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音の轍 - 6 …………



 一方的に待たされることが、奏は極端に嫌いだ。それは、幼い頃、郁人に一度、置いていかれたことが原因だった。突然いなくなった郁人に、幼い奏は、それでも、いつかは戻ってくるのだと信じて待っていた。
 今日は戻ってきているかもしれない、今日こそは、と幼馴染のいなくなった佐宗家に何度も訪れたし、梓の店にも足を運んだ。毎日通っていたそれが、一日おきになり、三日おきになり、一週間に一度、一ヶ月に一度、と次第に空白が長くなっていったのは、大分、時間が経ってからのことだった。時間が経つごとに諦めの色が濃くなっていき、仕舞いには奏は待つことをやめた。
 だから、奏はどこかで自分の心に保険を掛けてしまうようになったのだ。待つときには、必ず、心の片隅で、待ち人が来ない可能性を想定する。そうすれば、それが実現した時に、傷つかずに済む。そんなことを繰り返しているうちに、奏は、自分の感情にブレーキを掛けることが上手な少年になってしまっていた。
 その箍を外したのは、皮肉なことに奏をそんな状態に追いやった郁人だった。五年ぶりに再会した幼馴染。もう一度だけ、無防備に信じてみようと奏は一歩を踏み出したはずだった。もう、裏切られたりしない、と心を明け渡した。それから、まだ二年足らずしか経過していないのに。

 千々に乱れる気持ちは、ピアノの音までも濁らせる。こんな気持ちでピアノに向かい合ったのは久しぶりだった。
 奏はとにかく、ピアノを弾くことが好きだった。だから、どんなに腹の立つことがあっても、落ち込むような悲しいことがあっても、不思議と、その前に座れば、すうっと心が凪いで透き通っていくような気がした。けれども、今は、気持ちも音も澄み切らない。そのことに、また自己嫌悪を感じて苛々としたまま、奏は乱暴に鍵盤を叩き続けた。だが、五度目のミスタッチをした途端、苛つきが最高潮に達してしまい、放り投げるようにピアノから手を離してしまった。
 不意に静まり返る室内。大学の練習室は完全防音だから、楽器の音が鳴り止めば怖いくらい静かになるのだ。
 硬いピアノの椅子の背凭れにだらしなく背を預け、奏は天井を仰いだ。目を閉じて、掌で顔を覆う。完全防音のはずなのに、かすかに蝉の声がもれ聞こえてくるのを、奏は落ち着かない気分で聞いていた。
 郁人からの連絡が途絶えて、すでに二週間が経過していた。携帯の電源は切られたままだ。梓に聞いても、どこか辛そうな表情で、自分も連絡が取れないのだと答えられてしまい、それ以上、問い詰めることは出来なかった。ただ、いる場所は分かるのだ。父親のところに行っているのだ、とだけ教えてもらった。半ば予測していた答えだったので、それ自体は驚かなかったのだが、湧き上がってくる不安を抑えることは出来なかった。
 一体、いつ戻ってくるのだ、という質問に梓は答えてくれなかった。なるべく早いうちに、帰ってくるように手を打つ、と、憔悴した表情で答えた彼女に、奏はそれ以上のことを聞くことが出来なかった。梓に聞けなければ、自分から尋ねていけばいいだけの話だ。郁人の父親が住んでいる場所の住所を奏は教えてもらったのだから。少し遠い場所だけれども、決して尋ねていけない場所ではない。電車でせいぜい三時間の距離。
 それなのに、奏は今だに行けない。電源を切られたままの携帯電話が、まるで、自分を拒絶しているようで。ありえないと思っているのに、不思議と、想像してしまうのは、冷たい表情で別れを告げる郁人の姿だった。なぜ、こんな嫌な想像ばかりが浮かんでくるのだろうか。
 奏は大きな溜息を一つ零す。大仰なほど、静まり返った部屋にその音は響いた。そっと、顔から手のひらを外し、何とはなしに、ポンと白鍵を一つ押してみた。響き渡った音が奏にとある曲を思い出させる。サティのジムノペディ。偶然にも、その始まりの一音だった。ノロノロとした仕草で、その曲を弾き始める。四小節ほど弾いたタイミングで、微かな音が耳の端で聞こえた。ドアの開く音だ。誰かが、練習室に入ってきたのだとは分かっていたが、手を止め、振り返ることさえ億劫で、奏はそのまま曲を弾きつづけた。
 自分でも嫌になるほど、どこか感傷的でメロウな響きの演奏に奏は笑い出したくなる。馬鹿馬鹿しい。昔も今も、郁人には振り回されるだけ振り回されて、それでも、奏は郁人が好きなのだ。
 自分を見つめる綺麗な鳶色の瞳、けしかける様に奏の綺麗な指を撫でては握る節ばった手、時に恥ずかしくなるほど甘ったるい言葉を耳に囁く綺麗な唇。そんなものが嫌でも思い浮かんできて、そんな自分に奏は呆れ果てた。どうしようもない、と自棄になりながら、最後まで曲を弾き終えると、絶妙のタイミングでパチパチパチ、という拍手の音が聞こえた。
 たった一度だけだ。その音を聞いたことがあるのは。それなのに、なぜ、それが、彼の拍手だと分かるのだろうか。独特の癖のある叩き方だからだろうかと首を傾げながら、奏はそっと振り返った。そこには、思ったとおり、宇野辺美菜の兄である、衛が立っていた。相変わらず、その外見はどこか華やかで、胡散臭いほどのにこやかな笑みをその顔には刷いている。けれども、奏には直感的に理解できた。衛の目はどこか冷めていて、奏を小馬鹿にさえしているように見える。
「随分と、情熱的な演奏も出来るんだな。ただの優等生じゃないわけだ。まあ、あの二宮克征の息子なんだから当然か」
 その口からつむぎだされる言葉も、やはり、どこか奏を侮っている。そもそも、奏は父と比較されることが好きではない。音大に入るまでは、ここまで、その世界で父の名が通っていることを奏は知らなかった。奏が物心つく前に父は死んでしまっていたし、父の演奏を聞いたことさえないのだ。自分にとって、父、というならば兄の響の方が余程その存在に近しい。だのに、誰も彼もが父と自分を比較しようとする。その事に、奏はいい加減、辟易していたというのに。
 その上、衛のこの態度だ。造作も無い子供をあしらおうとしているようで、奏はむっと眉間に皺を寄せた。
「…何の用ですか。練習室は、関係者以外、立ち入り禁止ですよ」
 それでも辛うじて敬語を保って奏は衛に噛み付く。だが、奏の反抗心など肩ですかすように衛はクスリと笑って奏に近づいた。
「いや、君の才能が余りに勿体無くてね。諦め切れなくて、再度、スカウトに来たんだが」
 上っ面だけの美辞麗句。それを白けた気持ちで聞きながら、奏は、椅子から立ち上がりもせず、鼻で笑うように衛を見上げた。
「別に才能なんてどうでも良いんだって美菜から聞きましたよ? どうせなら、適当に顔の良いモデルでも拾ってきて、赤いバイエルでも弾かせたらどうですか?」
 痛烈な嫌味を奏が言えば、衛はおどけたように眉を挙げて肩を竦めて見せた。
「言うねぇ。お人形扱いはプライドが許さないって?」
 衛は奏のすぐ傍にたち、無遠慮な仕草で手を伸ばすと、奏の細い顎をグイ、と乱暴に掴んだ。
「そういう所、兄に似てるな。……嫌いじゃ無いが。だが、小生意気が過ぎると、痛い目に遭うということを覚えたほうが良い」
 確か、衛は初めて会った時も響を知っているような口ぶりだったと奏は思い出す。父の次は兄か、と苦笑いが零れて、相応に乱暴な態度でその顎を掴む手を奏は振り払った。
「アンタ、失礼が過ぎるだろ? 第一、痛い目って何だよ? 俺と、アンタじゃ今後一切、関わりがあるとは思わない」
 唸るように、今度は全く敬意を払わない言葉で奏は言い返す。衛は微かに目を細めて、奏のそんな姿を眺めたが、何を思ったのか、クツクツと喉の奥で押し殺すように笑った。それが、なぜだか、奇妙に子供じみていて、楽しくて仕方が無い、という風に見えて、奏は微かに首を傾げる。
「馬鹿な子供だな。俺に逆らったら、絶対にプロになんてなれないって事だ」
 どうだ、参ったかと言わんばかりに衛は言ったが、奏は、その言葉に噴出してしまった。声を立てて笑い続けながら、その合間に、
「別に良いけど。ってか、そもそも、俺、プロになる気無いし? 美菜から聞いてないんですか? お兄さん」
 と嘲るように言い返してやった。
 鳩が豆鉄砲を食らったように、衛の目が見開かれる。それが、どこか痛快で、奏は尚笑った。だから、気がつかなかったのだ。次の瞬間、衛の表情が忌々しげに歪んだことに。そして、その口が微かに動き、
「なんで、そんなとこまで似てるんだ」
 と、呟いたことに。

 奏がひとしきり笑って、漸く落ち着いた頃に、衛は苦虫を噛み潰したような表情で、一枚の名刺を奏に差し出した。てっきり、腹を立てて部屋を出て行くとばかり思っていた奏は、それが意外な行動に思えて、きょとんとした表情で思わず名刺を受け取ってしまう。
「何ですか、これ」
 初めて会ったときにも名刺を渡されたが、その時とは違う名刺のようだった。もっとも、最初の名刺など、ろくに見ずに捨ててしまったので、確かなことは分からないが。
 今、渡された名刺には一切の肩書きが書いていなかった。名前と、住所と、電話番号だけの不思議な名刺。
「お前が、ただの馬鹿な子供じゃないことは分かった。だが、あまり、生き方が上手じゃないな。その才能を生かさないのは、利口じゃない」
 今度は、全く愛想など感じさせない、打って変わったぶっきらぼうな表情と口調で衛は唐突に言った。奏は、ふ、と直感的に悟る。今、目の前の男はかなり素に近い状態で話しているのではないかと。そうすると、かなり嫌な感じが払拭される。不思議な話だ。愛想良く笑っているよりも、ぶっきらぼうな態度の方が好感が持てるなど。その理由を、奏は深くは考えなかった。
「…才能って…別に、才能なんて無くても顔が良くて現役音大生なら誰でも良いって企画なんですよね?」
 奏がどこか砕けた、あっけらかんとした口調で言えば、衛は思わずといった風な苦笑いを漏らした。
「美菜だろ。アイツは、俺を毛嫌いしてるからな。幾らなんでも誰でも良いなんて言わないさ。ある程度の才能は必要だ。……ただ、企画を通す狸親父どもに聞く耳が無いってだけの話でな」
 どこか投げやりな口調で、奏には良く分からない事を衛は独り言のように呟いた。何と答えていいのか分からずに、奏が首を傾げ困惑したように見上げると、衛は奏の肩をポンと軽く叩き、
「まあ、気が変わったら連絡をくれ。悪いようにはしない。……俺は、お前のピアノ嫌いじゃ無い。父親と…それから兄にも少し似てるな」
 と、どこか、柔らかい口調で言って部屋をあっさりと出て行った。
 奏はその背中を眺めながら、なぜだか思い切り脱力してしまった。まるで、台風が一過したようだと思った。良く分からない、変な人だと思う。美菜の兄なのだから、悪い人なのではないのだろう。けれども、やはり、いまいち理解に苦しむ人物だというのは間違いなさそうだった。それなのに、不思議と、嫌悪感が沸かない。
「……変なの」
 小さな呟きは無意識のものだった。静まり返った練習室にポツリと落ちた言葉に、ふと、奏は気がついた。一瞬だけ、自分の中から、すっぽりと郁人に対する憂慮が忘れ去られていたことに。胸の奥が、なぜだか、ざわつく。

 郁人に会いに行こう。

 きゅ、と手のひらを握り締めて奏は決心した。










「郁人さん」
 と、どこか遠慮がちな声が少し離れた場所から掛けられる。ふと、見つめていたノートパソコンから顔を上げれば、どこかおどおどとした表情の女性が郁人を窺っていた。この人の、こういう所は全く変わらないな、と思いながら郁人は、
「なんでしょうか」
 と、他人行儀な返事を返す。他人なのだから当然だ。郁人にとっては、他人以外の何者でもない。例え、外からは『家族』という名の定義で括られている関係だったとしても。
「お父様がお呼びです」
 遠慮がちな声、郁人の顔色を窺うような卑屈な表情。子供の頃から、郁人はこの人の、そういうところが嫌いで、どうしてもイラついてしまうのだった。愛人の子、といびられたほうが、むしろマシだったのではないかとさえ思う。
「……分かりました」
 だが、そのイラつきを完璧に押し殺して、郁人は無表情のまま立ち上がった。自分でも不思議に思うくらい、この家では郁人は無表情だ。感情を表に出すことが、いかに自分に不利になるか郁人は嫌というほど知っている。特に『父親』と呼ばれる存在の前では。
 呼ばれた要件など、大体見当がつく。数ヶ月前に入学したばかりの大学を、除籍したとかそんな話だろう。それに頷いたのは自分だから、別に後悔はしない。けれども、刺すように痛む胸を誤魔化すことは出来なかった。
 自分の選択を、きっと、彼は許さないだろうなと思う。一番大切で、大事にして守りたいと思っている幼馴染で、恋人だった彼は。
 そもそも、酷く潔癖症な人だから、郁人の中にある否定できない昏い部分とは相容れないことは知っていた。だから、彼の前では郁人はその部分をひた隠しにしていたし、それで上手く行っていると思っていた。けれども、やはり、錯覚は錯覚だったらしい。
 自分の中にある、この冷酷な部分をきっと彼は理解できないだろうし、受け入れても、許してもくれないだろうなと思う。血の業、というものを感じるのはこんな時だ。半分だけ血の繋がった兄は、良く言う。郁人の方が、余程、父親に似ている、と。
「その冷たいところが、そっくりだよね」
 と、嘲笑うように兄は言ったが、郁人はその言葉を否定することが出来なかった。一番大事なもののためならば、何を犠牲にしても良いと本気で考えている自分を知っているからだ。その為ならば、平気で嘘もつく。自分の気持ちにさえ。
 軽く頭を振った拍子に目に入った自分の髪の毛が、真っ黒だという事に微かな違和感を感じた。だが、まだ子供だった頃のような抵抗は無かった。むしろ、彼を思い出せて良いとさえ思う。彼の髪の毛は真っ黒で、サラサラで、とても綺麗だった。飽くことなく、触れていたいと思うほど。けれども、今の自分には、それに触れる権利が無いということも知っていた。ほんの数週間前までは当たり前のように手の中にあったものが、今では、余りに遠い。遠すぎて眩暈がする。

 微かに胸の押し寄せてきたのは、絶望、と呼ぶのが一番近いような感情だった。





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