音の轍 - 1 ………… |
張り出された横長の大洋紙を二宮奏はじっと見上げた。暫くそうしていた後、知らず強張っていた体の力を抜き、深々と溜息を一つ吐く。それを、興味深そうに見つめている人間が何人かいる。決して好意的な視線ではない。奏は鈍い人間ではないので、それをひしひしと感じていた。 「凄いな。さすが天才ピアニストの息子ってトコロ?」 と、ネットリとしたいやらしい声が後ろから聞こえる。鬱陶しげに奏は振り返り、声の主を睨みつけた。 「別に」 と、素っ気無い口調になってしまうのはいい加減、うんざりしていたからだ。音大に入って四ヶ月。前期試験も先週終わった。新入生達にとっては初めて、正式に才能というものをランク付けされる試練だった。 張り出されている席次表の一番右側に『二宮奏』の名前がある。二ヶ月ほど前にあった、中間実技試験でも、同じ場所に奏の名前は記されていた。それ以来、こんな風に、鬱陶しく絡まれるようになったのだ。 「余裕だね」 とまるで馬鹿にするように言うのは、同じピアノ科の小路(しょうじ)だ。今回の席次は三位だった。その隣で、ニヤニヤといやな笑いを浮かべているのは茨城(いばらき)で、席次は四位。 あまりに分かりやすくて、奏は笑い出してしまいそうだった。漫画やドラマじゃあるまいに、これほどあからさまにライバル意識を剥き出しにするのが滑稽だ。そもそも、奏自身は、正直に言ってしまえば席次になど興味は無かった。未だに、自分の置かれた環境に慣れきる事が出来ないのはこういう部分だった。 「男の嫉妬はみっともないんじゃない?」 と、柔らかなソプラノが聞こえて、奏は無意識に、ほっと肩の力を抜く。いつの間に来ていたのか、奏のすぐ隣にはショートカットの綺麗な女性が立っていた。 「美菜」 と、奏が彼女の名前を呼ぶと、呼ばれた女性、宇野辺美菜(うのべみな)はわざと膨れたような顔をした。 「あー2位だ。またカナちゃんに負けちゃった」 と、恨みがましい声を出す。だが、本気でないことは奏も承知していた。知らず、漂っていた嫌な空気が緩和される。こういうところが、自分の小さな頃からの大事な幼馴染の少女に似ている、と、奏は何とはなしにほっとした。 「悔しいなあ。カナちゃん、お詫びにお昼おごってよ」 と軽口を叩かれて、奏は苦笑いを浮かべる。 「なんで、オレがおごらなくちゃならないんだよ」 と言いながら、美菜に手を引かれるままその場を離れ始める。後に残された小路と茨城が、悔しそうな、惨めそうな表情で立ちすくんでいたのが視界の端に入ったけれど。 馬鹿馬鹿しい、としか奏は感じなかった。 「大体、順位をつけるって事自体がナンセンスだと思わないか?」 無理やり美菜に連れて行かれたパスタの店で、奏は面白くなさそうな顔で呟いた。美菜はおかしそうにクスクスと笑っている。 「カナちゃんって不思議な人だよね。音大生っぽくない。普通、こういう場所に来る人って顕示欲が強くて、少しでも目だって、プロとしてやっていける足がかりを得たいって思ってるよ」 「だって、オレ、別にプロ志望じゃないし」 奏が言い切ると、美菜は困ったように苦笑いした。 「それ、私の前なら良いけど、他の人の前じゃ言っちゃダメだよ。益々、反感買っちゃう。カナちゃんほど弾ける人がプロになる気無いんだったら、何で音大になんか来たんだって」 美菜は真剣に苦言しているようだったが、それでも、やはり、奏は自覚が薄い。 ピアノを本格的に勉強したかった。それは本当だ。けれども、プロデビューしたいだとか、リサイタルで食って行きたいだとか、そんなことは考えたことすら無かった。 できれば、兄、二宮響のように、高校の音楽教師になるか、でなければ、ピアノ教室の講師になれれば良いな、程度にしか将来の展望は無い。そう言うと、兄も、兄の恋人も、恩師も、誰も彼もが呆れたように、もっと欲を持てと説教する。恋人の佐宗郁人だけは、 「まあ、奏のそう言う慎ましい所は美点ではあるけどな」 と、微妙な肯定をしてくれるけれど。 奏は多くを望まない。贅沢も。 ただ、ずっと、好きな人たちに囲まれて、ピアノを弾き続けていられれば幸福だと思う。本当の幸福とは、そういう物だ。ささやかで、ともすれば当たり前のように見えるもの。けれども、それがいかに大事なのか奏は知っている。失くす辛さが分かるから。 それを教えたのは恋人の郁人だ。 奏と郁人の間には、五年間の空白が横たわっている。その時間が奏に喪失の何たるか、幸福の何たるかを教えた。 「でも、勿体無いね」 と、美菜は複雑そうな表情で笑った。 「皮肉だよ。本当に欲しがってる人のトコロには神様は、その才能を与えないのに、それをどうでも良いと思ってる人に与えるってのは」 少しばかり棘を含んだ口調で、美菜は続ける。返答に窮して、奏は曖昧に笑った。 「だって…まだ、入学したばかりだし。そんなに、明確に将来のビジョンなんて描けない。悪いけど」 その才能を無駄にするなと、周りの大人達は言うけれど、周りから将来を固められてしまうような窮屈さに、奏は少しばかり抵抗を感じていた。 「それに、本当に好きなことは仕事にしてはダメだって説もあるだろ? 第一…オレには、やっぱり納得できない。音楽なんてものは順位をつけるものじゃない」 ただひたすら愛し、その世界に浸るものなのだ。奏にとっての音楽、そしてピアノとは。他人と競い、優劣をつけること。それは、音楽に対する冒涜のようにすら奏には思える。そう言えば美菜は、やはり、どこか妬ましそうな、それでいて眩しそうな笑みを奏に向けるのだ。 「カナちゃんの音楽が、そんなに綺麗なのは、そういう気持ちの綺麗さがあるからなのかもね。ある意味、凄い潔癖症。でも、カナちゃんのそういうところ、好きだよ」 美菜が、『そういう意味』で奏に告白してきたのは入学してから二ヶ月ほど経過した頃のことだ。もちろん、奏は誠実に断って、けれどもその理由を美菜が納得しなかったので、最終的には美菜と郁人を引き合わせる羽目になった。その時に、色々とゴタゴタしたけれど、今では、美菜とは良い友人で、郁人も一応のところは納得している。だから、この場合の『好き』は、含みを持たないシンプルな意味での『好き』だ。だから、奏は素直に、 「ありがとう」 と少し照れながらぶっきらぼうに礼を言う。 「あーもー! そういうトコロも好き」 と、怒ったように美菜は言い、今度は奏も苦笑した。 人前でピアノを弾くことは、純粋に好きなのだと奏は思う。リクエストを貰って、それを弾き、喜んでもらえることは奏を酷く幸せな気持ちにする。けれども、それは、やはり、この店の中に限ったことなのではないか、とも思う。この店は、奏にとって特別な場所なのだ。 兄がこの店で演奏するのを、奏はずっと見続けてきた。今では、その兄は、滅多に人前では演奏しなくなってしまったけれど。結局、未だに、奏はそれに拘って、コンプレックスから抜け出せないのかもしれない。だが、そう言うと郁人も、透も、それは響も同じだと言う。 兄が人前で演奏することを止めてしまった理由を奏は薄っすらとしか知らない。多分、こうだろうと想像はしているけれど、事実とは少し異なるのかもしれない。 奏は、小さな頃から兄のピアノが好きだった。精巧な硝子細工のような繊細さ。それと反するようなエキセントリックな大胆さ。そして、胸のどこかが軋むほどの、切なくなるような透明感。天才、という言葉は響のためにある言葉ではないかと奏は思う。少なくとも、高校教師に収まらせておくには、あまりに惜しい才能だ。だが、それを言うことは奏には出来ない。長い時間をかけて培われてきた、兄弟二人だけの暗黙の了解だからだ。 非常に難解な、素早い指使いで鐘の音を叩き続ける。どこか遠い異国の街中に、教会の鐘が鳴り響く、そんなイメージを浮かべながら奏はその曲をいつも弾いた。奏が高校生の頃から続けているアルバイト先での話だ。繁華街から外れた小路にひっそりと佇んでいるクラッシックな雰囲気のそのレストランバーは、郁人の母親、梓が経営している店だ。その店で、奏は、毎週金曜日にピアノを演奏する。客にリクエストを貰えば、その曲も弾いた。そして、毎週、奏に『ラカンパネラ』をリクエストするのは兄の恋人である佐原透だった。郁人がいない時間、密かに憧れを抱いていた相手だったけれど、今は、年の離れた友人のように、純粋に慕っている。 技巧的な、けれども、決して機械的ではない美しいその曲を弾き終えて、奏が顔を上げると、店のあちこちから拍手が送られてくる。それに満足したような綺麗な笑顔を浮かべて、奏はそっと席を立った。 カウンターの空いている席に腰を下ろせば、すかさずコーヒーが差し出される。ありがとう、と礼を言えば、カウンターの中の梓が、 「どういたしまして。お疲れさん」 と穏やかに微笑んだ。 「最近の、カナちゃんの急成長振りは目を見張るものがあるね」 と、一つ空席を挟んだ右隣に座っているリクエスト主が、そんな風に声を掛けてくる。 「そうなのかなあ? オレ、ちょっとは上達してる?」 と、あまり自覚の無い奏が尋ねると、リクエスト主、佐原透は噴出すように笑った。 「謙遜でもなんでもなく、素で言っちゃうトコがカナちゃんだよね。俺はちょっと心配だよ。大学で要らぬ敵を作ってないかどうか」 図星を指されて、奏はうっと言葉に詰まる。どうにも、ああ顕示欲と競争意識が強い人種が奏は苦手なのだ。まだ高校生だった時は、実に平和だったな、と今更ながら思う。 すぐ近くに郁人がいて、里佳がいて、貴史がいて、あからさまに奏に敵対心を向けてくる人間などいなかった。進学校ではあったけれど、ごく普通の高校だったから、学友というよりは、まず競争相手、そんな空気は無かったのに。 それが元からの性格なのか、あるいは、幼い頃、郁人と別れたせいで培われた性格なのかは分からないが、基本的には奏は激しいものを厭う。自分の周りは、穏やかで優しいもので満たしたいと思うのだ。だが、『才能』と呼ばれるものはそれとは相反するのではないかと、最近、分かり始めた。 奏の父親は、奏が二歳のときに不慮の事故で亡くなってしまったが、若い時から名を馳せていた新鋭のピアニストだった。奏自身は詳しく知らないけれど、未だにその名前が褪せていないことを奏は大学に入ってから知った。 『あの、二宮克征の息子か』と言われたことは、一度や二度ではない。学生ではなく、むしろ、教授や助教授、あるいは講師に言われるのだ。だから、尚更、奏には都合がよろしくない。親の七光り、などと影で叩かれていることを、敏感な奏は悟っていた。 自分に才能があるとか無いとか、そんなことを奏は考えたことが無い。そもそも、ピアノや音楽の前では、人は等しく裸になるものだと思っている。人がピアノで紡ぎ出す音楽は、年齢だとか、性別だとか、職業や、育ちに左右されるものではない。それなのに。 「俺、やっぱり、教育学部の音楽科に行ったほうがよかった気がする…」 溜息混じりにそう零すと、透は苦笑いを零し、それからクシャリと奏のサラサラな黒髪を撫でた。 「そんな勿体無いこと言うんじゃないの。せっかくの才能なんだから」 誰も彼もがそんな事を言う。プロになれる才能があるならなるべきだ、と。最近の奏にとっては、それが少しばかり重たい。 「うん、まあ、考えてみるけど。でも、まだ、一年だし。早すぎるよ」 曖昧に笑って奏はカウンターの席を立つ。梓に、コーヒーのお礼を言ってから休憩を終え、再びピアノに戻る途中でカランとドアベルがなった。入ってきたのは、奏の幼馴染で今現在の恋人である佐宗郁人だ。無意識に奏がふと郁人を見つめると、郁人が顔を挙げ、視線が絡まった。郁人はふわりと、ごく自然に笑った。綺麗な優しい笑みだ。そんな笑顔が奏は好きだった。 心が凪いでいく。少しばかり重たかった心の澱は瞬時に霧散して、ただ残ったものは穏やかで優しくて、それでいて切なく甘い痛みのようなあえかな気持ちだけだ。 こんな気持ちだけで、いつだってピアノを弾いていたいと奏は思った。 白鍵の上にそっと指を乗せる。奏の指は繊細で実に美しい。ピアニストらしい指だと郁人は言い、その指が好きですぐに舐めたくなってしまうとふざける。それを思い出して、奏は微かに頬を染め、だが、すぐに、その不謹慎な動揺を振り払うように軽く首を横に振った。 譜面台に置かれた何枚かのリクエスト。その中から、『ロマンス』を選んで奏は弾き始めた。対位法を用い抒情性を表情豊かに浮かび上がらせているその曲は、今の奏に酷くふさわしい。知らず音の中に入り込むように没頭すれば、店内はシンと静まり返る。これを、才能と言わずして何を才能というのか。だが、奏にはその自覚が無い。 ただ、願うのはささやかな事だけだ。 好きな人たちに囲まれ、穏やかで優しい世界に生きること。 それがどんなに困難で、大変なことかを、そのときの奏はまだ知らなかった。 |