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音の轍 - 24 …………


 透が帰ってきたのは、夕方の六時を過ぎた頃だった。だいたい、その位に帰ると連絡をもらっていたから、響は夕飯の支度をして待っていた。別に、透は何をしろと命令したりしないけれど、居候させてもらっている身としては、さすがに、家のことくらいはしていないと気が咎める。もともと、響は家庭環境のせいで、ずっと家事をしてきたから、さして難しいことでも、面倒なことでもなかった。ただ、まるで主婦のように透の身の回りの世話を焼いていることが、どうにも居心地が悪い。夕飯を作って待っているという行為など、それ以外の何だというのか。
 だから、先日、久しぶりに連絡を取った梓のほうから、店で働かないかと持ちかけられたことは渡りに船だった。二つ返事で了承し、明日から店に入ることになっている。だが、
「暇なときには、ピアノもついでに弾いてよ」
と、酷く気軽な調子で頼まれた件については、言葉を濁し、はっきりとは返事をしていなかった。
「ただいま」
と玄関先でコートを脱いでいる透を出迎えに行くべきかどうか、散々迷って、結局、玄関の少し手前で
「お帰り」
と、蚊の鳴くような声で答えるという実に中途半端な態度を取った。響の迷いが手に取るように分かるのだろう。透は、くつくつと喉の奥で堪えるような笑いを漏らす。それが癇に障って、響は踵を返してキッチンに戻った。


 再会してからこの方、透は響にたいして一切の遠慮というものをしなくなった。言葉も選ばない。だから、帰国してすぐにこのマンションに連れてこられた日など、酷い言い合いをした。透が奏に告げたという言葉も全て聞いたけれど、響はそれを責めることはできなかった。透にそれを言わせたのが自分だと分かっているからだ。ただ、そのことで奏がどれだけ傷ついたのだろうかと考えると、胸が痛む。
「でも、いつまでも蓋をしておく訳にはいかないだろう? お前のは、ただの、自己満足の勝手な自己犠牲だ。カナちゃんだって、もう子供じゃない。目隠しをして、綺麗なものばかりを見せ続けるのは、むしろ、彼に対する侮辱じゃないのか?」
 そう響を責めた透の言葉は、どこか、都築の言葉と似ていて、響は嫌でも自覚せざるを得なかった。
 自分が少しだけ変わったように、透も変わったようだった。殴りあい寸前の喧嘩をして、お互いに酷い言葉も投げつけたけれど、それが一通り済んでしまえば、逆に、憑き物が落ち、胸の奥に溜まっていた澱のようなものが綺麗さっぱりなくなったかのようにすっきりした。
 思えば、こんな風に喧嘩をすること自体久しぶりで、高校生のとき以来だと響は呆然としながら気がついた。長い長い時間、お互いに、本心を隠し、大人の振りで付き合ってきたけれど、でも、根っこの部分は高校のときから何も変わっていなかったことにも気がつかされた。その後も、散々、話し合って、響は透と約束をした。一つは絶対にお互い嘘をつかないこと。もう一つは、黙っていなくならないこと。
「それさえ守ってくれれば、俺は、もう二番目でいいから」
と、透は肩を竦めて言った。その、少しふざけた態度は少年じみていて、ふと、高校時代の彼を思い出させる。折に触れて、彼は、そういう態度を取るから、今の二人の状態は、どちらかというと、高校の頃の状態に近いように思えた。だから、逆に、響は酷く気楽で、でも、同時に落ち着かない気持ちにさせられる。本心を隠さずにさらけ出すということにも、未だに抵抗があって、上手くいかないことも多々ある。嘘を吐かないと決めた通り、透は以前からは考えられないほど気軽に、いともたやすく、
「好きだ」
とか
「愛してる」
だとか響に言う。それに対しても、響は言葉を返せずに黙り込んでしまうのだけれど、透は、
「返事は要らない」
と最後には括ってしまい、さして、焦ってもいないようだった。


 響の少し後にキッチンに入ってきた透を、そのまま無視をするのも大人気ないから、何も無かったように、
「どうだった?」
と声を掛ける。
「ああ。問題なかった。岡田さんが退職じゃなくて、休職扱いにするように手配してくれた。彼には、頭が上がらないよ」
「そうか」
 透の答えに、響はほっとしたように息をついた。以前、透の勤めていた音楽関係専門の出版社に再就職するための面接が今日だったのだ。
「じゃあ、とりあえず、しばらくは食いっぱぐれることもないな」
 苦笑いを浮かべて響が言うと、透も同じように苦笑いを浮かべて相槌を打った。
 ようやく少しだけ慣れてきた二人の夕飯を終わらせ、後片付けを済ませた頃には、既に、九時近い時間になっていた。リビングのソファで透は新聞を読んでいる。
「テレビつけて良いか?」
と、遠慮がちに尋ねると、ごくごく自然な態度で、透は
「どうぞ」
と頷いた。透を通して奏に伝えられた番組はまだ始まっていない。食い入るようにじっと画面に見入っていると、小さなため息の音が聞こえた。はっとして透のほうを見れば、呆れたような苦笑いをもらしている。少しばかりバツの悪い気持ちで、
「……悪い」
と謝ると透は微かに首を傾げ、変に優しく見える笑みを浮かべて、
「その謝罪は何の謝罪?」
と尋ねてきた。響はしばし考え込み、
「……奏の事で頭がいっぱいで、お前の事、一瞬忘れてたことに対して」
と答える。透は、ふ、と小さく息を吐き出し、
「そこで、謝罪の言葉が出てくるだけ、すごい変化だよな」
と、笑って響の腕を引いた。
「隣で見てろ」
 透が座っているソファの隣に座らせられ、居心地の悪い気分を味合わされつつも嫌だとは言えない。膝を抱え、なるべく体を小さくすると、
「猫みたいだな」
と、やっぱり笑われた。そうこうしているうちに、番組が始まる。その時々によって、色々なテーマを取り上げ、シリアスなタッチで報道するそのドキュメント番組を、何度か響は見たことがあった。もちろん、それに、自分の弟が出ることなど、想像したことも無かったが。
 番組のテロップが流され、静かな映像で番組は始まった。二宮奏というピアニストを取り上げるのかと思ったが、そうではなく、一番最初は父の二宮克征というピアニストの生涯を紹介するところから始まっていた。
 しばらく、黙ってそれを見ていた響だったが、次第に眉間に皺がより始める。父がどんなにすばらしい天才的なピアニストだったのか、を紹介するのは良い。だが、続いて、若くして非業の死を遂げた彼の、残された息子二人と母親が支えあって生きてきたという、安っぽい展開と演出に不快感を覚えたからだ。
 隣で見ていた透も同じように感じたのだろう。
「意外だな。カナちゃんは、こういうの嫌いそうだけど……」
と小さな声でもらした。それでも堪えて見続けていると、なぜだか、今度は、自分の存在がクローズアップされた。さすがに、写真や映像は出されなかったが、母子家庭を支えるすばらしい長男とでも言わんばかりの演出で、番組は進んでいく。その上、当の、奏本人までがインタビューに答え、お涙頂戴よろしく、いかに兄に苦労をかけたかだとか、感謝しているのかだとか語り始めたのだ。その、あまりの白々しさとわざとらしさに、響は眩暈すら覚える。だがしかし、奏の人となりを知らない他人はそう感じないのだろう。薄っすらと涙ぐんでみせる奏につられるように、インタビューをしていた女子アナウンサーは声を詰まらせていた。やはり響には何もかもが腑に落ちない。何が一番、腑に落ちないかというと奏のその表情だ。
 この表情を、響は良く知っている。それこそ、まだ奏が小学生の頃は、しっかりもののお兄ちゃん、やんちゃ坊主の次男と言われるほど、奏は無邪気で天真爛漫で、そして、少しばかり悪戯が過ぎるところもあった。末っ子だったせいもあって、要領も良く、しおらしく『嘘泣き』をすることもあった。その『嘘泣き』の表情と、今の表情はあまりに似ている。
 その後で、一旦CMが入り、再び番組に入って、今度は一度、奏の演奏シーンが流された。難易度の高い、派手な曲を何曲か演奏したが、そのどれもが、素晴らしかった。格段に、技術が上達している。けれども、店で聞いた演奏に比べ、どこか機械的なような気もした。演奏が終わると、アナウンサーが奏を褒めちぎり、奏ははにかんだような笑みを浮かべて、謙虚な言葉を幾つか述べた。だが、そのはにかんだ笑みさえ、どこか芝居じみていて、ますます、響は訝しげに画面を睨み付けた。
 しかも。
 一体、何のつもりなのかと思って見続けていれば、奏はさらに、眉を顰めるようなことを言い出したのだ。
『でも、本当は、兄の方が僕なんかよりも、ずっとずっとピアノが上手なんですよ』
『ええ!? 二宮さんはこんなに素晴らしい演奏をされるのに、それよりも上手だなんて、想像できませんよ』
『でも、本当なんです。兄は、ずっとイギリスに留学していて、つい最近帰ってきたばかりなんです』
 一体、奏は何の話を始めたのかと呆気に取られて見ていれば、今度は都築の名前を出し、兄は、彼に師事していて、ピアノの勉強のために留学していたんですよと、いけしゃあしゃあと嘘を吐いた。更に、奏とアナウンサーとのインタビューは続く。
『兄としてもピアニストとしても僕はずっと兄を尊敬していたんです。僕は、兄と共演するのがずっと夢だったんですけど、今度の演奏会でそれが叶うんです』
『そうなんですか? 』
『はい。今度の演奏会の第三ステージで共演するんです』
 それから、奏は次の演奏会の場所だとか、日時だとか、プログラムだとかを告知し始めたが、頭が真っ白になってしまった響は、その情報が一切、頭に入ってこなかった。自分の弟は、一体、何を言い出したのかさっぱり分からなかった。急に知らない言語を話し始めたのかとさえ思った。だが、そうこうしているうちに、テレビ画面には演奏会告知のテロップが映し出され、その第三ステージの所には、はっきりと自分の名前が印字されていた。そこまで来て、響はようやく事の次第を理解し始める。それでも、やはり、呆気に取られた状態からは復帰できずにいた。だのに、呆然としたまま、画面を見つめている響の横で、透は急に腹を抱えて笑い出す。
「カナちゃん、やってくれるよ」
 まるで他人事を面白がるようにひとしきり透は笑い続け、それが収まると、一度立ち上がって何かを取りに行った。部屋に戻ってきた透の手には、少し大きめの封筒がある。まだ笑いが収まらない様子で透は響にそれを差し出した。
「今日来てた。きっと、このことが書いてあるんだろうな」
 訝しげに眉を顰め、響はその封筒を受け取り、裏返してみた。差出人の名前は『二宮奏』。途端に動揺し、震える手で封を切り、中から響が取り出した紙切れは、透が指摘したとおり、演奏会への出演依頼書だった。
「……何を考えてるんだ。こんな滅茶苦茶な、馬鹿な話、あっていいわけが無い……」
 次第に冷静になり始めた頭で、響は、腹を立て始める。あまりに馬鹿馬鹿しい。本当に無茶な話だった。だが、それを横から咎めたのは透だ。
「また逃げるのか?」
 静かな、穏やかな声だったからこそ、響ははっとした。顔を上げれば、真っ直ぐに自分を見つめてくる透と目が合う。
「また、逃げるのか?」
 繰り返し告げた言葉が響の心を激しく揺さぶったのは、それが響の深層の図星を突いたからだ。
 また、逃げる。ピアノから。そして奏から。思えば、今までずっと自分は真正面から対峙することを避け続けていた。これからも、そうするつもりなのだろうかと自分に問うて、響は言葉を失った。
 手に取っていた書類から、ハラリ、と一枚の紙が落ちる。契約書の紙とは色の違うそれは、どうやら便箋のようだった。何だろうと、何気なく拾い上げたそれに書いてある文字。それを読んで響は息を飲み込んだ。




『ピアノで俺に勝ったら、仲直りしてやる』




 まるで拗ねた子供が殴り書きしたようなそれは。
 間違いなく、見慣れた弟の筆跡だった。





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