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音の轍 - 13 …………


 どこか虚ろな気持ちで、ただ、ぼんやりと天井を見上げる。意識は正常な状態に戻りつつあったけれど、それを敢えて無視して奏は気だるそうに、体を投げ出したままだった。一体、どれくらいの時間が経過していたのか分からない。分からないけれど、別にどうでも良かった。
 自分が、家に帰らなくとも、何も変わらないことを知っている。奏を待っている人間は、今や、誰一人といないのだ。その事に、痛みや寂しさを感じないように奏は注意深く、思考を漂わせる。誰も心配する人がいないのだから、時間を気にする必要など無いと、気楽さだけを拾い上げようとしたけれど、上手くいっているのかいないのか、それさえ良く分からなかった。
「大分、クスリ抜けた? 5時間近く経ってるから、抜けてるはずなんだけど」
と、頭上から声がする。覗き込んできた顔は、見たことがあるような、無いような顔だった。
「シャワー浴びる?」
 数時間前まで繰り広げられていた乱交など、微塵も感じさせない、ごくごく自然な表情と口調で言われて奏は錯覚する。もしかして、あれは、夢だったのだろうか、と。
 けれども、夢でないことを奏の体が教えていた。あちこちに残る、鈍いだるさ。下半身は、腰から石でもぶら下げているかのように重かった。だが、案外、痛みは無い。傷が付いている感じは殆ど無くて、奏は、少しだけ、それが意外だった。
「…いえ。まだ、ちょっと、立てないと思うから」
 話しかけてきた男とは目を合わせず、ただ、ぼんやりと天井を見上げたまま奏が答えると、ギシ、とベッドが軋む音がして、すぐ傍らに男が座った。本能的な、条件反射に近い反応で、奏がギクリと体を震わせると、男は苦笑いを漏らしたようだった。
「もう何もしないよ。後の二人も、もう帰ったし。少ししたら、送ってあげる。シャワーは無理に浴びなくても平気でしょ。汗かいた程度だし」
 そう言われて、今更のように奏は気がつく。確かに、体はさしてベタついていないし、自分の汗の匂い以外には、嫌な匂いもしなかった。誰かが体を拭いたのだろうか。けれども、その記憶は残っていない。意識が朦朧としていたから、気がつかなかったのだろうかと、ただ徒然に考えていると、やはり男は微かに体を揺らして苦笑いしたようだった。
「朦朧としてて気がつかなかった? 中出しもしてなければ、顔射もしてない。完全完璧なセーフセックス。全員、ゴムしてたから、大して汚れてないはずだよ」
 男は面白がっているような口調でそう告げた。奏は、ようやく、その時になって、え、と視線を男に移す。真正面から合わさった視線は、どこか奏をからかうような軽い雰囲気を漂わせていた。
「宇野辺からの厳命だったんだよね。つーか、失礼なヤツだと思わない? 俺たち、病気なんて持ってないっつーの。ついでに教えてあげるとね、『絶対に傷をつけるな』とも言ってたよ。その癖、生意気な鼻っ柱を叩き折る程度には苛めとけ、とか言うし。ホント、相変わらず、無茶言う」
 くつくつと楽しげに笑いながら、男は上から奏の顔をじっと見下ろした。奏は、その段になって初めて、男の顔を改めて認識する。どちらかというと、中性的な雰囲気の男だった。物腰も柔らかそうで、けれども、不思議とどこにも隙が無いことに奏は気がつく。隙が無い。ふざけたような表情をしているのに。
「とりあえず、服着て。それから、君が一番最初にしなくちゃならないことは、俺の名前を覚えること。分かった? 『二宮奏』くん?」
 言葉と一緒にバサリと上から服が落ちてくる。
「柴原隆志(しばはらたかし)」
 最後に、一言、自分の名前だけを告げると、男、柴原は奏を置いて寝室を出て行ってしまった。


 ノロノロとだるい体を動かし、ようやく服を着てから奏が寝室を出ると、柴原はリビングのソファに座って、何かの書類に目を通していた。先程までの気軽な雰囲気とは打って変わって、酷く難しい顔をしている。声を掛けて良いのか分からず、奏がドアの辺りで立ち止まっていると、柴原は視線もよこさず、ただ、
「コーヒーでも飲む?」
と尋ねてきた。
「いえ、いりません」
 奏が戸惑いながら答えると、
「そう、じゃ、隣座って」
 やはり、視線もよこさないまま命令された。仕方無しに、奏はゆっくりと柴原に近づき、人一人分の距離を置いて、隣に座った。
「短期間で、一気にメディアに露出させるから」
「え?」
「だから、君の事。『やるからには、元を取るからな』。宇野辺からの伝言。どういう意味か、君なら分かるのかな?」
 尋ねながら、柴原は何かの紙切れをスッと奏に差し出した。何だろう、と思いながら受け取り、確認すると、二枚の名刺だった。一つは奏も聞いたことのある、大手の広告代理店の企画室室長、という人物の名刺で『門真進(かどますすむ)』と書いてあり、もう一枚は、やはり聞いたことのある芸能プロダクションのプロモート部門部長、という肩書きの『山田拓弥(やまだたくや)』という人間の名刺だった。
「あの…? これ、何ですか?」
「君が、昨日セックスした残りの二人の名刺。こいつらの名前も覚えてね。これから、嫌でもちょくちょく顔を合わせることになると思うから。まさか、あいつらも、こんな『面通し』されるとは思わなかったらしいけど?」
 苦笑いしながら柴原の言った言葉の意味が分からず、奏は、問いかけるように柴原の顔を見上げる。すると、柴原はようやく奏のほうに顔を向け、じっとその顔を見つめた。酷く真剣な表情で見つめてくるので、奏は目を逸らすことができなくなってしまう。しばらくそうして、見詰め合っていると、柴原は凪いだ表情で口を開いた。
「別に、宇野辺の事は宇野辺の事だからどうでも良いんだけど。どうしても釈然としなくて気持ち悪いから、幾つか君に質問する。答えられる範囲で答えてくれる?」
 有無を言わせぬ口調で問われ、断る術も無く奏は戸惑った表情で首を縦に振った。
「逃げ出したら、絶対追うな」
 その時になって、初めて、微かな苛立ちのようなものを滲ませて柴原は唐突に呟いた。
「え?」
「宇野辺が一番最初に出した注文だよ。君がね、やっぱり怖くなって逃げ出したら、追うなって言ったんだ。苦虫を噛み潰したみたいな声でさ。だから、俺は、本当は宇野辺は君に逃げて欲しかったのかなって、ちょっとだけ思ったんだけど。君は逃げなかったね。どうして?」
「…テレビに出て、有名になって、お金が欲しいから」
 一番近い理由を、けれども核心に触れないように答えたら、柴原は声を立てて笑った。
「君、嘘が下手だね。それじゃ、この世界でやっていけない。君が言ったように、本当に有名になってお金を稼ぎたかったら、とにかく、嘘が上手に吐けるように努力することだ。じゃ、次の質問。君は、宇野辺がどれくらい君に入れ込んでたか知ってる?」
「え?」
「スカウトされたりしたんじゃないの?」
「…前に、一回だけ…現役音大生ピアニストの企画がどうとか、そんな話はしました」
「その後に、まったく、一から別のプランを考えていたのは知らない?」
「え?」
 何の話か全く分からずに、奏がきょとんとした顔で見上げると、柴原は呆れたような顔で肩を竦めて見せた。
「知らないか。ま、宇野辺もホイホイ確実じゃないことを口に出すヤツじゃないしな。じゃ、こっからは企業秘密を教えてあげるよ。
 宇野辺はね、君の事を、本格的にプロのピアニストとして売り出すつもりでいた。今の事じゃない。三年後、君が大学を卒業してからの予定だった。三年間は、音大でしっかり学んでもらって、その後に、腰を据えて、長期的にじっくりと育てる気でいたんだ。
 もともと、クラッシックというジャンルは、そうジャンル人口が多いわけでもないし、例えば、ポップスだのロックだのに比べると儲からないジャンルなんだ。だから、宇野辺の会社みたいに、むしろ大きい会社じゃ蔑ろにされがちなジャンルでね。皮肉だよね。本当は宇野辺が一番力を入れたいジャンルなのにさ。
 でも、宇野辺は君を使って本格的に力を入れるつもりでいた。顔の良い現役音大生を連れてきて、アイドルみたいに売り出すなんて、そんな安っぽい企画じゃなくて、十年後に結果が出るような、きちんと地に足が着いたようなやり方でね。
 その時になったら協力が必要だからって、俺たち三人は宇野辺に秘密裏に頼まれていた。時機が来たら、面通しもしてやるって、少しだけ子供みたいな嬉しそうな顔で言ってたけど。結局は、こんなことになってしまったね」
 そこまで聞いて、奏はようやく悟る。今、目の前の男が、なぜ苛立ったような口調でそれを告げているのか。つまり、奏は、そんな宇野辺の真剣な情熱を、踏みにじったのだ。表面上だけを見れば、実に軽薄で、しかも浅ましいやり方で。
「ついでだから言っておこうかな。これ言うと、きっと、宇野辺は怒るだろうけど」
 柴原は、顔を心持ち上げて、少しだけ遠いところを見ながら独り言のように続ける。
「君、お兄さんいるでしょう?」
「……います…けど…それが、何か…?」
「二宮響って名前なんじゃない?」
「…そう、です」
「君達、兄弟して宇野辺に同じ事したんだよ」
「え?」
「宇野辺はでっかい会社の跡取りになることが決まってるヤツでさ。でも、まだ、学生の頃は青くて、夢とか諦めてなかったんだよね。プロのピアニストになるって夢だったんだけど。
 まあ、それも、年を取るにつれて、実現不可能だって、色んな意味で分かってくるワケ。それでも、諦め切れなかったんだろうね。やっぱり、ピアニスト、ってヤツに拘っていて、自分がなれないなら、誰か別の人間を代わりにプロデュースしたいって思い始めた。その誰か、ってのが君のお兄さんだった」
 思いもよらぬ事実を告げられ、奏は何も言うことができない。ただ、口を硬く引き結んで、じっと柴原の顔を見つめ続けた。柴原は、真っ直ぐに奏を見つめ返す。その中にある、欺瞞や、虚飾を全て暴こうとでもしているかのように。不意に、柴原の眉間に皺が寄る。不快や、苛立ち、というよりは迷い、に近い表情だった。
「…何の因果かと思うけど。宇野辺がね、ピアニストの夢を持ったきっかけは『二宮克征』っていうピアニストに憧れたからだよ。君は…君と、二宮響は彼の息子だろう?
 俺は、正直言って、宇野辺ほど、君の才能を買ってるわけじゃない。多分に贔屓目が入っているんじゃないかって疑ってる。でも」
 そこで一旦言葉を切り、柴原は、分厚い書類を奏に差し出した。表紙には、硬い文字で『契約書』と書いてある。奏は、それをしばらくの間じっと見つめ、それから目を閉じた。目を閉じたまま、もう一度、自分の中の色々なものを追い出そうとする。微かに湧き上がってくる、恐怖や、怯えのようなものが煩わしくて仕方が無かった。
 それらを振り切るように、パチリと目を開け、そしてそれを受け取る。受け取った瞬間に、柴原が零した小さな溜息の意味が、奏には分からない。
「君が決めたなら、本当にやるよ。一年後にはこの国の人間の9割が『ピアニストと言えば二宮奏』と連想するような、そんな人間に、君を『作り上げる』」
 柴原は、答えを待つように奏の顔をじっと見つめた。
「それで、良いんだね?」



 問いかける瞳をじっと見つめ返し、奏は、はっきりとした声で、
「はい」
と答えた。


 



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