novelsトップへ 音の轍-4へ 音の轍-6へ

音の轍 - 5 …………


 出会った時から、大概、響は常に不安定な部分を胸の奥に隠し持ち続けていたが、透が思い出せる範囲で、かなり酷く壊れたことが二度あった。一度は、まだ高校生の時、響がアルバイトをしているレストランバーと引き換えに、奏の幼馴染である郁人が父親の元に行ってしまった時。そして、もう一度は二年ほど前、その郁人が戻ってくるかもしれないと梓に聞かされた時だった。
 母親の深雪が死んだ時でさえ、さして動揺していなかった響。そんな彼がおかしくなるのは、決まって弟の奏が深く関わっている時だった。
 正直、透には響のその偏執じみた弟への愛情が理解できない。響は奏を傷つけることを酷く恐れている。そして、それ以上に、強迫観念を抱いているのではないかと思うほど、奏が離れていくことに怯えているのだ。だが、当の本人である奏はそのことを余り理解していない。それが時折、透の悋気に触れる。もちろん、響の手前もあるし、奏を憎んでいるわけでもないので透はそれを巧みに隠してはきたが。
 周囲の人間は誰も気がついていないが、もともと、透は自分の気性が酷く冷淡だと知っている。表面上、誰とも穏やかにそつなく付き合えるのは、誰に対しても無関心で、どうでも良いと思っているからだ。いつから、そんな風な性格になってしまったのかは、もう昔過ぎて覚えていない。だが、子供の頃から、自分はそんな風に、無感動で虚ろな人生を送るのだろうと諦めに似た気持ちを抱き続けていたのだ。
 それが、ひっくり返されたのは響と出会ってからだ。それまでの自分の平坦さが嘘のように、響に関わると感情が掻き乱され、自分の意思ではままならなくなる。これほどの激情が、自分のどこに潜んでいたのかと、透は感動さえ覚えたものだ。

 初めて透が響と接触したのは、高校に入学してまだ間もない頃、屋上で響が喫煙しているのを透が偶然目撃してしまったことがきっかけだった。響は透のことを知っていたのかどうか分からないが、透は響の事を知っていた。入学してすぐの実力テストで次席という成績を取り、しかも、その容姿が際立っていたのだ。真っ黒なサラサラの髪に黒目がちの綺麗な瞳。常に穏和な言動で、にっこりと笑いかけられれば男でもドキリとすると誰かが騒いでいたのを耳にしたこともあった。だが、その噂を聞いた時には透は響のことを『つまらないヤツ』だとしか評価しなかった。つまらない『優等生』だと。
 だが、その優等生は煙草を銜えたまま透を見つめていた。悪戯を見つかってバツの悪い顔をする子供のようなあどけなさが、そこにはあって、透はむしろ、そちらに気を取られてしまった。睨みつける目は確かに綺麗だけれど、どこか虚勢を張って必死に威嚇するネコのようなイメージがあった。透は一目でその猫を気に入ったから、自分も制服のうちポケットから煙草を出して笑って見せた。

 他人の警戒心を解くのは得意だ。どうすれば人の心を動かせるか。まるでゲームのように小さな頃から叩き込まれてきたからだ。人の上に立つには人の心を掴まなくてはならない。そのためにはどう振舞えばいいか。実に機械的にそれを教えてくれたはずの両親は、けれども、親として子供の心を一度として動かしたことは無い。それは何の皮肉だろう。

 案の定、透に操られるように響は一気にその警戒心を解いた。他愛が無い。透は一瞬、響をそう侮って、だがしかし、それが傲慢な勘違いだと悟らされた。
 火をくれと言った透に響は煙草を突き出して見せたのだ。その目には悪戯な色が浮かんでいて、笑っているように見える。その目を見た途端、透の胸はドンと強い力で突かれたような気がした。そんな風な衝撃を受けたことは、記憶の中には一度としてなかった。火に誘われる蛾のように、響に顔を近づけて煙草から煙草へと火を貰う。時間にして数秒のことだ。けれども、透は間にある煙草が酷く邪魔だと思った。今にして思えば、あの時に、自分は恋に落ちたのだろう。けれども、そんな純粋な感情に浸っていられた幸せな時間は、そう長くは無かった。一年と半年。実際はその程度の期間だ。
 繊細で不安定な響。それを壊さず、怯えさせず、ただひたすらに甘やかして、守って、その内側に少しずつ入っていくはずだった。実際、響は透の前では大抵のことを隠さなかったし、恐らく誰にも話していなかっただろう悩みも透に打ち明けた。親友としての信頼。それだけは確実に得てきたはずだったが、それさえも、あっさりと壊れてしまったのは十七歳の初冬のことだった。
 最悪のタイミングでなされた告白は、響の心を氷のように凍りつかせてしまった。けれども、あの時の透にあれ以外の、どんな反応が出来たというのだろうか。
 ボロボロで、もう、壊れる寸前のように傷ついていた響。自己嫌悪のまま、自分を殺してしまうのではないかと危惧するほど。しかも、その理由は実に下らない、透にとって見れば一体何が罪なのかと思うほどの他愛の無いことだったのだ。
 責められるべきは響ではない。母親としての義務を全うしない深雪と、子供だからと言って当たり前のように甘やかされている奏だ。その時だけは、透は憎しみのような感情をその二人に向けずにはいられなかった。けれども、その二人を憎んだところで透には響を止めることは出来なかった。
 その頃の響は、自分を傷つけることでしか、自分を支えていられないようだった。お前は人間の屑なのだと自分で自分を罵り、それに相応しい扱いを望んでいた。だが、幾ら響の望みとは言え、透には響を粗末に扱うことなど出来なかったのだ。一体、誰が、心底、しかも初めて愛した人を足蹴に出来ると言うのか。その頃の透は、目的の為に自分の心を歪めてしまえるほどには汚れていなかったから、ただ、ひたすらにそんな響を引き戻そうと、無駄な努力をし続けた。
 だが、透が響を守ろうとすれば守ろうとするほど、響は透を拒絶した。響が大事なのだと、愛しているのだと言えば言うほど、響は透との距離を置き始めたのだ。だから、響の近くにいるためには、ただ、ひたすら透は傍観者に徹するしかなかった。ただ、黙って、響のすることを見つめ、何も言わず、隣にいるだけ。
 それがどんなにか苦痛なことか、響は全く理解などしていないだろう。実に残酷な人間だと思う。挙句、時折、捨てられた猫のようにすがり付いて来ては自分を捕らえて決して離さない。質の悪い人間に溺れてしまったのだと気がついたときには、もうすっかり頭まで浸かってしまって、到底、抜け出すことなど不可能だった。

 抜け出せないなら、自分の心を歪めようとも、どんな嘘をつこうとも、望みを叶えるしかない。だから、二度目に響が壊れかけた時に透は「それ」を言い出したのだ。

 郁人が戻ってきたら、奏は自分から離れていってしまうだろう。自分のせいで郁人がいなくなったことを知ったなら、奏は自分を憎むだろうと、響は酷く怯えていた。
 既に響の母は亡くなっていた。こんな汚れた心では美しいピアノなど弾けるはずもないと、プロになる夢も既に捨てていた。響には、だから、奏しかいなかったのだ。奏を失ったなら、何も残らないと響はその恐怖に囚われていた。だがしかし、それ以上に、そんな自分のエゴで奏を縛り付けてしまうのではないかと、そのことに不安を覚えていたのだ。
 だから、透は巧みに言葉をすり替えて響にその「契約」を提案したのだ。今更、愛だの恋だのを語ったところで響は信じないだろうし、信じたとしても拒絶されるのは火を見るよりも明らかだった。それならば、無機的な契約という形を取れば響は受諾するだろうと踏んでのことだった。
 奏には自分と恋人になったのだと言えば良い。実際に、外では恋人同士のように振舞ってやる。奏が響から離れたとしても、代わりに自分が必ず傍にいてやるから、と透は提案した。その代わりに、透が響に出した条件は三つだ。透以外の人間と絶対にセックスをしない、ということと、決してピアノをやめない、ということと、透にだけはピアノを聞かせるということ。
 響は暫く考えて、結局、その契約を受け入れた。そして、その関係は今でも続いている。歪んだ関係なのは、十分、分かっているけれど、一番の望みのためならば、その他のものを、どれだけ歪めようとも透は構わなかった。そう思ってしまう程度には、汚れた大人になってしまったのだ。
 透の望み。それは、ただ、響の隣にいることだけだ。







 激しい雨の音を聞きながら、透は苛々とキーボードを叩く。仕事が遅々としてはかどらないのは、煩わしいことに、ここ最近、構いきりだったからだ。何もかもを捨てて、相続放棄の手続きまでして、やっと出てきたはずの家なのに、最近の干渉の仕方は実に辟易とするものだった。
 大きな記事の特集を任されたばかりで、ただでさえ忙しい。時間が取れず、梓の店にも最近は行っていない。当然、響とも暫く連絡を取っていなかった。
 もともと、響は余程のことが無ければ自分のほうから連絡は取らない。精神的に余裕が無いときに、フラリと気まぐれに立ち寄ることはあっても、実に他人の機微に敏い人間だから、仕事が煮詰まっていたりすれば、すぐに察してあっさりと帰ったりする。だから、いつでも、その手を引き寄せるのは透のほうからだった。
 正直、『契約』しているとはいえ、透は響をあまり信用はしていない。何かがあれば、簡単に契約など破棄して、どんな男とでも響は寝るだろうと思っている。この場合の『何か』とは、ただ一つ。奏に関することだけ。
 特に、最近は嫌な情報ばかりが耳に入ってくる。だから尚のこと心配だった。畑は同じではないが、郁人の本当の父親と、透の父親は仕事上、繋がりがある。郁人のほうは、まだ学生で、そこまでのことを把握していないようだが、透は必要があって多少、その辺の動向には注意を払っていたのだ。だから、それ、は予測範囲のはずだった。

 ピンポーンと、雨の音だけが聞こえる静まりかえった部屋にインターフォンが響く。こんな夜更けに、連絡無しに訪れてくるのは、ただ一人。響だけだ。けれども、響は、今、透が忙しいことを知っているはずだった。知っていて、尚、訪れた理由をもっと深く考えるべきだったのに。

 忙しさと、精神的な疲れから、透は致命的なミスを犯した。

 玄関先まで出迎え、
「どうした?」
 と尋ねた透に響は答えず、ただ、薄く笑って、
「すまない」
 と謝っただけだった。綺麗な笑顔だった。どこか優しげで、けれども果敢なくて、今にも消えてしまいそうな、そんな表情。透は一瞬、その顔に見とれ、自嘲的な苦笑を漏らす。一体、何年、一緒にいるというのか。だのに、未だに見蕩れるとは馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
「上がっても構わないか?」
 いつになく、有無を言わせぬ、けれども穏やかな口調で響は尋ねた。響は確かに毒舌だし、歯に衣着せぬ物言いをするが、むしろ他人の感情には酷く敏感で、どちらかと言えば過ぎるほど遠慮がちな性格だった。だから、こんな風な言動を取る響は、かなり珍しい。透は微かな違和感を感じつつも、響を拒むことなどあり得ないので、そのまま部屋に通した。
 デスクに広がっている書類や、パソコンのディスプレイをチラリと見やり、少しだけ申し訳なさそうな表情で、響はソファにそっと腰を下ろした。
「どうした?」
 仕事の手を止め、コーヒーを入れて持ってきた透を見上げ、響は、やはり薄っすらと笑った。男を誘うような、どこか艶めいた表情。響が、こんな表情を透に向けることは、まずあり得ない。他の、どうでも良いような男を誘う時と同じ、こんな表情を。だから、透は眉間に皺を寄せ、咎めるように響を見下ろしたが、響は、表情を変えず、
「ん。セックスしたくなって」
 と、サラリと答えた。こんな物言いも常には無いことだ。自虐的にセックスしたがっている時でも、響は、それを言葉にしたりしない。どちらかと言えば、先に透が察して、言葉も無いままなだれ込む、というほうが圧倒的に多い。
 だが、今の響は、悪戯な表情を浮かべて、ただ、じっと透を上目遣いに見上げてくる。そして腕を伸ばし、透の首にしがみついた。
「…響?」
 訝しげな表情のまま尋ねた透に、響は黙ってキスをした。触れるだけのキスが三回。四回目で口を開けろと舌で催促されて、透は条件反射のように舌を絡ませた。
「ンッ…」
 甘ったるい、聞いたことの無いような喘ぎを漏らして、響はただ透の体に抱きついた。まるで恋人同士のように甘えた仕草を透は訝しく思う。酔っているのかとも思ったが、響の体から酒の匂いは一切しなかった。では、何が響にこんな行動を起こさせているのか考えて、けれども、さっぱり答えは出なかった。だから、しがみついてくる体を些か強引に引き離す。見上げてくる響の瞳を見つめれば、拒絶に傷ついたような色を浮かべていた。
「そんな気にならない?」
 自嘲的な笑みを浮かべながら尋ねてくる瞳に、虚勢や嘘は見当たらない。

 どこにも、嘘は、見当たらなかった。

 だから、尚更、透は答えを見失う。まるで、心底、透に甘えたがっているような、そんな表情は、もう何年も見たことが無い。けれども、確かに、以前は見たことがあった。

 お前の傍にいると、安心する。肩の力が抜ける。居心地が良い、と照れ隠しなのかぶっきらぼうに告げた響。それに、光栄至極と透がふざけたら、響は透の頭をポカリと軽く殴って笑ったのだ。何もかもを明け渡したような、甘えきった、無防備な顔で。

 その時の表情と、今の響の顔が重なって見える。酷く無防備なその表情は、透にとって喜ぶべきことのはずなのに、胸の中に湧き上がってきたのは、途方も無い不安だった。まるで、このまま、どこか遠くに響が行ってしまうのではないかというような。
「…響。何考えてる?」
 尖った声で透が尋ねると、響は、何を質問されたのか分からない、と言ったような不思議そうな表情で首を傾げた。そんな仕草さえ、どこかあどけない。無防備な子供のようだった。虚を突かれたように、透は言葉を失う。この危うさは何なのか。不安と、愛しさと、切なさがごちゃ混ぜになった複雑な感情のまま、透は響の体を強くかき抱いた。でなければ、そのまま、響が消えてしまうような気がした。
 酷く乱暴に、その呼吸さえ吸い上げるようにキスをすれば、響は縋るように透にしがみついてくる。そして、キスとキスの合間に、
「透、透」
 と、その名を呼ぶのだ。恋人に甘えるかのような、少し上ずった声なのに、なぜ、悲鳴のように聞こえるのか。透は、それが気になって仕方がない。
「…響?」
「…何?」
 その存在を確かめるように、一度、体を離して響の顔をじっと見つめる。だが、響は消えたりしない。確かに、透の腕の中にいた。いたはずだった。
「何があった?」
 尋ねても、返ってきた答えは、僅かな間と、
「…別に、何も」
 という、小さな声だった。それよりも、早く先に進めというように、響は透にピタリと体を寄せる。慣れた手つきで透のズボンの前立てを寛げて、誘うようにそれに触れた。それ以上、何も言う気が無いと言う意思がありありと見え、透は会話を放棄する。誘われるまま、手を、舌を這わせれば、いつに無い素直な嬌声を響は奔放に上げた。何もかもがいつもとは違う。一切の罪悪感や、戸惑いをかなぐり捨てたような、正直であからさまな反応を返す姿は、透が初めて見る響だった。
 透は、それが演技ではないかと疑ってしまう。自分に、響が、何か、重大な嘘を吐こうとしているのではないかと。けれども、幾度、確かめるように響のその潤んだ黒目がちの瞳を覗き込んでも、何の揺れも嘘も見当たらなかった。だから、透は次第に冷静さを失い、溺れるように響を抱いた。まるで、十代の頃のように、衝動が抑えきれずに何度も、何度も。
 響の負担は大きかっただろうに、結局、最後の最後まで、響が音を上げることは無かった。むしろ、一秒でも離れることが嫌だとでも言わんばかりに、必死に、透にしがみついてくる。それが、切なくて、愛しくて、疲れ切って眠ってしまうまで、透は響を離さなかった。



 ふと、透が目覚めたのはまだ薄暗い早朝だ。伸ばした腕の先に、期待した体温は無かった。すっかり冷め切っていたシーツ。部屋のどこにも響の気配は無い。いつの間にか、帰ってしまったのだと思ったら、透は遣る瀬無い気持ちになった。
 相変わらずの、気まぐれぶりだ。ふらりと現れて、人の気持ちを散々掻き乱して、さっさといなくなる。実に、質が悪い。そのことに透は些か腹を立て、けれども、やりかけの仕事のことを思い出し、結局はいつものように、響の事はそのまま放っておいたのだ。仕事と家のことが一段落したら、すぐに連絡すれば良いと。






 だから、響が辞表を出して教師を辞め、携帯も解約し、一切合切の手続きを綺麗に終わらせていなくなってしまったことに気がついたのは、それから一週間も経ってからの事だった。




novelsトップへ 音の轍-4へ 音の轍-6へ