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音の轍 - 11 …………



 微かに色づいた銀杏の葉を、練習室の窓からぼんやりと眺めたまま、奏は身動きもせず、そのままでいた。惰性のように大学に行き、練習室に篭り、けれども、ピアノの蓋を開けることが出来ない。今まで、一度だって、こんなことは無かった。
 奏にとって、ピアノは、あって当たり前の存在だった。生まれたときから傍らに在り、呼吸と同じ位、自然に慣れ親しみ触れてきたものだ。けれども、今、それに触れることがとても怖かった。
 これに触れ、奏でる権利が自分には果たしてあるのだろうかと思う。触れることが、罪悪のような気さえして、奏は、ただ、見つめることしか出来なかった。それなのに、もう、一生、ピアノに触れないことを想像すると、まるで、体の一部を切り取られるかのような、喪失感と痛みを感じる。一体、何の業なのかと奏は小さな溜息を一つ吐いた。
 けれども、もう、決心はついていた。あとは、事務的な手続きを取るだけなのだ。退校届けを提出して、音大を辞める。そして、ピアノを弾くことも一切、止めるつもりでいた。それ位しか、奏には償う方法が分からない。学校を辞めたら、とにかく、何とか響を見つけて、連れ戻したい。連れ戻して、その後、どうすれば良いのかは考えられなかった。
 ただ、強迫観念のように奏は思う。

 何もかも、元の通りに戻さなくては。

 奏を取り巻く、全ての人たちを、元の状態に戻さなくてはならない。ただ、違うのは、そこに自分の存在を置く事ができないことだけ。
 今更のように、自分の居場所が無いことに気が付いて、奏は途方もない孤独感に身を震わせた。今まで、どれだけ自分が守られ、大切にされてきたのかを今になってようやく悟る。今の奏には、帰る場所も無ければ、逃げ込む場所も無かった。拠り所のピアノさえ弾く権利が無い。
 頭を掻き毟りたくなるほどの虚無感に耐え切れず、奏は、これが最後と、そっと黒く光るピアノに触れた。悪いことを見つからないように気配を忍ばせる子供の仕草で、そっと、そっと、その蓋を開ける。目に入ってくる白と黒の鍵盤に、奏はなぜだか泣きたい気持ちになった。ただの、木で出来た楽器だ。それなのに、なぜ、これほどまでの愛着を感じてしまうのだろうか。
 震える指で、ポンとCの音を弾く。静かな練習室に、弦が鍵に打たれる音が響いた。それを聞いた途端、堪えきれずに、奏は取り憑かれた様にピアノを弾き始めた。好きな曲を片っ端から狂ったように弾きまくり、それも済むと、とにかく、思い出せる限りの曲を弾き続けた。弾き終えたら、何もかもが終わる。大事な自分の半身と別れを告げるのだと思ったら、指を止めることができなかった。
 一体、どれくらいの時間、弾き続けていたのか分からない。気持ちより、体の限界が先に来て、節々が痛み、上手に動かなくなった手を奏は、ピアノからそっと下ろした。ポタリと膝の上に涙が落ちる。
 泣く権利など無い。そう分かっていても、次から次へと溢れてくる涙を止めることが出来なかった。だが、そう、長い間、泣き続けることは出来なかった。
 不意に、ガチャリと音がして、誰かが練習室に入ってきたからだ。慌てて涙を拭い、俯くのと、
「何っつー弾き方してるんだよ?」
 と、呆れたような声が聞こえるのは同時だった。彼の声を聞くのはこれで三度目だった。そして、聞くのはいつもこの場所。相手は在校生でもないのに、それが不思議で、奏はふ、と顔を上げた。なぜだか、泣き顔を見られることが気にならなかった。
 彼、宇野辺衛は奏の顔をじっと見つめ、微かに眉を寄せたが、敢えて何も言わなかった。ただ、どこか、惚けたような声で、
「気が変わったか?」
 と尋ねてきた。
「え?」
 と奏は首を傾げる。
「現役音大生として、プロデビューしないかって話だ。若いくせに、もう、痴呆症か?」
 ポンポンと勢い良く貶されて、奏は涙が止まってしまう。懲りない人だと苦笑いを零しながら、
「プロになんてなりません」
 と力の無い声で答えた。今は、生意気に言い返す気力さえない。ただ、芯のない声で、
「…それに、俺は、もう、宇野辺さんの要求には応えられないので」
 と続けた。衛は奏の言葉に眉を顰める。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。俺は、もう…大学を辞めるので……現役音大生じゃなくなる。だから、もっと、別の人を探してください」
 何もかもを諦めた顔で奏が笑って言えば、衛はますます眉間の皺を深くして、睨みつけるように奏の顔を見つめた。
「…どういうことだ? なぜ、大学を辞める?」
 なぜ、赤の他人にこんな突っ込んだ質問をされるのかと、半ば鬱陶しく思いながらも、反論する気力もわかず、奏は馬鹿正直に、けれども酷く抽象的に、
「俺には、ピアノを弾く資格がないから」
 と、答えた。伝わるはずが無い。意味が分からないと言われることを予想していたのに、けれども、衛の反応はそれとは少し違った。驚いたように目を大きく見開き、それから、自嘲するかのような苦笑いを零したのだ。
「……似てるのは外見だけで、雰囲気は似てないと思ってたんだがな。やっぱり、兄弟なんだな」
 と、衛は独り言のように呟いた。それから、改まったように、ふと奏の顔を見つめてくる。その目は、決して鋭くはなく、むしろ、失われた何かを懐かしむような感傷が浮かんでいるように見えた。
「『響』も、今のお前と全く同じ言葉を言ったことがある。大学時代、なぜ、プロにならないんだと、俺が聞いたときだ」
 響、という名前が出てきた途端、奏ははっとする。嫌な予感がして、けれども、確かめずにはいられなかった。思い出したのは、先日、透にぶつけられた事実の数々だ。
「…あの。もしかして、宇野辺さんは……宇野辺さんは、その、兄貴と……何か関係があったんですか?」
 戸惑いがちに尋ねた奏に、衛は鼻を鳴らして笑ってみせる。
「さあな。あったと言えばあったが。お前の兄貴は、何も無かったって答えるだろうよ。金と体だけの荒みきった関係だったからな」
 何かの怒りを八つ当たりするように、奏に吐き出された言葉は、恐らく、衛が意図したよりも、ずっと深く深く奏を傷つけた。知らされた事実が、やはり本当だったと裏づけされて、奏は罪悪感に押しつぶされてしまいそうになる。
「……ごめんなさい。でも、兄貴を責めないで下さい。悪いのは全部、俺だから」
 グスリと鼻を鳴らしながら答えた奏に、衛は奇妙な顔をした。
「お…お金は、宇野辺さんが、どれくらい渡したのか分からないけど…お金は、全部返すから」
 家にある通帳を全て渡しても良い。だから、兄を罵ったり、責めたり、蔑んだりされたくなかった。そもそも、自分の存在が無かったら、兄を、そんな行動に走らせることも無かったのだ。悪いのは、ただ、自分なのだと思い込んで奏は言ったが、返ってきたのは呆れたような溜息だった。
「……俺は、別に、響を責めちゃいない」
 それから、衛はなぜだかバツが悪そうに、ガシガシと頭を乱暴にかくと、壁際に置いてあった椅子に、脱力したように座り込んだ。
「お前…奏、だったか。奏は、大学時代に響がしてた事を知ってるのか?」
「……詳しくは知らない」
「だろうなあ」
 と、衛は苦笑いして、スーツの内ポケットからタバコを取り出すと火をつけようとした。
「ここ禁煙です」
 反射のように奏がそれを咎めると、衛はピタリと手を止め、次の瞬間、急に、腹を抱えて笑い出した。
「…お前、ホントに何だよ。人の古傷、これでもかって抉ってくれるよな。変なヤツ」
「…はあ?」
 何がおかしくて衛が笑い出したのか、さっぱり分からずに奏がポカンとしていると、ようやく笑いが収まったのか、衛は椅子に座ったまま横柄に足を投げ出す。
「響も、そうやって、良く俺の事注意したよ。アイツも、ヘビースモーカーの癖して、絶対に、練習室じゃタバコを吸わなかった」
 そう教えてくれた衛の目は、酷く優しく見えて、奏は意外だった。素直に、タバコとライターを内ポケットにしまい直す衛を、奏はぼんやりと眺める。衛は、その優しいままの目で、一度だけ奏に視線を移し、今度は何か別のものを内ポケットから取り出して、奏の手に握らせた。
「…何ですか?」
「お前が、一度捨てたモノ」
 ふと、手の中を見れば一枚の名刺がそこにはあった。そして、それは、確かに、奏が一度貰い、一度は捨てたものだった。捨ててしまったことを見透かされて、少しばかり後ろめたい気持ちで奏は俯く。
「大学を辞めるのは最終的にはお前の自由だろうさ。でも、辞める前に、一度で良い。連絡しろ。絶対だ」
 衛は強い口調で、それだけを言うと、そのまま練習室を出て行ってしまった。その背中を見送りながら、相変わらずだな、と奏は思う。まだ、たったの三度目なのに。
 来るときも、去るときも、衛はいつも唐突なのだ。だのに、それが、少しも不快感を与えない。不思議な感覚だけを、奏の中に残して、衛は去っていった。






 奏が『それ』を見つけたのは、その日の夜のことだった。誰もいない、寒々しい部屋。帰ってきているはずが無い、と思いながらも奏は響の部屋のドアをそっと開けた。日課のようになってしまったその行為が、いかに、無駄な事なのかは奏自身が一番良く分かっている。当たり前のように、響の部屋には人の気配など全く無かった。パチリと音を立てて部屋の灯りをつける。不意に差し込んだ光に微かに目を眇め、奏は静かに部屋の中に足を踏み入れた。
 性格が表れているような、几帳面に整頓された部屋だった。あちこち、空間が空いているような印象を受けるのは、恐らく、幾つかの私物を持っていってしまったからだろう。
 家族でありながら、奏はあまり響の部屋に足を踏み入れたことが無い。同じように、響も、殆ど奏の部屋に勝手に入ったりしなかった。個人の空間を勝手に侵さない、という、それは暗黙の了解のようなもので、ともすれば、他者を排除しかねないほど依存しあうことを本能的に恐れていたからのルールだったのかもしれない。
 机の上に並んでいるのは、音楽関係の専門書だ。その殆どが、教育関係の書籍で、純粋なピアノのスコアは一冊も並んでいなかった。もちろん、響の部屋にはピアノも置いていない。最初、二人でこの部屋に越してきたときに、リビングにピアノを置けば良いといった奏に、俺はもう必要ないからと響が強硬に言い張って、結局、ピアノは奏の部屋に置くことになった。当然、防音設備も奏の部屋にしか施していない。その一つ一つを、奏は深く考えずに甘受してきた。それを言った響の気持ちなど、本当は考えていなかったのだ。
 机の前を通り、クローゼットの前にたどり着いて、他意無く、奏はカチャリとその戸を引いた。あれほど抜け目の無い兄が、何か手がかりを残しているとは思えなかったけれど、それでも何かが残っていないかと、淡い期待を抱いて。
 殆ど空になってしまっているその片隅に、まるで、置き忘れたかのように一つの箱がポツンとあった。何だろう、と奏は微かに眉を顰め、そっとそれに手を触れた。一番上に、小さなメモ用紙が乗せられている。そっと手に取り、明るい場所まで引き出すと、そこに書いてある文字が見て取れた。
 『奏へ』
 と、ただそれだけ。兄の美しい文字で書かれているのは、その二文字だけだった。焦るように、奏はその箱の蓋を開ける。入っていたのは、少なくはない本数のダットテープと、ビデオテープだった。一体、何が入っているのか分からず、奏はそのうちの一つを手に取る。中身が知りたい、と急かされるようにプレーヤーを探し出し、そして、一本のテープをセットした。最初に調べたのはダットテープの方で、音以外の情報は何も無かった。何のテープだとか、いつ録音されたものだとか、一切、書かれていなかったからだ。
 けれども、そこから流れてきた音を聴いた瞬間、奏は全身、総毛立った。聞こえてきたのはピアノの音だ。誰かが、演奏している、ピアノの音。
 作曲者別に分けられているのか、奏が一番最初に聞いた曲は全てショパンの曲だった。革命、英雄ポロネーズ、幻想即興曲、子犬のワルツ、ノクターン、と聞きなれた、奏も一度は弾いたことのある曲ばかりが続いて、けれども、奏は衝撃に、身動き一つ出来なかった。
 以前、まだ人前で弾く事を止めていなかったころに聞いた兄の演奏に似ている。けれども、明らかに兄とは違った。兄の演奏に、さらに骨太さと力強さ、揺らぎの無いエキセントリックな大胆さが加わったような音だった。今まで、こんなピアノを奏は一度も聞いたことが無い。何度か、プロと呼ばれる人間の演奏会に足を運び、実際に生で演奏を聞いたことは何度もある。けれども、一度だって、こんな風に鳥肌が立って、指先が震えたことはなかった。何と言っていいのか分からない。技術的な問題ではなく、まるで、ピアニストとして、完膚なきまでに叩きのめされるような、そんな演奏だった。
 知らない音のはずだ。今まで聞いた記憶など無いはず。それなのに、なぜ。
 嫌でも自分の中に入り込み、まるで、細胞の核の部分まで浸食してくるようなこの感覚を奏は知っていた。知っている。生まれる前から、知っていたような錯覚さえする。ただ、漠然とした直感と本能で、奏は悟る。

 これは、『父』の音だと。

 何か見えないものに飲み込まれ、ただ、訳の分からない衝動に流されるように、奏は次から次へと、そのピアノの音を聞き続けた。聞けば聞くほど、恐ろしくなって、体の震えが止まらなくなるのに、それでもやめることができない。体が侵されていくのを知りながら、麻薬に手を出してしまう、そんな風だった。

 奏は、あまり、父の事を知らない。母も、兄も、父の事を尋ねると寂しそうな、痛みを堪えるような顔をするから、自然と、奏は父に関しては何も聞くことが出来なくなったのだ。プロのピアニストだということは知っていたが、家には、全く、父の演奏を録音したものが無かった。もともとが、生演奏に拘る、演奏家としては気難しいところのある人だったらしく、レコードやCDとして殆ど、自分の演奏を残さなかったと言うことだけは聞いていた。だから、公にも、父の演奏したものは全くと言っていいほど出回っていない。だからこそ、まるで、幻のように余計に天才として語られているのだと、都築が教えてくれたことがあった。
 そんな風だったからこそ、奏は、父を意識したことが今まで無かった。父としても、ピアニストとしても。兄が、父に拘っていたことも、だから、あまりピンと来なかった部分さえあったのだ。けれども、今ならば分かる。兄が父を尊敬していたことも、拘っていた理由も。
 次から次へと新しいテープを取り出し、ただ、ひたすらに、父のピアノを聴き続け、それも最後まで終わると、今度は、ビデオテープに手を出した。父の姿が、映っているのかもしれない、と思うと、奏の動悸は激しくなった。期待なのか、不安なのか、恐怖なのか、自分でも分からない。ただ、震える指でビデオテープをセットした。
 奏が予想したのとは違う、ごくごく、一般家庭の家の様子が最初は映し出された。二十代後半か、三十代前半かというような若い男性が、ニコニコと笑いながらこちらを向いている。多分、これが父なのだろうと思ったけれど、あまり、兄にも、自分にも似ていないなというのが第一印象だった。もともとが、響も奏も母親似なのだから、当然かもしれない。目元が誰かに似ている、と一瞬だけ考えて、すぐにその答えは知れた。大学に入学するまで世話になっていた恩師である都築に似ていたのだ。
 『もー! 克征(かつゆき)さん、ちゃんとしてよ! 』
 と、怒った様な、けれども半分笑っているような声がすぐ近くで聞こえる。これは聞き覚えのある、母の声だった。不意打ちで聞こえた、その懐かしい声に、ただでさえ平静さを失っていた奏は気持ちを揺さぶられる。明るい、日差しの差し込む家の中で、笑っている父。それをビデオに写している、楽しげな母。けれども、この幸福な光景が長くは続かなかったことを奏は知っている。
 父は、ふざけた様にピアノの前で一礼すると漸くピアノの前に座り、酷く気軽な様子でピアノを弾き始めた。けれども、その音は気軽さとは程遠い。気まぐれに、メジャーな曲を続けているだけなのに、奏は、その音と演奏している姿から目を離すことが出来なかった。
 トルコ行進曲、アヴェマリア、悲愴、トロイメライと続いて、奏が何とはなしに、子供向けの選曲のようだと思ったところで、ラカンパネラが始まり、奏はハッと息を呑んだ。聞きたくない、とどこかで思う自分を否定できない。けれども、もう一人の自分は聞きたい、と思った。多分、ピアニストとしての奏は前者で、二宮克征の子供としての奏は後者だったのだろう。
 今まで、自分が演奏してきた同じ曲が、まるで子供だましに思えるような、そんな演奏だった。震えは指先に留まらず、全身にまで及んでいる。恐怖に怯えているのか、感動に打ち震えているのか分からぬまま、それでも奏は目を逸らすこともできずにそれを見続けた。

 そして。

 ラカンパネラが終わった途端、さっと黒い影が画面の端を走ったのに気が付いた。何、と思うまもなく、それは父に飛びつくように抱きつく。小さな、小さな少年だった。
 『お父さん、僕、やっぱりお父さんのピアノ、すごく好き』
 と、その少年は綺麗な無邪気な笑顔で笑った。最初、奏は、それが自分かと思ったのだ。自分の、小さな頃の写真に酷く似ている。けれども、自分のはずが無い。ビデオの中の少年は、明らかに七〜八歳に見えた。父は、奏が二歳のときに亡くなっているのだから、どう考えても自分ではありえない。ならば。
 少年は、奏が一度も見たことのない、屈託の無い笑顔を浮かべていた。年相応の、幼い、無邪気な笑顔。それが誰か分かった途端に、奏は今までとは比べ物にならないほど激しく体を震わせた。
 知らない。奏は、今まで全く知らなかった。何も、これっぽっちも。
 『僕、お父さんみたいなピアニストになるね』
 と言って少年は、ひどく無防備に父に抱きつき、父もまた、最上に愛しいものを見つめる瞳で少年を抱きしめた。そこで、奏は、ブツンと唐突にビデオの電源を切った。これ以上、見る勇気は奏には無かった。
 『僕、お父さんみたいなピアニストになるね』
 と言っていた。無邪気な、子供らしい罪の無い少年だった。けれども、彼は殺されたのだ。殺したのは誰だと自分に問うて、奏はグウと踏み潰されて、ひしゃげた蛙のような呻き声を漏らした。
 『罪の無い、彼を殺したのは誰? 』
 と、誰かが耳元で囁いた気がした。それは奏の声であり、兄の声であり、父の声であり、そして、透の声でもあるようだった。
 泣く権利さえ自分には無いのだ。ただ、感傷に流されて自己嫌悪のままに泣くことなど許されていいはずが無い。ただひたすら、小さく小さく体を丸めて、蹲り、爪が折れるほどの強い力で床を掻き毟る。
 ピアノをやめる事が償いだと思っていた。ついさっきまで。何と生温いことを考えていたのだろうと、自分の甘さに反吐が出そうだった。そんなことで償えるはずも無い。いつかは、この指を折らなくてはならない日が来るだろう。けれども、それは、今ではないのだ。
 胸の裡に残る、綺麗な何もかもを奏は涙と一緒に全て打ち捨てる。身を切るような辛さは、この一瞬だけだ。どれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、顔を上げたときに、奏の頬は濡れていなかった。
 まるで、見えない力に突き動かされるように、奏は自分のポケットを探る。そして、一枚の名刺を探し出した。そこに記されている電話番号に、何の迷いも躊躇も見せず、電話を掛けた。
 出たのは、昼間聞いた声と同じ声だ。






「今すぐに、会って下さい」
 と、何の感情も、意思も、心さえ失った冷たい声で、奏は告げた。



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