音の轍 - 14 ………… |
講義室に入り、窓際の、後ろから三番目の席に座っている人物を見つけた途端、宇野辺美菜はハッと息を呑んだ。彼を見るのは、下手をするとかれこれ一ヶ月ぶりだ。嬉しさに、一瞬だけ駆け寄りそうになり、けれども、すぐに躊躇する気持ちが湧き上がってくる。 講義室の中は、まだ、人影がまばらだ。もともと、必須科目ではない講義で、その上、出席も取っていない。けれども美菜は、彼、二宮奏が決してその講義をさぼっていないことを知っていた。 もともとが酷く生真面目な性格で、何もそこまで、と美菜が思うほど講義だとかレッスンだとかに対して手を抜いていなかったのだ。だからこそ、妬み嫉みによる陰口が抑制されていた部分があったけれど、今は、それが無くなってしまった。 だから、今、彼の立場は、大学内では酷く危うい。好意的な目で見ている人間など、殆どいないだろう。 それまでの態度が嘘のように、奏が大学をさぼりがちになったのはここ一ヶ月ほどの事だった。選択科目はおろか、個人レッスンさえ欠席しているという噂も聞いた。家庭の事情だとか、病気だとか、そう言った理由なら他人も中傷しにくかったのかもしれないが、そうではない。そうではないことを、恐らく、学科の人間は全員知っていた。 美菜が、奏をブラウン管の中で初めて見たのが丁度一ヶ月前で、それから、雑誌だの街頭の宣伝ポスターだので頻繁に見るようになった。プロのピアニストというにはおこがましいような、おかしな売り出し方に、奏に対しては好意を抱いている美菜でさえ首を傾げるほどだった。 あれでは、ただの安っぽい、使い捨てのアイドルタレントではないかと彼に嘲笑を向けている人間も少なくはない。 その上、仕事を優先させて学業をおろそかにし始めては、学友の誹りを免れなかった。もちろん、教授たちの心証もあっという間に急降下し、頻繁に呼び出しを受けているようだが、それも、無視しがちだという話だった。 美菜には、さっぱり分からなかった。夏休みに入る前は、何も変わりが無かったのだ。真面目で、真っ直ぐで、屈託無く笑う少年らしさを残していた魅力的な青年だった。それが、なぜ。 自分の才能に無頓着で、プロになる気は無いと本気で言うようなところは確かにあったけれど、それでも奏がピアノを心底愛していたことも美菜は知っていた。むしろ、心底愛していたからこそ、プロという道を避けていたのではないかと美菜は思っていたくらいだ。 けれども、今の奏の行動は、それと全く正反対だ。どうしてそんな風に変わってしまったのだろう。ふと、兄の顔が浮かぶ。一度、兄をそのことで問い詰めたことがある。兄、衛のせいで、奏があんな風になってしまったのではないかと。そしたら、なぜか、奏が横から出てきて、 「違う。宇野辺さんのせいじゃないから。俺が自分で決めた。だから、美菜。宇野辺さんを責めないで」 と庇ったのだ。なぜ、兄のマンションに奏がいるのか分からず、美菜が尋ねれば、今、一緒に暮らしているという話だった。仕事をする上で都合がいいからだと二人は言っていたけれど、それがいかにおかしな話か美菜にだって分かる。第一、今まで、何人も力を入れて売り出したミュージシャンはいたのだ。だが、その中の誰一人として、衛のマンションに住んだことなど無かった。けれども、美菜がいくら尋ねても、半ば責めるように問い詰めても、二人は決してそれ以上の答えを美菜にはくれなかった。 それでも、美菜は、まだ信じている。奏の本質が変わったとはどうしても思えないのだ。もしかしたら、それは、半分は自分の願望かもしれないけれど。それでも美菜は、以前のような、奏の屈託の無い明るい綺麗な笑顔が見たかった。 だから、今、美菜が奏に向かって一歩が踏み出せないのは、周囲の噂や非難が気になるからではないのだ。そうではない。そうではなくて、奏がその周囲に、寄るな触れるな、という鋭いオーラを放っているからだった。 窓際の席に腰掛け、広げている専門書を睨みつけるように捲っている。そして、その耳にはイヤホンがつけられており、何かを熱心に聴いているようだった。外界からの視覚も、聴覚も、全てを拒絶しているかのようで美菜はどうして良いのか分からなくなる。それでも、勇気を出して奏に近づいた。 「カナちゃん」 と小さな声で呼びかけたけれど、聞こえないようで無視される。今度は、少し大きな声で、 「カナちゃん、隣、座っても良い?」 と尋ねたけれど、やっぱり無視された。美菜は少しだけ迷い、それから、スッと手を伸ばした。以前なら許された、気軽な行為だ。奏のイヤホンにそっと手を触れ、それを外そうとしたのだ。だが、美菜の手が微かに触れた途端、奏は大袈裟なほど体を揺らし、弾かれたように美菜から離れ、思い切り窓の方に体を寄せた。過敏としか思えない反応に、美菜は目を見開く。奏は視線を移し、それが美菜だと知ると、どこか疲れたような力の無い苦笑いを漏らした。それで、美菜は少しだけほっとする。確かに疲れているようには見える。けれども、まだ、『以前の奏』だと思ったのだ。 「……美菜か。びっくりさせるなよ」 と、返される言葉は変わらない気軽な口調だ。けれども、何か違和感が残る。奏はそれ以上は何も言わず、そっと、大切なものを扱うようにイヤホンを外した。この居心地の悪さは何だろうと思いつつ、美菜は言葉を探す。今まで、奏といて、間が持たずに言葉を探すなどということがあっただろうかと思いながら。 「あの……えっと、何聞いてたの?」 手持ち無沙汰に、イヤホンを弄っている奏に美菜は尋ねる。すると、奏は曖昧に、 「え? ああ、うん……」 と言葉を濁した。すぐに落ちる沈黙に美菜は息苦しくなる。 「聞いても良い?」 と明るい声でイヤホンを借りようとした途端だった。奏は、まるでそれが盗まれるとでも思っているかのように慌てて引っ掴むと、自分の体の向こうに押しやってしまった。 「……悪いけど……すごく大切なものだから」 目を逸らされて、そんなことを言われてしまえば、美菜は何もいえなくなる。まるで、体全体で拒絶されているようで、酷く傷ついた。きっと、奏も、それに気がついたのだろう。 「……美菜」 と、酷く柔らかい声がした。恐る恐る奏の目を見れば、どきりとしてしまうほど優しい眼差しがあって、美菜は戸惑う。けれども、奏が言った言葉は必ずしも嬉しいものではなかった。 「もう、俺に話しかけてくるなよ。俺の噂、知ってるだろ? 俺と一緒にいると……美菜まで悪く言われるかもしれない。そんなの、俺は、嫌だから」 以前の美菜だったら、きっと憤慨して、馬鹿にするなと怒鳴っただろう。奏を悪く言うやつなんて馬鹿だアホだと美菜の方が言われた本人のように怒ったに違いない。 けれども、今は、それが出来なかった。美菜を見る奏の目が、あまりに優しくて、悲しかったからだ。なぜ、優しく見つめられて悲しいなどと思うのだろう。でも、美菜は悲しかったのだ。だから、素直に、頷いた。 「……カナちゃんが、そうした方が良いって言うなら、分かった」 今は、そうすることしか美菜には出来ないのだとどうしてか思って、奏から離れようとする。数歩踏み出したときに、背中で、 「……なんか、『カナ』って久しぶりに呼ばれた気がする」 と奏が呟いたのが聞こえたけれど。すぐに講義開始のチャイムが鳴り、その意味を確認することは出来なかった。 少し離れた席に座り、他の無関係の他人と同じように遠巻きに奏を見つめる。奏は講義が始まったというのに、再びイヤホンを耳につけ、何かを真剣に聞いているようだ。机の上の専門書とノートを睨みつけているけれど、その視線はなぜか遠い。ずっとずっと遠い何かを見つめているようだった。 そして。 その存在も、どこか遠いところにあるようで、美菜は胸が痛む。そのまま奏を見ていることが出来ずに、そっと視線を離し、黒板に目を移した。 「とにかく上手に笑うことだよ」 と、柴原には言われた。 「何を言われても、馬鹿みたいに笑っていれば良い。君は顔が綺麗だから、それだけでどうにかなるだろうさ」 と、小馬鹿にしきったことを言われても、奏は腹が立たなかった。 「あとは、とにかく逆らわない。言われたことにハイハイと素直に返事をして、後はひたすら、よろしくお願いしますと頭を下げていれば良い。簡単だろう?」 まるで奏を挑発するように、その顔に嘲笑を浮かべて柴原は奏を見たけれど、それでもやはり腹が立たない。今教えてもらったばかりの事を実践するべく、にっこり笑って、 「はい。分かりました、よろしくお願いします」 と頭を下げたら、柴原は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になり、それからすぐに、その表情を歪めて不快感もあらわにした。 「君は本当に腹の立つ子だね。まあ、宇野辺との約束は約束だから、仕事に私情は挟むつもり無いけど。とりあえず、最初はトーク番組に何度か出てもらって顔を売るから。もしかしたら、幾つかバラエティ番組にも出すかもしれない。笑えるね。ピアニストとして売り出すのに、音楽番組より、娯楽番組に出るなんてさ。おかしいと思わない?」 すっと顔を近づけて問われても、奏には答えようが無い。そもそも、この業界のシステムなど全く知らないし、奏が望んでいるのは表向き『金を稼ぐこと』だから、それさえできれば、別にピアノなど弾かなくても構わないのだ。 だから、素直に、 「そうですね、おかしいですね」 と笑ったら、ますます、柴原は機嫌を悪くした。どうしてそれで機嫌を悪くするのか奏にはさっぱり分からない。多分、彼には嫌われているんだろうなとぼんやり考えながら、初めてのテレビ番組と、コマーシャル撮影と、雑誌のインタビューを終わらせた。 その間中、どこか、別の人間が自分の体を使って動いているような違和感が付きまとっていた。これは一体、誰だろう、とテスト撮影で見せられた自分の姿に疑問を抱く。ただ、ニコニコと見知らぬ顔で笑っている青年。彼は、なぜ、ここにいるのだろうと思いながら、ただ、言われた通りに動き、話した。 「天才ピアニストの息子として生まれたけれど、その父親は小さな頃に事故で亡くなった。母子家庭ながら家族で支えあい、ピアノの才能を開花させた。麗しい家族愛ってトコにポイントを置いて美談で売り出すって感じかな」 と、芸能プロダクションの部長だという山田拓弥は言い、奏にはそう振舞うように命じた。だから、何かを話すときはそれを念頭にさえ置いておけば、別段難しいことは無い。ただ、どうしても、嫌なしこりのようなものがどこかにあるのは否めなかった。自分の過去を切り売りして、家族との絆さえも安っぽく演出して汚しているような不快感。けれども、奏はそれさえ見て見ぬ振りで頭の中から捨て去った。 「経済的に恵まれなかったけれど、それでも努力して頑張った健気な少年ってことだから。身辺には気をつけてくれよ。スキャンダルとかは当然、ご法度。例えば…男の恋人がいるとか、そういうのは問題外」 付け足すように柴原に言われて、奏はその時、え、と顔を上げてしまった。身に覚えがあったからだ。 「だって、君、男とセックスするの、初めてじゃなかっただろ?」 苦笑いした山田に指摘されて、奏は今更のように、ああ、そうなのだと実感した。自分は、この目の前にいる男たちに体を売ったのだと。 けれども、何の感慨も生まれはしなかった。自分がまるで人形か何かになってしまったように、苦しいだとか、辛いだとかいう感情が湧いてこないのだ。 そんな状態のまま、とにかく言われたことを確実にこなしてきた。一体、幾つの撮影をして、いくつのインタビューを受けたのかも分からない。それ位、忙しかった。でも、その方が余計な事を考える暇が無くて、むしろ良かった。時間のロスを無くすために、衛の住むマンションに移り住むよう言われても、特に異論を唱えることも無く頷いた。どうせ、住む場所を変えたところで、誰も困る人間などいないのだ。それどころか、奏がいなくなったことに気がつく人間さえいないかもしれない。 だから、今、奏は衛と一緒に暮らしている。 衛も不思議な男だった。仕事以外は、全く奏に無関心かと思うと、時々、ふらりと奏の借りている部屋に来て、セックスをしたりする。けれども、大抵、そうやってセックスした後の衛は、酷く機嫌が悪かった。 衛だけではない。何度か、山田や柴原に命令されて、初めて会う人間と一度きりのセックスをした事もある。その頃には、もう完全に奏の感覚は麻痺していたので、それさえ、他の撮影やインタビューと同じ『仕事』という感覚しか抱けなくなっていた。あやつり人形のように、ひたすら言われた通りに動く。 それでも、一つだけ、手放さないものがあった。肌身離さず、奏はそれを持ち歩き、暇な時間が少しでも見つかれば、イヤホンを耳に付けてずっとずっとそれを聞いている。それは何かと誰に聞かれても、決して答えを教えたことが無い。これだけは、誰にも明け渡さない。今、唯一つ縋りつくことのできる大事なものだからだ。これがあれば、決して忘れたりしない。 麻痺した心の中に残っているのは、ただ一つの決意だけだ。 |