった口調で透は吐き捨てる。そこに都築の名前が出てきたことを、少しだけ意外に思いながらも、けれども、それ以外の部分では、やっぱり、と思う気持ちが大半だった。あの権利書の封筒に書かれていた文字は、見慣れた兄の字だったのだから。だが、次に透が言った言葉は、全く予想していないことだった。
「君は知ってたかい? 響が、小学生の頃から、家計を管理してたって」
 奏は驚いて目を見開く。様々な家の事を、響がやっていることは知っていた。時には、奏の父親代わりも、母親代わりも響が担っていたのだから。けれども、そんな事までしていたとは知らなかった。
 俄かには信じられない。小学生で家計を管理するなど、常識の範囲ではない。だが兄なら。兄なら、それさえもやってしまう気がした。そして、奏は今更のように気が付く。今まで、一度たりとも、兄が頼りないと思ったことなど無いことに。響と奏の年齢差は七歳だ。だが、きっと、奏の中の感覚では、二十も年上の立派な大人だと、ずっとずっと『思い込んで』いた。そして、幾ら記憶を辿っても、おおよそ、兄が年相応の少年らしさを見せたことが無いことにも気が付いた。それは、とても、異常な事ではないのか。
「知らなかった、って顔だね。悪いけど、俺は君たちの母親が好きじゃなかった。純真な、と言えば聞こえは良いけど、どこか幼稚さが抜けない、母親としては欠けているとしか思えない女性だった。……もっとも、カナちゃんには良い母親だったかもしれない。彼女は、君だけは子ども扱いして溺愛していたからね。でも、その皺寄せが全て響に行ってしまった。君を子供にしておく代わりに、彼女は響が子供でいることを許さなかった。
 だから、響は嫌でも大人にならざるを得なかった。俺と初めて出会った頃の響は、酷くピリピリしていて、無理をしているようにしか見えなかった。とても、同い年の高校生とは思えないくらい、背伸びをしていたよ。
 君達は母子家庭だっただろう? 然程、裕福じゃなかったと思うよ。それを一番知っていた響が、どれだけの事を諦めてきたのか俺には分からない。それでも、響はプロのピアニストになる夢だけは諦めてなかった。それを、どうして諦めたのか、本当の理由をカナちゃんは知っている?」
 知っている訳が無いだろう、というような最初から肯定など求めていない口調で透は詰問した。奏は、何も言葉を返すことが出来ない。
 話が核心の部分に迫っていることは分かる。今まで、奏は何度もそれを知りたいと思っていたはずだ。兄が、決して自分には見せない、その真実を。けれども、それが、ただの上っ面だけの自己満足だったのだと気が付く。それを聞いて、奏はその重さに耐えられるのだろうか。耐えられるはずが無いと、透は思っているようだった。耐えられないと思っているから、むしろ話している。そんな気がした。透は何か具体的な言葉を奏にぶつけたわけではない。それでも奏には分かった。透は、今、奏の全てをぶち壊そうとしているのだ。
 酷く怖かった。まるで、頭の天辺から足の爪先まで全てを否定されているような、そんな気がした。
「本当の理由はね。カナちゃん。君だよ? 君が小学生の頃、郁人君が父親のところに行ってしまったよね。あの時、梓さんが響に相談したんだ。店を父親に返して、郁人君を手元に残すか、それとも郁人君を差し出すか。
 あの頃、君達の母親がお金を得る場所と行ったら、梓さんの店しかなかった。あの店を取り上げられたら、君達母子三人は、路頭に迷っていただろう。だから、響は梓さんに店を残すように頼んだんだ。…土下座までしてね。俺は、今でもさっぱり分からないよ。どうして、響がそこまでしなくちゃならなかったのか。その上、響はそれをずっと悔いていた。郁人君がいなくなって、君が悲しんでいるのを見て、ずっとずっと苦しんでいた。自分が悪いのだと、自分を責め続けて、とても見ていられなかった。君を悲しませて得た金で音大になんていけないと、一時はピアノを止めようとさえした」
 耳から入ってくる言葉が、ただの声の洪水のようで奏は上手く理解が出来ない。何を透が奏に伝えようとしているのか。一つ一つの単語の意味は分かるのに、それが意味を持って頭の中で繋がらない。もしかしたら、どこかで、理解することを拒否しているのかもしれなかった。理解をしたら、何かが壊れてしまうと分かっているから。
 今まで十九年間をかけて培ってきた『家族』という関係だった。お互いに、負の感情が全く無いなどありえないし、後ろめたさや、負い目や、コンプレックスだって当然持っていた。それでも、それさえ些細なものだと笑い飛ばしてしまえるほど、確かな、強い絆と愛情があったはずだ。奏は、今まで、それを信じて疑った事さえ無かったのに。
 そういえば、たった二人でも『家族』というのだな、と、奏はぼんやりと現実逃避のように考えた。でも、たった二人なら。

 たった二人なら、奏と響の間の糸さえ切れてしまった途端、簡単に家族ではなくなってしまうのではないか。

「それに横槍を入れたのが都築さんだよ。あの二人の間に、どういうやり取りがあったのか、俺は知らない。ただ、響は都築さんを『そういう意味』で好いていたわけじゃないのは知ってる。都築さんが音大に行く金を出した代わりに……響は、都築さん相手に売春まがいの行為をしていた。都築さんだけじゃない。俺も全て把握していたわけじゃないけど、他にも、何人かそういう相手がいて……響はまるで、自分の体がボロ雑巾だとでも思っているみたいに、平気で自分を切り売りしてた。でも、俺は響がその金で贅沢をしていたところを見たことが無い…多分…その金の行き場を、君は知っているんじゃないの?」
 知っている。奏の手元に渡った幾つかの預金通帳。その金額は、とても、社会に出て数年の教員が貯金できるようなものではなかった。奏は、もう、頭の中が真っ白になって、何も考えることが出来ない。何の作り話を聞いているのだろうとしか思えなかった。
 今まで、これが真実だと掌の中に大事に抱えていたものが、ポロポロと脆い砂糖菓子のように剥がれ、崩れていく。暖かい、幸福の詰まったお菓子の家は、けれども、兄が自分の肉を削って作った、犠牲の上に成り立っていた家だった。
「カナちゃん。俺に教えてくれないか。響がしたことはそれほどに罪なことだったのか? 俺には、一体、何が罪なのかさえ分からない。なのに、響は、それが途方も無い大罪のように思い込んで、君の為なら何でもする。自分を切り売りすることだって、簡単にやってのけるんだ。そして、君はそのことを何も知らなかった。知らないで、自分だけは汚いものも何も知らず、綺麗な顔で笑っている。そんなこと、許されて良いの?」
 罪人を裁く口調で透が告げた言葉は、確実に奏の胸を切り裂いた。
 誰かの犠牲の上に成り立った幸福は、真実の幸福だといえるのだろうか。そして、その犠牲を払っていたのは、最愛の兄だという。
 いつの間にか立ち込めていた雨雲から、ポツリ、と一粒の雨が落ちる。東屋の庇の隙間を縫って、それは奏の頬にぶつかった。真っ白な、血の気を失った、その頬に。また一つ、また一つと増えながら落ちてくるそれに頬を打たれながら、けれども、奏は瞬きすることも忘れて立ち尽くすことしか出来なかった。
 今、確かに、何かが終わろうとしている。
「……今回の事も…きっと、音大入学のときと同じようなやり取りを都築さんとしたんだろう。今までは我慢した。でも、もう、いい加減、俺も呆れ果てた。そんなに自分を切り売りしたいなら、金で自分をどうとでもするなら、今度は俺が金でアイツを買うよ。それで、どこかの部屋にでも閉じ込めて、愛人にでもしてやるさ」
 酷く投げやりな口調で透は吐き捨てるように言った。
 男同士だけれど、それを差し引いても、理想的な恋人同士だと思っていた。何もかも理解しあっているように見えて、それを妬ましく思ったことさえあったのに。
 真実は違うという。そして、その原因は、諸悪の根源は自分だったのだ。一体、奏に何を言うことが出来たというのだろう。
 次第に雨脚が強くなる。髪も、シャツの肩も大分濡れ始めていたが、奏は指一本動かすことが出来なかった。
「…カナちゃん」
 不意に、改まった口調で名前を呼ばれ、奏は大げさにビクリと体を震わせて顔を上げた。視界に入ってくる透の顔は、今まで一度も見たことの無い表情をしていた。全くの無表情。そこには、何の感情も読み取れない。こんな冷たい視線を、未だかつて、奏は誰にも向けられたことが無かった。本能的な恐怖で、足が震え始める。
「俺は、ずっと君の事が憎かったよ」
 感情を覗かせないくせに、至極はっきりとした、まるで脳髄に直接響いているのでは無いかと思う声で、透は告げた。

「君なんて、いなくなれば良いのに」

 最後に、そう一言だけ。それ以外は何も無かった。
 まるで、奏がそこに存在しないかのように透は、ただ、奏の横を通り過ぎ、立ち去ってしまった。
 雨はどんどん酷くなる一方だ。

土砂降りの雨の中、まるで、この世の中に自分だけ残されたような気持ちで、奏は、ただ、ただ、立ち尽くす。







 美しく穢れの無い奏の子供時代は、今、この瞬間、唐突に終焉を迎えた。



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