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音の轍 - 8 …………


 電車に揺られながら、奏は、ただ、車窓の景色をぼんやりと見つめていた。見慣れぬ景色。奏が住んでいる、都心近郊の住宅街とは全く趣が違う。
 緑が多い。けれども、その間に立っている幾つもの家は、そのどれもが大きく、造りも随分と贅沢に見えた。所謂、高級住宅街、という場所なのだろう。降り立った駅も、規模の小ささの割には随分と、金をかけているような、そんな印象だった。
 拭いきれない不安から、敢えて目を逸らし、奏はキュッと手の中にあるメモ用紙を握り締める。何度も何度も読み返し、すっかり覚えてしまった『今の郁人の』住所だ。駅の構内にある案内所で行きかたを尋ねれば、歩いて十五分ほどの場所だと教えてくれた。路線バスも出ていますよ、と親切にも案内所の人は勧めてくれたけれど、何となく、歩いていきたいような気がして、奏はのんびりとした歩調で、目的地を目指した。
 郁人と会わなくなってから、連絡が取れなくなってから、いつの間にか一ヶ月もの時間が経過していた。もう少しで、夏休みも終わってしまう。郁人と約束していた計画は、そのどれ一つとして実現されることは無かった。
 押し寄せる不安は、見慣れぬ景色のせいだと奏は自分に言い聞かせる。けれども、言い聞かせた端から、いとも容易く、自信は揺らいだ。
 郁人は知っているはずだ。奏がいかに待つことが嫌いかと言うことを。そして、なぜ、奏がそうなってしまったのかを。それでも敢えて、一ヶ月という短くは無い時間、奏を放ったらかしにした。もしかしたら、既に、そこに答えがあるのかもしれないと奏はぼんやりと考えた。
 そう考えているのに、なぜだか胸は余り痛まなかった。現実味が薄いせいだろうかとも思う。郁人と離れて過ごした夏休みの間、奏の世界は薄い膜に包まれたように、ぼんやりとしたものだった。だから、尚更、行動に移るまでに時間が掛かってしまったのだ。
 緑の街路樹が生い茂る、木陰の道をゆっくりと歩く。
 本当は、ただ、怖かっただけなのかもしれない。想像しなかったといえば嘘になる。その結末を目の当たりにすることを、ただ、いたずらに引き伸ばしたかっただけなのかもしれない、と奏は額に滲んだ汗を腕で拭った。殆ど外に出ることも無く、ただ、ピアノを弾くだけの夏休みを過ごしてきたせいで、その腕の色は夏にしては白すぎる。本当なら、郁人とあちこちに行って日焼けをしていたはずだと思ったら、何だか酷く自分が惨めなような気がした。
 まるで、たどり着くことが嫌で仕方が無いとでもいうような、あまりにもゆっくりな歩調で歩いていたはずなのに、三十分も経たないうちに、奏は目的地に到着してしまった。
 その家を見上げて、奏は絶句する。覚悟していたよりもずっと広く、大きく、そして豪奢な造りの和式の家だった。そのインターフォンを押すことさえ躊躇われて、奏は門の前で立ち尽くす。何か、見えない力でもって上から押さえつけられ、圧迫されているような、そんな息苦しさを感じた。
 表札に刻まれている姓は、奏の知らぬ姓だ。当然だろう。梓は正妻ではない。ただの愛人で、郁人の姓は梓と同じそれなのだ。『敷島(しきしま)』と言う苗字を載せて、郁人の名前を呟いてみる。敷島郁人。口の中で転がしても沸きあがるのは違和感ばかりで、まるで、知らぬ人の名を呼んでいるようだった。
 じりじりと照りつける、残暑厳しい日差しの中、奏は数分ほどそうして立ち竦んでいたけれど。ようやく、そうしていても埒が明かない、と震える指で、インターフォンを押した。
 暫しの間があった後、
 『はい』
 と応答があった。聞いた事のない女性の声だった。この家の人なのか、或いは家政婦なのか、もちろん奏には分かろうはずもない。ただ、不安げな声で、
「すみません。あの…二宮奏と言いますが……ゆ、郁人さんは、いらっしゃいますか?」
 と尋ねるのが精一杯だった。不意に沈黙が訪れる。何も答えないインターフォンの向こうの相手に、奏は一瞬焦ってしまった。もしかして、家を間違えたのだろうかとも思ったけれど、奏がもう一度尋ねるよりも、
 『どうぞお入りください』
 と、どこか戸惑いがちな返答が返るほうが先だった。ガチャンと音を立てて、オートロックの門の鍵が開く。奏は恐る恐る、門の中に入ると、家の玄関に向かって歩き出した。
 門から玄関までの距離も長い。普通の家では考えられない長さだった。当然、その途中には一分の隙も無く手入れのされた庭が続いている。まるで、どこかのお城のようだと奏は笑いたくなってしまった。ようやく玄関までたどり着き、もう一度インターフォンを押そうとしたけれど、それよりも先にドアが勢い良く開いてしまった。
 奏は酷く驚いて、そして、中から出てくる人物に反射的に期待をしてしまったのだけれど。
 出てきたのは背の低い、否、車椅子に座っているせいで随分と目線の低い一人の青年だった。奏も見知ったその人物は、一ヶ月以上前に一度だけ会ったことのある郁人の腹違いの兄だという、泰人だった。
「こんにちは、良く来てくれたね」
 と、いっそ不自然なほどにこやかに泰人は告げると、家の中に入るよう、奏を促した。
 会いに来たのは郁人であって、泰人ではない。だから、奏は戸惑って、どうしようか迷ったように泰人を見下ろした。泰人は苦笑のような笑いを漏らすと、
「今、郁人は仕事の関係で出かけているんだよ。もう暫くしたら戻ると思うから、中に入って待っていてくれない?」
 と、促すように告げた。
 郁人に会いたくないわけではない。そうではなく、何とはなしに、この目の前の車椅子の青年と二人きりになりたくなくて奏はやはり躊躇した。けれども、奏が断るよりも先に、泰人はさっさと家の中に入り、
「酒井さん、お茶を二人分用意して」
 と、家政婦らしき女性に頼んでしまった。奏は仕方無しに、そっと家に上がる。随分と金をかけているようではあるが、年季の入った古い家なのだろう。奏が歩くと、ギシギシと微かに廊下が音を立てた。
 余りに部屋数が多く、家の中が広いせいなのだろう。窓から差し込む光が内側の部屋までは届かず、薄暗い印象の家だと奏は思った。そのせいなのかどうなのか、漂う空気が湿り気を帯びて、重たい。あまり、好きな空気ではないと奏は本能的に思った。
 通された客間は、やはり広く、床の間に飾ってある花器や掛け軸は、奏の素人目から見ても、随分と高価なものだと分かる。その上、そこにおかれている紫檀の座卓は漆塗りだった。促されて、奏は落ち着かない気分のままそこに腰を下ろす。泰人も車椅子から器用に降り、奏の向かいに座った。
 すぐに運ばれてきたお茶に手を付ける気にもならず、なぜだか、泰人の顔を見るのも怖くて、奏はじっと正座した自分の腿の辺りだけを見つめて俯き続ける。そんな奏の緊張を介しもせず、泰人はのんびりとした態度で外の庭を眺めていたようだった。
「ユキは何も言わなかったの?」
 と、柔らかい口調で話しかけられ、奏は大げさなくらいビクリと肩を揺らす。泰人は足が不自由だから、実際の身長がどのくらいなのかは分からない。けれども、決して奏よりも大きいとは思えなかった。小さく、華奢な印象を受ける。まるで、中学生程度で成長が止まってしまったかのような気さえするのに。なぜ、こんなにも、自分が泰人を恐れているのか、奏にはわからなかった。
 ただ、泰人が怖かった。何が一体怖いのか分からないのに怖い。
「……何も……はい。何も教えてくれません」
 どこか震える声で奏が答えると、泰人は薄っすらと綺麗な笑みをその顔に浮かべた。
「仕方の無いヤツだね。まあ、仕方が無いか。事情が事情だし」
「……事情?」
「うん。ああ、でも、半分は僕のせいなのかなあ? 奏とユキが恋人同士なんだって父に教えてしまったのは僕だから」
「……え?」
 何を言われたのか分からずに、奏は思わず顔を上げてしまう。上げた途端に、真正面から泰人と目が合った。泰人は笑っていた。何とも表現しようの無い笑みだった。
 嘲笑でもない、優越感に浸ったような笑みでもない、敢えて言うならそこにあるのは『親愛の情』だ。それなのに、その瞳は余りに虚ろで、奏はゾッとする。それ以前に。
「…ど…どうして……」
 どうして、泰人が奏と郁人の関係を知っているのか。
 郁人は殆ど、父親の元にいた時の事を奏には語らなかったけれど、時折、垣間見える苦い表情から決して居心地が良い訳ではない事は奏にも分かっていた。とても、『こちら』の家族を信頼していたようにも思えない。それなのに、泰人は二人の関係を知っていた。そして、奏は、今更のように気が付く。余りにも不自然なほど、郁人の口から、泰人の名前が出たことが無いことに。
「どうしてって…そりゃ、大事な跡継ぎに男の恋人がいるなんて知ったら、普通の父親なら別れさせようとするんじゃない?」
 だが、泰人は奏の疑問を取り違えて、呆れたようにそう答えた。
「…違う。そうじゃなくて…どうして…どうして、貴方は、俺と郁人の事を知ってるんですか。郁人が…郁人が話したの?」
 尋ねる声が震える。どうして、こんなにも怖いのか奏は自分が理解できなかった。これは、本能的な恐怖に似ている。目の前に座っているのは体の不自由な、ただの小さな青年だ。それなのに。まるで、得体の知れない化け物を前にしている、そんな気がした。
「うん? ユキから聞いたわけじゃないよ。そうじゃなくて、いつもヤってるときに、ユキが僕の事を奏、奏、って呼んでたから。ああ、そうなのかなって」
 ドスン、とまるで直に心臓を殴られたような衝撃があって、奏は、
「え?」
 と、思わず目を見開いた。口はきっと、間抜けにもポカンと開いたままだっただろう。何を言われたのか分からなくて、ただ、ただ、じっと泰人の顔を見つめる。穴が開くほど、ただ、じっと見つめていたら、泰人は困ったような苦笑いを浮かべた。
「あ、ゴメンね。気を悪くした? でも、別に僕とユキは近親相姦とか、そういうのじゃないよ? あ、でも、兄弟でセックスしてたら近親相姦になるのかな?」
 クスクスと泰人は楽しげに笑っているけれど、奏は何がおかしいのかさっぱり分からなかった。ジワジワと背中と掌に嫌な汗が滲んでくる。脳は完全に理解することを拒否しているようだった。
 今、泰人は何を言ったのだろう。言葉の意味が頭の中に入ってこない。その癖、頭のどこかでそれを理解し、けれども分かりたくないと悲鳴を上げているもう一人の自分もいた。
「まあ、そんなことはどうでも良いんだけど。どっちみち別れるなら、ちゃんと綺麗に別れるべきだと僕も思うよ」
 奏の混乱や動揺などよそに、泰人は自分の中でどんどんと話を続けている。膝に乗せている自分の拳が目に見えて分かるほど震えていることに奏は気が付いた。それなのに、思考は一向に正常には戻らない。
 自分と郁人は別れたのだろうか。一体、いつ別れたのだろうと、ただぼんやりと夢の中にいるみたいに考えた。
「黙って自然消滅なんて、ぜったいしこりを残すし…奏だって未練が残るしね?」
 どこか幼く見える仕草で泰人は微かに首を傾げた。浮かべている笑みは、無邪気にさえ見える。けれども。やはり、その瞳には深い深い闇のような、虚ろな影が差していた。
 兄弟でセックスしていただなどという異常な話を、まるで天気の話か何かのようにあっさりと口にする。常識だとか倫理だとか、そういうものがまるで欠如しているとしか思えず、奏は眩暈がしそうだった。しかも、その相手は郁人だという。何の冗談なのだろう、としか思えなかった。
「だから、ユキ。ちゃんと、さよならは言わなくちゃダメだよ?」
 と、泰人は不意に視線を奏の後ろに逸らし、そこで奏は、ようやくハッとしたように振り返った。奏のすぐ後ろに人が立っている。一体、いつからいたのだろうか。ぼんやりしていたせいなのか、それとも、彼が気配を消すのが上手いせいなのかはわからないけれど、奏は今まで全く気が付かなかった。
「こんな所まで、何しに来た?」
 聞きなれた、けれども聞いた事のないような冷たい声が耳を掠める。立っていたのは、ずっと会いたいと思っていたはずの郁人だ。けれども、すぐそこにいる男は、奏の知らない人間にしか見えない。

 真っ黒な髪、真っ黒な瞳。
 ただ、その顔形だけが郁人と同じ、知らない人。

 奏の好きな、柔らかい光を湛えた鳶色の瞳も、光を反射して綺麗に光る栗色の髪も、眩しいものでも見るような暖かで優しい表情も、何一つそこには見出せない。
 ますます動揺し、混乱する奏をよそに、郁人は乱暴に奏の腕を掴むと無理やりに立たせ、引き摺るように部屋から連れ出した。そしてそのまま何も言わずに広い家の中を歩き続ける。入った場所とは違う、勝手口のような場所までとうとう奏は連れ出され、まるで厄介者を放り出すかのように、外に追い出された。
 広い屋敷の裏口に立ち尽くしたまま、奏はやはり、ぼんやりと郁人を眺めていた。何を言ったら良いのか分からない。そもそも、自分は何をしに、この場所まで来たと言うのだろうか。
「…こんな所まで、何しに来た?」
 先ほどと同じ、冷たい口調で郁人は奏を問い詰めた。奏は、知らない人を見るように、じっと郁人の瞳を見つめる。どこかに何某かの嘘があるのではないかと必死に探したけれど、郁人は決して目を逸らさなかった。まるで疚しさなど無いかのように、ただ、じっと奏の瞳を見つめ返す。
「…郁人…俺たち、別れたの?」
 問われた質問には答えず、ただ浮かんだ素朴な疑問を奏はそのまま口にした。郁人は微かに口の端を上げ、奏の知らない、どこか酷薄にさえ見える笑顔を作る。
「まだ付き合ってるつもりだったんだ?」
 小馬鹿にしたような嘲った口調。どこか芝居めいているようにも思えたけれど、奏は敢えてそれを追求しなかった。
「…俺に何か説明する気はないの?」
 最後通牒のつもりで奏は再び尋ねる。この質問の意味を郁人が分からないはずがない。けれども、郁人はあっさりとそれを無視した。いとも容易く、
「奏に教えることなんて、何一つ無い」
 と答えた。
 不意に全身の力が抜ける。そうか、と奏はどこか遠いところで失望した。それが、郁人の出した答えなのか、と。
 何だか笑い出したい気分で、奏は俯く。頭上の太陽はまだ高い。照りつける日差しは強く、地面に落ちる影は真っ黒だった。
「…そう。なら、もう、何も聞かない」
 奏は不意に顔を上げると真正面から郁人を見つめた。見つめたと言うよりは睨み付けたといったほうが正しい。視線で人が殺せるなら、このまま郁人を殺したいと、憎悪に近い感情で思った。けれども、恨み言は言うまいと一旦口を噤む。それから、何もかもを諦めた顔で笑った。
「…七年前に郁人がいなくなってから、ずっと郁人を忘れよう、忘れようって思ってたけど、結局忘れることが出来なかった。二年前に郁人が帰ってきたときも、待ってなんかいなかったって一生懸命否定しようとして、でもやっぱり、結局、俺は郁人を待ってたんだと思う」
 奏の言葉を聞き、それまで完璧な仮面を被っていた郁人の顔が微かに歪む。馬鹿馬鹿しい気持ちで奏は郁人のその揺らぎを見つめた。そんな顔をする権利は、郁人には無いはずだ。この結末を選んだのは他でもない、郁人自身なのだから。
「それは、多分、ちゃんと言えなかったからなんだろうな。だから、今度はちゃんと言う」
 奏はそこで一旦、言葉を切り、スッと肺の奥の奥まで息を吸い込んだ。食い入るように、じっと郁人の姿を目に焼き付ける。もしかしたら、もう、このまま、一生、会わないかもしれないから。



「さようなら、郁人」



 静かな、はっきりとした口調で奏は最後の言葉を告げた。途端に郁人の顔が歪んだけれど。傷つく権利など郁人には無いのだ。そんな顔は見たくない、とばかりに奏は郁人に背を向けた。もう、二度と、奏が郁人を待つことは無いだろう。
 終わり、というものは、こんなにも呆気ないものなのだろうかと、どこか拍子抜けしながら奏は歩き出した。呼び止める声は、当然、聞こえない。少しずつ、少しずつ離れていく距離。きっと、このまま、どこまでも遠く離れていくのだろうと奏は冷めた頭で考えた。
 不思議と涙は出なかった。

 どうしようもなく憤っているときや、悲しんでいるときには涙が出ないのだと、奏はその時、初めて知った。






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