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音の轍 - 16 …………


 何の遠慮会釈も無く、ノックさえせずに敷島泰人はその部屋のドアを開けた。今、父親は中央の事務所に行って不在なのは確認済みだ。それに、もともと、用があったのは父ではなかった。
 ドアを開けた途端、視界に入ってきた光景に、泰人は思い切り顔を顰める。
「きゃ!」
と微かな悲鳴を上げて、女が体を離す。そして、慌てたようにそそくさと乱れた衣服を整えた。それをしらけた気分で眺めながら、
「ユキ、ちょっと用事があるんだけど」
と不機嫌極まりない声で告げる。告げられた当の本人、佐宗郁人は、面倒くさそうに前髪をかき上げ、
「何?」
とつっけんどんに返した。何とはなしにその手を追いかけていた泰人は奇妙な不快感にますます眉間の皺を深くする。浮かんだ言葉は『不自然』だ。郁人の本来の地毛は栗色だ。郁人の母親はハーフで、つまり、郁人は四分の一だけ外国の血が入っているからだった。だが、泰人の知る郁人はどちらかというと黒髪の印象が強い。この家にいる間、父親の厳命で郁人は髪を黒く染め、本来は鳶色である瞳に黒のカラーコンタクトを入れている。だから、本来の郁人の髪と瞳の色を見たのは、ほんの数えるほどしかないはずなのに。それでも、不自然だと思わずにはいられなかった。
「平井さん、二人で話したいから出て行って」
 横柄な口調で泰人が言うと、平井と呼ばれた、たった今、郁人と抱き合っていた女性は一瞬だけムッとしたような表情になったが、即座にそれを消して、
「分かりました」
と、素直に部屋を出て行った。その後姿を見送りながら、泰人は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「よく、あんなオバサンとセックスできるね」
と、泰人が当てこすりを言うと、さして気にした風もなく、郁人はフンと鼻で笑った。
「そうでもない。四十過ぎてる割には、マシな体だったけど?」
「……自分よりも倍以上の年齢だろ」
 車椅子に座ったまま、下から必死に睨み上げて泰人が咎めても、郁人はやはり、馬鹿にするように鼻を鳴らしただけだった。
「そう扱き下ろすのは良くないんじゃない? 仮にも、父親の現役の愛人らしいし?」
 郁人が何気なく告げた事実に、泰人は、これ以上は無いというほど顔を顰めてみせる。足の自由が利くのなら、自分が、もっとしっかりした体だったなら、今すぐにでも郁人を殴りつけてやりたいと思った。
「ユキ……何考えてるの?」
「別に何も? あの女が一番、親父に近い秘書だから、色々と『お勉強』を教えてもらってるだけ。何か問題ある?」
 スッと体を屈め、キスでもしようかというほど顔を近づけた郁人から、泰人は顔を背けた。郁人のこういう部分が泰人は大嫌いだった。酷く、父親に似ている。どこをどうすれば人が一番傷つくか、引き下がるかをすぐに見抜く鋭さと、酷薄さ。郁人のこういう部分を『彼』は知っているのだろうか。きっと知らないだろう。泰人が彼、二宮奏本人に会ったことがあるのは、たったの二度だけだ。けれども、それだけで、泰人には分かってしまった。
 酷く、綺麗な少年だった。姿形が、というのではない。その纏う空気から、澄んだ瞳から、屈託の無い表情から、その心根が綺麗なのだと嫌でも分かった。それ故に郁人が奏に惹かれ、守ろうとするのだという事も。だから憎かった。許せなかった。奏が、ではない。そういう存在を見つけて、自分一人だけ、この泥沼から抜け出そうとした郁人が、だ。
「……大橋さんとも寝たらしいし、どういうつもり?」
 大橋は、父親の仕事とは関係ない、外で囲っている別の愛人の女だ。
「……てか、泰人の情報網ってどうなってる訳? 俺は、そっちの方が興味あるけど」
 さもおかしそうに声を立てて郁人は笑い、泰人からスッと体を離した。それで、泰人は少しだけホッとする。郁人が泰人に暴力を振るったことなど一度も無い。セックスだって、泰人が誘わなければ自分からは手を出してこなかった。それでも、その時、泰人は郁人が怖いと本能的に思ったのだ。
 こちらに郁人が『帰って』来てから三ヶ月ほどが経過した。たったの三ヶ月。それなのに、郁人は既に、父親の秘書と肩を並べるほどになっている。その才覚を妬むより、真剣さを訝しむ気持ちのほうが泰人には強かった。
 泰人は郁人がどれだけ、この家を、父親を嫌い、憎んでいるかを知っている。同じ感情を分け合い、傷を舐めあうように体を重ねたのはたった数年前の話だ。多分、そういう意味では、父親などよりもずっとずっと泰人の方が郁人を理解している。ひょっとしたら、奏よりも。だから、帰ってきてからの郁人を、泰人はどうしても疑ってしまうのだ。
 詳しい事情は知らない。けれども、自分が伝えた事実を父親が何かしらの脅迫のネタに使ったことは間違いないはずだった。
 郁人と奏が恋人同士だという事実。
 それを伝えたのは、壊したかったからだ。何を壊したかったのか分からなかったけれど、ただ、卑怯だと思った。郁人が、たった一人で逃げることが。そんなことは許さないと思って、それを伝えたのだけれど、今は、少しだけ間違っていたような気がする。

 この間、たまたま流しっぱなしだったテレビの中に奏の顔を見つけて、泰人は酷く驚いた。なぜ、彼がテレビになど出ているのかと訳が分からなくて、じっと見つめたテレビの中の奏の顔に、間違いだったという気持ちはますます強くなった。
 奏は綺麗に笑っていた。笑っていたけれど、酷く空虚な、人形のような瞳をしていた。以前、見たような屈託の無さや、澄んだ瞳とは別人のようだった。何が奏をそうさせたのか、もちろん泰人には分からないけれど、ただ、その変化が酷く悲しいと思った。その一端をもしかしたら自分が担ってしまったのかと思えば、尚更だ。
 多分、恐らく、奏は自分の事を嫌っているだろうなと泰人は分かっているけれど、泰人自身は決して奏を嫌っていたわけではない。傷つけたかったのは郁人であって奏ではないし、むしろ、泰人は奏に憧れていたのではないかとさえ今になって思う。
 何度も何度も郁人から繰り返し聞かされた、二宮奏という少年。狂った家で、二人の幼い少年もまたどこか狂っていった。二人で一つだと錯覚するように、同調するように、傷を舐めあった。郁人の気持ちと自分の気持ちがごちゃ混ぜになって、まるで自分の事だと思っていた時期さえある。その時は、会った事のない奏という少年に、泰人は郁人と同じ気持ちで恋をしているのだとさえ錯覚していた。
 泰人は、事故にあって下半身不随になってから、殆ど家の外に出たことが無い。父親が体面を気にして、一切、外出を禁止していたからだ。学校に行くことさえ許されず、勉強は、全て、家庭教師に教わった。高校も、大学も通信教育で、だから、泰人は同じ年代の少年と触れ合ったことが殆ど無い。外界とのパイプラインになるのは郁人しかいなかったのだ。だから、尚更、縋りつくように郁人を引き戻さなくてはならなかった。今でも、それは変わらない。郁人は決して自分の味方ではないけれど、それでも『自分と同じ種類の人間』なのだ。
「……何だかおかしなことを調べてるって、千々木(ちぢき)が言ってた」
 郁人の反応を探るように泰人がそれを言うと、郁人はフッと呆れたように表情を緩め、それから芝居じみた仕草で肩を竦めて見せた。
「なるほど。そっちの情報網か。『お兄ちゃん』の忠犬は優秀だね」
 郁人は思わず見とれてしまうほど鮮やかに、にっこりと笑うと、一冊の帳簿を手に取り、それでトントンと自分の肩を叩く。
「多分、泰人が考えてることで間違ってないと思うよ。どうせ、隠したってお前にはバレるから隠さない。女って簡単だよな。どんな重要機密でも、ベッドの中じゃ羽より口が軽い」
 そう言って、郁人は楽しげにその帳簿を天井にかざし、そこで一旦手を離して落下させ、胸元の辺りでキャッチした。まるで、少年が野球ボールで遊んでいるかのような、無邪気な仕草。だが、その瞳は決して少年のそれとは言えない。酷く翳りを孕んだ、暗い、剣呑な瞳。それを見た途端、泰人は本能的な恐怖で背筋を震わせた。
「邪魔したければ邪魔すれば? 『お父さん』を守りたかったらどうぞ。でも……」
 郁人はスッと手を伸ばし、その甲をヒタリと泰人の頬に当てた。冷たい手の感触が伝わり、泰人はあからさまに不快な顔をする。だが、郁人はお構い無しで、ヒタヒタと手の甲で何度か泰人の頬を軽く叩いた。
「邪魔するんだったら、泰人でも容赦しないよ?」
 それだけを最後に言い残し、郁人は帳簿を手にしたまま部屋を出て行く。その背中を泰人はぼんやりと見送った。最後の最後まで、たったの一度も、郁人は泰人を振り返らない。その背中に、奇妙な寂寥感を感じつつも、泰人は何かに急かされるように車椅子を動かし始めた。
 会わなくてはならない、と思った。けれども、一体、誰に。

 ふと思い浮かんだのは、郁人に何度か見せてもらった写真の中で、太陽に向かって咲き誇る向日葵のように、綺麗に笑っている奏の顔だった。






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