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音の轍 - 3 …………



 母、梓の元を離れて過ごした五年間の間に、写真を撮ったのは一度だけだ。郁人が無理矢理入学させられた、有名私立中学の入学式の写真。
 校門の前で、郁人と父とその妻と、半分だけ血の繋がった車椅子の兄と写真を撮った。その写真は、今では机の引き出しの一番下の、一番奥のほうにしまいこんでいる。見たくないからだ。見たくないのに、捨てることも破くことも、まして燃やすことも結局出来なかった。
 ふと、思い立ってそれを取り出し、テーブルの上にそっと置いてみる。まるで、他人を寄せ集めて、無理矢理『家族です』と言い張ったような不自然な写真だった。誰も、笑ってなどいない。中でも、一番不自然なのは郁人の外見だった。
 写真の中の郁人は、真っ黒な髪と、真っ黒な瞳をしている。父親の元に引き取られたその日に、郁人は無理矢理髪を黒く染められた。栗色の髪では体裁が悪い、という、ただそれだけの理由で。目はカラーコンタクトを入れさせられた。理由は髪の毛と同じだ。
 父親の本妻は純日本風な外見をしていて、彼が郁人を『息子だ』『跡取りだ』と言えば、妾腹だと一目で分かってしまう。それが不都合だっただけなのだ。
 その中学校では、脱色も髪を染めることも校則で禁じられていた。だったら、黒く染めることも違反なのでは無いかと言えば、お前の髪がそんな色なのが悪いのだろうと傲慢に笑い飛ばされた。コンタクトは、成長期の目には本来は優しくないから、16歳以上になってからの着用を推奨されている。けれども、やはり、父親はそんなことには頓着しなかった。自分の跡取りになるのだから、軽薄で浮ついた外見では困る。それなりの見た目にしろと言われて、郁人はわけが分からなかった。分かったのは、『そのままの自然な郁人』の姿では、その家では生きていけない、認めてもらえない、ということだけだ。
 思い返せば、メチャクチャな五年間だったと思う。楽しかったことなど何一つ思い出せない。その家に、父親に、反抗するように何度も馬鹿な事をしでかして、けれども、結局、最後には逆らえない強い力で横面を張り飛ばされ、どんなことでも家の力で揉み消され、無力感と、虚無感を与えられた。世の中には、決して理解し合えない人間がいると言うことを、郁人は初めて知った。その相手が『父親』という血の繋がった、しかも自分を作り出した人間だったと言うのは何の皮肉だろう。だがしかし、郁人の兄の泰人は言うのだ。
「そんな事は無いよ。ユキは父さんとそっくりだ。凄く良く似ている。僕なんかより、よっぽど、ずっと似ているよ」
 と。そして泰人は笑う。郁人を嘲けるような、それでいて擦り寄るような媚びた表情で。この顔が、郁人は大嫌いだった。
 横暴で傲慢で、そして冷血な父。まるで腫れ物を扱うように、オドオドと、郁人の顔色を窺ってばかりのその妻。そして、阿るように郁人にひたりと寄り添い、ただ依存することしか出来ぬ脆弱な兄。その何もかもが鬱陶しく、苦しく、そして嫌で嫌で仕方が無かったのだ。
 そんな地獄のような家の中で、唯一、郁人を支えていたのは大事な幼馴染の奏だった。引き取られたその日に他は全て処分されてしまった写真の中で、一枚だけ必死に隠して守ったそれは、郁人と奏が二人並んで屈託無く笑っている、夏の写真だ。背後には向日葵畑が映っている。郁人がいなくなる直前に、二家族で遊びに行った避暑地での写真だった。自分を見失ってしまいそうな時、苦しくてどうにかなってしまいそうになった時、郁人は何度もその写真を眺めて自分を保っていた。
 陽だまりの中で屈託無く笑っている奏。温もりと、愛情と、幸福の象徴のような奏の笑顔だけが、ただ、郁人を支えていた。いつかは奏の元に帰るのだと、その思いが無かったなら、郁人はどうにかなっていたかもしれない。


 両手で自分の顔を覆い、郁人は深々と溜息を吐いた。指に触れる髪は、今では本来の栗色を取り戻している。カラーコンタクトだって、当然入れていない。郁人は『自然なままの郁人』なのだ。そして、そういられるのは傍らに奏がいるからだった。
 なのに、今、重苦しく頭に浮かんでくるのは半分だけ血の繋がった兄、泰人の顔だった。郁人にとって、泰人はまさに呪縛の象徴のように思える。逃れようとしても逃れられない、血の業、というものを思い知らされる存在。だのに、そのまっさらな黒髪と、黒目がちの潤んだ瞳が酷く奏に似ているのは、何という皮肉だろう。似ているのは外見だけで、泰人には奏のような清涼感も、凛とした潔癖さも、誰に依ることも無く一人で立つ芯の強さもありはしない。その本質はまるで違うのに。
 奏から離れて過ごした五年間の間に、郁人は馬鹿な事を沢山しでかした。それこそ、とても奏には言えない様な事も沢山。けれども、その中でも、『それ』が一番言えない。絶対に言えないだろう。それが郁人を縛り付ける。まるで、何かの呪いの様に。





 ***






 思いつくまま、ただ、没頭して奏はピアノを弾きつづける。余計な事を考えたくなかったからだった。夏休みに突入したせいで、省エネのために冷房はかなり弱められている。だから、防音の施された練習室は、締め切ってしまうとすぐに暑くなり始めた。じとりと滲み始める汗をそのままに、奏はとにかく弾きつづけた。
 穏やかな曲から、激しい曲まで何曲もの曲を。
 練習室は基本的に、学部生なら誰でも自由に使えるようになっている。防音をしているとは言え、さすがに窓を開けている学生もいるのだろう。弦楽器や、管楽器が混じって、様々な音が漏れ聞こえてきた。だが、そんな雑音さえ気にならないほど、奏はとにかく集中して弾きつづけた。珍しく、どこか冷静さに欠いた感情的な演奏だったかもしれない。
 『しばらく会えなくなる』
 ずっと待ち続けてようやく来た電話で、郁人はそれだけしか言わなかった。なぜだと尋ねた奏に、ただ黙り込んでしまった郁人。奏は不安を抑え切れなかった。
 『ゴメン』
 と、謝罪する声は、とても辛そうな声で聞いている奏の方が泣きたくなったほどだ。けれども、なだめてもすかしても、結局、最後まで郁人は奏に何もその理由を言わなかった。
 それが奏には酷く腹立たしく、そして寂しく、なによりも不安だった。
 ただ、信じていればいいのだと思う端から、いてもたってもいられない気持ちにさせられる。それは、過去に一度、奏が『捨てられた』ことがあるせいだ。捨てただなどと郁人は思っていないだろう。けれども、奏が捨てられたと感じたのだから、やっぱり捨てられた、というのが正しいのだと思う。
 その時の事情もきちんと聞いたし、結局のところ、郁人は奏を守ろうとして何も言わずに奏の前から去ったのだと奏もきちんと理解している。だが、そんな風に守られることを奏が望んでいたかと言えばそれは全く別の問題だった。
 奏は決して守られたいだなどとは思っていなかった。ただ、隣に並んで、同じ目線で進んで行きたかっただけだ。奏の前から去ることが仕方の無いことだったのなら、その理由を話して、一言、『待っていてくれ』と言って欲しかった。だが、郁人は何も言わずに一度は奏を『捨てた』のだ。同じことを、もう一度されてしまったら自分はどうなってしまうのだろうかと、奏はぼんやり考える。途中から思考があちこちに飛んで、仕舞いには、フェイドアウトするかのようにピアノを弾く手は止まってしまった。
 けれども。
 パチパチパチと不意に拍手をする音が聞こえて、奏は、はっと顔を上げて音のしたほうに振り返った。一体、いつの間に入り込んでいたのだろう。見たことの無い、背の高い男が練習室の片隅に立ち、面白がるように奏を見つめていた。
 年の頃合は、兄の響よりも幾らか上のように見える。二十代後半か、三十代前半か、といったところだが、奏の記憶にはこんな教授や、助教授、講師はいない。そもそも、酷く、華やかで印象的な男性なのだ。一度見たら忘れたりしないだろう。だが、こんな場所に入り込んでいるのだから、大学関係者に違いない。その素性を計りかねて、奏が訝しげに眉を顰めると、男は、子供をあしらうような、どこか小馬鹿にした笑顔を浮かべて奏に近づいてきた。
「君が二宮奏?」
 不躾に尋ねられて益々奏は眉を顰める。一体、誰なのだと半ば睨みつけるようにピアノの前から見上げると、男はおどけたように肩を竦めて見せた。いちいち、仕草が気障ったらしいと、奏はあまり良い印象を持たなかった。気障ったらしくて、どこか、傲慢さが滲み出ている。奏の好きなタイプの人種ではない。だが、奏の警戒心になど全く頓着した様子を見せず、男は奏のすぐ近くまで歩いてくると、無遠慮な仕草で奏の細い顎をグイと掴んで上向かせた。
「へえ。兄に似て綺麗な顔をしてるな。ピアノの成績も一番だって話だしな…お前が良い。お前に決めたよ」
 と、男は意味の分からない事をまくしたてて嫌な笑いを浮かべている。まるで人を人と思っていない、商品か何かと思って品定めしているような、そんな笑いだった。
「離せよ!」
 パシンと小気味の良い音を立てて、奏は男の手を振り払う。年上だろうが何だろうが、そちらが無礼な態度を取るのだから、こちらも敬意を払う必要など無いと思った。
「フン。小生意気なガキだな。でも、生意気なガキは嫌いじゃ無い。そのプライドをへし折って地べたに這い蹲らせるのも面白いからな」
 と、男は傲慢極まりないことを言って、奏を鼻で笑った。奏の腹立ちはさらに高まる。一体全体、この男は誰なのだ。何を言っているのだと威嚇するように睨み上げていると、
「お兄ちゃん! 何やってるの! カナちゃんに構わないで!」
 と、聞きなれた声が聞こえ、転がり込むように宇野辺美菜が練習室に入ってきた。
「…美菜」
 と、驚いたように奏はそちらに視線を移す。美菜は、いつになく慌てた様子で、しかも酷く怒った表情で奏と男の間に、その小さな体を滑り込ませた。
「カナちゃんに構わないで!」
 と、美菜は同じ言葉を繰りかえし、全身で怒気を発しながら男を睨み上げた。だが、それさえ男は面白がるように見下ろし、鼻でフンと笑い飛ばすと、
「美菜。お前、まだ、音大、辞めてなかったのか? 才能が無いならさっさとやめろよ。まあ、お嬢様の下手の横好きで続けたいなら無理には止めないがな」
 そんな挑発的な事を言った。美菜は怒っているのか、悔しがっているのか、傷ついているのか、後から見てもはっきりと分かるほど全身をブルブルと震わせていた。奏よりもずっと華奢で小さな背中が悲鳴を上げているようで、奏はそっと美菜の肩を優しく掴むと、今度は逆に自分が彼女を守るように、自分の背に隠す。
「貴方は誰ですか? 初対面の人間に失礼すぎると思いますけど」
 と、幾らか落ち着いた声で奏が尋ねると、男は毒気を抜かれたように眉を微かに上げ、それから、
「これは失敬。私は宇野辺衛(うのべまもる)と申します」
 と、高そうな背広の内ポケットから名刺を取り出して奏に渡した。形だけは慇懃な言葉と態度で。だが、目は相変わらず奏を馬鹿にするように笑っている。それがとても不快だった。一瞬だけ睨みつけるように男、宇野辺衛に視線をやり、それから名刺に視線を落とす。名刺に書いてある肩書きを奏が読むのと、
「Uミュージックの専務です。今、我が社の企画で、クラッシック音楽に力を入れて、若手音楽家の発掘をしています。二宮奏さん、現役音大生としてプロデビューする気はありませんか?」
 と、衛が言うのは同時だった。
「え?」
 と、奏は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で衛を見上げる。ぽかんとしたその表情を見て、衛はとうとう堪えきれなくなったのか、声を立てて笑った。






 ***





「すまないね、二宮君に不快な思いをさせたようで」
 と、奏の担当教授はすまなそうに謝罪した。衛が帰ってから、たまたま様子を見に来た教授の研究室に招かれてのことだった。突然、訪れた衛に
「見た目が良くて、そこそこピアノが弾ける生徒はいないか」
 と尋ねられ、うっかり奏の名前を出してしまったのだと。そのせいで、衛は練習室まで奏を確認しに来たらしい。
「宇野辺君は、ウチの卒業生なんだ。ピアノ科の生徒で才能はあったんだが…」
 と、教授が言い淀むと、一緒に招かれていた美菜は、憤慨したように、
「才能があろうがなかろうが、あんな人にピアノを弾く資格はありません」
 と断言した。
 まるで汚いものの話でもするかのような美菜の表情に、初老の穏やかな教授は苦笑いを浮かべる。
「彼も以前はあんな風では無かったんだがね」
「知ってます。仮にも兄ですから。家の事情でピアノを止めなくちゃならなかったのだって理解してます。だからって、あんな風に音楽そのものを冒涜してもいい理由にはなりません」
 美菜はしっかりとした少女だが、普段はこんな風に怒りをあからさまに誰かにぶつけるようなタイプではない。その硬い態度から、兄のことをあまり好いていないことが奏にも窺えた。
「大体、今回の件だって…すごく軽薄で酷い企画なんですよ? ピアノの腕よりも話題性と見た目重視だって言うんです。だから、現役音大生で、顔が売れそうならそれで良いって。カナちゃんのピアノを馬鹿にしてるみたいで、私は絶対に嫌。カナちゃんがプロデビューするのは賛成だけど、あんな企画に乗ってほしくない」
「…あのさ。その前に。俺、良く知らないんだけど。美菜のウチって、もしかして何か会社やってんの?」
 基本的な質問を奏がすると、美菜も、教授も一瞬言葉を失い目を丸くする。だが、次の瞬間、申し合わせたように声を立てて笑い始めた。
「やだ、もう! カナちゃんのそう言うトコロ大好き!」
 と、美菜は笑いながらそんなことを言う。奏はなぜ自分が笑われたのかさっぱり分からず、驚いたように美菜を見ていると、ようやく笑いが収まったのかその理由を教えてくれた。
 美菜の家は宇野辺グループといって、マルチメディアに関する仕事を主に担っている大きな会社だという。宇野辺グループという名前自体は奏でさえ知っている大きな会社だったので、奏はかなり驚いた。衛と美菜は今のグループの会長の孫で、衛は長男なので、いずれはトップに立つ跡取りだという。そして、今はグループの一部門であるUミュージックという会社を任されているらしい。
「私が宇野辺グループの孫だって、大抵の人は、みんな知ってる。だから、あわよくば、私に口をきいてもらってプロへの足がかりにしたいって、おべっか使う人ばっかり。もう、うんざり」
 と、美菜は笑ったけれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。人に好かれ、人気がある割に、誰かと群れることを美菜が嫌っているのは、さばさばした性格ゆえのことだとばかり奏は思っていたが。
 そんな背景があったのかと、奏は自分の無知を少しばかり責めた。
「俺、結構、美菜に無神経なこと言ってたな。ごめん」
 と、奏が素直に謝ると、今度は美菜は寂しさを含まない、純粋に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ううん。カナちゃんだけだったもの。私の家のこと何も知らないのに、仲良くしてくれるの」
 美菜はそんな風に言ったけれど。奏は、そんな事は決して無いのだと思う。美菜のしっかりしてサバサバした性格だとか、曲がったことが嫌いな真直ぐなところだとかに惹かれて近づいてくる人間だって少なくないはずだ。けれども、それを言っても美菜は信じないだろう。だから、奏はそれ以上は何も言わなかった。
「まあ、どっちにしても、俺はプロになる気なんて無いから。美菜の兄貴とも二度と関わることは無いと思うけど」
 名声だとか、金だとかに全く頓着しないことを奏はあっけらかんと言った。それを聞いて美菜は苦笑いを浮かべる。奏がプロになる気は無いというたびに浮かべている、いつもの表情だった。そして。
「けれども、二宮君は、人前で弾くことを生業にするべきだと思うよ」
 教授は、静かで穏やかな、決して押し付けるでない不思議な口調で言った。その顔には、薄い笑みが浮かんでいる。優しくて、どこか見守るような視線がどうにも居心地が悪くて、奏は、つい俯いてしまった。
「……俺は、音楽の教師かピアノ講師になるつもりなので」
 理由の分からぬ罪悪感を抱きながら、奏がボソボソと答えると教授はポン、と奏の肩を叩いた。
「まあ、君はまだ若い。そう急いで将来を決めることもなかろう。少なくとも、あと四年はあるのだから」
 慰めるように、窘めるように言われて、奏は何かがストンと胸から削げ落ちたような楽な気持ちになる。
 だから、顔を挙げ、
「はい」
 と、素直に頷いたのだった。










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