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音の轍 - 25 …………


 響から、出演を承諾する連絡があったのは例の番組が放送された日から二日後の事だった。奏が、久しぶりに透と会ったのは、さらに、その二日後だ。
 奏の方から、透を外に呼び出した。半年以上ぶりの再会に、奏は少しだけ緊張していたけれど、会った瞬間から、以前と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべる透に、拍子抜けして、すぐに、肩の力は抜けてしまった。
「少し痩せた?」
と、心配そうに尋ねてくる。その口調には何も棘など見当たらない。
「最近、ちょっと根をつめて練習してたから。でも、別に体調は悪くないです」
 そういう透の方こそ、少し痩せたような気がして、奏は軽く首を傾げて見せた。
「……響は、どうしてますか?」
 透の前でその名前を呼ぶのは、やはりまだ、憚られて、戸惑いがちに奏が尋ねると、透はさして気にした風もなく、
「うん?」
と、口をつけていたコーヒーから視線を上げた。一呼吸おいてからカップをソーサーに下ろし、それから透は面白がるような笑みを浮かべる。
「どうだろう? とりあえず『俺が勝ったら、奏とまた一緒に暮らすから』とは言ってるけど?」
 それを聞いて、奏も思わず苦笑いを零し、それから、同じようにコーヒーに口をつけた。その響の言葉に、透がどう思って、奏に対してどんな感情を抱くのか、それを考えるのはもうやめた。ただ、ゆっくりとカップを下ろして、
「じゃあ、何が何でも、俺が勝ちます。俺が勝ったら、ずっと透さんと一緒に住めって言っておいてください」
と答える。その言葉の意図を透はどう捉えたのだろう。ほんの一瞬だけ、申し訳なさそうに瞳を曇らせて、けれども、謝ることはせず、
「そうだね。じゃあ、俺は、断然、カナちゃんを応援するから」
と答えた。奏は、ふ、と軽い笑みを零して、それから傍らに置いてあったそれ、を透に差し出した。そもそも、透を呼び出したのは、この用件があったからなのだ。
「これ、響に、返しておいてもらえますか? きっと、必要になると思うから」
「なんだい?」
 受け取りながら透が尋ねてくる。答えるかごまかすか一瞬だけ迷って、結局、
「……俺たちの父親の演奏を録音したテープです」
と正直に答える。
「……へえ」
 軽く目を見開いて、興味深そうに透はそれを眺めた。その様子を見ながら、奏は、今更ながら、そう言えば、もともと、この人は音楽専門の出版社に勤めていた人だったのだと思い出す。自分と兄にとってはもちろん、特別な意味のあるテープだけれど、仕事柄、透にも興味深いものだったのだろう。だが、透は、それ以上は何も尋ねる事はしなかった。
「分かった。渡しておく」
「半分は、俺がもらったって言っておいてください」
「うん。でも、いいのかい? 自分で渡さなくて」
「……演奏会当日まで、会うつもり、無いから」
 奏が答えると透はふ、と顎の辺りに手をやり、しばらく何かを考えていたようだった。だが、不意に、スッと視線を移し、真正面から奏を見つめて、
「本当に、それで、いいの?」
と確認するように尋ねてきた。目を逸らすことはせずに、奏もその目を見つめ返す。動揺はなく、胸の内は凪いでいた。
「……ずっと、考えてたんです。響と離れてから、ずっと。『家族』って何なんだろうって。俺は、最初、離れたら家族じゃなくなっちゃうんだと思ってた。父親の事も、だから、正直、小さな頃に死に別れているから、家族だとか、そんなこと考えたこともなかった。でも、そうじゃないって最近、思うようになってきたんです。上手く言えないんだけど……離れていても、見えない何かで、ずっとずっと繋がってるんじゃないかって。それは、切ろうと思っても、切ることができない何かなんじゃないかって。だから……離れていても、例えば、今みたいに、ひどい喧嘩をしてても、繋がってる。響にも、それに、気がついて欲しいと今は、思ってます」
 穏やかな声で、ゆっくりと伝えると、透はどこか切なそうにも見える穏やかな笑みを浮かべて、小さく頷いた。
「それも、伝えておく」
「……ありがとう」
 ほっとした表情で奏が礼を言うと、透はふと、何か思い立ったように口元を緩ませた。
「何ですか?」
「いや。もし、カナちゃんか響のどっちかがピアノを弾いていなかったら、こんな風にはならなかったのかなと思って」
 透の言葉を聞くと、奏は眉間に皺を寄せた。
「……透さん。ピアノを弾かない響とか、ピアノを弾かない俺とか、ありえると思う?」
 不満げな口調で奏が尋ねると、透はおどけるように肩を大きく竦めて見せた。
「ありえないね。考えられない。二宮克征のDNAを受け継いでしまった宿命だな」
「蛙の子は蛙なんだよ」
「まったくだ」
 二人で目を見合わせて、ひとしきり笑って、そうして透とは別れた。
 帰り道、襲ってきたのは大きな寂寥感だ。多分、もう、兄と暮らすことは無いだろうなと奏は思う。けれども、それは、誰にでも訪れる、当たり前の別離なのだ。一生、兄と二人きり、閉じこもって暮らすことを幸せだと、奏は思わないのだから。
 奏は、その寂しさを、逃げることなく甘受する。

 兄の幸福を願うことと、寂しさを飼いならすことは、酷く似ている。






***




 奏がその日、店を訪れたのは夜遅く、閉店の1時間前のことだった。裏口ではなく、通常の客の出入りする入り口を選んで店に入る。カランとドアベルがなって、何人かがこちらに視線をよこしたが、その中に、奏の見知った人間はいなかった。ピアノの前も今は空席で、カウンターの客席も全て空だ。ただ、カウンターの中にだけ梓がいて、奏に気がつくと、ふわりと穏やかな笑みを見せた。それに頷いて、奏はカウンターの席を選んで座る。
「梓さん、こんばんは」
「ん。久しぶり。調子はどう? 準備は順調?」
 心配そうに尋ねられて、奏は笑顔を見せながら頷いた。
「順調も順調……『あっち』はどんな感じ?」
 奏があえて固有名詞を出さずに尋ねると、梓はカラカラと明るい声で笑い、
「がんばってるわよー。もう、何かに取り付かれてるんじゃないかって思うくらい、ずっとピアノ弾きっぱなし」
と答えてくれた。コンサートは目前に迫っている。あと、一週間で本番だ。
「奏があの番組で爆弾落としてくれた次の日にね、給料要らないから、ずっと店でピアノ弾かせてくれって頼みに来たのよ。それからずっと、明けても暮れてもピアノ弾いてる。お陰で、客がさらに増えてくれちゃってさ、こっちは嬉しい悲鳴よ」
 まかないの簡単な料理を夜食にと出しながら、梓はそんな風に教えてくれた。それを、嬉しく思いながらも、素直に顔には出せず、複雑な気持ちで奏はそっと俯く。
「……響さ、辛そう?」
 小さな声で呟くように尋ねると、梓は奏のつむじの辺りを見つめ、それから、ふっと優しげな笑みを浮かべた。クシャリと奏のサラサラの黒髪をかき混ぜる。
「逆。なんかふっ切れたみたいよ? 毎日、すんごーく楽しそうにピアノ弾いてるわよ。水を得た魚だね、あれは。客のリクエストにもほいほい答えて、この間なんか、早弾きしてみせて、拍手喝采浴びてた」
「そうなの?」
 意外な言葉に、奏は思わず顔を上げてしまう。真っ直ぐ穏やかな視線を向けてくる梓と目が合って、知らず入っていた肩の力がストンと落ちた気がした。
「うん。だからね、奏も気にしなさんな。思ったとおりにやったら良いよ」
 肯定されて、奏は泣きたい気持ちになる。それをごまかす様に、ジャケットのポケットに手を入れ、そこに入っていた封筒をクシャリと握り締めた。本当は、これを渡すためにここに来たのだ。ふ、と小さな息を一つ吐き出し、
「あの、梓さん、これ……」
と言い出そうとした瞬間だった。
「あれ? カナ?」
と、ごくごく自然に話しかけられたから、奏もそちらに顔を向け、反射のように、
「郁人?」
と答えてしまったのだ。その名前を口に乗せるのは一体、いつ振りだろう。分からないほど前なのに、何の違和感も無い。それが、なんだか、無性に悔しい気がした。いつの間にかすぐ後ろに立っていた郁人の頭の天辺からつま先まで、睨み付ける様に見回して、その格好に、奏は眉を顰める。
「……なんで、そんな格好してんの?」
 白いシャツに黒いベスト。腰からギャルソンエプロンは、どうみてもウェイターの格好だ。
「ああ、ごめん、言い忘れてた。響が入れなくなった代わりに、この子をフロアに入れてるのよ。無給で手伝わせてるから、報告する必要も無いかなと思ってたんだけど」
 奏の疑問に、郁人ではなく梓があっけらかんと答え、奏は思わず口をつぐんだ。何となく、騙まし討ちにあったような気がするけれど、文句をつける理由が見つからない。拗ねた子供のように黙り込んでいると、
「ごめんね? 『オーナー』怒った?」
と梓がからかうように尋ねてくるから、ますます文句など言えなくなって、奏は、ぶっきらぼうに、
「別に。無給は可哀想だから、バイト代くらい出してやれば?」
と答えた。それを聞いて、梓も郁人も苦笑いをもらす。それがますます癪に障って、奏は、
「俺、もう、帰るよ」
と席を立ち上がろうとした。それを、やんわりと郁人に押しとどめられる。
「遅いから、駅まで送る」
 穏やかな口調で申し出られても、頷けるはずもない。
「……女じゃあるまいし。一人で大丈夫だよ」
 そっぽを向きながら断ったのに、郁人を援護したのは梓だった。
「最近は、この辺も物騒だから送ってもらいなさい」
 不意に、保護者の口調で言われてしまえば、奏も強く嫌だとはいえない。釈然としないまま、曖昧に相槌を打つと、郁人はさっさと店の裏に行き、着替えて戻ってきてしまった。促されるように、席を立ち、並んで店を出る。

 あまりに不意打ちの出来事だった。

 並んで歩きながら、奇妙な緊張を感じている自分が奏はおかしかった。この感覚は、覚えがある。記憶をたどり、それが、二年半前、郁人に再会したばかりの頃の感覚にかなり近いことに気がついて、奏は馬鹿馬鹿しくなってしまった。同じことを繰り返している。
 あの頃も、奏は郁人が許せなくて、随分と、つんけんした態度を取っていた。そのくせ、郁人と一緒にいると緊張して、指先が触れただけで震えていたのだ。郁人は郁人で、強引に奏との距離を縮めようとしてきて、奏はそれに反発を感じて。けれども、結局、郁人とセックスして恋人同士になったのは、再会してから三ヶ月も経たないうちだった。
「……短い。短すぎる」
 あの頃、あれだけ、強い反発を感じていたのに、結局、郁人を許すのに要した時間は三ヶ月だったのだと気がついて、奏は情けないような、腹立たしいような気持ちになる。今度こそは、絶対に、もっと長い時間許さずにいようと決心して、決心しなければ、今すぐにでも許してしまいそうな自分がどこかにいることに気がついた。
「……カナ?」
 不意に立ち止まり、難しい顔で何か考え込み始めた奏に、郁人は呼びかける。その名前を呼ぶ声も、口調も、表情も、何一つ変わっていなかった。奏を見つめてくるその鳶色の瞳には、奏しか映っていない。

 奏しか映っていなかった。

 そんなことは、奏も、重々承知しているのだ。きっと目の前に奏がいなかったこの一年近い時間の中でさえ、この瞳に映っていたのは奏だけだったに違いない。急に腹立たしいような、けれども切なくて泣き出してしまいたいような気持ちになって、奏は俯く。俯いたまま、それをごまかすようにジャケットのポケットからそれを取り出した。そして、無言のまま、郁人に突き出す。
「……何?」
 訝しげな表情で郁人が尋ねてくる。けれども、その顔を見上げることが出来ずに、奏は俯いたまま、
「……梓さんに渡し忘れたから、渡して。今度の……コンサートのチケット。……二枚、ある、から」
 だから、郁人も来てくれとまでは言えずに奏は曖昧に最後を濁す。それをどう捉えたのだろう。郁人は、静かな口調で、
「ありがとう」
とだけ礼を言って、その手を差し伸べた。そして、チケットを持つ奏の指先を、チケットごと握る。ただ、それだけで、奏の体は大袈裟なほどビクリと揺れた。きっと、郁人もそれに気がついたはずだ。けれども、郁人は何も言わず、ただ、奏の指先を握り締めたまま、じっと動かない。
 自分でもどうかしていると思うほど、奏の指は震えていた。多分、郁人の指も。それ以上、近づくことも、離れることも出来ず、ただ、指先でだけ触れ合ったまま、しばらくそうして立ち尽くす。これが、今の、自分たちの、精一杯の距離なのだと奏は思う。これ以上離れることも、近づくことも出来ない。それが酷く切なかった。
「……チケットは用意したけど……別に、郁人の事、許したわけじゃない」
 郁人に言うというよりは、自分に言い聞かせるように奏が呟くと、郁人は、
「知ってる」
と、酷く切なそうな声で答え、それから、そっと奏の指先を離した。自分で促したくせに、それを寂しいと感じる自分に半ば腹を立てて、郁人の顔を見上げる。奏を見下ろしてくる鳶色の瞳は、どうにもならない熱と切なさを孕んでいた。
「それじゃ」
と、目を逸らしてしまったのは、そのまま見つめ続けていたら自分が何をするか分からなかったからだ。踵を返し、駅の方に向かい歩き始める。最後まで後ろは振り返らない。けれども、郁人は奏の姿が見えなくなるまで、きっと、その背中を見つめ続けているだろう。今は、それで良いのだと自分に言い聞かせ、奏は歩き続けた。





***



 演奏会の日は、朝からの晴天だった。雲ひとつなく晴れ上がった初夏の青空がひどく心地良い。澄み切った気持ちで、奏は目を覚まし、ゆっくりと準備を始めた。
 開演時間は夕方だ。午後からのリハーサルまでは十分時間がある。昼食をかねた遅い朝食を、衛と向かい合って取った。テーブルに並んだ料理が、どれも、奏の好きなものだと気がつき、奏は衛の気づかいを知る。素直に、
「宇野辺さん、ありがとう」
と言えば、新聞を読んだまま、衛は、
「何の話だ?」
と、相変わらずのぶっきらぼうな口調で答えただけだった。思わずクスリと笑ってから、奏は話題を変える。
「宇野辺さんはさ、俺と響、どっちが勝つと思う?」
 悪戯な口調で尋ねると、衛はようやく新聞から目を離し、奏を見ながら、器用に片方の眉だけを上げて見せた。
「6:4で奏」
「えー! それ、響贔屓しすぎじゃないの? 9:1位って言ってよ」
「俺は、客観的な予想を言っただけだ」
 わざとむくれて見せた奏を笑って衛は答え、それから、ふ、と表情を変えた。改まった口調で、
「それはさておき、勝負って言ったって、誰が評価するんだよ?」
と尋ねられて、奏は、やはり、悪戯な表情で笑った。
「大丈夫。ちゃんと審査員は呼んであるから。一番、適任の審査員だよ」
「……あーそれでか。なんか、こそこそ、航空チケット用意してたのは」
「なんだ、ばれてたの? もう、成田についてる頃だと思うよ。イギリスに電話したら、二つ返事で来るって言ってた。でも、先生は4:6で響が有利って言うんだよ? 贔屓しすぎじゃない?」
 やはりむくれたように奏が不満を述べると、衛は声を立てて磊落に笑って見せた。
「それくらいのハンデがあって、良い勝負だって思っとけ」
「不公平だ」
 さらにむくれた奏をひとしきり笑って、衛は、ふっと表情を改める。酷く優しげな、穏やかな瞳で奏を見つめると、
「今日は、俺は、客席で聞いてるから。バックステージには行かない。お前の、好きなように弾けよ」
と、言ってくれた。奏は、深く頷いて、料理を口に入れる。全く、緊張感は無い。あるのは、遠足を待つ子供のような楽しさと期待だけだ。
 何となく、兄も、同じ気持ちなのではないだろうかと思いながら、奏は朝食を終えた。






 午後から会場に入り、リハーサルを行う。第一ステージがピアノだけのステージ、第二はオーケストラとの共演でピアノ協奏曲、そして、第三ステージが響とのステージだ。順調にリハーサルを行い、いよいよ第三ステージのリハーサルになって、響とも顔を合わせたが、言葉は交わさなかった。何かを感じ取っているのだろう。響もあえて、奏に話しかけては来ない。ただ、スタッフの指示に従って、段取りを確認するに留めるだけのリハーサルに終始した。
 全く同じ曲を順に弾いたり、連弾もする予定だけれど、本気では演奏せず、二人とも、流して軽く弾いただけだったが、響の調子は決して悪くないと奏は感じた。
 あとは、控え室に戻って、開演を待つばかりだ。その間の時間は、恐らく、衛が気を回してくれたのだろう。誰一人として、奏の部屋のドアをノックする人間はいなかった。お陰で、奏は、開演までゆっくりと父の音を聞いてすごすことが出来た。今では、精神安定剤代わりに聞いている音だ。けれども、それをお手本にしようだとか、真似ようだとかは、今は全く思わない。ただ、父に対する思慕だけでそれを聞く。殆ど、記憶には残っていない父だけれど、この音を聞いているときは、父をとても近く感じるからだ。
 開演間近の時刻になって、スタッフが呼びに来る。奏はゆっくりとイヤホンを耳から外し、一度だけ目を閉じ、深呼吸を一つすると再び目を上げた。踏み出した足は、自分でも驚くほど軽い。まるで、羽が生えているのではないかと錯覚するようだった。
 舞台袖に待機する頃に、ベルがなる。開演五分前のベルだ。ステージの照明はまだ、客席よりも低く落とされている。真ん中には大きなグランドピアノが一台。たった、それだけの楽器に、一体、どれだけの人間が焦がれ、もがき、時には失望し、そして時には救われ、喜びを見出したのかと考えると、何だか不思議だった。
 開演のベルが鳴り、客席の照明が落とされる。対照的にステージの照明が強められ、奏は、慣れぬ光に一瞬だけ目を眇めた。凪いだ、穏やかな気持ちでステージの中央へと足を進める。もう、何も難しいことを考えるつもりは無かった。ただ、ひたすら、ピアノを弾くことの幸福を伝えれば良い。あるいは、それさえも考えていないのかもしれなかった。ピアノを弾くことの喜びを、ただ、自分で感じるだけ。だから、正直、出来が良かったとか悪かったとか、そんなことを自分では判断できなかった。それでも、第一ステージも、第二ステージも、最後には大きな拍手をもらえたし、席を立ち上がっている人も少なくは無かったから、きっと、悪い演奏ではなかったのだろう。

 第二ステージと第三ステージの間には少し長めの休憩が入るから、その間はステージの照明が落とされ、客席の照明が強くなる。そのせいで、不意に見通しの良くなった客席が舞台袖から見て取れた。郁人は来ているのだろうか。衛はどこで見ているだろうか。梓は、透は、都築は、泰人は、と少しだけ考えたけれど、彼らを探すことはせず、ただ、舞台袖に立ち尽くしたまま待機していた。
 ふと、後ろが少しだけざわついて、それから、足音がする。チラリと視線をやれば、響が隣に並んで待機するところだった。目が合って、奏は思わず口元を緩めてしまう。つられたように、響も苦笑いを零したようだった。
 言葉もなく、ただ、黙って二人並んで立つ。客席のざわめきをとりとめなく聞きながら、照明の落とされたステージに、もう一台のピアノが用意されるのをぼんやりと眺めていた。
「……何か、思い出した」
 先に口を開いたのは響だ。けれども、その口調は、ごくごく自然なものだった。以前、一緒に暮らしていたときにかわしていた日常会話と何も変わらない。
「何?」
「お前が、生まれたばっかりの頃、父さんと母さんが、よく、喧嘩してたんだよ」
「喧嘩? なんで?」
「父さんは、お前にピアノを習わせるって言って、母さんは歌が良いって張り合ってた。俺は、いつも父さんの味方で、お前にはピアノが良いって言ってたけどな」
「……ふうん」
 奏は、ふ、と気がつく。兄の口から父の話題が出るのは、酷く珍しい。しかも、こんな風に、穏やかに思い出を語るのを見るのは、奏にとっては初めての事だった。ずっと、ずっと、兄は父の事を話すと、どこか痛いような表情を見せていたのに、それが、今は全く見えない。その変化の意味することが、奏には分からなかったけれど。それでも、こうして、兄の口から父の話を聞くことは、なんだか嬉しいと思った。
「ずっと、ずっと忘れてた。大事なことなのにな」
「何を?」
「……父さんと……俺の夢だったんだよ。奏が大きくなったら、三人でステージに立つんだって。母さんは、自分ばっかり仲間はずれだって、いつも拗ねてたけど」
 母の事を話す表情も、今は、とても穏やかに見えた。
 ベルが鳴る。第三ステージ開始まで五分を告げる予鈴だ。客席の照明が一段落とされた。奏は、ステージのほうを見つめたまま、
「じゃ、夢が叶ったんだ?」
と、少しだけ意地悪な口調で言った。響は怒った素振りも見せず、むしろ、奏の子供っぽさをからかうようにクスリと口元だけで笑う。
「そうだな。お前のお陰だ…………父さんは、悔しがってるかもしれないけど」
 会話はそこまでだった。舞台裏で、スタッフが、後三分と声を掛けてくる。スタンバイお願いしますと言われて、二人、ステージを見つめたまま頷いて、口をつぐんだ。
 第三ステージ開始のベルが鳴る。客席の照明が最小まで落とされ、ステージの照明が眩しく感じるほど強められた。キューの合図を受けて、どちらともなく一歩を踏み出そうとした瞬間だった。
 酷く温かい、強い力で、グイと背中を押された気がした。え、と思って奏は振り返る。だが、そこには誰もいなかった。
 誰もいない。あるのは、舞台裏の暗闇だけ。ふと視線を移せば、同じように、不思議そうな表情で振り返っている響が見えた。ふと、響も視線を移して奏と目が合う。一瞬だけ見つめあって小さく笑い、気持ちを改めるように、シャンと背筋を伸ばして、再びステージのほうに体を向けた。そこは光に満ちている。
 どちらともなく、ステージに向かい歩き出す。ピアノのほうへ。

 その前にも後ろにも。










 そこには、目には見えぬ、確かな音の轍がある。





End.



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