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音の轍 - 7 …………


 身の回りのものを全て整理し、必要最低限のものだけをスーツケースに入れると、響は最後に、小さな箱を一つ、取り出してきた。そっと蓋を開けると、微かに埃の匂いが漂う。大分長いこと、開けていなかったのだから仕方が無い。
 壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、響はその中身を、そっと、一つ一つ取り出す。そのほとんどはテープレコーダーのカセットテープと、ビデオカメラのテープだった。この存在を、弟の奏はしらない。それを持っていくか、置いていくか暫く逡巡し、けれども、響は結局、その全てを箱にしまい直し、一番上に『奏へ』と書いたメモを乗せて、もとあったクローゼットの奥に片付けた。今や、クローゼットの中身は空っぽだから、きっと、それは容易に奏に見つかるだろう。それを見て、奏がどうするかは響の知る範疇ではない。ただ、何らかの指針になるだろうとは思った。
 自分がいなくなってしまえば、奏はまさに天涯孤独の身になってしまうのだ。そのことを思うと、響の胸は刺すように痛む。だが、それが同じく孤独になる自分への痛みなのか、奏を思っての痛みなのか、響には判断がつかなかった。
 自分と奏を混同するあまり、同化しすぎるのだと非難めいたことを都築に、透に言われたのは一度や二度ではない。都築は特に言葉が厳しく容赦が無いから、それこそ、響が自己嫌悪で死んでしまいたくなるようなことさえ言った。
 自分のなしえなかった夢を奏に押し付けている。奏がプロのピアニストになることを望むのは、本当に奏のことを思っているからなのか。それとも、ただのエゴなのか。
 そう尋ねられたとき、響は何一つ答えを返すことが出来なかった。だから、離れたほうが良いと思ったのかもしれない。過ぎる執着と愛情は、時として相手を不幸にする。それが響は怖かった。




 響がそれを知ったのは、梓から相談を受けたからだ。いや、相談ではない。事後報告といったほうが正しいだろう。
「店を手放すことにした」
 と、ただ、ひたすら淡々とした口調で梓は告げた。定休日の日に、店の事務所に呼び出されたときのことだ。唐突に告げられた言葉に驚いた響に、梓はやはり、抑揚の無い事務的な声で事実を教えてくれた。郁人が戻ってきたのは一時的な事で、父親は1年間、自由を与えただけのつもりだったということ。けれども、郁人は最初、父親に反抗して戻ることを拒否したこと。家に戻ることと父親の後を継ぐことを郁人が拒否したせいで、父親が、梓に圧力を掛けてきたこと。そんな母を見かねて、自ら郁人が父親の元に戻ってしまったこと。そして、郁人と全く連絡が取れなくなってしまったこと。
 最後に、梓は自嘲気味に笑い、
「ホント、二十年近く振り回されてきたわ。人間の屑みたいな男なのに。人のことを人とも思わない。女なんて糞袋か何かと思ってるような冷血漢なの。でも、何でか思い切れなくて、ずるずると未練たらしく関係を続けちゃって。馬鹿な女ね。そのせいで、郁人にも、響にもつらい思いをさせて、ごめんなさい」
 と独り言のように呟いた。響は戸惑ったように首を傾げて梓の話を聞いていた。郁人はともかく、自分は梓につらい思いをさせられたことなど一度も無い。むしろ、九年前の件では、自分のエゴを梓に押し付けたようなものなのだ。だが、そう自分を責めた響を梓は否定し、嗜めた。
「違う。最初から、私には店を捨ててあの男とつながりを切る勇気なんて無かった。それなのに、卑怯な私は言い訳をほしがったの。そして、その言い訳を響。アンタに押し付けただけ。だから、私はアンタにあんな話をしたのよ。まだ、アンタは学生で、ただでさえ酷い荷物を抱えてたって言うのに。アンタは私を責めて良い。ううん、責めなくちゃ駄目なのよ。自分を責めるなら私を責めなさい」
 梓は、ただ真っ直ぐに響の顔を見つめ、そう言い切った。だから、響は混乱してしまったのだ。またか、と思った。どうして、誰も彼も自分を責めないのだと思った。責めないどころか、響が自分自身を責めるのをやめろと言う。罪の所在は自分の裡では無いと言う。それは響には酷い矛盾で、そして、逆に響を追い詰めて苦しめるのだ。
「アンタは悪くない。私が一番悪いのよ。本当にゴメンナサイ」
 と、梓はテーブルに額を擦り付けて響に謝罪した。響は慌ててそれを止めさせると、ただ、逃げるように店を飛び出した。
 体の内側を、何か、嫌なものがグルグルと渦巻いていた。自分自身では処理しきれない、ドロドロと汚れた何か。最近では薄れていたはずのそれは、響にはあまりに馴染みの深いものだった。響は自分の醜さも、弱さも、愚かさも、卑怯で汚いところも知っている。響自身が一番良く知っている。だのに、その本質を責めてくれた人間は今まで都築しかいなかった。けれども、その都築も、響が望むからそうしてくれただけで、最後の最後には響を許していた。ならば、誰が響を断罪すると言うのだ。
 照りつける夏の太陽と、ジリジリと下からせり上がってくるアスファルトの地熱。ジワリと額ににじんだ汗は、けれども、冷や汗に近かった。
 ふと、現状を思い返す。いなくなったと言う郁人。ここ一週間ほど、郁人と連絡が取れないのだと、どこか寂しそうに、ぼやいていた奏を不意に思い出した。梓は店を手放すと言ったけれど、本当にそれで郁人が戻ってくるのか響には疑問だった。そもそも、梓が店を手放して戻ってくるようなら、最初から、何も言わずに父親のもとに行ったりしないのではないか。響には、少しだけ郁人の気持ちが分かる。質は決定的に違うけれど、その強さが似た執着を同じ対象に抱いているからだ。響が奏にピアノを続けさせたいのと同じに、郁人もまた、そう思っているのを響は知っている。けれども、その本質はかけ離れていた。郁人が奏にピアノを続けさせたいのは、それが奏にとっての幸福であり、また必要不可欠であると理解しているからだ。そんな郁人が、奏の演奏の場を奪ったりするだろうか。そもそも、自分の母が全てを失うのを承諾するとは到底思えなかった。
 もし、このまま、郁人が戻ってこなかったら。それを想像したと単に、響はその場に立ち尽くし、顔面を蒼白にして、自分の口元を手で覆った。すれ違う人が、怪訝そうに響を見ながら通り過ぎる。何人か後にすれ違った人は、親切にも、
「大丈夫ですか? 気分が悪いんですか?」
 と声を掛けてくれたけれど。
 響は大仰に首を横に振って、
「大丈夫です」
 と答えた。そして、急に、何かのスイッチが入ってしまったかのように歩き出す。どこに行けばいいのか分からず、ただ歩いていたのに、頭の片隅では分かっていた。混乱しているのに、どこか一部だけが冷静で、その部分がものすごいスピードで、色んなことを計算している、そんな感じだった。
 郁人が、もし、戻らなかったら。奏は、きっと、奏ではなくなくなるだろう。九年前の奏が、そうなってしまったように。
 屈託の無い、無邪気で、真っ直ぐで、危ういくらいに素直な少年だった。それと同じに伸びやかなピアノを、妬み、嫉み、憎みながらも、それ以上に一番愛していたのは響だ。けれども、何も言わずに郁人がいなくなってから、奏は、どこか自分を抑えこみ、何かを押し殺すようになってしまった。それが、響の胸を酷く痛ませて、罪悪感に苛まされた日々は決して短くは無い。また、あんな風になっていく奏は見たくなかった。
 急かされるように、響は歩調を早める。どうにかしなければ、と、ただ一箇所に向かって歩き続ける響は、だから、これっぽっちも気がついていなかった。
 自分が、今、しようとしていることが、ただ、自分の過去をやり直したいが為の、自己満足の、一方的な贖罪だということに。
 けれども、その時は、それしかないのだと思い込み、響はひたすらに、歩き続けたのだった。

 その家を訪れるのは随分と、久しぶりの事だった。1年と半年振りくらいだと妙に冷めた頭で考えながら、インターフォンを押す。どこか、慣れ親しんで体の芯に馴染んでいるような、そんな感触があった。程なくして、家主が顔を出す。
「響」
 彼は響の姿を見とめると、一瞬だけ驚いたような表情を見せ、それから、なぜだか嬉しそうに笑った。
「久しぶりだね。君から訪ねてくるなんて珍しい」
 そう言いながら、以前の師であり、歪んだ愛人関係を結んでいた男は広くドアを開けてくれた。響はその中に入ることを一瞬だけ躊躇し、ふ、と男の、都築の顔を見上げる。自分が、酷く、無防備で、どこか不安定な危うい表情を浮かべているのだとは、もちろん、自覚などしていなかった。だから、急に訝しげな顔で自分をじっと見つめてくる都築の感情が全く理解できなかったのだ。
「何かあったのか?」
「…何も…何も無いです。ただ、お願いがあって」
「お願い?」
 ますます都築は訝しそうに眉間の皺を深くする。いつもは飄々として、温和な笑顔だけを浮かべている都築の、常ならぬ表情に、どこか正常な思考を失っている響は、やはり気がつくことはなかった。
「お金を貸してください」
 唐突に告げた響に、都築は表情を動かさず、ただ、淡々とした声で、
「いくら?」
 と尋ねた。いくら、と聞かれて響は、はっと気がつく。何も考えずに、ここまで来て、自分は一体、何をしようとしたのか一瞬だけ我に返り、けれども、それとは別の部分が稚拙で子供じみた幼稚な計算を繰り広げていた。
 いくらなのかなど分からない。そもそも、響はさほど不動産関係に明るいわけではない。あの店の地価と建物の評価額と。いくらくらいなのだろうかと、まるで、小さな子供がお菓子の値段を計算するように、考えた。
「多分、1億くらいだと」
 と、やはり、小さな子供のような口調で響が答えると都築は不意にクシャリと顔を歪ませて、どこか痛いような表情になった。それから、手を伸ばし、やや強引に響の腕を掴んで玄関の内側まで引き入れる。バタンと、音を立てて自分の背中でドアが閉まった瞬間に、響は、急に不安になった。この気持ちは何だろう、と思う。いつだったか、似たようなことがあった。昔の話だ。
 ずっとずっと、長いこと、父が死んでから『良い息子』『優等生』『出来た兄』を演(や)りつづけ、けれども、それが壊れた雨の夜、こんな風に、この家の玄関をくぐったのだ。あの時、確かに、響は自暴自棄になっていたけれど、それでも、どこかにそれはいけない、ダメだと止めるもう一人の自分がいたはずだった。頭の片隅には、奏の顔も、母の顔も、そして、一番の親友の顔も思い浮かんでいたはずなのに、それでも響はそれを蹴り飛ばし、このドアを閉めた。あの時と、同じ気持ち。
「響。何があった?」
 尋ねてくる都築の声は、柔らかく、そして優しい。小さな頃の記憶に残っている父に、少しだけ似ている、と響は思った。
「奏が」
 と、親に甘える子供のように響は、あっさりと無防備にそれを口にした。口にした瞬間、都築の顔から、一切の表情が消え去る。だが、自分のことで手一杯の響は、そのことに気がつけなかった。
「このままだと、奏が悲しんで…壊れてしまうんです」
 むしろ、そういう自分の方が、どこか壊れかけているのだと、響は気がつかない。
「なので、店をどうにかして、郁人を連れ戻さないと」
 響らしからぬ、要点を得ない説明の仕方は、幼い子供の辻褄の合っていない言葉と同じだった。けれども、都築は意味が分からないと突き放すことはせず、ただ、淡々とした無表情で、一つ一つ響の言葉を促す。
「郁人、というのは奏の幼馴染のことだね? 店と言うのは? 佐宗梓さんの店か?」
 はい、と響は答えると、拙い言葉で一つ一つ事情を話し始めた。梓と郁人と、その父親のこと。奪われそうな店と、いなくなってしまった郁人のこと。過去、郁人がいなくなった時の奏の話。もう、二度と同じ事を繰り返したくは無いから、店をどうにかしたいこと。その為には金が要ること。順序も理屈も滅茶苦茶で、ただ、焦りながら、響は思いつくことを捲くし立てたのに、都築は大よそのところを理解したようだった。
「なるほど。だが、どう考えてもおかしいだろう」
「おかしい?」
「ああ。そもそも、響とその郁人と言う少年は赤の他人だろう? なぜ、その他人のために、金を工面して、店を買い取る必要がある?」
 都築の言うことは全く冷静で、もっともだったが、響は納得するよりも、もどかしさと焦りばかりを感じた。
「そうです…けど…郁人がいないと、奏がおかしくなる。奏のために、俺は出来ることはしてやりたい」
「それで私のところに来るところが、響、君の憎くて憎くて仕方が無いところだがね」
 苦々しいことこの上ない、という表情で都築が呟いた言葉の意味を、けれども、響が理解することは無かった。
「それでは、響。私が金を工面してやる代わりに、自分を売れと言ったならどうする?」
 全くの無表情で、何の抑揚も無く尋ねられた質問に、響は迷い無く、
「俺に、そんな価値があるとは思いません。思いませんが、先生がそれで良いとおっしゃるなら構いません」
 と答えた。都築は、その答えに、絶望したように深々と溜息をつく。
「響」
 その名前を呼んで、それから、一呼吸置くと、
「君は、全く、何も成長していないようだね。17歳の時から、ただの少しも」
 と続けた。
「本当は、来月にでも君に会いに行くつもりだった。イギリスのレコード会社に招聘されていてね。活動の拠点をヨーロッパに移して、移住するから最後に一度、挨拶をしたいと思っていた。『遠くにいても、君の幸福を祈っている』と告げる予定だったのに、それか」
 都築はそう言うと、不意に、グイと響の後ろ髪を掴み、乱暴な仕草で無理やり上を向かせた。見下すように上から覗き込んでくる都築の視線に、響は、はっと息を呑む。
 これまで、何度も何度も酷い言葉をぶつけられたこともあったし、遠慮会釈無しに非難されたこともあった。真っ直ぐに怒りをぶつけられたことも。人とは思えない傍若無人なセックスを与えられて、死んでしまうと思わされたこともあったし、モノのように扱われた事だってあった。
 だが、これまで冷たい、酷薄な視線を向けられたことは無かったと、今更のように響は気がつく。気がついたが、もう遅かった。
「私は、今、酷く悔やんでいるよ。どうやら、今まで君を、甘やかしすぎていたようだ。良いだろう。金は工面してやる。だが、『貸して』やるのではない。君はたかだか一億の金で自分を売るんだ。良いか、本当に『売る』んだ。ただの髪の毛一本も君の自由にはできず、君の人格も認めてはやらない。どういうことか分かるか。私が『一生、奏にも、佐原透にも会うな』と言ったら、君は彼らに会えないんだ。そして犬のように飼われる。それでも良いと言うなら…」
 都築は苦さと痛みを堪えるような複雑な表情で、掴んでいた響の後ろ髪から手を離す。
「それでも良いと言うなら、身辺を整理して、一週間後にもう一度ここに来なさい。けれども、ここに来たなら、君はもう二度と、奏にも『彼』にも会えないだろう。それを覚悟して来るんだ。私は………君が来ないことを願うよ」
 酷いことを言いながら、それでも都築の声音には微かな優しさの欠片のようなものが含まれていた。その意味するところが理解できずに、響は幼い迷子のように途方に暮れてしまう。都築は唐突に玄関のドアを開け、響の体をその外に押しやった。


 目の前で閉ざされたドアをじっと見つめ、立ち尽くしながら、響は、どうすれば良いのか、全く分からないままだった。答えはどこにも見つからない。
 ただ透に会いたいと、酷く、単純なそして純粋な気持ちで思った。






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