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音の轍 - 12 …………


 さしたる事情も尋ねず、奏が拍子抜けするほどあっさりと面会を承諾した宇野辺衛は、わざわざ、奏の家の近くまで車で迎えに来てくれた。そのまま連れて行かれたのは、意外な事に衛のマンションだった。
 とにかく部屋数の多い広いマンションで、一体、何人暮らしなのだと奏が驚いて尋ねれば、衛はどこか皮肉めいた笑みを浮かべて、
「一人に決まってるだろう」
と答えた。
「で、一体、何の用事だって?」
 尋ねた衛の表情は、いつも見てきたそれとは、少し違う。酷く素っ気無く、等閑な感じがしたけれど、なぜか冷たいという印象は受けなかった。むしろ、肩の力が抜けた、気軽な親密ささえ感じて、奏は何とも言えない奇妙な居心地の悪さを感じた。
 多分、衛の家だからなのだろう。自分のテリトリーの中にいるから、かなり、素に近い状態で接している。だから、そんな風に感じるのだと奏は自分に言い聞かせた。でなければ、何も切り出せなくなってしまう。恋愛とは違う種類のものであろうとも、好意に近い何かや、親密さなど感じてはいけない。そんな甘ったるいものは、全て捨ててしまわなくては。
 だから、奏は、努めて平坦に、何の感情も覗かせないようにそれを告げた。決して長い話ではなかった。それを聞いた衛は、一瞬だけ眉間に皺を寄せ、だが、すぐにスッと全ての表情を殺した。オフとオンのスイッチが切り替わったような、そんな印象を受けて、奏は無意識に背筋を伸ばす。じっと、鋭い視線で見つめてくる衛から目を逸らさず、真っ直ぐに見返した。見詰め合うこと数秒。衛は、ごくごく自然な仕草でタバコを取り出し、火をつける。一度、ゆっくりと煙を吐き出し、それから、
「出来ないことはない」
と、静かな声で答えた。
「ウチのグループには不動産関係の会社もあるし、別の同業者に対する伝手もある。だから、やろうと思えば、お前が今言ったことはできるだろう。ただ、高くつく。下手をすると、ただ金を払うよりもな。それに見合う、見返りがお前に用意できるのか?」
 できないだろうと、あからさまに馬鹿にした表情で衛は尋ねた。それでも、奏は腹が立ったりしなかった。それは不思議な感覚だった。
 感情を抑えこんで、表に出さないのとは違う。数年前までは、そうしているとは自覚できないほど、自然に、奏は感情にブレーキを掛ける術を身に着けていた。自分がそうしているのだと気がついたのは、郁人と再会し、少しずつ、何かの殻を脱ぎ落としていくことが出来たからだ。
 けれども、今は、その数年前の感情を抑えこんでいた状態とも違う。挑発されても、馬鹿にされても、『湧いて』こないのだ。悔しいという感情が。自分の中が空っぽになってしまったような空虚な感覚。なんだろう、これは、と思いながら、奏は口を開いた。
「俺に出来ることなら何でもやります」
 陳腐な台詞だ。まるで、安っぽいドラマの台本を読んでいるような。
 恐らく、衛も同じように感じたのだろう。口の端をふっと上げて、馬鹿馬鹿しい、と言った風に笑って見せた。
「何でもやります、ね」
 奏の言葉を反芻し、それから、焦らすようにゆっくりとした仕草で煙草を吸い、わざとのように奏の顔に向かって煙を吐き出した。それでも、奏は腹が立たない。二度三度、酷く精巧な人形のようにパチパチと瞬きを繰り返す以外は、一切、表情を変えぬまま、衛の顔を見つめ続けた。
「参考までに聞きたいんだが。お前がそんな事を言い出した事情を尋ねたら、答えるか?」
 煙草の煙を追うように目線を少し上げて、さして興味も無さそうに衛が質問する。
「言えません」
と、奏は即答した。衛はその答えを予測していたのだろう。機嫌を損ねた風も無く、どこか皮肉めいた笑みを浮かべて、ふん、と鼻を鳴らした。それから、再び、奏の顔を見つめる。
「そういえば、以前、お前に断られた、例の現役音大生の企画の件な」
 唐突に全く関係のない事を話し出した衛に、奏は戸惑った。一体、どうして、その話が出てくるのだろうと、やはり、奏は表情を変えぬまま、何度か瞬きを繰り返した。
「代わりが見つかった。お前と同じ大学の、二学年上の女だ。いつも成績上位らしいから、お前も、名前を知ってるかもしれないな」
 だから、それがどうした、とは言わず、奏は微かに眉を顰める。それがさもおかしいことだとでも言わんばかりに、衛はくつくつと笑った。
「どうしてもプロになりたい、プロになるためなら何でもしますと、その女も言ったから、じゃあ、手っ取り早くメディアに露出するために、局の重役とでも寝て来いって言ったらな、どうしたと思う?」
 何となく、話の行き先がようやく見えて、奏は眉間の皺をますます深くした。たった今、自分が『試されて』いるのだと、その時になって気がついた。試されているのだ。目の前の男に。
「『プロになるためなら何でもします』と言った、その舌の根も乾かぬうちに、急に泣きじゃくって、そんなことは出来ません、そんなことをしてまでプロになりたいと思いませんときた。笑える話だろう?」
 そこで衛は、もう一度煙草を銜え、短くなってしまったそれを灰皿にギュッと押し付けた。それから、どこか芝居がかって見えるゆったりとした動きで顔を上げる。奏を真っ直ぐに見つめてくる瞳は、酷く楽しげだった。例えば、そう。蝶の羽を面白がって、一枚ずつ毟り取る子供のように。
 言葉では何も言わず、目が語っている。どうせ、お前も同じだろう、と。
 奏は、急におかしくなって、思わず笑ってしまった。彼は誤解している。彼だけではない。大体、誰も彼もが誤解しているのだ。二宮奏という人間を。だから教えてやった。
「俺だったら、そんなこと言いませんよ? 分かりましたと言って、寝てきます」
 ふわりとした笑みをその顔に刷いて奏が穏やかな口調で言うと、衛はピクリと眉を動かした。余裕のある笑みが、この時に、初めて崩れる。そして、急激に機嫌を損ねたように、険しい表情になった。だが、奏はそれを少しも怖いと思わなかった。だから、微笑んだまま、衛をじっと見つめ続ける。衛は、眉間の皺をますます深くして、奏を睨みつけた。
「…俺の知り合いに、テレビ局のプロデューサーがいる。父親がその局の重役をしてるボンクラ息子でな。こいつが、また、どうしようもない節操無しで、顔が綺麗なら男でも女でも構わないってヤツだ。お前なら、きっと気に入られるだろう。今から、呼び出してやるから、寝て来いよ。そうすりゃ、深夜番組の三十分枠程度ならくれるだろうさ」
 吐き捨てるように言われた言葉は、半ば予想していた内容だった。だから、奏は素直に頷く。頷いて、
「分かりました」
と答えた。自分が、馬鹿な事をしているとは思わなかった。自虐的だとも思わない。惨めだとも、浅ましいとも、ましてや自分が可哀想だとも思わなかった。込み上げてくるのは、実に下らないという馬鹿馬鹿しさにも似た感情だ。
 こんなことに、一体、どれだけの価値があるというのか。郁人も、響も、何て愚かなのだろう。体を、或いは心を切り売りしてまで守るようなものではない。それはむしろ、自分に対する侮辱や冒涜だと、なぜ分からなかったのだろう。怒りにも近い衝動が湧き上がってきて、けれども、奏は、すぐにそれを押し殺した。

 奏の答えを聞いて、衛が浮かべた表情は、痛みを堪えているような苦しげなそれだった。何かに失望したようにも見えたけれど。ほんの一瞬だったので、気のせいかもしれない。





 それからのことを、奏はよく覚えていない。否、覚えているけれども、それがまるで他人の記憶のようで、あまり、現実味が無いのだ。
 あの後すぐに、衛に連れて行かれたのは、どこか別の知らないマンションだった。随分と高そうなマンションで、奏は、場違いにも世界が違うなと、まるで子供のようにあちこちを観察していた。そのマンションの一番上に連れて行かれて、何の説明もなしに一つの部屋に放り込まれた。一番最初に出てきたのは、随分と若い男だった。と言っても、奏が『テレビ局のプロデューサー』という言葉からイメージしていた年齢よりも、ということで、恐らく、衛と同じか、少し下といったところだろう。男は、第一声に、
「へえ。話半分に聞いてたけど、ホントに綺麗な子だね」
と言うと、奏を値踏みするように上から下まで眺め回す。あまり、気持ちの良い状況ではなかった。
「どうぞ、上がって」
 促されて、靴を脱いで一歩を踏み出したときに、微かに自分の膝が笑っていることに奏は気がついた。何でだろうと、どこか曖昧な意識で疑問に思う。別に怖くは無い。不安も無い。辛くも、苦しくも無いのに、なぜ。
 男は、奏のそんな状態に目敏く気がつき、
「薬でも飲んでおく?」
と、からかうような表情で尋ねてきた。
「…薬?」
「君、こういうことするの、初めてなんだろ? 宇野辺に聞いたけど。まあ、物慣れない子を苛めるのも楽しんだけど、あんまりマグロなのもつまらないからさ。キモチ良くなる薬でも飲んでおく?」
 至近距離で顔を覗き込まれ、何と答えたら正しいのか分からずに奏は戸惑った。困ったように男を見上げていると、なぜだか、男は優しく笑いかけて、奏の腕を掴んで歩き始めた。怖くは無い。怖くは無いはずなのに。腕を引かれて入った部屋のソファの上に、別の二人の男が座っている事に気がついた途端、奏は立ち竦み、一歩も動けなくなってしまう。それに気がつき、腕を掴んでいる男は苦笑いを零した。それから、
「…ホント、宇野辺の考えてることはサッパリ分かんないなあ」
と、独り言を呟いたけれど。奏には意味が分からなかった。それから、もう一度、
「やっぱり、薬飲んでおく? 合法のヤツじゃないから、かなり強いけど。でも、そのほうが楽じゃない?」
と尋ねられる。やっぱり、何と答えていいのか分からずに、奏はぼんやりと男の顔を見上げた。
「体が気持ち良いとかじゃなくてさ。意識が朦朧とするから。その方が楽なんじゃないの?」
 そう言われて、奏は首を傾げた。不思議に思って男を見上げる。見下ろしてくる男の視線は、先程とは違い、あまり嫌な感じがしなかった。それでも、やっぱり返事が出来ないまま立ち尽くしていると、男は芝居がかった仕草で肩を竦め、ポケットから何かの錠剤を取り出した。それをピタリと奏の唇に押し付ける。
「飲みな」
 最後に命令口調で言われ、奏はゆっくりと唇を開いた。それを口の中で転がし、何かを断ち切るように奥歯で強く噛み潰すと、香りのきつい甘い味がした。それをそのまま、嚥下する。
 次第に、輪郭を失っていく意識。
 ベッドに寝転んだまま、ぼんやりと天井を見上げて、思い浮かんだのは兄の事だった。
 夢の中にいるみたいに、兄の事を思う。同じ事をしているときに、兄は何を感じ何を思っていたのだろう。一生懸命に考えたけれど、それでも、やっぱり、奏には分からなかった。ただ、愚かだと思う。『こんなもの』を守るために、身を削り続けるなど。

 していることと、考えていることが完全に乖離しているような異常な状態だと、奏は気がつかない。薬が効いているのか、言われたとおり、体は本当に気持ちが良かった。誰にどこを触られても気持ちが良い。何の抵抗をすることも無く、最初から、何もかもをかなぐり捨てて、ただ、言われたことを忠実に実行した。舐めろといわれれば舐めたし、しゃぶれといわれたらしゃぶった。声を抑えることなど、思いつきもしなかった。それでも、体の中に誰かが入り込んできた時だけは、はっきりと違和感を感じた。
 違う、感覚。
 当たり前だ。今まで奏は郁人としかセックスをした事がないのだから。郁人しか、知らなかったのだから。
 前から、後ろから、あるいは抱え上げられて、上に乗せられて何度も何度も揺さぶられて、快感に意識は朦朧としているのに、どうしてもその違和感が拭いきれず、嫌でも奏は郁人を思い出す。
(馬鹿な郁人)
と、体の奥を犯され、甘ったるい喘ぎ声を上げながら、ぼんやりと考えた。


 あの時、郁人に別れを告げたのは、郁人の気持ちを疑ったからではない。不思議と、奏は、一度も郁人の『奏が好き』だという感情を疑ったことは無かった。そうではなく、腹が立ったのだ。奏は馬鹿でも鈍感でもないから、おおよその見当はついていた。
 梓や、郁人の話から、郁人の父親がどういう人物なのか奏にも容易に想像がついた。そもそも、本妻の子供が事故にあったからと言って平気で捨て、愛人の子供を脅迫して取り上げるような人間だ。今回の事も、恐らく、相当強引な事を言って郁人を脅したのだろう。実際、郁人の兄、康人も、それらしいことを匂わせていた。
 郁人が奏から離れようとするとき、その理由はいつだって同じだった。『奏を守ろうとする』、それだけ。だから、奏が尋ねたときに、郁人は決して『別れた』とは言わなかったのだと、奏には分かっていた。
 けれども、奏は一度だって『守って欲しい』だなどと思ったことは無い。ただ、同じ高さで、対等に並んで歩いていきたかっただけなのだ。だから、郁人は何もかもを奏に話すべきだった。話して、二人で戦うべきだったのだ。
 それが出来ないのなら、別れるしかない。どこまで行っても交わることの無い価値観は、いつか、破綻する。そのことを郁人に教えたかった。そのための別れだった。
 けれども、今は、違う。いつか再び郁人の横に立って笑っている自分を、奏は、もう想像することができなかった。
 戻れない。
 怖くも無い、苦しくも無い、悲しくも無い。そのはずなのに。
 もう戻れないのだと思ったら、なぜか、天井がぼやけてきて、奏は慌てたように目を閉じた。


 閉じた瞼の裏に、鮮やかに浮かび上がったのは、見覚えのある、優しく笑う、郁人の顔だった。





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