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音の轍 - 15 …………



「やっと、ピアノを弾く番組に出られるよ」
と、柴原に言われたのは、奏がこの業界に足を踏み入れて二ヶ月近くが経った時だった。笑えることに、それまで、奏は一度たりとも人前でピアノを弾いたことがなかった。現役音大生ピアニストとしてデビューしたはずなのに、だ。あまりにおかしくて、笑ってしまった奏に、柴原も、山田も、衛も何も言わなかった。広告代理店の幹部だという門真は、
「これから君が出演する予定のCMには、全て、君のピアノの演奏を使うから」
と、それだけを教えてくれた。少しずつ、何かが動いているような気配があったけれど、奏の内部では何も変わっていなかった。ただ、言われたことを、言われたままにするだけだ。だから、その時も素直に頷いた。
「深夜の短い枠の音楽番組だけど、質は良い。広いジャンルの実力者を知名度に関わらず連れてきて、演奏させ、落ち着いたトークをさせる。初めて、ピアノを弾く場所としては、かなりマシだ」
 どこか投げやりな口調で衛が言って、奏はやはり、素直に頷いただけだった。
「時間は五分から十分程度。お前の好きな曲を弾けば良い」
 それにも奏は頷いて、ふと視線を窓の外に移した。見えるのは夜の暗闇に浮かぶ、幾つもの街の灯りだ。打ち合わせをするのは、大抵、衛のマンションで、この日もそうだった。高層マンションの屋上から見える景色は確かに素晴らしいけれど、今の奏には何の感慨も与えなかった。ただ感じるのは作り物の美しさに対する空々しさだけだ。今の自分に、どこか似ているようで、奏はそれをじっと見つめ続けた。
「……ラ・カンパネラ」
と、呟くように奏が零すと、え、と柴原たちは顔を上げた。だが、衛だけは少しだけ反応が違った。眉間に皺をよせ、どこか厳しい表情になったのが視界の端に映り、奏は首を傾げる。
「ラ・カンパネラを弾いても良いですか?」
と、今度ははっきりした声で奏が尋ねると、なぜだか衛以外の三人は驚いたように顔を見合わせた。何か、おかしなことを言ったのだろうかと、奏が口を噤むとそれに気がついた柴原が苦笑いを漏らす。
「初めてだね。君から、何かしたいって提案するの」
「え?」
「初めてだよ。君は何がしたいとも、嫌だとも、今まで一度も言った事がなかったから」
 そう言われて、奏は初めてその事実に気がついた。だが、当たり前といえば当たり前なのだ。第一、一番最初に逆らうなと言ったのは柴原だったではないかと奏は訝しげな顔をする。
「宇野辺。別に構わないだろ?」
と山田が尋ねると、衛は面白く無さそうに煙草を取り出し、それから、
「ああ」
とぶっきらぼうな口調で答えた。
「なんで、ラ・カンパネラなんだ?」
と、門真に尋ねられ、奏は答えに困る。とりたてて理由があったわけではないのだ。ただ、何となく浮かんだ曲名なだけだった。なぜ、それが浮かんでしまったのか、その理由は考えない。『今は』、考えてはいけないことだからだ。
「別に理由なんてありませんけど」
「そう? まあ、どうでも良いけど。じゃあ、その曲で構わないから。本番は、失敗するなよ」
 自分で尋ねておきながら門真はさして興味も無さそうに引き下がる。奏は、コクリと頷くと、やはり、窓の向こうの夜景をひたすら見つめ続けた。
「ラ・カンパネラか。お前の兄貴が得意だった曲だな」
と、どこか嘲るような衛の声がする。窓に映った彼は、じっと、奏のほうを見つめているようだったが、奏はそれには気がつかない振りをした。そして、小さな声で、呟くように、
「知りません。そんなこと、忘れた」
と答える。それが聞こえたのか、聞こえなかったのか。衛は呆れたような小さな溜息を一つ吐くと、奏から視線を外した。
 窓の向こうに見える幾つもの灯りは、ともすれば、すぐ近くにあるかのような錯覚を起こさせる。ふと、手を伸ばそうとして奏はすぐに止めた。届くはずがない。あれは、ずっとずっと遠くにある灯りだ。そのどれ一つとして、奏のものではないのだから。
 ただ、今、必要なもの以外には全て目を伏せて、奏はじっと、自分の手を見つめた。この手が、指が好きだと言って何度も触れたのは誰だったか。ふと思い出しかけたそれを、無理矢理に心の奥に閉じ込めて、奏は、そっと目を閉じた。




 撮影そのものは、既に何度も経験していたので、大体はどういうものなのか理解している。それでも、その日は、何かが違った。幾つもの眩しい照明。精巧に作られたセット。幾つもの撮影機材。ただ、真ん中に、グランドピアノが据えられていることだけがいつもと違った。
 ここでこうして、その次にこうなって、と段取りを話してくれている局の人間の言葉に、はいはい、と素直に頷きながら、どうしても、奏はそちらに視線が流れてしまう。
 人前で、ピアノを弾くのは一体、どれ位ぶりなのだろうかと思い出そうとしたが、どうしても思い出すことが出来なかった。
 衛が、奏の部屋に一台ピアノを置いてくれているし、部屋には完全防音が施されていたから、一人でなら何度もピアノを弾いている。あれを『弾いている』と言って良いのか迷うところだが、鍵盤を叩くことを『弾く』と定義するのなら、確かに弾いていた。
 奏にとってピアノを弾くことは、ごく自然な事で、呼吸をすることと同義だった。だから、その喜びや幸福をわざわざ考えてみたことなどなかった。だが、今は違う。弾かなくてはならないから弾く。今まで、こんな気持ちでピアノを弾いたことなど無かった。
 何も知らなかった頃の自分が、いかに大きな幸福を手にしていたのか、奏は最近になって今更のように理解できた。だからこそ、大きな犠牲が払われていたのだろうということも。
「まあ、生放送じゃないし、撮り直しはきくから。緊張しないで、適当にやってよ」
と、どこか奏を軽視したような笑みを浮かべて話しているのは、確か、ディレクターだと紹介された男だった。機械的に、薄っすらと笑みを浮かべて、奏はもっともらしく頷いた。
「わかりました。ありがとうございます」
 自分がなぜお礼を言うのかも分からず、それを口に出す。それを聞いて、男は口の端を嫌な風に上げた。
「君、さすがに、綺麗な顔してるよね。ピアニストじゃなくてアイドルにでもなった方が良かったんじゃないの? ああ、まあ、今もそんなもんか」
 嫌味や皮肉にも、奏は腹を立てることは無い。ただ、変わらぬ笑顔を貼り付けたまま、
「そうですね」
と肯定した。男は鼻白んだように眉間に皺を寄せ、それから、フンと小馬鹿にしたように笑う。男の腕が伸びてきて、奏の肩を掴んでも奏は何も感じなかった。恐怖も不安も、嫌悪感も無い。
「Uミュージックの専務の愛人だって話は本当?」
 見つめてくる目にはあからさまな蔑みがあった。それでも、奏は傷つかない。ただ、どう答えるのが正しいのか分からなかったので返答に迷った。肯定すれば良いのか、否定すればよいのか。こういった場合の『模範解答』を奏はまだ知らない。だから、ただ、じっと男の顔を真っ直ぐに見つめていると、男は怯んだように嘲笑を引っ込め、慌てたように奏の腕を離した。
「……なんだよ、お前」
と、男が小さく呟く。なぜ、男がそんな態度を取るのか奏は分からずに首を微かに傾げたそのタイミングで、向こうから声が掛かる。
「二宮さん! スタンバイお願いします!」
 呼ばれて、奏は目の前の男に一度だけ会釈をした。それから踵を返してピアノの方に向かう。奏の目に入っているのはピアノだけだ。周りを慌しく動き回る様々な人間は一切、意識に入ってくることが無い。雑音も同じだ。
 今、奏の頭の中にあるのは、たった一つの音だけ。まるで、自分が精巧な再生機になったかと思うほど、鮮やかに、高らかにその音が鳴り響いている。ピアノの前に座って、奏は一つ、大きく息を吸い込んで、それから吐き出した。
 今まで、ずっと、ピアノを弾いてきた。都築という教師に教わったこともあるから、自分の思った通りにだけ弾いてきたわけではないけれど、それでも、奏は、ピアノの前に座れば自由だった。鍵盤を叩いているとき、奏は、ただ自由に、自分の奥にあるものをそこに乗せれば良いだけだった。だが、今は違う。『弾かなくてはならない音』が頭の中にある。気がおかしくなってしまったかと思うほど、その音が頭の中で鳴り響き共鳴して反響し続けている。それをいかに正確になぞるか。それだけに奏は意識を集中して、そっと鍵盤の上にその指を置いた。

 最初の音が滑り出すと、あとは、奏の制御の範疇を外れてしまった。何かが乗り移ってしまったのかと思うほど、指が勝手に動く。気が狂うほど、ずっとずっと聞き続けていた音。それを、今、奏は再現している。これを弾いているのは自分ではないのだと、鍵盤を叩きながら奏は思った。どこか上のほうで、自分を他人のように見下ろしている自分がいた。まるで、自分が機械になって、別の場所から誰かが自分を操作しているような感じだった。それなのに、何かが流れ込んでくる。音と、言葉にならない感情。凄まじい勢いで奏を攫い、押し流してしまうような激しい奔流。抗えない力に引っ張られるように、奏の指は止まることなく、何の迷いも無く動き続けた。頭の中を過ぎるのは、様々な事だ。初めて兄の演奏会を見たときの映像。その音。自分がピアノを習いたいと言った時の母の複雑そうな表情と、兄の照れ臭そうな笑顔。初めてピアノを弾いて聞かせたときの梓の優しそうな瞳。奏は本当は情熱的なんだと言った透の顔。兄の音を真似てはいけない、自分の音を見つけなさいと諭した都築のこと。ピアノを弾いている時の奏が好きだ、この指が好きだとキスをした時の郁人。だが、一番、はっきりと脳裏に思い浮かんだのは父の姿だった。ビデオでしか見たことの無い、父のピアノを弾く姿。
 駆け抜けるように、最後の一音を弾いた瞬間に、耳元で幻聴が聞こえた。
「奏」
と、酷く優しげな声で自分の名前を呼ぶ声。聞いたことの無いはずの声。ビデオの中でしか知らない、その父の声を聞いた途端、奏は全身が総毛立ち一気に涙腺が決壊した。溢れ出す涙の理由が分からずに呆然とする。
 気がつけば、スタジオ内は物音一つしないほど静まり返っていた。ふと顔を上げた瞬間に目に入った女性スタッフの一人は、なぜだか、奏と同じように涙を浮かべて、感極まったように体を小刻みに震わせていた。その隣にいた男性も、似たような状態で、奏は戸惑う。
 ふ、と誰かが手を一つ叩き、それが、幾つか続いて、次第に大きくなり始める。十秒ほど経過してから、ようやく、奏は、それが拍手だということに気がついた。そこにいる人間は、誰も彼もが手を叩いている。さっき、奏を馬鹿にしたように笑っていたディレクターでさえ、似たような状態だった。だから、尚更、『彼』が目に付いた。
 彼、宇野辺衛はらしくも無く、顔色をなくし、酷く難しい顔で奏を睨みつけていた。怒っているようにさえ見える。感極まったように殆どの人間が拍手している中で、衛は早足で奏に近づき、殴りつけんばかりの勢いで奏の腕を掴んで引き上げた。無理矢理、椅子から立ち上がらせられて奏は、戸惑う。
「すみません、すぐ戻ります」
と、衛はその場を仕切っている男に一言だけ告げて、周囲が呆気に取られている間に奏をスタジオ内から連れ出してしまった。そのまま、痛いほど強く腕を引かれて、人気の少ない非常階段の踊り場まで来ると、ようやく衛は奏の腕を離した。
「どういうつもりだ!!」
 らしくもない剣幕で怒鳴りつけられ、奏は驚きのあまり目を見開く。見上げた衛の顔には明らかな怒りが浮かんでいた。その怒りの理由が分からずに、奏が戸惑ったまま衛を見つめ続けていると、衛はどこか痛む場所でもあるかのように眉間に皺を寄せて、振り払うように奏の腕を離した。そして、自分自身を落ち着かせようとしているのか、数度、深呼吸を繰り返すと、改まった口調で、
「どういうつもりだ」
と、同じ言葉を奏に向けた。言葉の意味が分からず、やはり、奏は戸惑ったように首を傾げる。いつの間にか、頬を濡らした涙は乾いていた。
「さっきの、あのピアノは、どういうつもりだと聞いている。あれは……あれは、お前の、『二宮奏の』ピアノじゃない。『二宮克征』のピアノだ」
 告げられた言葉の意味が理解できた途端に、奏は一切の感情を表情から消した。正直に言えば、少しばかり驚いてはいたけれど、それも表には出さなかった。ただ、それがどうしたのだという顔で、つまらなそうに衛を見上げる。

 それが、一体、どうしたというのだ。

「だったら、どうなんですか? 別に、ピアノ自体はしくじりませんでしたよね?」
 さも心外だといった風な口調で奏が問うと、一度は落ち着いたはずの感情がまた爆発したかのように、衛は忌々しげな表情で奏を睨みつけた。
「ふざけるな!! 体を切り売りするくらいならまだ良い。でも、お前がしようとしてることは、そんな生易しいことじゃないだろう!?」
 なぜ、衛が怒っているのか分からずに奏は、スッと目を細めた。思い出したくない感覚が、少しだけ胸に蘇る。これは、何かに似ている。何だろうと少し考えて、浮かんだ答えは、実に感傷的な思い出だった。何のことは無い。まだ、高校生の頃、音大に進学しろと兄に叱られたときの感覚に似ているのだ。ただひたすらに静寂を保っているはずの心の水面が微かに波立つ。一つの波紋さえ起こしたくないと思っているのに、それが腹立たしくて奏は、逆に睨み返すように衛の目を真正面から見つめた。
「どうして、宇野辺さんが、そんなに怒るんですか? 大体、貴方だって最初に言いましたよね? 見た目が良ければピアノなんて適当に弾けるだけで良いって。だったら……だったら、誰かの猿真似のコピーだって構わないじゃないですか。それに……誰も気がつかない。こんなこと誰も気がつきませんよ? 気がつくとしたら、それは二人しかいない。でも、その二人とも今は日本にいないし、結局、誰も気がつかないんだ」
 手負いの獣が誰彼構わず威嚇するかのように、奏は、荒い口調で衛に反論した。それは、衛と奏が『契約』してから初めての事だったが、奏はそれには気がついていない。衛だけは、何かを感じ取ったのか、微妙に表情を変化させたが、奏はそれさえも気がついていなかった。
「……だったら、だったら、どうなるんだ」
 少しばかり声のトーンは落ちていたけれど、それでも感情を剥き出しにした険しい表情で衛は奏の腕を捻り上げた。痛くないはずが無い。それに腕だ。大事な商売道具の。
 けれども、奏は痛みなど見せなかった。ただ、煩わしいというように衛の顔を見上げる。そこには何も頓着している様子など見えなかった。腕など折れても、さして気にならないとでも言うかのような。その表情が、逆に酷く痛ましいようで、衛はますます眉間の皺を深くする。掴んだ腕を静かに離し、一度深呼吸すると、今度は打って変わって静まり返った声で繰り返した。
「だったら、どうなるんだ。『ピアニストの二宮奏』は」
 罪状を読み上げる裁判官の声のようだと思いながら、奏はふと薄い笑みを浮かべる。何もかもを諦めたような、それでいて揺らがぬ決意を覗かせるような表情。
「そんなヤツ、死んだ」
 まるで、遠いところにいる、自分とは無関係の誰かがそうであるかのように、酷く突き放した口調で奏は答える。答えて、スッと視線を廊下の床に落とした。そうされてしまうと、頭半分、奏より背の高い衛には奏の表情が全く見えなくなる。今、どんな顔をしているのか分からないことに、奇妙な焦燥を覚え、無理やり顎を掴んで顔を上げさせようとしたときだった。
「……決めてるんです。俺は、もう、二度と『自分の』ピアノを弾かないって。………が、………になるまでは」
 虚空に呟くように奏が零した独り言。
 その言葉の意味が分かった途端、衛は目を見開き、それから盛大な溜息を一つ吐く。しばらく、奏の俯いた額の辺りをじっと見つめていたが。しまいには、呆れかえった様な、降参したような表情で自分の額に手を当てた。
「勘弁してくれよ……俺は、迷子の子守役じゃないんだ」
 らしくもなく、心底参ったように衛は言ったけれど。


 結局は、奇妙に優しく奏の肩を抱きしめた衛に、奏はなぜだか酷く安心して、一つ二つ、涙を床に落としたのだった。





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