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音の轍 - 2 …………




 緑は萌えなし、蝉は姦しく鳴き、向日葵が咲き誇る季節だった。
 時折、些細ないざこざやトラブルはあるけれど、それでも奏の世界は美しく、光に満ち溢れていた。

 世界は、美しく、そして穏やかで優しい。

 その日の講義を終えれば、もう夏休みだ、というとある日に、奏は郁人の大学で待ち合わせをした。郁人は、奏とは別の大学の工学部に進学したが、大学のキャンバスは奏の通う音大と比較的近かった。
 これから、夏休みに突入するし、二人でどこかに遊びに行こうかと、開放的な気分に浮かれていた。郁人の母親の梓が野暮用で今日は帰らない予定だったから、そのまま郁人の家に泊まりに行く約束もしていたのだ。奏と郁人が恋人として付き合っていることは、奏の兄である響も、郁人の母親である梓も知っている。知っているが、知られているからこそ、そうそう、あからさまに外泊ができない。第一、外泊をすると、響は酷く不機嫌になるのだ。
 奏は本当は、大学への進学と同時に家を出て、一人暮らしをしたかったのだが、響がそれを許さず、散々、やりあった後、結局は奏が諦める形になった。
 最初から、奏は奨学金を取るつもりだったし、生活費もアルバイトでどうにかしようと決めていた。仕送りもいらないし、響には負担はかけないと奏は言い張ったのだが、なぜだか、響は、それなら尚更一人暮らしなどさせられない、と頑なな態度を崩さなかった。
 結局、奏が折れたきっかけになったのは、意外なことに、恩師である都築基の言葉だった。


「せめて、あと4年の猶予期間くらい与えてやりなさい」
「猶予期間ってどういう意味ですか?」
 不思議な慈愛に満ちた表情で語る都築の言葉の意味が奏には最初分からなかった。
「就職してしまえば、奏は色々な意味で独立する。嫌でも響から離れていくだろう。それが、響に取って、どれだけ苦痛なことか奏には理解できるか?」
 どこか責めるように問われ、奏は返す言葉を失った。
 奏は、もう、ずっと、響に頼ることが嫌だったのだ。それは負い目を感じるからとか、そういうことではなく、たった一人の家族のはずなのに、奏には決して弱い面を見せようとしない、響のそういう部分がもどかしかったからだ。確かに、響は七つも年上だし、かれこれ十年以上も奏の父親代わりのような役目を果たしてきた。だが、その為に、どれだけの事を犠牲にし、苦しみ、諦めてきたのか、奏はもう、薄っすらと知っている。
 響が奏に、翳りの無いまっさらな幸福を願うのと同じだけ強く、奏だって響の幸福を願っている。自分の犠牲になど、もうなって欲しくない。だが、そう言った奏に、都築は複雑そうな苦笑いを浮かべ、
「響は、決して自分が奏の犠牲になっているなんて考えたことは無いよ。むしろ、奏が自分の犠牲になっていると思い込んでいる」
 と奏には理解できないことを言った。
「いずれにしても。背伸びは感心しない。子供のままでいてやるのも一つの孝行だ」
 と、窘めるようにくくられて、結局、奏は一人暮らしを諦めた。兄の負担を軽くすることと、兄を一人にすること。どちらが兄にとってマイナスなのか奏にはいまひとつ計りきれないでいる。
 子供じみた、親離れできない我侭な子供のようなことを言うならば、奏だって響と別れたくなど無いのだ。ずっと、死ぬまで家族として一緒に暮らしていたい。だが、それは響に取っての幸福なのだろうかと奏は迷う。第一、響は既に透というパートナーを見つけてしまったのだ。
 自分が響の弟であるからという理由で、透が自分を可愛がってくれていることを奏は知っている。けれど、本当の根っこの部分では、恐らく、響の唯一の家族であるから、という同じ理由で透が自分を疎んでいることもまた、奏は理解していた。
 だから、尚更、奏は迷う。兄との距離感をどの程度で保てばいいのか。それが分からなかった。
 それでも、今は、学生だと言う理由があるのだから。
 あと四年間だけと、自らに期限を切って奏は兄と共にいる。





「待ったか?」
 と、声を掛けられて奏は、はっと顔を上げた。すぐ隣にいつの間にか郁人が立っていた。待ち合わせをした学食は、夏休みに突入する直前ということもあって閑散としていた。郁人の通っているのは総合大学だから、音大とは大分雰囲気が違うな、と奏は思った。そこにチクリと微かな痛みのようなものを感じる。自分の普段いる世界と、郁人のいる世界は違う場所なのだ、という疎外感。だが、恋人同士とは言え、進む道が違うのだから、それは当然のことなのだ。下らない、幼稚な感傷だと奏はその痛みを振り切る。
「ん、大して待ってないよ」
 と奏が薄く笑って言えば、郁人は何か眩しいものでも見ているかのように微かに目を細め、同じように奏に向かって微笑んだ。
「もう行くか?」
 と尋ねられ、奏は頷く。
「すぐ家に行く? それとも、外で遊ぶ?」
 と続けて尋ねられ、奏は即答で、
「家」
 と答えた。なぜだか、無性に郁人と抱き合いたいと思ったからだ。しばらく、お互いに忙しかったせいで、半月ほど寝ていない。だが、どちらかというとメンタルな理由で奏は郁人と抱き合いたかった。郁人はその意図を正確に汲んだのかどうなのか、クスリと含み笑いのような笑みを浮かべた。そういう時の郁人の表情が奏は苦手だ。嫌いなのではない。苦手なのだ。
 年相応ではない艶のようなものを含んでいて、まるでセックスに直結するようなそんな印象を受ける表情だからだ。それが奏だけに向けられているのならばいいけれど、もし、他の人間にもこんな表情を見せているのではと思うと、気が気ではない。だがしかし、頻繁に、自分も同じ気分を郁人に味あわせているとは全く気がついていない奏だった。
「もしかして、奏、したい?」
 と、からかうように耳元で囁かれて、奏はさっと頬に朱を走らせる。それから、咎めるように上目遣いで郁人を睨み上げると、なぜか、郁人は心底困ったような苦笑いを浮かべた。
「すぐ帰ろう」
 と、促されて席を立つ。微かに背中に添えられた郁人の手に、ザワリと背筋が粟立つのを感じて奏は自己嫌悪に陥った。自分でも一体どうしてしまったのだろうかと思うけれど、とにかく奏は郁人と一秒でも早く抱き合いたかった。
 大学の正門を潜るまで、二人とも言葉少なで、まるで喧嘩しているかのようだったけれど、歩く足だけは急かされるように早足だった。そして、そのまま、郁人のマンションに行くはずだったのだ。その時、その声さえ掛けられなければ。

「ユキ」
 と、耳通りの良い、透明感のあるテノールが聞こえて、郁人はピタリと足を止めた。必然的に、その後を歩いていた奏の足も止まる。耳慣れないその呼称に、最初、奏はそれが郁人のことを指すのだと気がつけなかった。大概の人間は郁人を「郁人」と呼ぶ。奏の知っている限り「ユキ」と呼ぶ人間が一人いるけれど、それは幼馴染の里佳だけで、それも、里佳だから、そのどこか子供っぽい呼び方に違和感が沸かないのだ。だから、奏はその呼称の響きに奇妙な違和感を感じた。
「ユキ」
 と、再びその声は郁人を呼んだ。二人の歩いていた歩道の片隅、電柱の陰に隠れるようにその人は佇んでいた。郁人の背中越し、向こうに見えるその人は車椅子に乗っていて、なぜだか、それに気がついた途端、奏の胸は嫌な感じにどきりとざわめいた。
「ユキ。迎えに来た」
 と告げた彼の表情は鮮やかな笑顔で、その綺麗さに奏は一瞬、目を奪われる。屈託の無い子供のようなその顔は、誰かに似ていると奏は思った。だが、何かが喉につかえているかのように、誰に似ているのかが思い当たらない。けれども、絶対に、誰かに似ているのだ。
「何しに来た」
 しかし、はっとするほど硬い郁人の声に、奏は思考を中断させられる。車椅子の青年の笑顔とは対照的に、郁人の表情は酷く険しかった。
「何しにって…もう二年も経つのに帰ってこないから迎えに来た。父さんは、凄く怒ってる。ユキが勝手に工学部になんて進学したって。どうして政経か法学部に行かなかったの?」
 まるで威嚇するかのように睨みつける郁人の視線を、だがしかし、その青年は簡単にいなして、首を軽く傾げて見せた。青年の真っ黒な髪がサラリと揺れる。決して好意的ではない郁人の表情と態度に、青年の黒目がちでどこか潤んだ瞳は、一分の動揺さえ見せていない。この揺らぎの無さは一体なんなのだろうと、奏は奇妙な不安を煽り立てられる。
「俺は帰らない」
 はっきりとした口調で郁人は断言したけれど、青年は、さもおかしそうにくつくつと軽やかに笑った。
「ダメだよ。約束を破っちゃ。1年経ったよ」
 青年の言っている言葉の意味が奏には分からない。分からないけれど。
「……郁人……誰?」
 無意識に郁人のシャツの裾をキュッと握りながら奏は小さな声で尋ねた。なぜ、自分が遠慮しなくてはならないのか。その理由が分からないまま、けれども、奏は確かに恐れていた。何かが、酷く怖い。
 郁人は狼狽したように奏に視線を移し、一瞬だけ奏の目をまっすぐに見つめた。だが、すぐに、視線を地面に落とすと、
「……兄」
 と短く答えた。その答えに、酷く驚くと同時に、奏は何かがストンと腑に落ちた。郁人に腹違いの兄がいることは、郁人の母、梓に聞いて知っていた。だが、もちろん会ったこともなければ、写真で見せてもらったことも無かったのだ。そもそも、奏は、自分と別れていた時の郁人の五年間を知りたいとは思わなかった。
 否。本当は、知るのが怖かったのかもしれない。
「もしかして、君が奏?」
 不意に気安く名前を呼び捨てられて、奏は面食らう。当然、郁人の兄だと言うからには奏よりも年上だろう。それでも、初対面で名前を呼び捨てられるというのは決して気分の良いものではなかった。
「そう…です…けど…」
 郁人の兄なのだ。むしろ、親近感を覚えてもいいはずなのに。
「そう。君が奏なのか」
 じっと見つめられて、奏も郁人の兄だと言う青年を見返す。どこか、郁人に似ているところを彼の中に見出そうとしたけれど、何一つ見つけることが出来なかった。
 郁人は四分の一だけ白人の血を引いている。だから、瞳の色も鳶色だし、髪の毛は栗色で、日本人離れした外見をしているのだ。だが、郁人の兄は髪も目も真っ黒で、純粋な日本人と言う容貌をしていた。派手ではないが清潔感のある綺麗な容姿だと奏は思った。だから、彼は郁人よりもむしろ。
「綺麗な子だね」
 と、ニッコリ笑って彼は言った。その笑顔に奏は答えを知る。彼は、郁人よりもむしろ、自分の兄の響に外見と雰囲気が似ていると思った。だが、響よりもずっと印象が幼い。
「僕は郁人の兄で、泰人(やすと)と言います。少し郁人と話があるんだけど、連れて行って良いかな?」
 やはり、にっこりと綺麗な笑顔で言われて、奏はなぜか、嫌だと言うことができなかった。せめて、郁人から断ってくれないだろうかと縋るように視線を向けたけれど。
 郁人は奏からさりげなく目を逸らすと、
「…奏、悪い。後で、俺から連絡するから」
 と、そっと奏から体を離した。郁人のシャツの裾を掴んでいた奏の手が、はらりと落ちる。その自分の手を、ぼんやりと眺めながら、奏は、
「あ、うん」
 と、力の抜けた声で答えた。
「ゴメンね」
 と、泰人は謝ってくれたけれど。

 随分と手馴れた仕草で郁人は泰人の車椅子を押し始める。それが、奏を酷く傷つけた。なぜ、傷つく必要があるというのか。
 遠くなる郁人の背中を、一人立ち尽くしたまま奏は見つめ続けたが、一度として郁人が振り返ることは無かった。完全に二人の姿が見えなくなってしまってから、奏は漸く一歩を踏み出す。途端に、頭も一緒に動き始めたようだった。

 泰人は響に似ている。けれども、響よりも幼い印象だということは。
 すなわち、彼は、自分に似ていると言うことなのではないか。

 その考えに行き着いたとき、奏はこみ上げてくる訳の分からない不快感と不安に押しつぶされそうになってしまった。なぜ、自分がこれほど不安になっているのか奏には分からなかった。第一、郁人はきちんと約束してくれたではないか。もう、二度と、奏の前からいなくなったりしないと。だから、奏は、ただ郁人を信じていれば良いだけなのに。
 次第に早まる歩調。最後には、何かから逃げるように奏は駆け出していた。
 どこかに逃げたい、と奏は思った。逃げる場所はひとつしかない。兄の待っている自分の家だ。
 けれども、たどりついた家には人の気配はしなかった。突然に予定を変えたせいなのだろう。もともと、今日は郁人の家に泊まると兄には言ってあったのだから。きっと、透のところに行っているに違いない。仕方の無いことだと思いながら、奏は酷い孤独感に襲われた。まるで、世界にたった一人取り残されてしまったような。
 下らない被害妄想だ。
 けれども。




 すぐに来ると思っていた郁人からの連絡は、深夜になっても、日付が変わっても、そして、気になって一睡もせずに奏が朝を迎えても、結局来ることは無かった。




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