音の轍 - 4 ………… |
母、二宮深雪と響の確執が顕著になったのは、深雪の再婚話が持ち上がったときだった。響は、高校一年生になっていた。だが、確執、と言っても深雪には何の自覚も無かっただろう。そもそも、母が死ぬまで響は完璧に『しっかりしたお兄ちゃん』を演じ続けたのだから。苦手意識が、しだいに苛立ちに変わり、仕舞いには半ば憎しみのようになってしまったことを母は最期まで気がつかなかった。 あるいは、薄っすらと気がついていたのだろうか。だから、今際の際に一言、 「響ちゃん、今までゴメンね」 と、響に謝罪したのだろうか。今となっては分からない。いずれにしても、響が大人になることを余儀なくされた理由の半分は、深雪にあったと言っても過言ではない。だからと言って、響が深雪以外の女から生まれたかったかと言えば話は別だ。憎しみとは別の次元で、母への愛情と思慕はあった。だからこそ、響は酷く苦しむ羽目になったとも言えるが。 むしろ、憎しみだけだったならば楽だったのだろう。愛があったから苦しかった。響を一番苦しめ続けているのは、重圧でも憎しみでもない。自己嫌悪なのだ。愛すべき家族を疎ましく思ってしまう。憎しみを抱いてしまう。そんな自分が響は心底嫌だった。つまるところ、響が自暴自棄とも思える行動に走った原因はそれに尽きるのだけれど、恐らく、それに気がついていたのは恩師である都築と、今となっては何と呼べば良いのか分からない存在になってしまった佐原透だけだろう。だが、そんな響に対しての二人の対応は全くと言っていいほど正反対だった。 都築は響の顔を見るたび、それを責め、窘め、やめなさいと諭した。時には体に言い聞かせようとでも思ったのか、酷いセックスを与えられたことさえあった。対して、透は完全なる静観を貫き通した。自分のことなど何とも思っていないのではないかと疑ってしまうほど、透は響を責めなかったのだ。どちらが楽だったのかと聞かれると響は答えられない。だが、あの時の響にはどちらとも必要だった。 ただひたすらに自分を責めて、蔑ろに扱ってくれる存在と、何事も無かったかのように常に平素と同じ態度で接してくれる存在と。 もともと、深雪はひどくあどけない、母親としてはどこか頼りない女性だった。だが、父の克征は、そこが好きで結婚したのだと、いつでも響に幸せそうに笑って聞かせるのだった。克征が生きていたのなら、それはそれは理想的な、美しい幸福な家族だったことだろう。だがしかし、悲劇は起きてしまったのだ。父が不慮の事故で死んでしまった。酔っ払いの運転手に跳ねられて死ぬ、という実にあっけない死に方だった。 しかも、父も、母も、血縁に恵まれていなかった。克征の両親は克征がまだ学生の頃に二人とも亡くなっていたし、深雪はもともとが母子家庭で育っていたが、その母も深雪が響を産んですぐの頃には病気で亡くなっていた。おまけに、克征も深雪も一人っ子だったのだ。だから、克征が死んで、頼れる親戚と言うものが深雪達にはいなかった。それも運が悪かった。 克征は大黒柱だっただけではなく、家計から何から全て自分が仕切っていた。深雪がしていたことと言えば、家の中の簡単な家事と、子供をただひたすら可愛がることだけ。そんな女性が、突然、変われるはずも無い。克征と深雪共通の友人である佐宗梓の好意で、レストランバーのシンガーとして職は得たが、だからと言って、決して生活は楽ではなかった。 無邪気であどけないと言えば言葉は良いが、いささか、大人としては頼りなく、未熟であることを否めない母の代わりに、必然的に響はしっかりとせざるを得なかった。そして、響がしっかりすればするほど、まるで、悪循環のように深雪は無意識に響に依存するようになった。 『響ちゃんがいてくれてよかった』 『響ちゃんがしっかりしているから』 『響ちゃんがいれば大丈夫』 という深雪の言葉に、響がどれだけ縛られ、重圧を感じていたか、恐らく深雪は死ぬまで真には理解していなかっただろう。彼女の頭の中からは、響がまだ自立していない、たかだが十代の少年だと言う事実は、完全に欠落しているようだった。無意識にしろ、深雪は響に夫の役目と、父の役目と、家長の役目を求め続けた。 そのくせ、質が悪いことに、深雪は奏の事は過ぎるほど子ども扱いし、母親として振舞いたがったのだ。ある種の逃避だったのかもしれない、と、時が過ぎた今は思えるけれど、それでも、その時の響にはそれが一番きつかった。同じ深雪の息子として生まれて来たというのに、先に生まれたというその理由だけで、自分にはありとあらゆる枷がはめられ、奏には何もかもが許されたと響が感じたことを誰が責められるだろうか。 克征が死んでから、もう、ずっと長い事、響は逃げたかったのだ。自分はただの無力な子供なのだと深雪に叫びたかったのだ。 だから、その話が持ち上がったとき、響はただ純粋に喜んだ。だが、母の幸福を思って喜んだのではない。ただ、自分の為に、自分の為だけに喜んだ。やっと、逃げられる、と思ったのだ。だが、最初、響はそのことを自覚していなかった。 レストランで深雪を見初めたというその男性は、年の頃合も深雪とは釣り合っていたし、穏やかで温和な人柄で、しかも経済的にもしっかりとした足場を持っている大企業の重役だった。深雪が彼と結婚してくれれば、何もかもが上手くいくと響は思ったから、しきりに、深雪にその再婚話を勧めた。だが、深雪はそれに対しては気乗りしない様子で、結局、仕舞いにはそれを断ってしまったのだ。なぜ、こんなに良い話を断るのだと尋ねた響に深雪は言ったのだ。まだ、克征を愛しているのだと。多分、一生、死ぬまで愛しているから、他の人と結婚することは無いのだと。 それを聞いた時、真っ先に響が感じたのは憎しみにも近い怒りだった。愛だけで生きていければ誰も苦労しない。しかも、父が死んで、すでに7年以上が経っているのだ。過去を美化して、それにすがっているようにしか響には思えなかった。母の幼稚な子供じみた感傷、その為になぜ自分が犠牲にならなくてはならないのか。 響はもうずっと長い間、それこそ物心がつくかつかないかの頃から父に憧れ、尊敬し、ピアニストになりたいという夢を抱いてきた。恩師の都築が止めるのを振り切りピアノを弾くアルバイトを続けていたのも、経済的に厳しい家計の状況を考えて、音大に進学するための資金を貯めたかったからだ。だが、その全てさえ否定されたような気がした。 深雪がその男性と結婚さえしてくれれば、とりあえず、家の生活費だとかそういったことに響が煩わされなくなる。音大に行くことも、そう難しくないだろうと思ったのに。そんなささやかな夢さえ深雪は気がつかず、簡単に潰そうとするのだ。 だが、それと同時に響は気がついてしまった。自分のどうしようもなく醜いエゴに。 家族の為にと言いながら、それに酷く重圧を感じたり逃げ出したいと思っている自分に対して自己嫌悪を感じることはしょっちゅうだったが、そこまで、自分自身が嫌で嫌で仕方が無い、と思ったのはその時が初めてだった。母としては失格だと心の底で深雪を罵りながら、家族の為に犠牲になっていると思いながら、結局のところ、自分だって母の本当の幸福など願っていなかったのだ。 その出来事は、それまでうっすらと横たわっていた響と深雪の間の溝を、否定しようも無いほど明らかにしてしまった。 響は完全に母に対して心を閉ざし、ただ、ひたすら『良い子』を演じ続けた。そんな響の逃避場所は、高校で知り合った佐原透という友人の存在だけだった。 透と響が知り合ったのは、高校に入学して間もない頃、屋上で響が喫煙しているところを目撃されてしまったのがきっかけだった。高校での響は、成績も優秀だし、品行方正で非の打ち所が無い『優等生』で通っていた。完璧すぎて近寄りがたい、とまで言われていた。だから、その現場を目撃された時、正直、響は失敗したと心の中では酷く狼狽していたのだが。 「ああ、俺も隣、良い?」 透は驚いた素振りも見せず、あっさりとそう言って響の隣に腰を下ろし、制服の胸ポケットから当たり前のように煙草を取り出して銜えたのだ。それから、ライターが無いのに気がついたのか、 「悪い。火もらえる?」 と響の顔を真直ぐに見つめた。その眼鏡の奥の瞳が悪戯な子供のように笑っていることに気がつき、響は一気に肩の力が抜けた。だから、からかうようにライターではなく、まだ火のついている煙草を銜えたまま透に突き出した。透は一瞬だけ目を見開いて、驚いたような表情を見せた。響は、なぜか、それが爽快だと感じたのだ。多分、恐らく、透はこんな風に驚いたり、動じたり滅多にしないタイプの人間だと、直感で感じたからかもしれない。 だが、透はすぐに人の悪い笑みを浮かべると、あっさりと響に顔を近づけ、煙草から火を貰った。そのあまりに近い距離感に、何の違和感も感じていない自分を響は不思議に思いながら、透の顔を見つめていた。透もまた、目を開いたまま響の目を見つめていて、なぜか、視線を逸らすと負けのような気がして響は、透が離れていくまで、決して視線を逸らさなかった。それを透はどう思ったのだろう。まるで、面白いものでも見つけたかのように目を細めて笑っていた。 「絶対に懐かない気位の高い猫に擦り寄られた気分だった」 と、大分後になって透はその時の気持ちを明かしてくれたけれど。 その時は気がついていなかったが、そんな風に、最初から響にとって透は『特別』な存在だった。 透との関係が一番、何の柵も無く、純粋に大切だったのは、けれども、最初の二年ほどの間だけだった。もともと、他人とは距離を置いて付き合う響が、唯一、隣を許したのが透で、二人は急速に親密になったけれど、だからと言って、親友の枠を超えたりはしなかった。時折、色めいた駆け引きのようなやり取りをすることもあったけれど、それでも、恋と呼ぶには曖昧な、けれども友情と言うには密度の濃すぎる関係を続けていたのだ。 その頃の響は、とにかく、何でも透には話していた。当然、母の深雪にも、深雪よりもむしろ母として慕っていた梓にも、恩師の都築にも言えないような、醜い感情の吐露でさえ、透には見せていた。それに対して、透は一度として響を責めたり諭したりしたことは無い。透の言うことはいつも決まって一つだけ。 「響は潔癖症で完璧主義すぎる。たかだか十六や七の未成年が、何もかも上手くなんてやれるはずがない。端から不可能な事をお前はやろうとしているんだ」 と透は淡々とした口調で、むしろ客観的に響に告げた。その度に、響は少しだけ救われて、心の荷物が軽くなるような気がした。 そのままの響で良いのだ、と肯定されているようだった。だから、尚更、響にとって透の存在は避難場所で拠り所だった。それが、どうにもならないほど歪んでしまったのは、響が十八歳になったばかりの初冬のことだ。 今でもそのことを思い出すと、本当に吐いてしまうほど響は自己嫌悪に駆られる。 梓に、どうすれば良いのか、と響は相談を持ちかけられた。他の誰にも相談できなかったのだろうことは響にも分かる。郁人も奏もまだ小学生で子供だったから、当然、話などできるはずもなかった。深雪に話したところで、途方に暮れるだけで現実的な意見など聞けるはずも無い。もともとが愛人として囲われて、お遊びのように与えられた店だったから、従業員にだって相談できなかった。だから、一番、しっかりしていた響に相談せざるを得なかったのだろう。 郁人を差し出すか、店を返すか。 郁人の父親に決断を迫られているのだと、真っ青な顔で打ち明けた梓に響は土下座して頼んだのだ。郁人の事は諦めてくれと。 簡単な計算だった。店を返せば響は、アルバイトをしていた場所を奪われる。ピアノの練習時間を削られずに金を稼げる場所を失えば、必然的に音大への進学は難しくなると思った。それ以上に、深雪が職を失えば、家計が逼迫するのは火を見るよりも明らかで、音大に進学することなど到底不可能になるだろう。だから恥も外聞も無く、響は床に頭を擦りつけて懇願したのだ。 まるでエゴの塊だ。 自分の夢のためだけに、梓に息子を諦めさせ、奏の親友を奪ったのだ。 郁人が去った後の奏は、とても見ていられなかった。あどけない、屈託の無い伸び伸びとした子供のはずだった。それが突然に大人びて、何かを諦め、抑え込むような性格になってしまったのだ。奏のピアノにしても同じだった。響がとうに失ってしまった、自由でおおらかな子供らしさが次第に消えて行き、面白みの無い、優等生的な演奏に変わってしまった。それは全て自分のせいなのだと響は酷い自己嫌悪に襲われた。 だが、梓はそんな響を責めなかった。逆に、響に謝罪したのだ。本当は最初から答えは決まっていたのに、その責任を響に押し付けただけなのだと。土下座して謝らなくてはならないのは自分だから、罪悪感を感じなくても良いと梓は言ったけれど、むしろ、責められなかったことが響には辛かった。 誰も、ただ一人として響のことを責めなかった。誰でも良い、お前は自分のことしか考えていない屑だと響は罵って欲しかったのに。 唯一の望みのように、縋るように全てを伝えた透に告白されたのは、この時だ。 当然、透は響を責めなかった。もう無理をするのはやめろと透は言い、優しく響を抱きしめながら、ずっとお前が好きだったと言った。誰よりも何よりも愛しているのだ、とも。傷つきやすいその心を守ってやりたい、自分が守ってやると言われたとき、けれども、響が感じたのは強い恐怖だった。 自分の一体どこに愛される資格や、守られる価値があるというのか。いつか、透もそのことに気がつくだろう。 響にとって透はどうしても失えない存在だった。避難場所を失ってしまったら、自分はどこへ行けば良いのか分からない。だから響は透を拒絶した。この先、誰と寝ようとお前とだけは絶対に寝ない、友人としてしか見なさない、と言った響に、結局、透は最後に頷いた。 そして、逃げるように響は恩師の都築と関係を結んだ。 都築はどこまで響を理解していたのかいまいちはっきりとしないが、響が望んだ時に、望んだように響を傷つけてくれたから、響にはむしろ居心地が良かったのだ。あれも一種の逃避だったのかもしれないが、いずれにしても、あの時の響には都築の存在が必要不可欠だったのだ。 今では、父親代わりのように良い相談相手になっている都築だが、時折、冗談交じりに口説いてきたりもする。どこまで本気なのか分からず、響が困っていると、都築は楽しそうに笑うのだ。そんな都築を、透は決して良くは思っていないようだが、都築も含め、響は透と『契約』して以来、一度も他の誰かとセックスをしていない。透はどこまで信用しているのか分からないけれど。 これからも、響は、他の誰ともセックスしたりしないだろう。なぜなら、それが『条件』だったからだ。もし、響が、他の人間と寝ることがあったとしたら。 それは、もう、完全に透を失うことを覚悟した時だ。 |